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  • 真の満足を伴う冒険に満ちた人生
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1978
塔78 12/15 27–30ページ

真の満足を伴う冒険に満ちた人生

ジョージ・ギブの語った経験

今日の若い人々の中には,人生に倦怠感を覚えている人が少なくありません。スポーツや娯楽に没頭する人がいるかと思えば,冒険を求めて遠い国へ旅をする人もいます。不幸なことに,その多くは挫折感や目的のない空しさを味わいます。

私も若いころ,故郷のスコットランドを後にして,エジプトやパレスチナやオーストラリアなど幾千㌔も離れた遠い国々へ旅をしました。少なからぬ冒険を味わっただけでなく,私はやがて人生に真の満足をもたらすものを見いだしました。それは人生の目的を見いだし,オーストラリアへ移住してその目的をより十分に遂行できるようになった結果です。ともあれ,まずは私の背景について少しお話しいたしましょう。

若い時代と従軍旅行

私の両親は教会に通ってはいませんでしたが,聖書とその崇高な原則に深い敬意を払うよう私を育てました。母が聖書物語を読み,その教訓を強調するのを聞きながら,心地良い炉ばたに集まって過ごしたあの冬の晩は実に楽しい一時でした。そうした物語は,私のうちに真理に対する願望を燃え立たせました。

成長するにつれ,私は様々な宗教グループの礼拝に出席したり,街頭での福音集会に耳を傾けたりしましたが,いつの場合も何かが欠けているように思えてなりませんでした。そして,1914年の夏,第一次世界大戦が驚くほど突然に,従来の生活様式を崩壊させてしまいました。ドイツからツェッペリン飛行船がやって来て,私たちの住んでいたエディンバラを爆撃しました。私たちの幸福な家族は引き裂かれてしまいました。五人の兄弟が次々と軍隊に召集され,そのうち二人は二度と戻って来ませんでした。

私は英国陸軍の一兵卒として,1916年にエジプトに着きました。次いで,パレスチナ,すなわち約束の地へ派遣されました。私たち兵卒のうち,地理上の場所を,思い出した聖書中の出来事と結び付けた者が結構多かったことには驚かされました。ガザではサムソンが町の門を動かしたことを私たちは思い出し,ベエルシバではアブラハムを,ベツレヘムではイエスを,そしてエルサレムではダビデを思い起こしました。ある日,私は聖書の中でエマオについて読み,イエスが道で出会ったあの二人の弟子たちに話しておられる様を頭に描きながら,エルサレムからエマオまでぶらぶら歩き,再び戻って来ました。しかし,聖書は一体何を言わんとしているのだろうか,と依然として疑問に思いながら戻って来ました。―ルカ 24:13-32。

戦争が終わっても,私は相変わらず何も分かっていませんでした。私は,印刷関係の分野での年季を勤めあげるためにエディンバラへ戻りました。しかし,聖書の真理への願望はまだ消えていませんでした。おじは地元の教会に加入するよう私に勧めました。それについて母に尋ねると,母はこう答えました。「神のみ言葉を聞きたいのなら,行きなさい。でも,キリスト教と教会の教えの間にはかなりの違いがあることに気づくだろうよ」。私は間もなく母がいかに正しかったかを悟りました。

探し求めていたものを見いだす

1921年のある土曜日,グラスゴーにある勤め先からエディンバラの自宅へ帰る汽車の中で,同じ車室に乗り合わせた初老の男性が,非常に親切な仕方で,聖書から一風変わった事柄を私に話し始めました。その人は,神が「計画」を持たれることについて,教会の誤った教理について,そして幸福な将来について話しました。それがきっかけとなって私は考えるようになりました。

別の土曜日,グラスゴーに滞在していたときに,「現存する万民は決して死することなし」と書いたたくさんのプラカードを見ました。それは,ある人々にとっては元気づけるニュースだ,と私は思いました。下宿で,私はこの講演を宣伝するビラを見つけ,さらに新聞でその話に関する二ページの見開き広告を見ました。そこで私は行ってみることにしました。

会場は満員で,人を奮い立たせるような仕方でなされた話は,それまでに聞いたこともないようなものでした。聴衆が去っても,私はその場に座っていました。これこそまさに自分が切望していたものだったのです。一人の熱心な若者が近づいて来て,「この話をどう思われましたか」と尋ねました。

「これは真理だろうね」と私は答えました。

この主題について私が何も読んだことがないのを確かめてから,私と話し合うためだれかが訪問するようにしましょう,とその若者は提案しました。私は最初辞退しましたが,その人がどうしてもというので,約束をしました。約束の時間にドアをノックする音がしました。神の王国に関するすばらしい真理が説明されるのを聞いたその日は,私にとって最も有意義で楽しい日でした。その全時間奉仕者は,読書用に幾冊かの聖書の出版物を置いて行き,また週ごとの集会場所の住所も残して行きました。そうした集会ではいつも,暖かく歓迎され,集会で神の目的についてさらに多くを学びました。

