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希望 ― 本当に力がありますか目ざめよ! 2004 | 4月22日
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希望 ― 本当に力がありますか
ダニエルはわずか10歳でしたが,1年間がんと闘っていました。医師たちは打つ手をなくし,身近な人たちも望みが失われたように感じました。しかし,ダニエルのほうは希望を持ち続けました。大きくなったら医学の研究者になって,いつかがんの治療法を見つけるんだ,と信じていました。ダニエルは,自分の特殊ながんの治療を専門とする医師が来る日をとりわけ楽しみにしていました。ところが当日になって,その専門医は,悪天候のために来ることができなくなりました。ダニエルはひどくがっかりしました。初めて気力を失い,数日もしないうちに亡くなりました。
ダニエルの話は,希望と絶望が人の健康に及ぼす影響について研究したある医療関係者が語った実話です。これと似た話をほかにもお聞きになったことがあるかもしれません。例えば,死期の迫ったお年寄りは,自分が楽しみにしてきた日までは何とか生きようとします。それは,親しい人が訪ねて来る日や,何かの記念日かもしません。そして,その日のあと,間もなく亡くなります。そのような場合,何が作用しているのでしょうか。希望には本当に,ある人々が考えるような強い力があるのでしょうか。
物事に対する楽観的な見方や希望など積極的な感情は,人の生活や健康に実際に強力な影響を及ぼすようだ,と述べる医学研究者は増えています。とはいえ,だれもがそう考えているというわけでもありません。一部の研究者は,そうした考えはどれも科学的な根拠のない俗説にすぎないとして退け,身体的な疾患は純粋に身体的な事柄に起因するという考えを好みます。
もちろん,希望を持つことの重要性を疑う見方は昔からあります。今から二千数百年前,ギリシャの哲学者アリストテレスは希望の定義を尋ねられて,「希望とは白昼夢である」と答えました。近代では,アメリカの政治家ベンジャミン・フランクリンが,「希望に生きる者は空腹に死す」と言いました。
では,希望とは実際には何なのでしょうか。それは単なる非現実的な願いや,むなしい夢に慰めを求めることにすぎないのでしょうか。それとも,それ以上のもの,つまり健康や幸福のためにだれもが必要とするもの,そして真に根拠や益のあるものとみなせる,確かな理由があるでしょうか。
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希望が必要な理由目ざめよ! 2004 | 4月22日
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希望が必要な理由
前の記事の初めに述べた幼いがん患者のダニエルが,強い希望を抱き続けていたらどうなったでしょうか。がんを克服できたでしょうか。今でも生きていたでしょうか。希望には力があると強く信じている人でも,そこまでは主張しないでしょう。ここから大切な点が分かります。希望の力を過大に評価すべきではない,ということです。希望はどんな病気でもいやせる万能薬ではありません。
医師のネイサン・チャーニーは,CBSニュースのインタビューで,重病の患者と接する際に希望の力を強調しすぎるのは危険だと警告しました。同医師は,「夫が妻をとがめて,瞑想が足りないとか,もっと積極的な考え方をすべきだと言っているのを耳にすることがある」と述べ,こう続けています。「そうした考え方は,自分で病気をコントロールできるような錯覚を生み,患者の病状が思わしくないのは当人が腫瘍をうまくコントロールしていないからだ,ということになってしまう。それは正しくない」。
実際,末期の病と闘っている人は,大変な苦闘を強いられています。すでに重荷を負う人にさらに罪悪感を抱かせることなど,その人を愛している人たちは決してしたくないでしょう。では,希望には価値がないと結論すべきでしょうか。
決してそうではありません。例えば,前述の医師は,緩和ケアを専門にしています。緩和ケアとは,病気の直接的な治療,さらには延命処置よりも,患者がより快適に気持ちよく闘病生活を送れるようにすることに重きを置いた治療法です。緩和ケアの医師たちは,患者が重症の場合でも明るい気持ちにさせる治療を行なうことには価値がある,と強く信じています。希望には,患者をそのような気持ちにさせる力があることを示す証拠はたくさんあります。それだけではありません。
希望の価値
「希望は強力な薬である」と,医学ジャーナリストでもあるW・ギフォード-ジョーンズ医師は断言しています。同医師は,末期患者を感情面で支えることの価値を調べた幾つかの研究結果について調査しました。そのような支えは,人が希望に満ちた積極的な見方を保ちつづける助けになるようです。1989年に行なわれた一研究では,その種の支えを受けた患者たちのほうが長く生きることが分かりました。しかし,最近の研究ではあまり断定的な結果が出ていません。それでも,感情面の支えを受ける患者のほうが,そうした支えのない患者よりも憂うつな気分になりにくく,痛みも少ないことを様々な研究は示しています。
