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  • 『エホバは豊かな報いをもってわたしを扱ってくださった』

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  • 『エホバは豊かな報いをもってわたしを扱ってくださった』
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1984
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1984
塔84 10/15 24–31ページ

『エホバは豊かな報いをもってわたしを扱ってくださった』

カール・F・クラインの語った経験

エホバを知り,エホバに仕えることには何と大きな祝福があるのでしょう。これまでの自分の歩みを振り返ってみるとき,「わたしはエホバに向かって歌います。豊かな報いをもってわたしを扱ってくださったからです」と述べたダビデと同じ感慨にひたります。(詩編 13:6)エホバはまさにそのとおりに私を扱ってくださいました。例えば,エホバの証人の本部職員の一員となっているのは特権です。そして,本部の家族が150人ほどから3,000人を超えるまでに増加するのを見てきました。それは何と大きな祝福だったのでしょう。

しかし,私が真理を学ぶ前にも,神は豊かな報いをもって私を扱ってくださいました。母は非常に従順で自己犠牲的な人だっただけでなく,子供の私たちを訓戒したり矯正したりする際に,いつも聖句を引用してくれました。その幼い日のことについて少しお話しすることにしましょう。

真理のうちを歩み始める

私が聖書の真理に初めて接したのは,地獄に関する講演を宣伝するビラを見つけた1917年の春のことでした。その主題には深い興味を覚えました。いつも間違ったことばかりしているように思えたので,死んだ時,火の燃える地獄へ行くことをたいへん心配していたのです。母にそのビラを見せたところ,母はその講演を聞きに行くことを勧め,「害にはならないだろうし,もしかしたらお前のためになるかもしれないからね」と言いました。

私は弟の一人であるテッドと一緒に,聖書研究者の主催するその話を聞きに行きました。当時,エホバの証人はその名で知られていました。話し手は,聖書と論理に基づいて,火の燃える地獄の教えが聖書にないことを実に効果的に示しました。すべての点で非常に理にかなっているように思えたので,私は家に帰って,「お母さん,地獄などないよ。本当だよ!」と大声で言いました。母は,私もそう思う,「地獄」というのはこの地球上にあるだけだ,と言いました。母は非常に苦労していたからです。

翌週の日曜日の午後にも別の講演があるという発表がありましたが,11歳と10歳の私たち年端のゆかない少年に話しかける人はいませんでした。その翌週の日曜日の朝,日曜学校と礼拝に出てから,近所の男の子たちとゲームをして遊びました。しかし,その日の午後は何もかもがうまくいかないように思えました。前の週の報いの多かった経験を思い浮かべて,「カール,神様はお前に,面白おかしく過ごしたいなどと思わないで,あの優れた聖書の講義をもう一度聞きに行くべきだと告げようとしておられるのだ」と自分に言い聞かせました。そこでテッドと私は再び出かけて行きました。今度は,聖書研究者たちは私たちにも話しかけ,来週の日曜日にまた来るよう勧めてくれました。私たちは,また来ますと答えましたが,それ以来ずっとクリスチャンの集会に出席しています。今振り返ってみると,私がすべきでない事をしていた時に,エホバがひんぱんに,言わば叱ってくださったということはすぐに分かります。私は,人生とは決してこれとあれではなく,これかあれかである,ということを学ばなければなりませんでした。

そうしたことはいずれも,米国イリノイ州シカゴ市の郊外にあるブルー・アイランドで起きました。(私はドイツの南西部で生まれ,非常に病弱でした。5歳の時に,家族で米国に移住し,やがてその町に定住したのです。)その町では,聖書研究者たちは「幕屋の影」という本に基づく週中の研究も開いていました。私はすぐにその研究にも出席するようになり,それに非常な興味を覚えました。司会者が幕屋の模型を使ってすべての事を説明したので,なおのこと興味を覚えたのです。しかし,これらの集会と,自分が少し前に堅信礼を受けたメソジスト教会のどちらかを選ばなければならないことを悟るまでには,幾らか時間がかかりました。

