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  • “旧約聖書”― 今日のクリスチャンに必要か
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1977
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1977
塔77 5/1 284–287ページ

“旧約聖書”― 今日のクリスチャンに必要か

聖書は世界の“ベストセラー”です。地球上のあらゆる土地に広まって,あらゆる民族の人に読まれています。部分訳も含めると聖書は今日1,575以上の言語で発行されているのです。

最も広く行なわれている分け方に従うと,聖書66巻の半分以上はいわゆる“旧約聖書”を成しています。ヘブライ語とアラム語で書かれた聖書のこの部分を集大成することは,西暦前443年ごろに行なわれました。ヘブライ語聖書を研究することは,今日のクリスチャンにとって必要ですか。

もしあなたが,一般に“新約聖書”と呼ばれるクリスチャン・ギリシャ語聖書の愛読者であれば,クリスチャンの聖書筆者がいかに多くヘブライ語聖書から引用し,あるいはそれに言及しているかに気づかれたことでしょう。彼らはこれらの書物をクリスチャンにとって最重要なものとみなしたのです。昔のイスラエル人に対して神が行なわれた事柄の歴史的記録に関して,使徒パウロは次のように書きました。「そこで,これらの事は例として彼らに降りかかったのであり,それが書かれたのは…わたしたちに対する警告のためです」― コリント第一 10:11。

意義深い歴史のほかにも,ヘブライ語聖書には将来の出来事の預言が何百となく含まれています。それらは西暦以前の世紀に生きたユダヤ人のためだけに書かれたものですか。決してそうではありません。使徒ペテロはヘブライ人の預言者たちについて次のように書いています。

「彼らは,自分のうちにある霊が,キリストに臨む苦しみとそれに続く栄光についてあらかじめ証しをしている時,それがキリストに関して特にどの時期あるいはどんな時節を示しているかを絶えず調べました。彼らは,天から送られた聖霊をもってあなたがたに良いたよりを宣明した人々を通して今あなたがたに発表されている事がらに奉仕しましたが,それが,自分自身のためではなく,あなたがたのためであることを啓示されました」― ペテロ第一 1:11,12。

クリスチャン・ギリシャ語聖書の中でも“旧約聖書”からの引用が非常に多いので特に目立つのはヘブライ書です。これについて聖書学者B・F・ウエストコットは次のように論評しています。

「これらの引用を全体的に見る研究者には,幾つかの事柄についての感想がおのずと浮かぶ。(1)神のはからいがイスラエルの生活の流れの中に体現されたと考えられる。我々は人類に対する神の目的のしるしを‘神の民’の中に見ることができる。その全歴史が預言的である。旧約聖書に預言が含まれていることを認めるだけでは不十分である。旧約聖書はひとつの広大な預言なのである」。

これを念頭に置き,イエスとクリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者がキリスト教以前の,霊感による聖書をどのように引用し,また適用したかを考慮することは有益です。

「と書いてあります」

イエスが「悪魔に誘惑され」たという福音書の記述はよく知られています。(マタイ 4:1-11。ルカ 4:1-13)試練となるこの経験にイエスはどのように応じられましたか。三つの誘惑のそれぞれに対するイエスの答えに注目してください。

「しかしイエスは答えて言われた,『「人は,パンだけによらず,エホバの口から出るすべてのことばによって生きなければならない」と書いてあります』。[申命 8:3]…イエスは彼に言われた,『「あなたの神エホバを試してはならない」とも書いてあります』。[申命 6:16]…その時,イエスは彼に言われた,『サタンよ,離れ去れ!「あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず,彼だけに神聖な奉仕をささげなければならない」と書いてあるのです』。[申命 6:13]」― マタイ 4:4,7,10。

イエスの行動は,霊感のヘブライ語聖書に堅固な基礎を持つものでした。物事に対する神の見解はそこに収められていることを,イエスはご存じだったからです。パリサイ人のある者たちが「彼をその語ることばの点でわなにかけようと相談した」時の,イエスの論法は興味深いものです。

「さて,パリサイ人がともに集まっていた間に,イエスは彼らにこうお尋ねになった。『あなたがたはキリストについてどう考えますか。彼はだれの子ですか』。彼らは,『ダビデのです』と言った。イエスは彼らに言われた,『では,どうしてダビデは,霊感によって彼を「主」と呼び,「エホバはわたしの主に,『わたしがあなたの敵たちをあなたの足の下に置くまで,わたしの右に座っていなさい』と言われた」[詩 109:1,セプトゥアギンタ訳(110:1,ヘブライ語)]と言っているのですか。それで,ダビデが彼を「主」と呼んでいるのであれば,どうして彼の子でしょうか』。すると,だれも,一言も彼に答えられなかった。また,その日以後は,だれもあえてそれ以上彼に質問しなかった」― マタイ 22:15,41-46。

イエスとその弟子たちは“旧約聖書”に精通していたので,聖書の一連の語句全体を記憶から引用するか,言いかえるかしてキリスト教の教えを論証することがよくありました。例えば,ローマ書 3章9節から18節にそれが見られます。