楽観と悲観が冠状動脈性心疾患(CHD)に及ぼす影響に注目した研究についても取り上げましょう。1,300人余りの男性を対象に,人生に対する見方が楽観的か悲観的かについて注意深い調査がなされました。10年後の追跡調査では,12%余りの人が何らかのCHDにかかっていました。そのうち,悲観的な人の数は,楽観的な人の数のほぼ2倍に上りました。ハーバード大学公衆衛生学部で健康と社会行動を研究しているローラ・カブザンスキー助教授は,こう注解しています。「『積極的な物の見方』が健康に良いという考えを示す証拠の多くは逸話に基づいていたが,この研究で初めて,心臓病についてそのように言えることを示す医学的証拠が得られた」。
幾つかの研究によれば,自分は体が弱いと思っている人は,健康だと思っている人に比べて,手術後の経過がかなり悪いことが明らかになっています。楽観的な見方は寿命にも関係があると言われています。ある研究では,老化に対する積極的な見方と消極的な見方とが高齢者に及ぼす影響に関する調査が行なわれました。年配の人に,年を取ることに伴う豊かな知恵や経験といった積極的なメッセージを瞬間的に何度も見せたところ,歩く力やエネルギーが増加しました。何とそれは12週間分の運動の成果に匹敵するものでした。
希望,楽観的な見方,積極的な態度といった感情的要素が健康に良いと思われるのは,なぜでしょうか。医師も科学者も,まだ明確な答えを出せるほどに人の心理や体については理解していないようです。それでも,その論題について研究している専門家たちは,知識や経験に基づいて種々の可能性を示すことはできます。例えば,ある神経学の教授は次の点を示唆しています。「幸福で,希望に満ちている時は気分が良い。そうした気分でいると,楽しくて,ほとんどストレスを感じない。そのような状態の時に体は元気になる。これは健康維持のためにさらに行なえることである」。
こうした考えは,一部の医師や心理学者や科学者にとっては斬新に思えるかもしれませんが,聖書を学ぶ人にとってはことさら新しいものではありません。今から3,000年ほど前,賢王ソロモンは霊感を受けて次のように記しました。「喜びに満ちた心は治療薬として良く効き,打ちひしがれた霊は骨を枯らす」。(箴言 17:22)ここに示されている平衡の取れた見方に注目してください。この聖句は,喜びに満ちた心はあらゆる疾患を治す,ではなく,ただ『治療薬として良く効く』と述べています。
実際,希望が薬であるなら,それを処方しない医師がいるでしょうか。しかし希望には,健康面だけでなく,さらに多くの益があります。
楽観,悲観,あなたの生活
研究者たちは,楽観的な人の積極的な態度には多くの益があることに気づいています。楽観的な人は,学校や職場で,またスポーツ界でも,概して良い成果を収めます。一例として,女子の陸上競技チームを対象にして行なわれた研究があります。まずコーチたちが各選手の純粋な運動能力を綿密に評価しました。加えて,選手自身についても調査がなされ,希望しているレベルが注意深く評価されました。結果は,本人が望んだレベルのほうが,コーチが予想したどんな成績よりも実際の成績に近いものでした。なぜ希望にはそれほど強い影響力があるのでしょうか。
楽観の反対である悲観について調べることから,多くのことが分かっています。1960年代のこと,動物の習性を調べているうちに思いがけない発見がなされ,「学習性無力感」という言葉が作られました。研究者たちは,人間もこの種の現象を経験することに気づきました。次の例があります。実験対象となる人たちに不快な音を聞かせ,一連のボタンを押せば音を消すことができると告げます。そのグループは音を消せるようになります。
2番目のグループにも同じことを伝えますが,こちらはいくら押しても音は消えません。お察しのとおり,2番目のグループの多くは,無力感を抱くようになります。その後のテストでは,何もしようとしませんでした。何をやっても無駄だと思い込んでしまったのです。しかし,2番目のグループの人でも,楽観的な人はそうした無力感に負けませんでした。
そうした初期の実験の一部を計画したマーティン・セリグマン博士は,楽観と悲観それぞれの見方に関する研究を続けることにしました。自分は無力だとみなす傾向の人に見られる考え方を詳しく調べた同博士は,そうした悲観的な考えは,生活上の様々な活動を妨げ,何もできなくさせることさえある,と結論しました。そして,悲観的な考え方とその影響を次のように要約しています。「25年間の研究からはっきり分かったことがある。つまり,悲観的な人のように,悪いことが起きたのは自分のせいだといつも考えていると,その考えが頭から離れなくなって何をしてもうまくいかなくなり,自分が考えるよりもさらに悪いことが降りかかる,ということだ」。
