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ヨハネものみの塔出版物索引 1951-1985
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1:1 塔85 12/15 25; 聖8-参 1771; 塔84 3/1 14; 崇 17; 塔82 6/15 24; 塔82 8/1 20; 鑑81 163; 塔77 511-512; 聖 26; 塔76 126-128,217-218; 良 117; 塔75 255,364-367; 塔74 499; 千 17; 塔73 455,716; 塔72 678; 目72 6/22 6-7; 目72 7/22 28-29; 塔70 117-118; 塔69 38; 真 24; 目65 12/22 28; 塔64 123; 塔63 731; 塔62 87-88,175,280,617,663,665-666; 目62 12/8 8; 塔61 441; 目60 7/8 17; 神 32,105; 天 26; 宗 36
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世を照らす真の光「イエスが伝えた良い知らせ」 ビデオクリップガイド
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初めに「言葉」は神と共にいて,神のようだった(良知1 00:00-00:43)
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ヨハネ 注釈 1章新世界訳聖書 (スタディー版)
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初め: 聖書で,「初め」という語の意味は文脈による。ここのギリシャ語アルケーが創造者である神の「初め」を指すとは考えられない。神は永遠で,初めがないから。(詩 90:2)それで,その語は神による創造の初めを指すに違いない。神が最初に創造したものが言葉と呼ばれている。これは,イエスとなった者の天での呼び名。(ヨハ 1:14-17)イエスは「全創造物の中の初子」(コロ 1:15)と呼ばれるにふさわしい唯一の者。「神に最初に創造された者」(啓 3:14)で,他の天使や宇宙が創造されるより前に存在していた。「他の全てのものは,天のものも地上のものも,[イエス]を通して創造された」。(コロ 1:16)「初め」という語が使われている他の例について,ヨハ 6:64の注釈を参照。
言葉: または,「ロゴス」。ギリシャ語はホ ロゴスで,ここでは称号として使われ,ヨハ 1:14と啓 19:13でも使われている。ヨハネはこの称号を所有する方がイエスであることを明らかにした。この称号は,人間となる以前に天で存在していた間も,完全な人間として地上で宣教を行っていた間も,天に高められた後もイエスに当てはまった。イエスは,創造者の他の子たちや人間に情報と指示を伝達する神の「言葉」つまり代弁者だった。イエスが地上に来る以前,エホバは多くの場合,「言葉」である天使を通して人間と話したと考えられる。(創 16:7-11; 22:11; 31:11。出 3:2-5。裁 2:1-4; 6:11,12; 13:3)
と共に: 直訳,「の方に向いて」。この文脈で,ギリシャ語の前置詞プロスは,密接なことや親しい関係を暗示する。これは,「言葉」と唯一の真の神が別個の存在であることも示している。
言葉は神のようだった: 直訳,「言葉は神だった」(ギリシャ語で冠詞は付いていない)。または「言葉は神性を備えていた」。ヨハネによるこの記述は,「言葉」(ギリシャ語,ホ ロゴス。この節の言葉に関する注釈を参照。)つまりイエス・キリストの特質や特性を表している。「言葉」は他の全てのものの創造の際に神に用いられた初子として卓越した立場にあり,それは,「神[a god]」,「神のような者」,「神性を備えている」,「神性を備えた者」と呼ばれる根拠となっている。多くの翻訳者は,全能の神と等しい存在として「言葉は神[God]であった」と訳すことを好んでいる。しかし,ヨハネが「言葉」は全能の神だと述べていたわけではないと言える十分な理由がある。まず,1節と2節の両方で,「言葉」は「神[God]と共に」いたとはっきり述べられている。また,ギリシャ語テオスが1,2節に3回出てくるが,1回目と3回目に出てくるテオスにはギリシャ語で定冠詞が付いているのに対し,2回目のテオスには付いていない。多くの学者は,2回目のテオスが無冠詞であることを重要な点としている。この文脈で,定冠詞の付いたテオスは全能の神を指す。一方,この構文で無冠詞のテオスは形容詞的な意味となり,「言葉」の特性を表現している。そのため,英語,フランス語,ドイツ語の幾つもの聖書翻訳はこの箇所を「新世界訳」と同様に訳しており,「言葉」は「神[a god]」,「神性を備えている」,「神性を備えた者」,「神のような」,「神に似た」という考えを伝えている。ヨハネの福音書のコプト語サヒド方言とボハイル方言への古代訳も,この見方を支持している。恐らく西暦3,4世紀に作成されたその翻訳は,ヨハ 1:1に最初に出てくるテオスを2回目のテオスとは違う仕方で扱っている。これらの訳は,「言葉」の特質を際立たせており,「言葉」の性質が神に似ていることを示しているが,父である全能の神と等しい存在とはしていない。この節と調和して,コロ 2:9は,キリストに「神の性質が完全に備わっている」と述べている。また,ペ二 1:4では,キリストの共同の相続人たちでさえ「神に似た性質を持つようになる」と述べられている。加えて,セプトゥアギンタ訳では,ギリシャ語テオスが,「神」と訳されるヘブライ語のエールまたはエローヒームの訳語として一般に使われている。それらのヘブライ語は,「力強い者」,「強い者」という基本的な意味を伝えていると考えられ,全能の神にも,他の神々にも,人間にも使われている。(ヨハ 10:34の注釈を参照。)「言葉」を「神[a god]」,「力強い者」と呼ぶことは,イザ 9:6の預言とも調和しており,そこではメシアが「力強い神」(「全能の神」ではない)と呼ばれるようになること,またご自分の民となる機会を得る人たち全ての「永遠の父」となることが予告されている。その方にとっての父,「大軍を率いる熱心な神エホバ」がこれを成し遂げる。(イザ 9:7)
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