『再び生まれる』― 人間の側がなすべきことと神が行なわれること
1,2 (イ)救われた人々の結末について,(ロ)特定の人々を「再び生まれ」させるエホバの目的について,わたしたちは何を学びましたか。
前の記事では,クリスチャンであると公言する非常に多くの人々が「再び生まれ」ていると主張していることに注目しました。さらに,キリストの贖いの犠牲に対する信仰に基づく救いはただ一つでも,救われたグループは二つの異なる結末,つまり天的な結末と地的な結末を迎えるということも聖書から理解しました。
2 それに加え,イエス・キリストがヨルダン川でバプテスマを受けた後に再び生まれたことも知りました。その時,エホバ神は聖霊がはとの形でイエスの上に下るようにされました。神がイエスを,ご自分の霊によって生み出された子として認められたのはその時でした。エホバがどんな目的でイエスを再び生まれさせたかも理解できました。それは,イエスが死なれ,復活されてから神の王国の栄光ある力強い王となるためでした。また,イエス・キリストが共に支配する仲間を持つこと,そしてそれらの仲間も「再び生まれ」なければならないことがエホバのご意志であるとも学びました。―マタイ 3:13-17。ヨハネ 1:12; 3:3。ヘブライ 10:5-10。啓示 20:6。
3 『再び生まれる』ことに関して,イエスと王国を共にする仲間は,イエスとどのように異なっていますか。
3 イエス・キリストの足跡に従うこれら油そそがれた追随者たちはどうでしょうか。彼らはいつ「再び生まれ」ますか。エホバが彼らのために行動し,彼らを霊的な子として生み出される前に,どんな段階を踏むことが必要でしょうか。イエスの父は神でしたから,イエスは完全な人間として誕生されました。30年後にみ父は,イエスが「再び生まれ」るようにされ,イエスを霊的な子として生み出されました。しかしアダムの子孫すべては生来の罪人であり,『思いが邪悪な業に向けられているために疎外され,また実際に神の敵となっています』。そういう事情で,彼らはエホバと関係を持ったり,エホバから霊的な子として生み出していただいたりするような状態にはありません。―詩 51:5。コロサイ 1:21。
人間の側がすべきこと: 六つの基本的な段階
4,5 (イ)神から,霊的な子としての見込みを持つ弟子とみなしていただく前に,これらの人々は幾つの段階を経なければなりませんか。ほかのだれに対しても,同じことが求められますか。(ロ)最初の段階は何ですか。
4 エホバから霊的な子として数えられるようになる前に,弟子となる見込みを持つ人々の側にはどんな段階を踏むことが求められますか。それらの人々が経なければならないはっきりした段階は六つあります。しかし,究極的な報いが天的なものであろうと地的なものであろうと,真のクリスチャンとなり,報いを得たいと思うすべての人に対し神は同一の事柄を要求しておられるということに注目しましょう。
5 まず最初に,そのような人々は創造者また命の授与者であられるエホバ神,およびそのみ子,救い主であり贖い主であられるイエス・キリストについての正確な知識を取り入れなければなりません。(詩 36:9; 100:3。マタイ 20:28。ローマ 10:13-15)イエスは,人間として地上におられた最後の晩に神に祈り,その祈りの中でこの段階の重要性を強調してこう言われました。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」― ヨハネ 17:3。
6 これらの人々が踏むべき第2の段階とは何ですか。
6 しかし,知識だけでは不十分です。信仰を働かせなければなりません。その点については次のように述べられています。「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされ(まし)た」。確かに使徒パウロが大変明確に示しているように,「信仰がなければ神を十分に喜ばせることはできません」。この信仰は,神の約束を現実のもの,果たされたも同然のものとみなします。それは単に信ずること以上のものです。弟子ヤコブは,悪霊たちでさえ信じておののいていること,また『業のない信仰は死んだもの』であることをわたしたちに思い起こさせています。―ヨハネ 3:16。ヘブライ 11:1,6。ヤコブ 2:19,26。
7 信仰を抱いていることの証拠として,何よりもまず最初に求められる業は何ですか。