この結論もやはり,ある人にとっては耳新しいかもしれませんが,聖書を学ぶ人たちにとってはなじみのあるものです。次の格言に注目してください。「あなたは苦難の日に自分が失望していることを明らかにしたか。あなたの力は乏しくなる」。(箴言 24:10)聖書がはっきり説明しているとおり,失望して消極的な考えになると,行動する力も奪われてしまうのです。では,悲観と闘い,もっと楽観的で希望に満ちた生活を送るには,どうすればよいでしょうか。
[4,5ページの図版]
希望は多くの益をもたらす
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悲観的な見方は克服できます目ざめよ! 2004 | 4月22日
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悲観的な見方は克服できます
あなたは失敗や挫折をどうみなしますか。今日の多くの専門家は,その答えによって楽観的な人か悲観的な人かが分かる,と考えています。人はだれしも生活の中で様々な試練を経験します。他の人より多くの試練にぶつかる人もいます。しかし,苦難からすぐに立ち直ってまた頑張る人もいれば,比較的小さな問題でもあきらめてしまうような人もいるのはなぜでしょうか。
例えば,自分が働き口を探しているところを想像してください。面接に行って,断わられるとします。その後どう考えるでしょうか。自分自身が退けられたように感じ,それを一生の問題と見て,『自分のような者はだれも雇ってはくれない。もう仕事は見つからない』と思うでしょうか。さらに悪いことに,この一度の挫折を生活のあらゆる面に結びつけて,『すべてが失敗だ。自分はだれの役にも立たない』と決め込んでしまうでしょうか。いずれにせよ,それはまさに悲観的な見方そのものです。
悲観的な見方と闘う
どうすれば悲観的な考えを克服できるでしょうか。まず初めのとても大切な段階として,それが消極的な考えであることを認めます。次の段階は,その考えを退けることです。道理にかなった別の説明を探してみましょう。例えば,だれからも採用されなかったのは,本当にあなた個人が退けられたという意味ですか。それとも,雇い主は単に別の条件の人を探していたということではないでしょうか。
具体的な点を挙げ,少し悲観的に考え過ぎていないか確かめてください。一度断わられたのは,本当にすべてが失敗したという意味でしょうか。生活の他の面についてはどうですか。霊的な目標を追い求めること,家族関係,友情など,ある程度うまくできている面があるのではないでしょうか。物事を悪い方向へ考えるのをやめ,小さいことを大きく見すぎないようにしましょう。そもそも,決して仕事が見つからないなどと本当に分かるのでしょうか。消極的な考えを押しやるためにできることは,ほかにもあります。
積極的で,目標のはっきりした考え方
近年,研究者たちは希望について,やや限定的ながら興味深い定義を述べるようになっています。その定義によれば,希望には自分の目標を達成できると信じることが伴っています。次の記事が示すとおり,希望にはさらに多くの面が関係していますが,この定義は幾つかの点で役立つでしょう。個人的な希望のその面に注目すれば,より積極的で,目標のはっきりした考え方ができるようになります。
自分は前途の目標を達成できると信じるには,これまでに目標を立てて達成した実績を持つ必要があります。そうした実績がないと思うなら,自分が立てる目標について真剣に考えてみるのが良いでしょう。まず,あなたには何か目標がありますか。生活上の日々の務めや,せわしなさに追われて,自分が人生から何を本当に得たいのか,最も大切なことは何かといった点をゆっくり考える暇がないような状態に陥りがちなものです。物事の優先順位を明確にするというこの実際的な原則についても,聖書は昔から,『より重要な事柄を見きわめなさい』とはっきり述べています。―フィリピ 1:10。
物事の優先順位を定めれば,いろいろな分野での主な目標を定めやすくなります。霊的な面での生活,家族としての生活,一般社会での生活といった分野です。しかし,ここで大切なのは,初めに余りに多くの目標を定めるのではなく,一度に一つ,すぐに達成できるものを決めるということです。目標をなかなか達成できないと,意気がくじかれ,あきらめてしまう可能性があります。ですから多くの場合,長期の大きな目標は,短期の小さな目標に分けるのが最善です。
「決意あるところに道あり」という古いことわざがあります。これにはそれなりの真理が含まれています。大切な目標を定めたなら,達成に向けて努力してゆくには意志力,つまり強い願いと決意が必要です。その目標を遂げることの価値や達成することの報いについて思い巡らすなら,決意は強まってゆくでしょう。もちろん,障害にぶつかることはありますが,それを行き止まりではなく,自分の力を試す機会と見るようにしましょう。
