ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔79 8/15 31–32ページ
  • 読者からの質問

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 読者からの質問
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1979
  • 関連する記事
  • 読者からの質問
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 2002
  • なぜバプテスマを受けますか
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 2002
  • バプテスマとは何ですか
    聖書 Q&A
  • あなたもバプテスマを受ける必要がありますか
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1993
もっと見る
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1979
塔79 8/15 31–32ページ

読者からの質問

● 浸礼を受けることを希望しているにもかかわらず,健康がはなはだしく損なわれているか,あるいは老齢のために危険が伴うような人の場合,バプテスマは必要ですか。

聖書は,完全に水に浸すバプテスマが極めて重要であることを示しています。ですから,その人の状況により,特別な処置が必要な場合であっても,できる限りバプテスマを受けるべきです。

復活したイエスは,弟子たちに次のようにお命じになりました。「それゆえ,行って,すべての国の人びとを弟子とし,……彼らにバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうように教えなさい」。(マタイ 28:19,20)そうです,神のご意志を学び,神に仕えるために献身した人々は,イエスご自身がなさったと同じように,完全に水の中に浸してもらわねばなりません。(バプティゼインというギリシャ語は,「浸すこと,水に沈めること」を意味します。)部隊の士官であったコルネリオとその家族についてこう記されています。「[ペテロは]イエス・キリストの名においてバプテスマを受けることを彼らに命じた」― 使徒 10:48。

現代のエホバの証人は,大会においてバプテスマの取決めを設けています。実際のバプテスマは,完全に浸せるだけの十分な水のある,近くのプール,湖,川などで行なわれています。(使徒 8:38と比較してください。)ところが,そのようにしてバプテスマを受けることを希望しながら,身体的な理由で大会に出席できない人々もいます。そのような場合,地元の家庭用の大きな浴そうの中でバプテスマが施されたとしても,それはまったく有効なものです。そうした処置は,心臓を病む人々,高齢者,そして人一倍病弱な人々にとって,助けとなってきました。当人に無理をさせることがないように浴そうの水を暖めておくことができるでしょう。そしてバプテスマ希望者は,静かな上にも静かに,ゆっくりと水の中に入れられます。水になじんだ頃合いをみて,実際のバプテスマが行なわれます。

しかし特異なケースについてはどうですか。そうした場合でさえ,浸礼が可能であることは少なくありません。傷口が外に開いている人やのどに穴のあいている人もバプテスマを受けました。傷をビニールで覆い,その端にはテープで簡単な封が施されました。また人工呼吸装置を使用している人たちのバプテスマも行なわれました。医師や熟練した看護婦が介添する取決めも設けられました。体の麻痺した人は,管を口にくわえて呼吸する形で水の中に移されました。そしてバプテスマの瞬間には,吸い口が取りはずされ,体全体が水に沈められました。そして水面に上がるとすぐ,吸い口が取りつけられました。このような実例は,特別な注意や警戒が必要であるとはいえ,ほとんどすべての場合にバプテスマを施し得ることを例証しています。

もとより,しばらくの間はバプテスマが全く不可能に思われる極端な場合もあることでしょう。そういう時には,あわれみ深い天の父が,心の中で進んで献身を誓ったその人を理解し,是認してくださるとわたしたちは確信しています。(詩 103:13,14。哀歌 3:22)「エホバは自ら義なる者…を調べます。……直き者たちこそ,そのみ顔を見るでしょう」。(詩 11:5,7,新)ですから,身体的な理由で,新しく献身した人にバプテスマを施すことが不可能な場合,エホバはそうした事情をあわれみ深く汲みとってくださると固く信じることができます。

● ペテロがコリントへ行ったことがないのであれば,コリントのある人々が『わたしはケファ(ペテロ)に属する』と主張したのはなぜですか。また聖書中にこうした記述があるのはなぜですか。

確かに,聖書の中には,使徒ペテロがコリントへ行ったという記述はありません。それにもかかわらず,使徒パウロはコリント会衆に次のように書き送りました。「あなたがたがそれぞれ,『わたしはパウロに属する』,『いやわたしはアポロに』,『わたしはケファに』,『わたしはキリストに』と言い合っています」― コリント第一 1:12。

パウロはコリント会衆において,著名なクリスチャンの名の下に結集し,争論に明けくれている者がいるということを聞いていました。パウロもアポロもコリントにいたことがありました。それで,彼らから多くを学んでいたことや,彼らの人となり,彼らの教える能力のゆえに,二人のうちのいずれかを擁護する者がいたのかもしれません。

しかし,一度もコリントへ行ったことがないように思われるペテロに属すると言う者がいたのはなぜでしょうか。ペテロについて,そしてペテロが「天の王国の鍵」を使用したことについて学んでいた人たちがいたというのは有り得ないことではありません。(マタイ 16:18,19)それでコリントのある人々は,キリスト教に対するペテロの見方は幾分ユダヤ教に近く,クリスチャンはモーセの律法の下にはいないことを強調したパウロの見方とは異っているとして,ペテロの名を取り上げたのかもしれません。(ガラテア 2:15-21; 4:8-11)ペテロは,サマリア人や異邦人に道が開かれる以前に,ユダヤ人とユダヤ教への改宗者をキリスト教に導く点で目立った存在でした。そしてある時アンティオキアにおいて,ペテロは,ユダヤ人のクリスチャンたちの振る舞いに関して度の過ぎた気遣いを示しました。そしてそのことでパウロはペテロを正さねばなりませんでした。(ガラテア 2:11-14)こうしてコリントに見られた争論の風潮の中で,ある人々は,パウロの名を掲げた人々とは異なったキリスト教の旗印ででもあるかのように,ケファを支持したのかもしれません。

霊感の下にパウロは,適切にも,そうした争論を非としました。パウロは,キリストが分裂しているのではないという事実に基づいて考えるよう,コリントの人々を助けました。パウロは特に『無割礼の者たちに対する良いたよりを託され,ペテロは割礼を受けた者たちに対する良いたよりを託されました』。つまり前者は異邦人に,後者はユダヤ人に注意を集中しました。が,二人の基本的な音信は同じものでした。(ガラテア 2:7,8。エフェソス 4:4-6)彼らは,その教理に関しても目的に関しても分裂してはいませんでした。ペテロもパウロも,(西暦49年の)エルサレム会議に貢献しましたが,そこでは,異邦人の改宗者が割礼を受けたり,モーセの律法を守ったりする必要のないことが確認されました。(使徒 15:7-14)またペテロは,パウロを「わたしたちの愛する兄弟」とさえ呼び,彼の手紙を「聖書の残りの部分」と同様重要であるとしました。(ペテロ第二 3:15,16)ですから,コリントにおける争論を正当化するものは何もありませんでした。

こうした記述は,警告として聖書に載せられています。今日でも,小さな徒党やグループが会衆内で形成されることがあります。例えば,自由な考え方をすると評価されている人々は,主として同じ考えを持つ人や自分たちの見解を反映していると思われるクリスチャンの長老と交わるかもしれません。またそうしたグループの人々から物事の処理方法が幾分保守的であると見られるような人々が,自分たちとタイプの似た長老たちの助言を求め,彼らの見解を支持することもあり得ます。こうした状況は,分裂や不一致という不健全な霊を,かもし出します。不完全な人間は皆,自分たちの耳をくすぐり利己心を満足させる人々に傾倒しがちです。しかし神の諭しは,多くの助言者から知恵が得られることを示しています。彼らは,神のみ言葉の知識とそれを適用する点での経験という面で,貢献することができるのです。―箴 15:22。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする