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  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1975
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1975
塔75 9/15 551–552ページ

なぜ人を親切にもてなすべきですか

「異国の人を,外にねさせたことはなく,私は,旅人にとびらを開いた」。(ヨブ 31:32,バルバロ訳)忠実なヨブが示したこうしたもてなしの精神は,神に献身した古代の民の特徴となっていました。

親切にもてなすことは,食事や宿を必要としている,知らない人にとって本当に愛ある接待となります。昔,旅行者たちは村や町に立ち寄ると,たいてい公共の広場へ行きました。ですからそこの住民には,知らない旅人を招待し,一晩宿を提供する機会がありました。

イスラエルの裁き人の時代のあるレビ人に関する聖書の記述には,そうした例が見られます。ベツレヘムからの帰途,彼とその従者および妾はベニヤミンのギベアで一晩滞在するためわき道へ入りました。こう記されています。「彼らは進んで行き,町の公共の広場に座った。しかし,だれも彼らを招じ入れ一夜の宿を提供するものはいなかった」― 士師 19:1,2,14,15,新。

そうした冷淡な態度はイスラエルの町の人々にしてはおよそ普通ではありませんでした。そのレビ人は,イスラエル人のもてなしの方が勝っていると考え,非イスラエル人の町へ行くのを特に避けていました。(士師 19:11,12)ついにベニヤミンの支族の者ではない一人の老人が招待を差し伸べてこう言いました。「安心しなさい。あなたの必要なものはなんでも備えましょう。ただ広場で夜を過ごしてはなりません」― 士師 19:16-20,口語。

ギベアの人々が見知らぬ人を親切にもてなさなかったことは,彼らには道徳的に重大な欠陥があったことを明らかに示しています。彼らは利己的にも自分のことだけにかまけて,親切を示す機会を捕えようとはしませんでした。

ギベアの人々の利己主義の根深さは,老人がその旅人を家に招じ入れたのち一層明らかになりました。男たちの一群がその家を取り囲み,不道徳な目的を成し遂げようとしてレビ人を引き渡すようにと要求しましたが,老人はその要求に応じませんでした。事態が進展して,レビ人の妄が男たちの手に渡されることになりました。男たちは一晩中その女を辱め,彼女はとうとう死んでしまいました。―士師 19:22-28。

何世紀か前のソドムでも,それと似た不親切な精神が広く見られました。ある夕方,見慣れない二人の,容姿のりっぱな人がソドムに入って来ました。その二人を目にしたロトは家に招待し,町の広場で夜を過ごさないように強く勧めました。その見知らぬ人たちは招待を受け入れましたが,彼らがまだ寝ないうちに,群衆は「老いたるも若きも」ロトの家を取り囲みました。彼らは不道徳な目的を遂行するため,ロトに対してその客を引き渡すよう叫び求めましたが,ロトはきっぱりと断わりました。(創世 19:1-11)これはロトが義なる者であった証拠であり,それが一因で,エホバがソドムとその近くの三つの町を滅ぼされた際,ロトはその破滅を生き残ることができました。―申命 29:23。ペテロ第二 2:6-9。

ロトはそれとは知らずに,自分の家でみ使いたちをもてなしたのです。ロトやその他の人々の親切なもてなしの模範はヘブライ 13章2節にクリスチャンに対する励ましとして次のように記されています。「人を親切にもてなすことを忘れてはなりません。それによってある人びとは,自分ではそれと知らないでみ使いたちを接待したのです」。

心からもてなしたいとの気持ちを抱かせる親切で寛大な精神は,確かに貴重な資質です。ギベアやソドムの住民の場合に見られるように,そうした資質に欠けるなら,極めて利己的な行動を取るようになります。そのように言えるのは,同胞に対する真実の愛があればそれら同胞の益となる事のために働き,彼らの権利を犯すようなことを差し控えるよう心から動かされるからです。使徒パウロはその点を次のように指摘しています。「仲間の人間を愛する者は律法を全うしているのです。『あなたは姦淫を犯してはならない,貪ってはならない』,そしてほかにどんなおきてがあるにしても,その法典は,このことば,すなわち,『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』に要約されるからです。愛は自分の隣人に対して悪を行ないません」― ローマ 13:8-10。

心から親切にもてなしたいという気持ちを起こさせる愛の精神を培い,それを保つことによってのみ神からの是認を得ることができます。それは,神と同胞に対する愛こそ真の崇拝の基礎だからです。イエス・キリストはこう言われました。「あなたがたの間に愛があれば,それによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るのです」― ヨハネ 13:35。

古代の場合と同様に,今日の神の民の間でも,親切にもてなす点で率先できる機会が多くあります。災害,迫害,病気その他の理由で仲間の信者が助けを必要とする状況に陥る場合があります。霊的な兄弟姉妹たちが援助するため,自分たちでできる事柄を行なうならば,それはとても立派なことです。また会衆を訪問したり,旅行したりする長老たちを,食事や宿舎を提供したり,出費をまかなう点で幾らか援助したりして親切にもてなす機会があるかもしれません。また会衆の中でも,仲間の信者と食事をしたり,共に交わりを楽しんだりするような機会は非常に多くあります。そのように親切にもてなすなら,お互いに励まし合い,築き上げることになります。

親切にもてなされたならば,どんなことを念頭に置くべきでしょうか。他の人の親切につけ込み,いわゆる『社交上のいそうろう』となっているという非難を招かないよう注意するのは賢明なことです。使徒パウロとその同労者は,この点で立派な模範を残しました。パウロはエフェソスの会衆の長老たちに次の点を思い起こさせました。「この手が,わたしの,そしてわたしとともにいる者たちの必要のために働いたことを,あなたがた自身が知っています」。(使徒 20:34)とはいえパウロとその同労者が,どんな場合にも親切なもてなしを断わったという訳ではありません。彼らが心からのもてなしを受け入れたことは,フィリピで起きた事柄からも明らかです。その町では,ルデアとその家族がキリスト教を受け入れました。そこでルデアはパウロとその同労者に懇願して言いました。「もし皆さんが,わたしをエホバに忠実な者と見てくださったのでしたら,わたしの家に入って泊っていらしてください」。そうした心からのもてなしを断わる理由はありませんでした。使徒たちの活動の筆者である医師ルカはこう付け加えています。「彼女はわたしたちを強いて連れて行ったのである」― 使徒 16:14,15。

他の人の親切なもてなしを受け入れるならば,感謝の念を抱く客として振舞う義務があります。イエス・キリストはその点に注意を引き,弟子たちにこう言われました。「そこの家にとどまって,人びとが備える物を食べたり飲んだりしなさい……家から家を転々としてはなりません」。(ルカ 10:7)そのように述べたイエスは,弟子たちが,親切なもてなしを示してくれた人の家を,感謝を示さずに去り,それよりさらに居心地が良く,もっと良い食事を提供してくれる別の家へ行ったりすべきではないことを明らかにされました。イエスによって与えられた戒めの原則を適用すると,後になって物質の面でより良いものが提供されたというだけの理由で,ある招待を断わるのは思いやりのない行為であることが分かります。

聖書的な見地から見て,わたしたちすべては神と同胞に対する深い愛ゆえに,親切にもてなしたいと思うべきです。たとえわたしたちがわずかな物しか持っていなくても,もてなしの精神,つまり他の人の福祉に対する心からの関心を示す機会が奪われている訳ではありません。そして親切にもてなされたときには,愛の表われとしてそのもてなしを感謝して受け入れるべきです。

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