とはいえ,目標を達成するための実際的な方法についても考える必要があります。希望の価値について幅広く研究してきた著述家のC・R・スナイダーは,どんな目標に関しても,それを達成するための幾つかの方法を考えるように,と勧めています。そうすれば,一つの方法がうまくゆかなくても,第二,第三というように方法を変えて対処してゆけます。
スナイダーは,ある目標から別の目標に切り替えるタイミングを学ぶことも勧めています。もしある目標がどうしても達成できないものであれば,あれこれ考え続けても落胆するだけでしょう。むしろ,より現実的な目標に切り替えるなら,別の希望を持てます。
聖書には,その点に関する啓発的な実例が収められています。ダビデ王は,エホバ神のために神殿を建設するという目標を心に抱いていました。しかし,神はダビデに,その特権はダビデではなく息子のソロモンに与えられる,とお告げになりました。ダビデは,期待はずれの展開にすねたり,その目標に固執したりせず,自分の目標を調整しました。そして,息子が神殿を建設するのに必要な資金や資材を集めることに力を注ぎました。―列王第一 8:17-19。歴代第一 29:3-7。
悲観と闘うことや,積極的で目標のはっきりした考え方によって個人としての希望を強めることができますが,希望ということに関しては,まだ根本的な面で足りないところがあると言えます。なぜでしょうか。この世界で生じる多くの絶望的な状況は,わたしたちの手の全く及ばない要素によって生じているからです。貧困,戦争,不正,しだいに迫って来る病気や死の脅威など,人類を悩ますどうしようもない種々の問題について考えるとき,どうすれば将来に対する希望に満ちた見方を保てるのでしょうか。
[7ページの図版]
望んだ働き口を断わられたら,もう仕事は見つからないと考えますか
[8ページの図版]
ダビデ王は,目標を変える面で柔軟だった
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真の希望をどこに見いだせますか目ざめよ! 2004 | 4月22日
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真の希望をどこに見いだせますか
腕時計が止まっています。壊れたようです。直そうと思いますが,修理に出せる所はいろいろあります。街には時計修理の看板があちこちにあります。どれも安心を保証し,“いちばん安心”というのが幾つも見られます。しかし,近所に住む人が何年か前にまさにその時計を設計した人であることが分かったとすれば,どうでしょうか。しかも,喜んで無料で直したいと申し出てくれているなら,どうですか。だれに依頼すればよいかは明らかではないでしょうか。
では,その時計を,希望を抱くという能力と置き換えてみてください。もしあなたが,問題の多いこの時代に生きる多くの人のように希望を失っているとしたら,どこに助けを求めることができるでしょうか。問題を解決できると言う人は少なくありませんが,そうした人たちの数多くのアドバイスは分かりにくくて矛盾していることもあります。では最初から,人間に希望を抱く能力を与えた創造者に助けを求めるのはどうでしょうか。聖書の述べるとおり,その方は『わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではなく』,助けになることは何でも行なおうと思っておられます。―使徒 17:27。ペテロ第一 5:7。
希望のより深い定義
聖書中の希望という概念は,今日の医師,科学者,心理学者が一般に考えているものより広範で,意味の深いものです。聖書の中で「希望」と訳されている原語の言葉には,切に待ち望む,良いことを期待するという意味があります。希望は基本的に二つの要素から成っています。何か良いことに対する願いと,それが実現することを信じる根拠が関係しているのです。聖書の差し伸べる希望は,単なる非現実的な願いではありません。それには,事実と証拠という確かな根拠があります。
この点で,希望は信仰に似ています。信仰は証拠に基づいていなければならず,何かを簡単に信じることではありません。(ヘブライ 11:1)それでも,聖書は信仰と希望を区別しています。―コリント第一 13:13。
例えで考えましょう。仲の良い友人に頼み事をする時,あなたはその友人が助けてくれることを望む,つまり希望するでしょう。その希望には根拠があります。あなたは友人のことをよく知っていますし,これまでも親切に気前よく行動してくれるのを見てきました。ですから,今度も助けてくれると信じている,つまりある意味で信仰を持っています。あなたの信仰と希望は密接に関連し,互いに依存してもいます。しかし,それらは同じものではありません。では,どうすれば神に対してそのような希望を抱けるでしょうか。
希望の根拠
