読者からの質問
■ 私の息子は十代の時にバプテスマを受け,今では結婚して子供もいます。生計を立ててゆく面での圧力が強くなったために息子は霊的に弱くなり,会衆と交わっていません。息子を「交わりを絶った」人とみなさなければならないでしょうか。
この文面にはそのような見方をすべき理由は一つも見当たりません。このような質問が生じたのは,「交わりを絶った」とみなされることが何を意味するかについて誤解があったためと思われます。
1981年11月15日号の「ものみの塔」誌,22ページには,(イ)霊的に弱くまた不活発になるクリスチャンと(ロ)エホバの証人であることを公然と放棄し,会衆の長老たちが,自ら「交わりを絶った」と発表するに至るような人との間に違いのあることが示されています。お手紙によると,息子さんはこの最初の方に属するようです。
「ものみの塔」誌はあるクリスチャンが信仰と霊性の面で弱くなることを指摘しています。こうしたことは1世紀にもありました。(ローマ 14:1,2。コリント第一 11:30)これは当人がクリスチャンでなくなったという意味ではありません。もはや「良いたより」を他の人に伝えなくなり,集会に出席しなくなるほど弱くなっても,クリスチャン会衆に非難をもたらしていなければ,その人は依然としてわたしたちの霊的兄弟姉妹とみなされるべきです。わたしたちは使徒パウロの次の諭しに従い,愛をもってそうした人々を助けたいと思うはずです。「兄弟たち,またあなたがたに勧めます。無秩序な者を訓戒し,憂いに沈んだ魂になぐさめのことばをかけ,弱い者を支え,すべての人に対して辛抱強くありなさい」。大抵の場合この点で率先するのは長老たちですが,この諭しが「テサロニケの人たちの会衆」全体にあてられていることは注目に値します。(テサロニケ第一 1:1; 5:14)ですから,長老たちや他の人々は次の助言を念頭に置いて,愛ある援助と励ましを差し伸べることでしょう。「垂れ下がった手と弱ったひざをまっすぐにしなさい。そして,あなたがたの足のためにいつもまっすぐな道を作って,なえたところが脱臼したりすることのないように,むしろそこがいやされるようにしなさい」― ヘブライ 12:12,13。啓示 3:1-3。
かつてクリスチャンであって,「交わりを絶った」人の場合,事情はかなり変わってきます。この名称は基本的に二つの状況に当てはまります。
第1の状況はそれほどよくあることではありませんが,ある人がもはや絶対にエホバの証人ではありたくないと決意する場合です。それは前述の霊的に弱くなったり落胆したりしたクリスチャンで,幾らかの疑念を言い表わす人を意味しているのではありません。むしろ,意を決して,自分は絶対にもはやエホバの証人ではないと宣言するような人を意味しています。過去においてその人は自発的に会衆のバプテスマを受けた成員になったのですから,この時点で当人が自らこの関係を終わらせることを会衆に伝えるのは当を得たことです。当人が長老たちあてに簡単な手紙を書いてこのことを知らせるのが最善ですが,当人が口頭で自分はエホバの証人としての立場を放棄するとはっきり述べた場合でも,長老たちはその問題を扱うことができます。―ヨハネ第一 2:19。
2番目の状況は,イザヤ書 2章4節にあるような諭しに反した目的を持つ世俗の組織に加入して,会衆内での自分の立場を放棄する人にかかわるものです。イザヤ書 2章4節(新)は神の僕たちについてこう述べています。「彼らはその剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない」。また,ヨハネ 17章16節に述べられているように,「わたし[イエス]が世のものではないのと同じように,彼らも世のものではありません」。―啓示 19:17-21と比較してください。
これら二つのいずれの場合にも,その人は言葉や行動によって,エホバの証人としての自らの立場にはっきりと終止符を打ち,自ら交わりを絶っています。それゆえ,長老たちはこの者が自ら交わりを絶ったことを会衆に手短に発表します。会衆内の人々は当人の決定を受け入れ,それ以後その人を元兄弟とみなします。そして,コリント第一 5章11節およびヨハネ第二 9-11節に従って,その人と交友を持ちません。
お分かりのことと思いますが,この質問に出て来る霊的に弱って不活発になった息子さんは,これら二つのどちらの面においても「交わりを絶った」人となってはおらず,会衆でそのような発表はなされていません。ですから,ローマ 15章1節の精神を持って援助を続けることができるでしょう。「ですが,わたしたち強い者は,強くない者の弱いところを担うべきで(す)」。―イザヤ 35:3もご覧ください。