私はまだほんの子供でしたし,家がかなり貧しかったので,聖書研究者たちは必要な研究用の手引き書を全部,惜しみなく与えてくれました。魂,三位一体,キリストの千年統治などに関する真理を学んで私は大喜びしました。ほどなくして私は,「聖書研究者月刊」と「王国ニュース」を配布する業に喜んで携わるようになりました。1918年の春には,当時は聖別と呼ばれていた献身をして,バプテスマを受ける特権を悟りました。それも家では少しも問題になりませんでした。母は私が学んでいる事柄に関心を示していましたし,20年来メソジスト派の説教師であった父はそのころ旅行に出ていることが多く,年に三,四回,数日ずつ家に帰って来るだけだったからです。

兄弟愛に関する試み

当時,私たちは『真理にとどまりたければ,「聖書研究」7巻を毎年通読するように』と言われていました。もちろん私は真理にとどまりたかったので,ベテルに来るまで,毎年それらの本をきちんと通読していました。これは1日に10ページ読むことを意味しましたが,知識欲が旺盛だったので,それは非常に楽しいことでした。

1918年にバプテスマを受けた直後に,仲間の聖書研究者に対する忠節が試みられました。第一次世界大戦もたけなわで,いちばん重きをなしていた兄弟たちは戦争に関する問題で不当にも投獄されてはいましたが,当時指導の任に当たっていた人々は,クリスチャンの中立の必要を十分に認識してはいませんでした。問題点をはっきりと理解していた少数の人々は腹を立てて自ら聖書研究者とは一線を画し,自らを“堅く立つ者たち”と呼びました。私は,聖書研究者たちと一緒にいるなら,イエスの油そそがれた追随者の「小さな群れ」の成員になり損なうであろうと警告されました。(ルカ 12:32)母はまだ献身していませんでしたが,正しい決定を下す上で助けになってくれました。自分にこれまで多くの事を教えてくれた人々から離れることなど考えられなかったので,聖書研究者の兄弟たちに賭けてみることにしました。それはまさに忠節の試みでした。それ以来,私は同様の忠節の試みを数多く見てきました。何か間違いがあると,心の中に不忠節なところのある人々はそれに飛びつき,業を放棄する言い訳にするようです。―詩編 119:165と比較してください。

エホバに仕えようと努める私にとって大きな励みになったのは,聖書研究者が開いた1922年のシーダー・ポイント大会でした。そこで私たちは,J・F・ラザフォード(ものみの塔協会の当時の会長)が,「王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい」という感動的な呼びかけをするのを聞きました。私は最初からさまざまな種類の証言にあずかっていましたが,寄付を受け取って聖書文書を提供するために家から家を訪問したのは,その大会の時が初めてでした。私にとってそれは非常に難しいことに思えました。

そのため,私は1924年のオハイオ州コロンバスの大会の時まで,二度と家から家の証言には携わりませんでした。そのコロンバス大会以降,私たちの地元の会衆には,この活動に定期的に携わる人が少なくとも一人はいたことになります。以来,その宣教が,王国の良いたよりを宣べ伝えるためだけでなく,自分自身の信仰を強め,ほかのどの霊の実を培うのにも大切なことを認識するようになりました。(ガラテア 5:22,23)疑問の余地はありません。定期的に野外宣教にあずかることには,一つの面だけでなく,色々な面で豊かな報いがあるのです。