7 人が信仰を持っている証拠として,何よりもまず最初に求められる業は,悔い改めです。自分の誤った歩み方を悔い改め,進んで罪に携わるようなことをやめなければなりません。イエスは宣べ伝える業を開始された時,こう言われました。「あなたがたは悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」。(マタイ 4:17)自分の誤った歩み方を悔い改めるには,それをやめなければなりません。そのことに対し深い後悔と悲しみと自責の念を感じなければなりません。実際このようにすることは,地上のパラダイスで命を得ようとする人々すべてに対する強い命令です。「[神は]邪悪な者をみな滅ぼし尽くされ(る)」からです。―詩 145:20,新。
8 自分の罪を悔い改めた人々は,その後どんな段階を経なければなりませんか。
8 それでも,罪深い行ないをやめるだけでは十分とは言えません。転向という段階を経なければならないのです。つまり,身を転じ,正反対の方向へと進んでいかなければなりません。ペテロが当時のユダヤ人たちに語った,「ですから,あなたがたの罪を消していただくために,悔い改めて身を転じなさい」という助言に留意しなければなりません。そうです,『悔い改めにふさわしい業をしてください』。(使徒 3:19; 26:20)地上で永遠の命を享受することを望む人々すべてにもこの段階を経るよう求められることは,箴言 2章20,21節にある言葉から明らかです。
9 (イ)これらの人々に,事実イエス・キリストの追随者になろうとする人々すべてに求められる,さらに他の二つの段階とは何ですか。(ロ)イエスのバプテスマは何を象徴するものでしたか。
9 それで,希望のいかんにかかわらず,イエス・キリストの追随者になることを願うすべての人に対して求められる次の段階は,イエスがみ父のご意志を行なうべくヨルダン川でご自身を差し出されたと同じように,自分自身を神に差し出すということです。今日,これにはエホバ神に献身すること,そしてその後み子イエスの足跡に従うことが含まれます。a (ルカ 9:23)さらに6番目の段階として,イエスと同じようにバプテスマを受けることにより,この献身を象徴し,それを公に表わさなければなりません。―マタイ 28:19。使徒 2:41と比較してください。
エホバ神が行なわれる非常に重要な事柄
10 『再び生まれる』ために人間の側の行動以上のものが求められることは,どんな例えから分かりますか。
10 エホバ神とイエス・キリストに関する知識を得,信仰を働かせ,悔い改め,転向し,献身してバプテスマを受けるという段階を踏めば,自動的に人は『再び生まれる』ことになるのでしょうか。決してそうではありません。もともと自分自身の努力でこの世に生まれ出ることができなかったのと同じように,自分の努力で霊的に『再び生まれる』ことはできません。肉体の誕生の折に人間の両親の側に積極的な役割が求められるように,この霊的な誕生,つまり『再び生まれる』ということにも,天の親,すなわちエホバ神とその天的な組織である「女」の側に積極的な役割が求められます。(イザヤ 54:1,5,新)前述の段階を踏む人々が行なえるのは,せいぜい,もしそれが神のご意志であれば,『再び生まれる』ように自分自身を調整することだけです。
11 神のご意志であれば,自分たちのなすべきことをした人々に対し,神はどんな行動をお取りになりますか。
11 人類が不完全さを受け継いでいるために,神ご自身は今,天の王国に召すことをよしとされるこれらの人々のために活動しておられます。ですから,「わたしたちは信仰の結果義と宣せられた」と記されているのです。何に対する信仰でしょうか。キリストの犠牲に対する信仰です。「わたしたちは彼の血によって今や義と宣せられた」と述べられているからです。(ローマ 5:1,9)このように人を公に義と宣するのはその人自身ではなく,神であるという点に注目しましょう。この点からすると,そのような人の立場は,「創造物」,つまり人類一般の立場とは異なることになります。「創造物」は「[霊的な]神の子たちの表わし示される」のを待って,それから「腐朽への奴隷状態から自由にされ,[地的な]神の子どもの栄光ある自由を持つ」ことができます。(ローマ 8:19-22)このように神が義と宣せられる人々は,自分たちに与えられた完全な人間の命に対する権利を持つのです。このゆえにエホバ神はそのとき,聖霊によって彼らに直接に働きかけることがおできになります。―ローマ 8:33。
12 イエスおよび初期の弟子たちの場合,『再び生まれる』ことにはどんな現象が伴いましたか。そうした現象が終わったのはなぜですか。
