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  • “自分が第一”― 今日の偶像礼拝
    目ざめよ! 1979 | 7月22日
    • である顧客自身である。……自己の崇拝では極端に走ることが罪悪ではなく,実際には美徳とされている,というのが要点である。……

      「テレビは,自分の好むがままにいくらでもつかむようにと告げる。人の好みが別の人の好みを犯すかもしれないなどとは決して示唆しない。ただ,どんどんつかむがよい,さもないと後悔することになると言うだけである。……

      「これまでに発明された,最大のセールスマンであるテレビは,我々に我々自身を売り込む上で余りにもすばらしい業績を上げすぎたと言えるかもしれない。我々が本当に重大な経済上の混乱の渦中にたたき込まれた場合,我々には自己否認という想像もつかない事柄に対処するだけの備えがあるだろうか」。

      新ナルシシスト

      ギリシャ神話に登場するナルキッソスは,河神ケピソスとニンフのレイリオペの間に生まれた息子です。神話によると,ナルキッソスは並外れて美しく,泉に映った自分の姿を見て,自分を恋するようになります。ナルキッソスは他の者を愛することができず,自らに心を奪われるあまり,食べる物も食べなくなってしまいます。そして,やつれ果てて死んでしまいます。今日,正統派の精神分析学の用語で,(ナルキッソスにちなんだ)ナルシシズムという語は,極端なほどの自己愛を意味しています。その患者は,自分が注目の的となり,人々の賞賛を一身に集めることができなければ,他の人々に対して関心を示そうとしないほどになります。

      今日の自己主義<ミーイズム>は,度々,新ナルシシズムと呼ばれてきました。ネーサン・フェインは,「ナルキッソスの時代: さあ,おれを見るがよい」と題する雑誌記事の中で,この傾向を,「まさに,これまで類例を見ないような,国家的ナルシシズムの殺到」と呼んでいます。そして,それを,「アメリカ最後の成長産業: 自分の体の内へ引きこもること」と呼び,さらにこう付け加えています。

      「それは最後の ― そして,恐らくは究極の ― 辺境<フロンティア>である。また,根本主義者が罪悪感を売り物にし,恐れを起こし,全般的に引き締めを図ろうとして運動しても,アメリカの自己愛の芸術はその古典期の絶頂に入っている」。

      でもそれは本当に“自己の崇拝”と言えるか

      ある人は,このように自分を高めることを,「新しい宗教」と呼びました。また,別の人は,それを,「自己の崇拝」と呼んでいます。自己認識運動に参加している人の多くは,そこまでは行きませんが,中にはその程度まで行く人もいます。

      聖書は,自己中心が崇拝になりかねないことを示してこう述べています。『強欲は偶像礼拝』である。「貪りは偶像礼拝の一形態である」。(コロサイ 3:5,「新世界訳」および「今日の英語聖書」)これらの翻訳で,「強欲」また「貪り」と訳されているギリシャ語は,プレオネクシアです。バークレーの聖書注釈書はこう述べています。

      「プレオネクシアは,基本的に言って,より多くを所有したいという欲望のことである。ギリシャ人自身,それを,飽くことを知らない欲望と定義し,それを満足させるのは穴のあいた器に水を満たすのと同じほど難しいと述べている。それは,他の人に属するものに対する罪深い欲望と定義されている。また,物を手に入れようとする情熱と定義されている。それは,無慈悲な自己追求とされてきた」。

      そうした者たちについて,フィリピ 3章19節は,『その神は腹である』と述べています。あるいは,「今日の英語聖書」の訳によれば,「彼らの神はその肉体の欲望である」ということになります。そのような人は,強情になって自分の思い通りにすると言い張り,事実上,自分自身の意志を偶像視しています。キリストよりも幾世紀も前に,そうした行為は偶像礼拝の部類に入れられていました。「強情は,ひどい不正や偶像礼拝のようなものである」― サムエル前 15:23,改訂標準訳。