「ベテルの地は私の拠り所!」

その当時,会衆内の取り決めは幾らか異なっていました。まだ十代だった時に私は長老に選出され,会衆の書籍研究を司会したり,シカゴから公開講演者を呼ぶ手はずを整えたり,それらの講演を地方紙やビラで宣伝する取り決めを設けたりすることもしました。1924年のオハイオ州コロンバスの大会の後,エホバの民の世界本部での奉仕に用いていただくよう申し込む道が開けるのを見ました。私の心は長い間そのようなベテル奉仕にひたすら向けられていましたが,家庭の状況が突然に変化したために,それは私に対するエホバのご意志ではないように思えました。しかし,それもほんの一時的なものでした。というのは,1925年3月23日に私はベテルに入ったからです。

うれしくてたまらなかったので,私は「ディクシー」という歌をもとに替え歌を作り,「ベテルの地は私の拠り所,生くるも死ぬるもベテルの地!」と,手紙に書いて家に送りました。59年後の今も,私はベテルについてそのように感じています。ついでながら,エホバが再三私を扱ってくださった方法について少しばかり触れておくのはよいことかもしれません。自分の大いに望んでいた事柄が神のご意志ではないように思えたために,それを手に入れるのをあきらめると,その望んでいたものが向こうの方からやって来たのです。そうした事を経験して,アブラハムが『自分の深く愛する』息子を進んで差し出すかどうか試みられたことを思い起こしました。―創世記 22:2。

ベテル奉仕を始めてから私が最初に割り当てられたのは,ニューヨーク市ブルックリン区コンコード通り18番地にある協会の工場の植字室での仕事でした。しかしやがて配置換えになり,当時“古い戦艦”という愛称で呼ばれていた協会の輪転機の操作を手伝うために地下室へ回されました。私たちはその輪転機を使って幾百万部もの雑誌を印刷しました。当時,協会の2種類の雑誌はそれぞれ3万部印刷されていました。今日,「ものみの塔」誌の平均発行部数は毎号1,020万部,「目ざめよ!」誌の平均発行部数は毎号890万部です。

子供のころ私は2年間バイオリンのレッスンを受けたことがありました。ですから,ベテルに入ってから,私はオーケストラで演奏することを申し出ました。そのオーケストラは週に二晩練習し,日曜日の朝,協会のラジオ局WBBRの電波に乗せて放送していました。チェロ奏者が必要であることを知り,私はチェロを買い込み,音楽のレッスンを受けるようになりました。a 1927年には,私たち10人がスタテン島の協会の放送局で全時間演奏をするよう招かれました。こうして音楽に関係した特権をいただくようになり,それは長年続いています。

「気をつけなさい,カール!」

私は音楽の演奏を大いに楽しみました。全時間音楽に打ち込むことができるのは確かに報いのあることでした。スタテン島で奉仕している間に,ものみの塔協会の当時の会長だったJ・F・ラザフォードを親しく知るというまれな特権にも恵まれました。ラザフォード兄弟は週の半分をそこで過ごしたからです。そののどかな環境は執筆には打ってつけでした。そして,同兄弟は執筆の仕事をたくさん行ないました。

ラザフォード兄弟は私にとって,物分かりのよい,愛ある父親のような人でした。もっとも,何かの規則を破って同兄弟の戒めを受けたことは一再ならずありました。ある時,ラザフォード兄弟から率直な戒めを受けたことがありましたが,その時のことは特にはっきり記憶に残っています。その後また同兄弟に会った時に,兄弟は明るい態度で,「こんにちは,カール!」と言いました。しかし,心の傷がいえていなかったために,私は聞き取れないような小さな声であいさつをしただけでした。するとラザフォード兄弟は,「気をつけなさい,カール! 悪魔があなたを捕らえようとしています!」と言いました。私はどぎまぎして,「いえ,何でもないんです,ラザフォード兄弟」と答えました。しかし,ラザフォード兄弟にはすっかりお見通しだったので,「いいでしょう。ただ気をつけなさい。悪魔があなたを捕らえようとしています」というその警告を繰り返しました。まさに兄弟の言うとおりでした。ある兄弟に対して恨みの気持ちを抱くと,相手の兄弟が職務上言う権限のある事柄を述べていた場合にはなおのこと,悪魔のわなにかかる危険に防備もなくさらされることになります。―エフェソス 4:25-27。