12 神は,ご自身が義と宣した者たちを,今度はご自分の霊的な子供として生み出されます。どのようにしてでしょうか。ご自分の聖霊,つまり活動力によってです。エホバはその聖霊を彼らのために活動させ,その結果彼らは「再び生まれ」るのです。イエスの場合も,ペンテコステの日に集まっていたその弟子たちの場合も,神は超自然的な現象によって,彼らが霊的な子として生み出されたことを示されました。真のキリスト教の資格証明書といえるものがいったん明示されてからは,こうした表示はもはや必要なくなり,「廃され」ました。―マタイ 3:16。使徒 2:3; 10:44-48。コリント第一 13:8-10。
13 「水」そして「霊」とは何のことですか。(ヨハネ 3:5)
13 イエスがユダヤ人の支配者ニコデモに話をした時に言及されたのは,霊的な再生に関するこの取決めでした。イエスはこう言われたのです。「きわめて真実にあなたに言いますが,水と霊から生まれなければ,だれも神の王国に入ることはできないのです。肉から生まれたものは肉であり,霊から生まれたものは霊です。わたしがあなたに,あなたがたは再び生まれなければならないと言ったからといって,驚いてはなりません」。(ヨハネ 3:1,5-7)ここで述べられている水とは,間違いなく文字通りのバプテスマの水のことです。では霊とは何ですか。それは各個人の上に働いている聖霊のことです。
14 「召すこと」と「選ぶこと」にはどんな事柄が含まれますか。そしてどんな目的のためにこれらのクリスチャンは油そそがれ,任命されるのですか。
14 聖書は,『再び生まれる』人々のことをまず先に「召され」た人々として述べています。彼らへのこの召しは,イエス・キリストと共になるようにとの神ご自身からの招待です。この招待に応じて行動する人々は『選ばれた者たち』です。(啓示 17:14)彼らはエホバ神の「卓越性を広く宣明する」ことを使命とする「選ばれた」会衆の一部となります。(ペテロ第一 2:9)これら『再び生まれた』クリスチャンたちは,イエスの場合と同じように,宣べ伝えるため神の聖霊によって油そそがれます。それでこう書かれています。「あなたがたとわたしたちがキリストに属することを保証してくださるかた,そしてわたしたちに油そそいでくださったかたは神です」。―イザヤ 61:1,2。ルカ 4:16-21。コリント第二 1:21。
15 霊は,人が『再び生まれた』ことをどのように証ししますか。そしてその確信は何によって強められますか。
15 これらの「選ばれた」者たちに関して,使徒パウロは,「霊そのものが……わたしたちが神の子どもであることを証ししています」と証言しています。(ローマ 8:16)神の聖霊はどのようにこのことを行なうのでしょうか。これらのクリスチャンの心に天的な希望を植え込むことによってです。「神はその大いなるあわれみにより,イエス・キリストの死人の中からの復活を通して,生ける希望への新しい誕生をわたしたちに与えてくださったのです。すなわち,朽ちず,汚れなく,あせることのない相続財産への誕生です。それはあなたがたのために天に取って置かれているもので(す)」。(ペテロ第一 1:3,4)これらの人々が自分たちの天的な父と良い関係を保つ時,神はその摂理により,彼らが本当に『再び生まれた』クリスチャンであるという確信を強めてくださいます。
どのように確信できるか
16 いつから,「忠実で思慮深い奴隷」は地的希望に強調を置いてきましたか。そしてこのことからどんな結論が導き出されますか。
16 現代において王国の良いたよりを宣べ伝えることにあずかっている人々は,エホバ神がご自分の献身した僕たちを,霊によって生み出された見える組織,すなわち「忠実で思慮深い奴隷」によって導いておられることを確信しています。(マタイ 24:45-47)1935年ころまでは,その指導の下に天的な希望が差し伸べられ,際立ったものにされ,強調されました。それから『光がきらめき』,啓示 7章9節の「大群衆」の実体が明らかに示されて,地的希望に強調が置かれるようになりました。(詩 97:11,新)したがってその時までに14万4,000という数がほぼ満たされたと結論するのは妥当なことです。言うまでもなく,だれかが不忠実になればその代わりを補充することは必要です。しかし容易に理解できることですが,そのような人々は比較的少数でしょう。ではどんな人々で補充されるのでしょうか。その点についても,この天的な希望は試されていない献身したばかりの人ではなく,忠実を保って忍耐し,多年にわたって自らの献身を貫いてきた人々に差し伸べられると結論するのは妥当なことでしょう。(ルカ 22:28-30と比較してください。)ところが,手もとにある報告によると,献身したばかりの新しいクリスチャンの中に,自分を「再び生まれ」た者とみなしている人々がいるようです。
17 どんな気持ちのために,一部の人は神が自分の中に天的な希望を植え込まれたと誤って考えていますか。