      実際のところ,自己崇拝の起源は,遠く最初の人間夫婦にまでさかのぼります。最初の人間夫婦は,自分たち自身の善悪の規範を打ち立てたいと願いました。それで,自分たちが「神のようになって,善悪を知る」ことができるとの偽りの教えを吹き込まれると,女にはそれが慕わしいもののように思えました。最初に女が,次いでその夫が,この行動を取りました。それは致命的な誤りでした。

      ですから,今日の自分第一主義者<ミー・ファースター>の信条は新しいものではありません。それは非常に古い歴史の繰り返しなのです。それは人類史の初期に存在するようになり,終わりの日にも見られるであろうと予告されていました。『終わりの日には……人びとは自分を愛する者……となるのです』― テモテ第二 3:1,2。

  • “自己主義”の犠牲にならない者はいない
    目ざめよ! 1979 | 7月22日
    • “自己主義”の犠牲にならない者はいない

      自分が第一という自己中心的な哲学の影響は実に広範に及んでいます。残念なことに,わたしたちすべてはこの邪悪な木の結ぶ実の影響を受けています。

      米国は没落しつつあるでしょうか。これは米国の一週刊ニュース雑誌の提起した疑問です。この疑問を引き起こしたきっかけは,その記事の中で次のように要約されています。「精神面で,勤勉,自己抑制,そして自己犠牲という伝統的な理想は,広まり行く自己主義<ミーイズム>の風潮の中にあってむしばまれている。自己主義は非行の増加,家庭の崩壊,その他の混乱をもたらしただけでなく,教育や職場での道徳的規範の低下をもたらした。それは,世界における米国の競争の場を危うくした」― US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌,1978年11月27日号。

      自分第一主義者<ミー・ファースター>は,『自分の好きなことをせよ』というお気に入りの教理を唱えます。シカゴのある男は自分の好きなことをしました。それは男色で,その結果,32人の少年が死にました。この男は少年たちを殺し,ある者は川に投げ捨て,ある者は自分の家やガレージの下に埋めました。その家では28人の遺体が見付かりました。この男は1968年に16歳の少年との男色のかどで有罪とされ,懲役十年の刑を言い渡されました。しかし,刑に服したのは18か月に過ぎませんでした。この男が刑期の満ちるまで服役していたなら,32人の少年は今日生きていたことでしょう。ところが,この少年たちは,犠牲者のいない犯罪と言われる,同性愛の犠牲になったのです。

      五年前,ヒューストンで,27名の若者が男色の犠牲となって死にました。その若者たちは,同性愛の拷問集団に巻き込まれていたのです。ところが,社会全般としては,同性愛の生活様式に対して寛大な見方を取るようになってきています。カリフォルニア州選出の,H・L・リチャードソン上院議員は,そのような見方をしてはいません。「同性愛者たちは,自分たちが“ひよこ”と呼ぶ者の後を追いかける。ひよこというのは,普通十代の前半の,あどけない,感じやすい少年のことである。それらの少年たちは,普通なら考えもしなかったような生活様式の犠牲者になる。当然のことながら,私はこれらの若者とその親たちを犠牲者とみなす」。

      こうした同性愛的な生活様式は良いものですか,それとも悪いものですか。神の見方は次のようなものです。「神は,彼らを恥ずべき性欲に渡されました。その女性は自らの自然の用を自然に反するものに変え,そして同じく男性までが女性の自然の用を去り,互いに対し,男性が男性に対して欲情を激しく燃やし,卑わいな事がらを行なって十分な返報を身に受けました。それは彼らの誤りに対して当然なものです。……こうした事をならわしにする者は死に価する(のです)」― ローマ 1:26,27,32。

      リチャードソン上院議員はまた,その特別報告の中で,ほかの人々がどのようにそうした不道徳の犠牲になっているかを示してこう述べています。「同性愛,ポルノ映画,そして売春婦に対する地域社会の態度がいいかげんになると,犯罪発生率が急上昇する。ハリウッドはその生きた例である。その地域のある部分は余りにも不浄な場所

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