ある時,ちょっとした誤解がもとで,私がラザフォード兄弟について非常に批判的なことを言ったと同兄弟に誤り伝えられたことがありました。しかし,兄弟は腹を立てるどころか,「カールはよく話すからね。心にもないことを言ってしまうことがあるのだよ」と言いました。これは,ある人からひどいことを言われているという話が聞こえてきた場合に,私たちが見倣うべき大変優れた模範です。確かに,ラザフォード兄弟は寛大で,非常に物分かりのよい人でした。兄弟は,状況が普通ではなく例外をもうけるのがふさわしいと思える場合に,私のために再三例外をもうけ,また一方では,思慮がなくて私の心を傷つけてしまったと思える場合には何度もあやまるb ことにより,その寛大さと物分かりのよさを示しました。朝の崇拝の際のラザフォード兄弟の祈りは,私が同兄弟を慕うようになった理由の一つであることも述べておかなければなりません。兄弟は非常に力強い声をしていたにもかかわらず,神に呼びかける際には,あたかも幼い男の子がお父さんに話しているかのような声で話しました。それはエホバとの優れた関係を明らかにするものでした。このような霊的な才覚のある人物が指導しているということは,私の信仰を強めるものでした。そして,これこそまさにエホバの組織のあるべき姿だと思いました。

ブルックリンへ戻る

オーケストラがスタテン島に置かれていたのは2年半だけでした。その後,私たちはラジオの新しいスタジオが建てられたブルックリンに移りました。それからさらに10年ほどオーケストラで演奏した後,オーケストラは解散になり,私は再び工場で働くようになりました。最初は製本部門で働き,後には印刷機を扱う仕事をしました。しかし間もなく奉仕部門へ配置換えになり,1,250人ほどの特別開拓者たちの世話をする ― 区域を割り当てたり,特別開拓者からの手紙に返事を書いたりなどする ― 特権に幾年もの間あずかりました。また,米国およびその周辺の国々の野外奉仕報告を毎月まとめる特権もありました。何と大きな祝福でしょう。そうした祝福の中でも決して小さくなかったのは,当時奉仕部門の監督であったT・J・サリバン兄弟との良い関係でした。私がこの部門で働いていた間に,世界中で10万人だった王国伝道者の数はほぼ37万5,000人にまで増加しました。それ以来エホバの証人はさらに7倍も増加して250万人を超えるまでになりました。それを見る喜びも大きなものでした。

N・H・ノアが会長になってから,エホバの証人一人一人が他の人の家の戸口で聖書の話をする資格ある奉仕者になることが一層強調されるようになったのを見てうれしく思いました。またその時に,兄弟たちは公開講演をするようにも訓練されていました。ものみの塔ギレアデ聖書学校の開設は,私にとって特に関心の深いものになりました。弟のテッド(私が初めて聖書研究者の講義を聞きに行った時に一緒に出かけて行き,1931年以来開拓奉仕をしていた)がその第1期生として出席していたからです。c

割り当ての変更

1950年の春のある日,ノア兄弟は私ともう一人の兄弟をその事務所に招き,執筆部門で奉仕してみるのはどうかと尋ねました。どこで奉仕しようと構いません,と私が答えると,ノア兄弟は私を戒め,より大きな奉仕の特権を提供されたら,それを熱心な態度で受け入れなければならないと言いました。しかし,私がそのような態度をとったのは実は健康状態が不安定なためでした。私はいつも健康上の問題を抱えていて,栄養を取ることや,一生懸命に運動することが必要でした。でも,色々な事を調べて記事を書く,それも特に聖書的な事柄を扱った記事を書くことに全時間を費やせるのですから,これ以上私に合った仕事はありませんでした。しかし,それがやさしい仕事でないことは分かっていました。事実,ノア兄弟は執筆部門について,「ここでは最も重要で,最も難しい仕事が行なわれている」と私に話したことがありました。