「わたしたちはすでに,ユダヤ人もギリシャ人もみな罪のもとにあるとの告発をしたのです。まさに書かれているとおりです。『義人はいない,ひとりとしていない。洞察力のある者はいない,神を探し求める者はいない。すべての人か道からそれ,みなともに価値のない者となった。親切をする者はいない,ひとりすらいない』[詩 13:1-3,セプトゥアギンタ訳(14:1-3,ヘブライ語)]『彼らののどは開かれた墓,彼らは舌で欺瞞を弄した』[詩 5:9]『毒へびの毒が彼らの口びるの裏にある』[詩 139:3,セプトゥアギンタ訳(140:3,ヘブライ語)]『またその口はのろいと苦いことばで満ちている』[詩 9:27,セプトゥアギンタ訳(10:7,ヘブライ語)]『彼らの足は血を流すのに速い』。『破滅と悲惨が彼らの道にあり,彼らは平和の道を知らない』[イザヤ 59:7,8]『彼らの目の前には神に対する恐れがない』[詩 35:1,セプトゥアギンタ訳(36:1,ヘブライ語)]」― セプトゥアギンタ訳への参照はすべてバグスター版による。

聖書をこのように用いることは,神を喜ばせたいと願う人すべてにとって大そう良い手本です。使徒ペテロの書いた言葉にも,クリスチャンは『彼らのうちにある希望の理由を問う人のだれにも,その前で弁明できるよう常に備えをして』いなければならないとあります。(ペテロ第一 3:15)文字になった神の言葉を知るという点で,あなたの知識はどんなものですか。宗教上の信条についてだれかに尋ねられるならば,その聖書的な「理由」を述べることができますか。

「理解していたなら」

聖書巻頭の五巻には何百という規定から成るモーセの律法が収められていますが,ヘブライ語聖書は「すべし」「すべからず」といった単なる規則集ではなくて,はるかそれ以上のものです。キリスト教時代以前のこれらの聖書をしさいに研究すれば,自分の考え方を創造者の考え方に合わせて形造る助けになります。イエスの次の経験を考えてごらんなさい。

「その季節のこと,イエスは安息日に穀物畑の中を通られた。彼の弟子たちは飢えを感じ,穀物の穂をむしって食べだした。これを見てパリサイ人たちが彼に言った,『ご覧なさい,あなたの弟子たちは安息日にしてはいけないことをしています』。イエスは彼らに言われた,『あなたがたは,ダビデおよびそれとともにいた人たちが飢えた時にダビデが何をしたか,読んだことがないのですか。つまり,彼が神の家の中に入り,みんなで供えのパンを食べたことをです。それは,彼も,またともにいた者たちも食べることを許されず,ただ祭司だけに許されたものだったのです。[サムエル前 21:1-6]またあなたがたは,安息日に神殿にいる祭司たちが安息日を神聖でないもののように扱っても罪にならないことを,律法の中で読んだことがないのですか』[民数 28:8-10]」― マタイ 12:1-5。

ここでイエスはご自分の聖書の知識を生かして用いることをされました。普通の状態の下では祭司以外の者が食べることは許されなかったはずのパンを食べたことに対して,聖書はダビデを罪に定めていないのです。イエスの弟子たちはそれと比べてさえ,もっと罪がないと言えました。彼らのした事は聖書の規定ではなくてラビの規定を破るものに過ぎなかったからです。a

イエスはヘブライ語聖書からもう一つの意味深い句を引用して論議に終止符を打つことをされました。これは神のお考えの重要な一面を指摘するものです。「『わたしはあわれみを望み,犠牲を望まない』ということの意味を理解していたなら,あなたがたは罪のない者たちをとがめたりはしなかったでしょう[ホセア 6:6]」― マタイ 12:7。

『それが成就するため』

ヘブライ語聖書の預言は,イエスが地に来られる何世紀も前に書かれたとはいえ,クリスチャンにとって意義のある生きたものです。クリスチャンの聖書筆者は「預言者を通し…と言われたことが成就するためであった」という句を用いて聖書からの引用を紹介している場合がよくあります。(マタイ 13:35)時としてこのような句は預言の直接の成就を示しています。(マタイ 2:5,6; 11:10-15)しかし多くの場合,それとは別のことが示されています。どのようにですか。

イスカリオテのユダの将来の裏切りに関して,イエスはこう言われました。「それは,『常々わたしのパンを食していた者が,わたしに向かってかかとを挙げた』と述べる聖書が成就するためなのです」。([詩 41:9] ヨハネ 13:18)この場合イエスは,裏切りの友となった親友(おそらくはダビデの助言者として重きをなしていたアヒトペル)についてダビデが書いた事柄を引用されたのです。神はイエスが,親しい友に裏切られるという同様な経験をすることをご存じでした。それゆえに神はこれを預言的に示すものとしてダビデの経験を霊感によって記録させました。

