すべての人が主の晩さんに出席するように励ます
1 主の晩さんの式はきわめて重要な催しです。それは単なる例年の集まりではなく,昔のできごとの単なる記念でもありません。イエスは,「わたしの記念としてこれを行ないつづけなさい」と言われました。(ルカ 22:19。コリント第一 11:24)それは,一個人としてのイエス・キリストを自分の思いに想起することです。それは,イエスがなさった事柄そしてイエスが今おいでになる立場に関心を向けます。それは,イエスが今日生きて活動しており,その忠実な歩みと自己犠牲の結果として栄光と王権とを得ておられることを認めることです。クリスチャン会衆の頭として,イエスはクリスチャン会衆の物事と活動とを指揮しておられます。わたしたちは,イエスの払われた犠牲と,神のお目的におけるイエスの立場,それらがわたしたちとどのような関係を持っているかという点に関心をいだいています。主の晩さんは,エホバの取決めの中で自分がどのようなところに立っているかを考える機会になるのです。
2 神は,ご自分のクリスチャン証人すべてがこの催しを大切にし,その式に出席することに深い関心をいだいておられます。そのことは,わたしたち,特に会衆内の牧者たちに,会衆に交わるすべての人を励まし,それに出席するように助けることの大切さを銘記させます。
3 このために,兄弟たちが,会衆の区域内にいて,幾らかの関心をいだいていることが知られている人,あるいは過去に出席したことのある人すべてと連絡を取るような取決めを,長老たちが設けるのが良いでしょう。たいていの場合は,それはいろいろな伝道者の知っている人たちでしょう。それぞれの書籍研究の群れがこの点で自分の群れの地域を調べ,そうした人たちを訪ねる取決めを作ることができるでしょう。そのほか,「ものみの塔」の予約者に対しては特別の招待を差し伸べることができます。
4 印刷された招待状を差し出すことに加えて,関心を持つ人々の心に訴えるために何を言うことができるでしょうか。考えるべき一つの点として,それらの人たちはまだ王国会館の中に入ったことがないかもしれません。また,特に,エホバの証人の会衆の成員となっていない人の場合には,なぜそこに行くべきかを理解していないかもしれません。そして,関心をいだいてはいても,天への希望をいだいていない者もなぜそれに出席すべきなのかが十分にわからないかもしれません。
5 ですから,ある人たちには,形式的な行動や儀式などに参加することは何も求められていないという点を話すのが役だつでしょう。感情的に人を動かそうとするような展示物は何もありません。王国会館は聖書の教育という目的に資するものであり,それにふさわしく,像・十字架・祭壇・ろうそくなどの飾り付けはありません。イエスの死の記念式は,キリストの命じたただ一つの式典であるという点を説明してください。それは特別に守るべき唯一の日です。そのために,神への崇拝を受け入れるすべての人が関心を持つべきなのです。
6 しかし,大切なのは,なぜこの命令が与えられたのか,そして,記念式は何を意味しているのか,わたしたちがそれに出席したいと思うのはなぜか,という点です。この点について言えば,記念式はわたしたちの命そのものと関係があるのです。それは,世界の平和と,そうした平和な世界での幸福な生活というわたしたちの希望とつながっているのです。わたしたちがどのような立場にいるとしても,贖いの犠牲を払ったキリストは,わたしたちを買い取ったかたであり,そのゆえにわたしたちの所有者です。キリストはわたしたちの裁き主でもあります。(ヨハネ 5:21,22)彼はもはや単なる人間ではなく,強大な霊者であり,主また王としての地位に就いており,キリストの政府はごく近い将来に地を完全に管理するようになるのです。確かにわたしたちは,自分たちを治める政府に関心を持っています。わたしたちの所有者,裁き主,王の前で,わたしたちはどこに立つことになるでしょうか。
7 キリストのささげた犠牲の恩恵は,まもなく,すべての従順な人々の病気を実際にいやすというかたちで与えられます。ですから,神に信仰を持つすべての人は,より深いより広い理解を得,どうしたらイエスの犠牲の益を受けられるかを知るために,ぜひともこの集いに出席すべきです。エホバの証人が年ごとに行なうこの式は,今年は4月7日の晩に行なわれますが,そのさい話し手は,主の晩さんの意味と,今日のわたしたちの生活におけるその意義とについて説明するでしょう。パンとぶどう酒を用いることについては,ルカ 22章19,20節の記述に綿密な注意が払われます。簡素であっても,深い意義のある儀式です。
8 わたしたちは,神とみ子に対する愛のゆえに主の晩さんに出席します。そして,他の人たちへの愛のゆえに,その大切さに気づいていないかもしれない人々を助けます。