1951年にロンドンで開かれた「清い崇拝」大会には,ブルックリン・ベテルからも私たち幾人かが出席し,大きな霊的宴を楽しみました。私たちはパリの大会にも出席し,そのあと一行のうちの幾人かは協会の他の支部を幾つか訪問しました。そのうちの一つがウィースバーデンの支部でした。私はこの支部で初めてグレーテル・ナゲルトに会いました。彼女は12年後に,クライン姉妹になって欲しいという私のプロポーズを受け入れてくれました。ベテルで38年間独身で奉仕した後,私はこの女性を生涯の伴侶として一緒に暮らすほうがより良い働きができると思いました。結婚してから私は,「良い妻を見いだしたか。その人は良いものを見いだしたのである。そしてエホバから善意を受ける」というソロモンの言葉に共鳴せずにはいられませんでした。(箴言 18:22)ここでもまたエホバは,豊かな報いをもって私を扱ってくださいました。グレーテルは実に多くの面で私の大きな助けになってくれたからです。d

ノア兄弟 ― 兄のような人

ラザフォード兄弟と私の関係は,愛情深い父親と息子の関係に似ていました。しかし,ノア兄弟は私よりほんの数か月年上にすぎなかったので,私たちの関係はどちらかといえば兄弟のような関係 ― 兄が弟の短所にいら立ちを示しがちな関係 ― になりました。グレーテルはそのような相違を達観していました。『結局のところ,能率的な管理者の見解と,とてもロマンチックな音楽家の見解がいつも一致することを期待するほうが無理なのよ』とグレーテルは言いました。しかし,この言葉から誤解が生まれては困るので,私の一番好きな講演者がノア兄弟だったということを付け加えておくべきでしょう。ノア兄弟が私のことを,あなたは私の影のようだ,と言ったことがありました。ノア兄弟が話をするところにはどこにでも姿を現わしたからです。それに,同兄弟は私と同じように大の音楽好きで,会衆の集会に再び歌を取り入れました。ノア兄弟は歌の本の出版に真の関心を払いました。―エフェソス 5:18-20。

この場合にも,地上でのご自分の業を指導するためにエホバはふさわしい人物を用いておられることが分かりました。ノア兄弟は優れた組織者だったからです。ノア兄弟は特に適切な種類の教育の重要性を認識していました。それは同兄弟が,神権宣教学校,ギレアデ宣教者学校,王国宣教学校,そしてベテル新入者学校の取り決めを設けたことからも分かります。

こうした点を考えるとき,英国の支部の調整者がかつて私に話したことを思い起こします。ノア兄弟は組織上の任命を行なう時に個性に左右されないという優れた特質を持っている,とその人は言いました。それは事実です。もしノア兄弟が個性に左右されていたとしたら,私は大会や音楽や執筆などに関係した特権にあずかることが決してなかったでしょう。しかし,ノア兄弟は私にその特権を与えてくれたのです。この点で,ノア兄弟はイエス・キリストをよく見倣う人でした。どうしてそう言えるでしょうか。イエスは特にだれに好意を持っておられましたか。それはヨハネでした。では,イエスはだれに「王国のかぎ」を委ねましたか。ペテロです。ペテロは衝動的な気質の人でしたが,それにもかかわらずそのかぎを委ねたのです。―マタイ 16:18,19。ヨハネ 21:20。

本当にエホバは,弱さや短所の多い私に豊かに報いてくださいました。こうして50年近くも非常な恵みを受けてきたにもかかわらず,まだ最大の特権が私を待っていました。1974年11月に,エホバの証人の統治体の成員になるよう招待されたのです。この招待にはたいへん戸惑い,それを受けるのに励ましが必要だったほどでした。とりわけ,私以外にもかなりの数の人が招待されていることが指摘されました。実際,私のほかにも7人が招待され,それによって統治体の成員はその時,11人から18人に増員されました。

