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  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1985
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1985
塔85 8/1 22–26ページ

どんなことが起ころうとも宣教者奉仕!

エリック・ブリッテンの語った経験

場所は英国のコベントリー市,時は1940年11月14日午後7時です。突然,サイレンが鳴り渡り,近代戦の歴史上最も長い時間にわたるものとして数えられる空襲の前触れとなりました。爆弾が投下され始めたとき,私とほかの10人の開拓者(全時間伝道者)は自分たちが住んでいた“開拓者の家”の階段の下に身を寄せ合いました。私は妻のことをあれこれと考えました。妻は母親のところへ行っていたのです。無事でしょうか。

私たちは保護を求め,エホバに心中を打ち明けました。本当に幸いなことに,私たちはこの苦難を無傷で切り抜けることができ,妻も私たちの小さな会衆の成員もみな無事であったことを後で知ることができました。私たちは,「エホバよ,あなたの愛ある親切がわたしを支えつづけました」と言明した詩編作者と同じように感じました。―詩編 94:18。

若いころの悲しい出来事

私は1910年の1月に生まれ,誕生時から宗教的に厳格な家庭で育てられましたが,その幼いころに受けた聖書に基づく訓練のおかげで,後々ずいぶん助かりました。私が12歳になったばかりの1922年1月に母が死んでからは特にそう言えました。

そのころ父はクリスタデルフィアン(三位一体を認めないキリスト教の一派の成員)だったのですが,聖書研究者(エホバの証人は当時その名で知られていた)からC・T・ラッセルの「聖書研究」という本を一そろい手に入れました。父が感銘を受けたのは,贖いの教理について道理にかなった説明がなされていたことでした。(マタイ 20:28)父は,人がクリスチャンとして贖いの教理を受け入れるのであれば,その人にはその教理について他の人に知らせる責任があると強く感じました。そしてまた,聖書研究者たちこそ正にそれを行なっているということにも気づき,その人たちを探しだしました。

1920年代の初めごろ,父はコベントリーの聖書研究者の集会に出席するようになり,私を連れて行きました。間もなく父も私も宣べ伝える業にあずかるようになりました。父は聖別(今で言う献身)の段階に達して1924年にバプテスマを受け,私も1926年に16歳でバプテスマを受けました。翌1927年10月,再び悲しい出来事が起こりました。私と,世話の必要な妹を残して父が死んだのです。妹は祖父母のところに引き取られましたが,私は一人で生活してゆくことになりました。

私はまだ17歳であり,しかも父の遺体を確認して葬式のための必要な手配をしなければなりません。この仕事は私の手に負えないものでしたが,クリスチャンの兄弟たちが助けに来てくださいました。兄弟たちは私が再びしっかり立ってゆけると思えるようになるまで食事のとき家に招いてくださり,一緒に聖書研究をしてくださり,宣べ伝える業に伴ってくださいました。私はこの難しい時期に親切にしていただいたことを本当に感謝しています。

私はコベントリーに住んでいたのですが,バーミンガムの近くの町に仕事を見つけました。週中はそこの集会に出席することができました。週中に行なわれていたその集会で後日,私の妻となることになったクリスティナ(クリス)と知り合いました。

クリスはメソジスト派の信者として育てられたのですが,もっと満足のゆくものを探し求めて,ほかの幾つかの教会を訪ねました。ある日曜日の朝,二人の聖書研究者がクリスの家を訪問し,3冊の小冊子を残して行きました。その後まもなく,クリスの母親は聖書研究者の集会に出席して,クリスのために3冊の本を入手しました。母親はそれらの本が娘の生活に影響を及ぼし,クリスが王国の音信を携えて戸別訪問を行なうまでになろうとは思ってもいませんでした。クリスは,そんなことは絶対にしないと言っていたのです。

宣戦が布告される

1934年にクリスと私は結婚しました。私たちは『神の王国を第一に求める』という決意をもって結婚生活に入りましたが,確かに,エホバはこの道を進む私たちを祝福してくださった,と言うことができます。(マタイ 6:33)私たちは目標として,全時間の開拓宣教に入ることを念頭に置いていました。それで,他の人たちが私たちの家に共に住んで一緒に開拓者として働けるよう手はずを整えました。しかし,1939年のそのころは戦争が起こりそうな雲行きで,コベントリーに住むだれもがみな,長期にわたる耐乏生活のため,また起こり得る爆撃から身を守るための備えをしているかのように見えました。