イエスの語られたひとつづきのたとえ話を記した後でマタイが引用している句もそれと同様です。「イエスはこれらすべてを例えで群衆に話された。実際,例えを用いないでは話そうとされなかった。それは預言者を通し,『わたしは例えをもって口を開き,世の基が置かれて以来隠されている事がらを公にする』と言われたことが成就するためであった」。([詩 78:2] マタイ 13:34,35)詩篇 78篇の筆者アサフは,神がイスラエル国民に対して行なわれた事柄の多くを回顧して精彩な筆致の歴史を書いていますが,それと同様にイエスも霊的な「神のイスラエル」に関係する多くの預言を語るのにたとえをもってされました。―ガラテア 6:16。マタイ 13:1-33,36-50。

『いっそう大きな救い』

クリスチャン・ギリシャ語聖書は,西暦前537年にバビロン捕囚から復帰したイスラエル民族に初めて適用された預言の,西暦一世紀における成就を数多く記録しています。こうしてバプテスマを施した人ヨハネの活動は,「野にて」「よばはるもの」について述べたイザヤ書 40章3節の預言を成就したものとされています。(マタイ 3:3。マルコ 1:3。ルカ 3:4。ヨハネ 1:23)また使徒パウロも,コリントのクリスチャンに対して異教のならわしから離れ去るようにと助言した時,イザヤ書 52章11節を次の通り採用しました。「『それゆえ,彼らの中から出て,離れよ』とエホバは言われる。『そして汚れた物に触れるのをやめよ』」。(コリント第二 6:17)このような預言の適用に関して,聖書解説者アルバート・バーンズは次のような説明をしています。

「イザヤ書の巻末つまり40章以降の章は,バビロンからのユダヤ人の復帰を預言している。そして述べられている状況すべてが彼らの復帰の際に生じた。しかしその語法は彼らの復帰を述べるだけのものとしては必要以上に広範であり,また荘重である。それははるかに重要かつ,はなばなしい救い ― メシアの下に贖われた者たちの救い,そして神の民の神への復帰,また福音の世界的な宣布をも適切に表現するものであろう。ゆえにそれはイエスの出現と福音の宣布にその成就を見るはずのものと言えよう」。

クリスチャン聖書はこのような預言を西暦一世紀に適用するにとどまらず,当時から見て遠い将来にまでその適用を延長しています。例えばイザヤ書 65章17節によると,神はこう預言されました,「われ新しき天と新しき地とを創造す 人さきのものを記念することなく之をその心におもひ出ることなし」。これは西暦前537年,ユダヤ人がバビロン捕囚から復帰した時に最初の成就を見ました。大祭司ヨシュアの補佐を得てゼルバベルが行使した総督の権を象徴的な「新しい天」として,これら復帰したイスラエル人はその下で「新しい地」すなわち新しい,義の支配に服する新しい社会を構成しました。―ハガイ 1:1,14。

しかしクリスチャン聖書の筆者がこの預言をどのように用いているかに注目してください。「神の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります」。(ペテロ第二 3:13)「それからわたしは,新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地はすでに過ぎ去っており」。(啓示 21:1)さらに真のクリスチャンは霊的な啓発という栄光のパラダイスに導き入れられたゆえに,元来はバビロン捕囚からのユダヤ人の復帰を予告した預言にある地的な祝福のすばらしい描写は,現在の事物の体制の「終末の時」に適用されるのであって,このような適用の仕方は聖書から見て根拠のあることです。―ダニエル 12:4。

“旧約聖書”はクリスチャンにとって真に意義深いものです。それは原則,預言,預言的な歴史の,つきない倉であり,今日の真の崇拝にその必要なことは,それが最初に書かれた時と比べて少しも減少していません。確かに「聖書全体は神の霊感を受けたものであり…有益です」― テモテ第二 3:16。

『エホバの法はまたくして霊魂をいきかえらしめ エホバの証しはかたくして愚かなるものをさとからしむ エホバの訓諭はなおくして心をよろこばしめ エホバの誡命はきよくして眼をあきらかならしむ エホバをかしこみおそるる道はきよくして世々にたゆることなく エホバのさばきは真実にしてことごとく正し これを黄金にくらぶるも おおくのまじりなき金にくらぶるもいやまさりてしたうべく これを蜜にくらぶるも蜂のすのしたたりにくらぶるもいやまさりて甘し なんぢの僕はこれらによりて戒めをうく これらをまもらば大いなる報いあらん』― 詩 19:7-11。

[脚注]

a ミシュナとして知られる,ユダヤ教の伝統的な律法の法典は,安息日に行なうことを禁じられている業のうち主なもの39種を詳細に記し,さらに幾多の小さな区分についても述べています。禁じられていた業の中には,ふるいにかけること,脱穀,粉をひくこと,穀物を簸ることなどが含まれています。(安息日論 7:2)パレスチナ版タルムードは,そのような禁じられた業に対する,一人のラビの意見を次のように記録しています。『ある婦人が殻を除くために小麦をこすり合わせたなら,それはふるいにかけたとみなされる。また,小麦の穂をこすり合わせるなら脱穀をしたことになる。横の付着物を片付ければ,果物をふるいにかけていることになり,穂をつぶすならば,粉をひくことになり,その穂を手に持って上に投げるなら,それを簸いていることになる』。

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