この新しい割り当てを受け入れるよう励ましてくれたのはフレデリック・W・フランズでした。同兄弟は1977年にノア兄弟の後任として協会の会長になりました。私はベテルに来てからずっと,聖書の知識が深く,友好的な気質を持つフランズ兄弟に引かれていました。初めのころ,私たちはドイツ語で行なわれる祈りと賛美と証言の集会に一緒に出席していました。その時以来,私の数多くの霊的な里程標はフランズ兄弟と関係していました。その一つは,弟夫婦と一緒に同兄弟に同行し,禁令下で奉仕しているドミニカ共和国の兄弟たちを訪問したことでした。その時ほど心からの温かいクリスチャン愛の表明を感じたことは,後にも先にも一度もありませんでした。その訪問は同国の仲間の信者たちにとって非常に意義深いものだったので,私たちは彼らを訪問するためにトルヒーヨと問題を起こす危険を冒したほどでした。

後年,フランズ兄弟と私たち夫婦,そしてA・D・シュローダーを含む他の幾人かと一緒に,聖書の地と南米の国々を訪問しました。グレーテルが9年以上宣教者として奉仕したボリビアもその一つでした。フランズ兄弟と旅行すると,必ず奉仕の特権が増し加えられました。同兄弟は共に旅行する人たちも演壇で話をすべきだと言ってゆずらないからです。もっと最近では,ヨーロッパと中央アメリカで開かれた大会で共に特権にあずかりました。振り返ってみると,フランズ兄弟はいつも私に平衡を保たせてくれる人だったように思えます。例えば,私たちが聖書の地へ旅をした際に,グループの中の一人の兄弟が撮影禁止のところで写真を撮って警察ざたになり,そのために皆が遅れるということがありました。私は強い憤りを表わしましたが,フランズ兄弟はただほほえみを浮かべて,「彼も教訓を学んでいると思いますよ」と言いました。まさにそのとおりでした。それに疑問の余地はありません。フランズ兄弟との交わりによっても,エホバは豊かな報いをもって私を扱ってくださいました。

何もかもが“順風満帆”だったわけではない

また,割り当てられた仕事に関して,エホバが豊かな報いをもって私を扱ってくださった方法も見過ごすことはできません。実際のところ私には左右できないような要素があったために,計画が特にうまくゆくということが本当によくありました。(詩編 127:1; コリント第一 3:7と比較してください。)そして,組織全体のレベルから言ってもこれが真実であることを幾度も見てきました。例えば,協会は40年ほど前に,ガレージに使う目的で,ウィロー通りの“馬車置場”を買い求めました。もし協会がその地所を所有していなかったとしたら,タワーズの建物とベテルのほかの建物とを結ぶトンネルを作ることはできなかったでしょう。居住用の空間がさらに必要になった時には,タワーズ・ホテルを買うことができました。事務所の空間がさらに求められるようになった時には,スクィブの建物群を購入することができました。しかも,これらの施設はベテルから歩いて行ける距離にあるのです。他の国々でも,エホバの組織の益となるこれに似た事柄が数多く起きています。

受け継いだ弱さと自分の衝動的な性質のゆえに,私の人生には試練や患難もありました。ベテルで9年を過ごした後に神経衰弱になったこともその試練の一つでした。その時には,ローマ 7章15節から25節にあるパウロの言葉や詩編 103編が本当に慰めになりました。さらに,ひざの皿を割ったり,脊椎骨折をしたりするなど,普通以上に災難に遭ったと言えるでしょう。自分自身の欠点や他の人々の欠点のために,私の人生は何もかも“順風満帆”というわけにはゆきませんでした。しかし,エホバの助けによって,コリント第一 10章13節に示されているように,『それが生じることを神が許しておられるなら,それに耐えることができる』という事実を認識するようになりました。また,『自分のために生きることを減らせば,もっと多くを与えられる』ということも学びました。学ばなければならなかったほかの教訓には,『自分の救いの神を待ち望む』態度を培うこと,および自ら進んで「より小さい者」として行動することの必要性です。―ミカ 7:7。ルカ 9:48。