第二次世界大戦の期間中はだれにとっても,特に私たちの兄弟たちにとって非常に苦しい時でした。コベントリーは工業の中心地だったので,ほとんど6年間にわたってドイツ爆撃機の特別の攻撃目標となりました。そのため幾晩も眠れぬ夜を過ごすことになりました。私たちは交代で1週間のうち一晩寝ずの番をして,“開拓者の家”と近所の人たちの家を見守り,そのほかの日の夜は代わって近所の人たちが私たちの家を見守りました。あやうく命を落としかけたことも何度かあります。そうです,ある日クリスが聖書の音信を伝えるため一軒の家を訪問していた時に空襲が始まりました。爆弾が落ち,クリスが訪問していた家の両側の家は完全に破壊されました。

投獄と釈放

私たちには当時の不快な状況に加えて,中立の立場ゆえに官憲から付け回されるという悩みがありました。その結果,クリスと私は短期間投獄されました。刑期を終えるとすぐにまた告発されて刑務所に戻ることになりました。このことを私たちはネコとネズミと呼びました。ネコはただ再び捕まえるためにネズミを放すことがよくあるからです。

刑務所の係官たちと接触を持つことはめったにありませんでしたが,時にはそのうちの幾人かに宣べ伝えることができました。ベバリッジという名の係官のことを思い起こします。その人は私が初めて刑務所に入った時,私たちの中立の立場をあざ笑いました。私が二度目に投獄された時,その人の態度は幾分良くなっていました。そして三度目に入った時には,話す機会は限られていたものの,その人はたいへん好意的でした。私が最終的に刑務所を去ってからは,その人との接触はなくなりました。

何年も後になって,私たちがポルトガルにいた時,ブルックリンにある協会の事務所から,ギレアデ(宣教者を養成するものみの塔協会の学校)の卒業生であるエリック・ベバリッジがポルトガルに任命されたことを知らせる手紙が来ました。エリックの父親があの刑務所の好意的な係官だったと知って本当にうれしく思いました。エリックの父親は刑務所での軍務から引退し,バプテスマを受けた証人となっていたのです。

宣教者奉仕,および挑戦となる独特の事柄

1945年に戦争が終わり,英国における王国の業は,地上の他の場所と同様,繁栄と拡大の時期に入りました。当時のものみの塔協会の会長であったノア兄弟,およびヘンシェル兄弟は英国を訪れ,1943年2月に開設されたものみの塔ギレアデ聖書学校に行くことに関心を持つすべての開拓者との特別の集まりを設けてくださいました。クリスティナと私はその集まりに出席し,予備的な申込書に記入しましたが,果たして招待は来るのだろうかといぶかっていました。

1946年に協会は私たちを英国での巡回の仕事,つまり多くの会衆を訪問する業に招いてくださいました。この特権を3年間楽しみ,それからほとんど予期していなかった時に,宣教者の学校への最終申込書を受け取ったのです。直ちに記入し,その後まもなく,1950年2月に始まる第15期のクラスに出席するよう招待されました。ニューヨーク州北部にあったギレアデ学校でのその後の5か月間は,徹底的な聖書研究と円熟したクリスチャンとの交わりという忘れられない経験をする時となりました。いつの間にか私たちは,1950年7月30日のヤンキー・スタジアムでの卒業式に臨んでいました。私たちの任命地ですか。ブラジルです。

一つの宣教者の家がブラジルのコーヒー輸出港であるサントスに新たに設けられ,私たちもそこで業を始めるよう割り当てを受けた8人の宣教者のグループに入っていました。まず色々な新しい習慣とポルトガル語に順応することから始まりました。子供にとって新しい言語を習うのは比較的簡単かもしれませんが,40歳になる私たちには決して易しいとは言えません。ある時私は,パンを買うためにもう一人の宣教者と一緒に出かけました。パンに相当するポルトガル語(パン)は,棒を表わす語(パウ)と似ていて,前者には少し鼻にかかった音が含まれています。まだこの鼻音を使いこなせるようになっていなかった私たちは幾らかの棒(パウス)を下さいと言ったので,驚いたパン屋は,うちには置いていないと言いました。

慣れるまでに多少時間がかかったもう一つの習慣は,家の人がもてなしてくださるときにそれをどのように受け入れるかということです。飲み物や菓子などを勧められて,受け取る気持ちのある時,私たちはよく「ムイント オブリガード」(どうもありがとう)と言いました。しかし,これは家の人にとっては,結構です,という意味だったのです。やがて私たちは「アセイト」(受け取ります)という,家の人に ― そして私たちに ― とって喜びとなる正しい言い方を学びました。

