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  • あなたを神に引き寄せるものは何ですか
    ものみの塔 1978 | 8月15日
    • 築き,それを確保できるでしょうか。まず第一に,思いの中から消極的で,人を弱めるような考えや失敗することへの恐れを除き去り,その代わりに,神の書き記されたみ言葉聖書の中に見いだされる,積極的で,人を築き上げ,元気づける神の約束で思いを満たす必要を自覚しなければなりません。聖書の朗読と研究はわたしたちの日常生活のはっきりとした一部になっていなければなりません。そして,より奥行きのある研究をすることを目標にし,自分たちの読む事柄について黙想し,思いと心をエホバ神の力強い知恵で満たさねばなりません。

      祈りをより有意義で明確なものにし,場合によっては毎日もっとひんぱんに祈るように努力すべきです。わたしたちは神に対して自分の心を開いているでしょうか。神のすばらしい特質やわたしたちに与えられている数多くの祝福に対して,日ごとに感謝しているでしょうか。また,時として,「たゆまず祈(る)」ことがありますか。―ローマ 12:12。

      これらは基本的な事柄です。それでも,それらの基本的な事柄こそ,消極的ではなく,積極的な考えによって神に引き寄せられることを確かなものにする,簡単で,期待を裏切らない方法なのです。また,それらの事柄は,一度神に引き寄せられたなら,幸福な心で,今もそしてこれからいつまでも,神に仕えてゆけることをわたしたちに保証してくれるのです。―エレミヤ 9:24。

  • 山上の垂訓 ― 姦淫と離婚を避ける
    ものみの塔 1978 | 8月15日
    • 山上の垂訓 ― 姦淫と離婚を避ける

      イエスは,怒りを抱き続けるなら死を招くということについて話した後,十戒の第七番目の次のような戒めに注意を向けられました。「『あなたは姦淫を犯してはならない』と言われたのをあなたがたは聞きました」― マタイ 5:27。出エジプト 20:14。申命 5:18。

      神の律法下では,姦淫に対する処罰は厳しく,罪を犯した双方にとって死を意味しました。これは,婚約した女性が,婚約者以外の男性と関係を持った場合にさえ適用されました。―申命 22:22-24。

      しかしイエスは,姦淫という行為を避ける以上の事柄について語っておられます。イエスはこう言われました。「わたしはあなたがたに言いますが,[だれでも既婚の男性で]女を見つづけてその女に情欲をいだく者はみな,すでに心の中でその女と姦淫を犯したのです」。(マタイ 5:28)イエスはまた別の時に,姦淫を,人の心の中にある不道徳な欲望と結び付け,次のように言われました。『内側から,つまり人の心から……姦淫……など害になる推論が出て来るのです』。(マルコ 7:21,22)これは,他の男の人の妻を見て刺激され姦淫を犯すに至ったダビデの経験から理解できます。―サムエル後 11:2-4。

      イエスはここで,人が即座に払いのけるような時折起こる不道徳な思いについて語っておられるのではありません。むしろイエスは,男性が「女を見つづけて」女に対してみだらな欲望をつのらせる状態について語っておられるのです。姦淫を犯すことをひたすら望む人は機会があればそれを実行に移すということを,「心がどうかを見る」神はご存じです。(サムエル前 16:7,新)神はその行為を,愛情と欲望と動機の座である「心の中で」すでに犯されたものとみなされます。

      人はどうすれば姦淫を犯すのを避けられるでしょうか。イエスは説明的な言葉でこう語られました。「そこで,もしあなたの右の目があなたをつまずかせているなら,それをえぐり出して捨て去りなさい。全身をゲヘナに投げ込まれるよりは,肢体の一つを失うほうがあなたの益になるのです。また,もしあなたの右の手があなたをつまずかせているなら,それを切り離して捨て去りなさい。全身がゲヘナに落ちるよりは,肢体の一つを失うほうがあなたの益になるのです」― マタイ 5:29,30。

      聖書は正しい行動を『神と共に歩むこと』として述べています。(創世 5:22; 6:9)もし「右の目」(ここでは目の集中力を表わす)あるいは「右の手」(自分の手を用いる場合のように,人が行なう事柄を意味している)が人を『つまずかせる』,つまり神への従順という道を踏みはずさせるとしたらどうでしょうか。そのような場合,人は,目をえぐり出し手を切り離すに等しい行動を起こさねばなりません。なぜそのように言えるのでしょうか。

      目は思いへの重要な伝達経路であり,感情や行動に強い影響を与えるため,目が,ふさわしくない光景を見つづけないよう抑制しなければなりません。(箴 4:25。ルカ 11:34)ヨブは次のように述べて,ふさわしい物の見方を言い表わしました。「わたしは,わたしの目と契約を結んだ,どうして,おとめを慕うことができようか」― ヨブ 31:1,口。

      同様に,人は手や他の肢体を用いて行なうことが道徳に関する聖書の基準に反しないように注意している必要があります。この点について使徒パウロは次のように書いています。「ですから,淫行,汚れ,性欲,有害な欲望,また強欲つまり偶像礼拝に関して,地上にあるあなたがたの肢体を死んだものとしなさい」― コロサイ 3:5。

      人々は普通,命を守るためなら文字通り手足を失うことをいといません。イエスの言葉によれば,さらに重要なのは,不道徳な考えや行為を避けるためにひゆ的に言って目や手を『捨て去ること』です。そのようにしてのみ,人は,汚れた物を焼き尽くすために昼夜を問わず火が燃えていたエルサレム近くの「ごみの山」,火の燃えるゲヘナで表わされている永遠の滅びを避けることができるからです。―マタイ 5:29,30,J・B・フィリップス。

      イエスは続けてこう言われました。「さらに,『妻を離婚する者はだれでも,離婚証書を彼女に与えなさい』と言われました」。(マタイ 5:31)モーセを通して与えられた神の律法によれば,人が『その妻に恥ずべきことのあるのを見て,好まなくなったならば』妻を離婚することが許されていました。(申命 24:1-4,口)「恥ずべきこと」とは姦淫以外の何かを意味していたと思われます。というのは,前に述べたように,姦淫の罪はモーセの律法下では死刑に値するものだったからです。しかし,神は『離縁する者を憎まれた』のですから,当然離婚の正当な根拠となったものは,妻が夫に対してひどく敬意の欠けた態度を示したり家族に恥をかかせたりするといった重大なものであったに違いありません。―マラキ 2:16,口。

      しかし,そうした重大な場合でも,聖書は離婚を命じたり勧めたりはしていません。性急に離婚することを思いとどまらせるものとして,神は,妻を離婚する夫が妻に「離婚証書」を与えねばならないことを定められました。その証書を,用意し,それが法的に認められるまでに時間が必要でした。またその間に,正式に認可された人々に相談

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