また,ナバルに関する事件の後にダビデが感じたと同じように感じることが幾度となくありました。(サムエル第一 25:2-34)ナバルの全家をぬぐい去って血の罪を負うはめに陥らずにすんだので,ダビデはエホバとアビガイルに感謝しました。確かに,エホバは私が非常に重大な誤りをおかさないですむようにしてくださいました。エホバはそれを,み使いたちを通して,ご自分の摂理によって,そして円熟した兄弟たちだけではなく非常に大勢の立派なクリスチャンの“アビガイルたち”の助けという形で,行なってくださいました。また,自分が霊的に弱い時には誘惑に屈してしまうような機会が手近にはなく,そうした誘惑が手近にある時にはそれに屈しないほど自分が霊的に強かったということに対しても,エホバに感謝していることを付け加えられるでしょう。言い換えると,悪行に陥る傾向とそれを実際に行なう機会とが決して同時に生じなかったのです。エホバは私が心の中では正しい事をし続けたいと本当に願っていることをご存じだったのです。エホバの見つめられるものがとがでないことを本当に感謝しています。―詩編 130:3。

また,長年にわたって優れた霊的食物を供給することにより,エホバが豊かな報いをもって私や他の人々を扱ってくださったことも見過ごすことができません。(マタイ 24:45-47)真理の光が義なる者のためにいよいよ明るくきらめいているという事実に疑問の余地はありません。(詩編 97:11)私が『み言葉の乳』を初めて取り入れるようになって以来,エホバの民が理解するようになった数多くの優れた霊的な真理のほんの幾つかを次に挙げてみましょう。神の組織とサタンの組織の区別,被造物の救いよりもエホバの立証のほうが重要であるということ,回復に関する数々の預言が霊的イスラエルに当てはまるということ,クリスチャンの振る舞いと宣べ伝える業は同じほど重要だということ,私たちのような不完全な被造物がエホバの証人として神の比類のないみ名を負う特権を与えられ,私たちの神の心を喜ばせることができるということなどです。―ペテロ第一 2:2。箴言 27:11。イザヤ 43:10-12。

私には,神が豊かな報いをもって私を扱ってくださったゆえに,エホバに向かって歌う理由があるでしょうか。確かに私にはそうするだけの理由があるのです!

[脚注]

a ケアリー・バーバーはそのオーケストラで第二バイオリンを演奏していました。58年後に,共にまだその同じ“オーケストラ”の中にいようとは二人共考えてもみませんでした。もっとも,オーケストラとは言っても,作り出している音楽の種類は異なっています! C・バーバーの経験談は「ものみの塔」誌の1982年8月15日号に載せられています。

b 私たちが1925年について期待できる事柄として,同兄弟の述べた間違った陳述について,兄弟はかつてベテルで私たちに,「全くばかなことをしてしまった」と告白したことがありました。

c 弟の経験談は,「ものみの塔」誌1957年6月1日号(英文)329-31ページに載せられています。

d 「1975 エホバの証人の年鑑」131-32ページをご覧ください。

[26ページの図版]

1926年当時のWBBRオーケストラ。K・F・クラインやC・W・バーバーの顔が見える

[27ページの図版]

J・F・ラザフォードは私にとって父親のような人だった

[28ページの図版]

妻のグレーテルと私 ― エホバが豊かな報いをもって私を扱ってくださった一つの表われ

[29ページの図版]

N・H・ノアは兄のような人だった

[30ページの図版]

F・W・フランズ ― 真の友そして平衡を保たせてくれる人

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