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  • 自分が間違っているなら,なぜそのことを認めるべきですか
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1982
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1982
塔82 12/1 28–30ページ

自分が間違っているなら,なぜそのことを認めるべきですか

「間違いをしないのは死人だけだ」。不完全な人間についてはこのようなことが言われてきました。考えてみれば,少しも誤りを犯さない人がいるでしょうか。間違いをしない人がいるでしょうか。

神のみ言葉,聖書は,わたしたちすべてが過ちを犯すことをはっきり示しています。「常に善を行なって罪をおかすことのない義なる者は,地にひとりもいない」と述べています。聖書の中で「罪」と訳されているヘブライ語とギリシャ語の言葉は,字義的には「的をはずす」― 神のご要求に関する限り,誤っているという意味です。―伝道の書 7:20。

しかし,間違いをすること,誤りを犯すこと,そうです罪を犯すことがごく一般的であるにもかかわらず,それを認めるのは実に難しいことです。夫また父親であるなら,自分の妻や子供に自分が誤っていることを認めるとなると,うやむやにしてすませたい気持になっている自分に気付くことはありませんか。監督の立場にあるなら,部下の前では誤りをなかなか認めようとしない自分に気付くことはありませんか。妻,子供,従業員その他,別の立場にある人々の場合も同じことが言えます。

誤りを認められない理由

自分を正当化しようとするのは人間の本性のようです。わたしたちの幼いころ,本当に誤りを犯したこと,それについて謝らねばならないことをわたしたちに認めさせるのは,親にとって実に大変なことだったでしょう。成人してからも,わたしたちは同じような態度を示すかもしれません。例えば,自分のしたことは実際には誤っていたのではないとか,本当に悪いのはほかの人だったとか,異状な状況のせいだなどと,理屈を付けようとするかもしれません。

特に責任ある立場の人にとって,誤りを認めるのは難しいことのようです。なぜでしょうか。多くの場合にそれは恐らく誇りのためでしょう。ほかの人にどう思われるかを心配するのです。言わば“面子”を考えるのです。さらにまた,不安感が誤りを認められない理由になっていることもあるでしょう。誤りを認めれば,自分の立場が危うくなると考える人もいます。

また,支払わされるかもしれない代償のことを考えて,現在や過去の誤りを認めたがらない人もいることでしょう。例えば,ある鉄道職員は不注意で重大な事故を引き起こしたかもしれません。しかし,自分が誤りを犯したことを認めれば,職を失ったり,場合によっては刑務所に送られたりすることもあります。あるいは医師の場合なら,費用のかさむ医療過誤の訴訟を起こされるかもしれず,誤りを認めれば自分あるいは保険会社が多額の支払いを余儀なくされるかもしれません。

また,正しい見地から物事を見るのが難しい人もいるでしょう。聖書は,「間違い ― だれがそれを見分けることができるでしょうか」と述べています。さらに,自分の誤りを認めるのを阻む感情が心に宿っていることもあります。まさに,「心はほかの何物にも勝って不実であ(る)。……だれがこれを知りえようか」と言えます。―詩編 19:12。エレミヤ 17:9。

好ましくない結果

わたしたちは近視眼的な利己心に動かされて,自分の誤りを認めるよりも,自分を正当化しようとするかもしれません。しかし,どんな理屈を付けようとも,自分が間違っているのにそれを認めようとしないなら,好ましくない結果になります。例えば,家族の者や一緒に仕事をしたり崇拝をしたりする人との関係が緊張したものになるかもしれません。自分が間違っているのにそれを認めないなら,他の人々の忍耐を試すことになるか,またはその人たちの敬意を失うことになります。そして,ほとんどの場合に,自由な意思の疎通を妨げる障壁ができてしまうでしょう。

自分が間違っているのにそれを認めようとしないなら,良心のかしゃくにさいなまれることになって,事はさらに深刻になります。まして,自分のしたことに対して他の人がぬれぎぬを着せられることにでもなるとなおさらです。それに,一度でもしりごみして誤りを認めないなら,それが習慣になるかもしれません。小さな間違いを認めようとしないなら,やがて大きな間違いも認めようとしなくなり,自らの完全な破滅の元となります。結果として,ゆゆしい罪の場合にも,わたしたちの良心は焼き金によって焼かれたようになってしまうかもしれません。(テモテ第一 4:1,2)そのような道は,何よりもわたしたちの創造者エホバ神との関係を必ず損なうものとなります。

過去の例

他の人に責任をなすり付けようとして,自分の誤りを認めないなら,あまり芳しくない人物と同類項になります。最初の人間アダムは,自分が不従順であったことを,『神が自分に与えてくださった女』のせいにしました。エバはエバで,その責任をへびに転嫁しました。しかし神はそうした言い訳を認めず,最初の人間夫婦に責任があるとされました。さらに,サウル王の例があります。サウル王は,邪悪なアマレク人に対する神の裁きを完全には執行しませんでした。その理由をただされたサウルは,その責任を民に転嫁しました。しかし,神はその言い訳も認められませんでした。―創世記 3:12-19。サムエル第一 15:15-23。