宣教者精神

出席している人々の間には活気があり,研究集会ではしばしば証言活動が強調されました。どんなことが行なわれるのだろう,と好奇心から伝道の集合場所へ行ってみました。そこへ行くと,聖書文書と街路地図を持った,新たな友人たちがいました。彼らは私に,「神の立琴」という新しい本一冊と数冊の小冊子を渡しました。友人たちの一人が私を連れていってくれました。あるアパートに近づくと,その人は,「では一番上へ行ってください。私は下から始めますから」と言うのです。

私はおずおずと最初のドアをノックしながら,「何を話したらよいのだろう」と考えていました。すると,「群れの聖書研究で学んだことを話せばよい」という考えがとっさにひらめきました。若い婦人が戸口に出て来たので,私はダニエル 2章44節(新)を引用しました。そこにはこう書かれています。「それらの王たちの日に,天の神は,決して破滅に至らされることのない一つの王国を建てられます。……それはこれらのすべての王国を打ち砕いて終わらせ,それ自体は定めのない時に至るまで立つでしょう」。

それから私は家の人に,神の王国はこの邪悪な事物の体制を滅ぼした後,地上に真の祝福をもたらし,死者さえよみがえらされることを説明しました。その婦人は,最近,主人を亡くしたばかりだと言い,好意的な反応を示しました。そして,喜んでその本を求めたのです。そのアパートの人々に証言を続けていくにつれて,主がクリスチャンに与えておられる務めのあることを認識するようになりました。

土曜日の午後には自転車部隊が,辺ぴな地方へ王国の音信を携えてゆく取り決めがなされました。日曜日の朝には,グラスゴー最大のホールで行なわれる講演を宣伝するビラの大々的な配布が見られました。そのホールはしばしば満席になりました。当時はラジオやテレビがありませんでしたから,人々は講演会への招待に,非常によく応じました。

私に深い感銘を与えたひとりの人は,手足の不自由な,お年寄りのエホバの証人でした。この婦人は,車イスに乗ってだれかに運んでもらわなければ集会へ来られませんでした。私たち若い者幾人かが,交代で彼女を送り迎えしました。その道すがら,イザヤ 41章10節や54章17節など,エホバに絶えずより頼むことを勧める聖句を強調しながら,自分の読んでいた事柄の主な点を話してくれたものです。彼女の車イスを押していた私たち六人が,コルポーターになったのも不思議ではありません。当時,全時間伝道者はそのように呼ばれていました。

スコットランドの冬は冷たくて荒涼としており,私たちの望むほどの証言はできませんでした。私たちは,『主の業においてなすべき事をいっぱい』持ちたいと強く願っていたので,パートナーと私は,より多くを成し遂げられる土地へ遣わされることを要請する手紙をものみの塔協会へ出しました。(コリント第一 15:58)幾週間も気をもみながら待った末,私たちは返事を受け取り,興奮しました。私たちには,「カナダあるいはオーストラリア」という選択の余地が与えられました。

オーストラリアへ

1928年2月,私たちは2万1,000㌔離れた,オーストラリアのメルボルンに到着しました。何という変化でしょう。毎日太陽が照り輝き,これまでに見たこともないようなものを含め,果物が豊富にあります。クリスチャンの兄弟たちが私たちを歓迎して,ひとかたならぬ親切を示してくださり,その結果,エホバの言葉に対する私たちの感謝の念は深まりました。

私たちの最初の任命地は,タスマニアの島の州でした。そして,私たちは実に様々な経験をしました。最初は車で,そして車が壊れると馬と荷車を使って,北部の町々を伝道しました。宿舎にしろ,食べ物にしろ,交通機関にしろ,問題が起きると,クリスチャンの兄弟たちか主の業を行なっている際に出会った親切な人を通して,エホバが助けを備えてくださることを,一再ならず感じ取りました。

新しい任命地

1929年に,私は,エホバの証人の支部での業を助けるよう招待する一通の手紙を受け取りました。丁度そのとき支部はシドニーに移転の最中でした。当時私は,49年後もまだそこに居るとは思ってもみませんでした。それは,戸別伝道の業がよりよく組織され,王国の音信を放送するために,ラジオ放送局の用いられた,胸を躍らせるような時期でした。

支部では,間もなく,足で操作する小さな平圧式印刷機を扱うようになり,私はそれを長年の間大事にしてきました。程なくして,私は大会のプログラム,ビラ,特別ラジオ番組のリーフレット,および必要とされる数多くの用紙類を印刷するようになりました。僧職者の圧力でラジオの使用が制限されると,王国の音信を放送するために宣伝カーが導入されました。増幅された音信は,国中の町々に響き渡りました。

1932年,支部の施設が拡張され,より大きな活動の先触れとなりました。通常行なわれている,聖書文書の印刷,発送,および運搬に加えて,穴掘りやくぎ打ちの仕事を行ないました。パネルをはめた食堂,新しい事務所,集会室,そして新しい寝室などが形を整えてゆくのを見て,興奮せずにはおられませんでした。

自動式の印刷機が米国から送られてきた時には,本当に大喜びしました。私たちは,若くて熱心な自発的な働き人から成る,ちょっとしたグループで,まるで家族のようでした。また,私たちの仕事は,労働組合の定めた就労時間に制約されませんでした。必要があれば,私たちは早朝まで働きました。同時に,神の王国について人々に語る点でも多くの業が行なわれねばならないことにも気付いていたので,しばしば晩や週末の時間をその活動に当てました。

すべき事が非常に多かったので,月日は矢のように過ぎ去っていきました。そして突然,第二次世界大戦が勃発したのです。次いで1941年,私たちは,破壊活動分子であるという,僧職者に扇動された偽りの告発に基づいて,ここオーストラリアで禁令下に置かれました。それでも宣べ伝える業は続けられ,私たちは小さなグループで集まり続けました。印刷の業も中断されませんでした。雑誌や書籍は様々な地下拠点で生産され,そうした場所を発見しようとした地元の官憲を大いに悩ませました。

法の要求を満たすため,すべての出版物には,「ストラスフィールドのジョージ・ギブ印刷」という一文が載せられていました。この「ジョージ・ギブ」とは一体何者で,どこにいるのでしょうか。警察は私を捜し出そうとしましたが,彼らが訪ねて来るときには,たまたま留守をしていることが常でした。時にはエホバの証人が聖書研究をしている場所へ警官がやって来ることもありました。大抵の場合,警官は,「ジョージ・ギブはここにいるか」とか,「ジョージ・ギブはどこにいるのか」というような質問をしました。しかし,彼らが私を見付けることはありませんでした。

そして,1943年,オーストラリアの高等法院が私たちの訴訟に対する判決を下し,禁令は解かれました。すべてが再びフル回転し始めました。それ以来,支部での私たちの業は拡大し続け,今や英語をはじめ,太平洋諸島の数多くの言語で聖書文書を供給しています。1973年には,近代的な三階建ての工場が完成し,40㌧の輪転印刷機をその中に据え付けました。現在,75万冊以上の「ものみの塔」と「目ざめよ!」の両誌が,毎月約25の国々や島々へ向けて私たちの工場から発送されています。

さらに多くの胸の躍るような体験

オーストラリアへ渡ってから25年後,私はニューヨークで開かれた,1953年の国際大会に出席するというすばらしい経験をしました。その途中,飛行機はカントン島に立ち寄りました。私たちはのどをうるおすためにまっすぐ売店へ向かい,そこで顔立ちの整ったフィジー人のウェーターに王国の音信を紹介しました。そのウェーターは興味をもって耳を傾け,聖書に関する英語の冊子を受け取りました。私は,自分の聖書から聖句を調べるようウェーターに提案し,飛行機へ戻りました。

米国で胸の躍るような時を過ごしてから,私たちは帰国の途につき,カントン島で燃料補給をしました。私が新鮮な外気を吸い込んでいると,背中を軽くたたかれるのを感じ,振り返ると,そこにはあのフィジー人の友人がいました。彼は,私たちの残していった冊子の中に真理が語られているのを悟った,と述べました。その人の自国語の聖書文書を幾冊か送りたいと申し出ると,彼は非常に喜びました。そして売店へかけ戻り,羽根でできたうちわをプレゼントとして持って来ました。王国の音信に対する感謝の念を人が示すときもたらされる,このたぐいまれな喜びを私は何度となく経験してきました。

そして1973年,私はアジアで開かれた一連のクリスチャンの大会に出席することができました。他の宣教者やその土地の仲間たちの業のもたらした結果を見るのは何と胸を躍らせる経験でしょう。例えば,日本で,三万もの人々がエホバへの祈りのために髪の真っ黒な頭を一斉に垂れるのを見たときなどがそうです。

あなたは人生から何を得たいと思われますか。現在の生活は相変わらず退屈なものですか。人生を退屈なものにする必要は決してないことを私は請け合うことができます。イエスの模範に倣い,『行って,すべての国の人びとを弟子とする』ようにという指示に進んで従うことにより,本当に満足のゆく,そして,実に冒険に富んだ人生を送ることができるのです。―マタイ 28:19。

50年以上も前に,エホバへの奉仕に自分の人生を全く用いるよう心を動かされて,私は今本当に幸福です。81歳になっても,私はいまだに,この印刷工場で働き,宣べ伝える業にあずかり,大会へ行くことに喜びを見いだしています。エホバのご意志を行なうことに費やす人生以上に優れた人生はありません。

[27ページのジョージ・ギブの写真]

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