私たちはドアの“ノック”の仕方をさえ学ばなければならないことに気づきました。というのは,ブラジルの習慣では,表の門のところで大きな音で手をたたくのです。初めのうちは私たちの“ノック”に家の人が応じてくださることにいつも驚いていましたが,それにもすぐ慣れました。

あいにく,ブラジルに来て6か月もたたないうちに,私はアメーバによる腸の病気にかかりました。その病気の治療が長引いて非常に衰弱してしまい,残念ながらついに1954年3月,医師の勧めに従って私たちは英国へ戻りました。そこの穏やかな気候の下で私は次第に回復してゆきましたが,健康を取り戻しつつあった時,私たちは予期しない一通の手紙を受け取りました。

宣教者としての非常に異なった割り当て

協会は私たちにポルトガルへ行くよう勧めてくださったのです。そこでの業は禁じられており,前任の二人の支部の監督は国外追放になっていました。私は英国の一商社の代理人としてポルトガルへ入国することができ,私たちは1954年11月に到着しました。

宣べ伝える業が公に行なわれていたブラジルで働いた後でしたから,ここポルトガルでは用心深さを示し,機転を十分にきかせなければならないことがすぐに分かりました。業は禁じられていましたから,エホバの証人としての身分を公に明かすことはできません。どんな人に出会うのか全く分かりませんから,戸別に宣べ伝える業は挑戦となりました。過度に詮索したり敵対的な態度を取るような人がいれば,さりげなくその区域を立ち去り,別の日に戻って来ます。当然ながら人々は見知らぬ人に対してうたぐり深く,家に上げてもらうのは容易ではありません。しかし,クリスは現にある婦人と研究を始めました。後でクリスが本人の口から聞いたことですが,事実その婦人は人を自分の家の中に入れることを恐れていたのだそうです。でも,なぜ研究を始めたのでしょうか。

この婦人は正しい道を教えてくださるよう神に祈っていたようです。しかし,クリスがノックしたのが祈りをしたすぐ後だったので,クリスを家に入れることに警戒心を抱いたのです。聖書研究が始まり,その婦人と十代の娘さんは二人とも進歩して,献身とバプテスマに至りました。二人は今でもしっかりと真理にとどまっています。

当時ポルトガルで宣教者だったのはクリスと私だけでしたが,その後少しずつ協会はさらに幾人かの宣教者をこの国に派遣することができました。業は特に首都リスボンで急速に発展しました。この増加がきっかけとなって反対が生じ,数人の兄弟が投獄され,多くの文書が押収されました。

ついに1962年,私たちにとって最悪の事態が訪れました。ほかの4人の宣教者と一緒に国外退去を命じられたのです。私たちは人々に聖書のことを教えていただけなので,この件について再考してもらうため秘密警察の長官との会見を求めました。その返事は,「あなた方を客として扱ったポルトガルの親切を7年間悪用してきたのであるから,あなた方は二度と再びポルトガルに足を踏み入れることはできない」というものでした。私たちはがっかりしました。

宣教者のためのその畑で7年間楽しく働いた後にそこを離れなければならなくなった私たちの気持ちを言い表わすのはとても難しいことです。実際,ポルトガルを離れる時は,かつて1950年にギレアデに向かうため英国を離れた時よりもはるかに辛く感じられました。私たちは兄弟たちと密接に協力して働きましたし,兄弟たちの喜びや悩みに共にあずかってきたのです。私たちは兄弟たちが助けや援助を最も必要としている時にそこを去って行くような気がしました。でも,どうしようもありません。私たちは英国へ向かって出帆した時,『宣教者としての日々は終わってしまった』と考えて悲しくなりました。

英国からアマゾンへ

英国で私たちは特別開拓者として全時間の宣教活動を続けましたが,物足りないものを感じていました。宣教者として奉仕していた幸福な月日を常に思い出してはそれに戻りたいと考えていたのです。その気持ちがつのってきたため,私は50歳を過ぎており,クリスは49歳になっていたのですが,とうとう協会に手紙を書いて,もう一度任命していただけるかどうか尋ねました。ブラジルに戻って,アマゾン河口の都市ベレンにある宣教者の家を拠点にして働くようにという招待を受けた時,その喜びは本当に大きなものでした。