一方,聖書にはわたしたちが自分の誤りを認めるべきことを示す例も載っています。その一つにユダの例があります。ユダはやもめになった嫁のタマルを扱う点で誤っていました。自分が彼女を妊娠させたことを示す証拠を突き付けられると,ユダは,「彼女のほうがわたしより義にかなっている」と言いました。(創世記 38:26)ユダは少なくとも自分の誤りを認めました。

さらにダビデ王の例があります。ダビデはバテ・シバとの罪を隠そうと様々な手を打ちました。預言者ナタンに罪を指摘されたとき,ダビデは,「わたしはエホバに対して罪をおかした」と告白しました。(サムエル第二 12:13)こうして,ダビデは悪事を行なったことを確かに認めたのです。

良い結果

こうした古代の例を思い起こし,自分が間違っているならそれを認めるのはよいことです。そうするなら,とりわけ家族との関係がより良いものになります。また,上司の忍耐を試すようなことをそれほどしなくなるので,上司ともうまくやってゆけるようになります。聖書は無意味に次のように述べているのではないのです。「支配者の霊があなたに向かってわき起こることがあっても,自分の場所から離れてはならない。穏やかさが重大な罪を鎮めるからである」。そうです,非常にゆゆしい誤りをも鎮めるのです。―伝道の書 10:4。

自分が責任のある立場にいる場合はどうでしょうか。自分の誤りを進んで認めるなら,部下の敬意を勝ち得ることになります。さらに,そのような態度があれば,自分の弱さを克服する点で進歩する立場にあることになります。

特に肝要なのは,汚れない良心および神との良い関係を保つことです。ですから,ゆゆしい過ちを犯した場合,何をさておいても,自分が罪を犯したことを認めるようにしましょう。真剣な祈りによって,イエス・キリストを通して天のみ父の憐れみ深い許しを求めるようにしたいものです。(詩編 103:10-14。ヨハネ第一 2:1,2)また,求め得る霊的な援助を十分に活用したいものです。(ヤコブ 5:13-16)これは知恵の道です。神の言葉は次のように告げているからです。「自分の違犯を覆い隠している者は成功しない。しかし,それを告白して捨てている者は憐れみを示される」― 箴言 28:13。

この傾向を克服するための助け

自分が間違っているのにそれを認めようとしないこの傾向を克服するには確かに助けが必要です。大抵の場合,ユーモアのセンスは役立ちます。誤りや間違いがそれほどゆゆしいものでも,重大なものでもない場合には特にそうです。例えば,ある有能な主婦は皿を幾枚か重ねて運んでいる時につまずいて落とし,全部割ってしまいました。それで彼女は,笑い出してしまいました。そのようなことは自分には絶対に起きないと思っていたのに,現にそれが起きたからです。確かに,ユーモアのセンスがあれば,自分のことを深刻に考え過ぎないですむことが少なくありません。自分の間違いを認めたがらないことの根底には,しばしば自分のことを深刻に考え過ぎるという感情が働いているのです。

正直さと感情移入も問題に関係しています。わたしたちが過ちを犯したことを知る権利のある人がいるのなら,その誤りをすすんで認めるべきです。こちらが誤りを認めないとほかの人がぬれぎぬを着せられ,こちらの間違いのために苦しむはめになるような場合には,特に感情移入を行なってその誤りを認めるべきです。「あなた方は,自分にして欲しいと思うとおりに,人にも同じようにしなさい」というイエスの言葉はこのような場合に当てはまります。―ルカ 6:31。

謙遜さも誤りを認めるのに助けになります。よくよく考えてみるなら,誤りを認めようとしないことは偽善と言ってもよいのではないでしょうか。ごう慢な人も偽善者も神に認められることはありません。―箴言 21:4。ヤコブ 3:17。

エホバとの親密な関係を保つことは,自分の誤りをすすんで認めるための最大の助けになります。なぜでしょうか。謙遜な態度で祈りをささげ,神に自分たちの問題や過ちすべてを申し上げたいという気持ちになるからです。そうすれば,神の助けと憐れみに確信を抱き,何にも換え難い「神の平和」を所有することになります。―フィリピ 4:6,7。

わたしたちはみな過ちを犯します。ですから,自分の間違いを認めるようにしましょう。自分に誤りがある場合には,それを謙遜に認めるようにしたいものです。そして,建設的な仕方で自分のとがと取り組み,自分に,また他の人々に益をもたらすようにしましょう。

[29ページの図版]

「わたしはエホバに対して罪をおかした」と,ダビデは告白した

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