17 比較的最近献身してバプテスマを受け,自分が「再び生まれ」た者であると考えている人は皆,次のような質問を真剣に考慮してみるとよいでしょう。エホバ神がこの希望をあなたの中に植え込まれたと言えるどんな理由があるでしょうか。あなたのその感情は,善人は皆天に行く運命にあるという大いなるバビロンにいたころ抱いていた誤った信念の名残であるという可能性はないでしょうか。それとも,心が激しく動揺し,最初はその考えと闘っていたものの,次第に抗し難くなってしまったのでそう感じているのでしょうか。しかし,無意識かもしれませんが,抗し難くなったのはあなたがそうしたかったからではありませんか。このような葛藤自体は,あなたが「再び生まれ」たことの証拠ではありません。
18 霊的な深い事柄を認識していること自体が,その人が「再び生まれ」た証拠とはならないのはなぜですか。
18 それとも,あなたが14万4,000人の油そそがれた者の一人として神から選ばれたと感じているのは,自分が霊的な事柄に鋭い認識を持ち,霊的な深い真理に愛着を抱いているからですか。では,「再び生まれ」ているとは公言しない非常に多くの人々が本当の意味で「霊的な人」であるという事実に注目してください。(コリント第一 2:14,15)それに,ヘブライ 11章に列記されている信仰の男女に霊的な強さが伴っていたことについて疑問の余地はありません。これらの人々のうち「再び生まれ」た人は一人もいませんでした。彼らは皆,正にこの地上における「[神の王国の下での命への]勝った復活」を待ち望んでいました。―ヘブライ 11:35。
19 (イ)非常に熱心であることは,必ずしも神がその人に天的な希望を与えられたことの証拠ではありません。なぜですか。(ロ)どんな事柄は,一部の人々が慎みの欠如ゆえに天的な希望を公言することを示しているように思われますか。
19 あるいは,自分が仲間の幾人かのクリスチャンよりも熱心なのでそう感じているのでしょうか。しかしそのこと自体,決定要素となることはありません。使徒パウロは,油そそがれたクリスチャンたちに対し,自分たちの霊的な責務を真剣に考慮することを勧める助言を再三与える必要があったからです。(コリント第一 11:20-22。ガラテア 4:9-11)あるいは,油そそがれた者であるという主張が慎みの欠如に起因しているということはないでしょうか。ごく最近になって油そそがれた者であると公言する人の中には,会衆の一致を育むより,独自の聖書研究のグループを設けるべきだと考えている人がいます。それとは逆に,円熟した『再び生まれた』クリスチャンたちは,地元の会衆が主に「ほかの羊」で構成されているとしても,その会衆と親密な関係を保っています。(ヨハネ 10:16)しかし,人が『再び生まれる』ということは,神とクリスチャン各人との間の個人的な事柄です。だれもこの問題に関して他の人を裁いてはなりません ― ローマ 14:10。
20 前述の言葉に照らして,わたしたちは『再び生まれる』ことに関し,どんな結論に到達しますか。
20 これまでの論議を総合するとどんな結論に達しますか。エホバは公正で義にかなっておられ,知恵と愛に富んでおられるということです。神はご自分の知的創造物にそれぞれ独自の役割を,つまりある者には天でその目的に仕えることを,他の者には地上で同じようにすることを割り当てる権利をお持ちです。天的な賞は,あたかも個人が選んで,努力して得られるようなものではなく,また自分で勝手に望むべきものでもありません。それは極めて特別なものであって,被造物である人間が差し出がましく振る舞うことは許されません。それはエホバ神が賢明で公正な,そして愛のあるご自分の目的を促進するために,ご自分の創造物の中の少数の人々にお与えになるすばらしい過分のご親切であり,創造物自身の側の特筆すべきなんらかの功績によっているのではありません。『再び生まれる』のはこのような人々に限られています。(ローマ 3:23,24; 11:33-36)地上のパラダイスにおける永遠の命もまた,義に傾く心を持つ人々が目指して進むことのできる,言葉では言い表わせないほどの特権的な目標です。(啓示 21:1,3,4)過分のご親切でないものは一つもありません。だれであれ,エホバに向かって,「あなたは何をしてきたのか」というような,おこがましいことを言うべきではないのです。―ダニエル 4:35,新。
[脚注]
a イエスはすでに献身した国民の一員であったので,イエスがエホバのもとに来てバプテスマを受けられたことはイエスの献身の象徴ではありませんでした。むしろそれは,神がイエスにさせるべく持っておられた特別な業を開始するために,自分自身をエホバに差し出したことの象徴でした。