協会からの手紙には,ベレンの気候 ―「暑くて湿気が多い」と書かれていた ― についての情報が示されており,その任命を辞退する自由が差し伸べられていて,私たちは感謝しました。しかし,場所は違っていてもブラジルへ戻れるという見込みを大変うれしく思いました。私たちは喜んでそれを受け入れ,1964年の初めごろ新しい任命地に着きました。

ベレンで1年奉仕した後,その地域にある諸会衆を訪問する巡回の仕事をするよう招かれました。これは真に挑戦となるものでした。巡回区はアマゾン川の両側を含む,長さ1,300㌔,幅500㌔ほどの範囲でした。暑さですか?そうですね,ただ慣れてしまわなければなりませんでした。周りの環境は多くの場合原始的な状態にありました。そのころは土で固められた道路も少なく,乾期には土ぼこりがもうもうと立ち昇り,雨期になると通行が不可能になりました。

保護を求めてエホバに頼ると同時に,わりとユーモアを解する気持ちがあったので助かりました。人里離れた所に住んでいたエホバの証人の一家族を訪問した時,私たちは家畜小屋で眠らなければなりませんでした。朝になってクリスが目を覚まし,自分が血だらけになっているのに気づきました。何か重大な事が起きたと思って私たちはそこの兄弟を呼びました。兄弟がこともなげに,クリスはどうやら吸血コウモリにかまれたらしいと知らせてくれた時の私たちの驚きを想像してみてください。ある参考文献には,アマゾン地域のコウモリの中には『血吸いコウモリ(Dysopes)がいるが,これは決して旅行者の話で信じ込まされているような危険な動物ではない』と説明されています。このことを前もって知っていたなら,その出来事をそれほど恐れずにすんだことでしょう。

その巡回区で1年奉仕した後,私たちはリオデジャネイロに移り,後日サンパウロへ移動し,ここでこれまで数年間奉仕してきました。ブラジルの人々はとても開放的で親しみ深いので,ここでも兄弟たちの愛ともてなしを経験して喜びを味わっています。それと同時に野外で多くのすばらしい経験をしてきました。

ある家でクリスが手をたたくと一人の男の子が出て来て,母親は今泣いているので出て来ることができないと言いました。クリスは,何か良くないことがあったのだろうと思い,「クリスティナ夫人<セニョーラ>がお話ししたいそうです,と伝えてください」と言いました。母親は戸口のところへやって来て,「聖書のことを何かご存じでしょうか」と問いかけました。

「ちょうどそのことでお伺いしているのです」とクリスは答えました。婦人はクリスを家に招じ入れました。テーブルの上には大きな聖書があり,その婦人が慰めを求めて読んでいた箇所が開かれていました。夫婦げんかをしてしまい,夫が1週間家を空けていたため大変取り乱していたのです。

「あの人は良い夫で良い父親でしたから,ほかのだれかと駆け落ちなどするはずはないと思います」と,その婦人は言いました。クリスは家族生活に関する聖書の原則を幾つか教え,「とこしえの命に導く真理」と題する本で聖書研究を始めました。その婦人はその日の夜,すぐに王国会館へやって来ました。私たちは次の会衆へ向かうためその週のうちに出発しなければなりませんでしたから,その研究は地元の伝道者にゆだねました。うれしかったのは,6か月後に再びそこの会衆を訪問した時,その婦人だけでなくご主人と3人の子供たちにも会えたことです。しばらくして,ご主人も奥さんも共にエホバの証人としてバプテスマを受けました。

いま私たちは二人とも70歳を越えてはいますが,エホバの愛ある親切により,まだ元気で宣教者として奉仕し続けています。もちろん以前ほど多くの旅行はできません。非常に大勢の円熟した宣教者や土地の兄弟姉妹と知り合い,一緒に働けたことはすばらしい特権でした。私たちは正に初めから生活の中で『神の王国を第一に求め』ようと努めてきて本当によかったと思います。30年以上にわたる宣教者としての奉仕は私たちの喜びとなってきました。私たちは,「エホバは善良な方だからである。その愛ある親切は定めのない時に及(ぶ)」という,詩編作者のこの言葉を一層深く心に留めるようになりました。(詩編 100:5)そのことを本当に感謝しています。

[25ページの拡大文]

私たちは生活の中で『神の王国を第一に求め』ようと常に努めてきた結果,数々の祝福を受けた

[24ページの図版]

ブラジルで私たちは,ドアの“ノック”の仕方 ― 表の門のところで大きな音で手をたたくこと ― を学ばなければならなかった

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