神は真の希望の源です。実際,聖書時代にエホバは「イスラエルの望みである方」と呼ばれました。(エレミヤ 14:8)イスラエル人にとって,信頼できる希望はすべてエホバから来ていました。それゆえ,エホバは確かにイスラエルの望みでした。その希望は,単なる願いと同じではありませんでした。神は希望を抱く確かな根拠をお与えになりました。何世紀にもわたってイスラエルと交渉を持ち,物事を約束どおりに果たすという実績を築いてこられたのです。イスラエルの指導者ヨシュアは民にこう言いました。「あなた方は……知っているはずです。すなわち,あなた方の神エホバの話されたすべての良い言葉は,その一言といえ果たされなかったものはありません」。―ヨシュア 23:14。
それから数千年たった今も,その実績は失われていません。聖書には,数々のすばらしい約束と,それが成就したことを示す正確な歴史の記録が収められています。神の預言的な約束は非常に信頼できるため,語られた時点で,すでに成就したかのように記録されていることもあります。
そのようなわけで,聖書は希望の書であると言えるのです。神が人間を扱われた方法に関する記録を学ぶにつれ,神に希望を置くべき理由はますます強くなってゆくでしょう。使徒パウロはこう書いています。「以前に書かれた事柄は皆わたしたちの教えのために書かれたのであり,それは,わたしたちが忍耐と聖書からの慰めとによって希望を持つためです」。―ローマ 15:4。
神はどんな希望を与えておられるか
人がいちばん希望を必要とするのはどんな時でしょうか。それは,死に直面した時ではないでしょうか。しかし多くの人にとって,まさにそのような時 ― 例えば愛する人を亡くした時 ― には,希望がきわめてはかないものに思えるでしょう。結局のところ,死以上に絶望的なことがあるでしょうか。死はすべての人を容赦なく追いかけます。わたしたちは,死をほんのしばらく避けることはできても,それを逆転させる力はありません。ですから,聖書が死を「最後の敵」と呼んでいるのは,いかにも適切なことです。―コリント第一 15:26。
では,死に直面した時,どのように希望を見いだせるでしょうか。死を最後の敵と呼んだ聖句は,その敵が「無に帰せしめられ(る)」とも記しています。エホバ神は死よりも強力です。そのことを何度も実証してこられました。どのようにでしょうか。死者を復活させることによってです。聖書には,神がご自分の力を用いて死者を生き返らせた,九つの異なる事例が記されています。
その際立った例として,エホバはみ子イエスに力を与え,死後4日たっていた親しい友のラザロを復活させました。イエスはその奇跡を,ひそかにではなく,人々が見ている前で行なわれました。―ヨハネ 11:38-48,53; 12:9,10。
しかし,『どうしてその人たちは復活したのだろう? 結局は年を取り,また死んでしまったのではないか』と思われるかもしれません。確かにそうです。しかし,復活に関するこうした信頼できる記述があるので,亡くなった愛する人が再び生きることをただ願うだけでなく,それを信じる根拠を持つことができます。つまり,真の希望を持てるのです。
「わたしは復活であり,命です」と,イエスは言われました。(ヨハネ 11:25)イエスは,エホバから力を受けて,全地球的な規模で復活の奇跡を行なわれる方です。こう述べておられます。「記念の墓の中にいる者がみな,[キリスト]の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです」。(ヨハネ 5:28)そうです,墓に眠っている人は皆,復活して地上のパラダイスで生きる見込みがあるのです。
預言者イザヤはその感動的な復活の情景をこう描いています。「汝の死者は生き,その体はまた起き上がらん。地に眠る者らは目覚めて,喜び叫ぶべし。そは,汝の露はきらめく光の露,地は,死にて久しき者らを再び生まれさするべければなり」。―イザヤ 26:19,「新英訳聖書」(英語)。
これは慰めとなるのではないでしょうか。亡くなった人たちは,母親の胎内で保護される子どものように,想像し得る最も安全な状態にあります。墓の中で休むその人たちは,全能者なる神の無限の記憶の中に完全に留められています。(ルカ 20:37,38)そして,間もなく生き返り,ちょうど新生児が,誕生を今か今かと待っていた愛情深い家族に迎えられるように,幸福な温かい世界へと迎え入れられることでしょう。ですから,たとえ死に面したとしても,希望があるのです。
希望にはどんな力があるか
パウロは希望の価値について多くのことを教えています。例えば,希望は霊的な武具に欠かせないかぶとである,と述べました。(テサロニケ第一 5:8)それはどんな意味でしたか。聖書時代の兵士は,たいていはフェルトや革でできた帽子の上に,金属製のかぶとをかぶって戦いに出ました。そのかぶとによって,頭部に受ける打撃の多くを跳ね返し,致命傷を防ぐことができました。パウロが述べたかったのはどんなことですか。かぶとが頭を保護するように,希望は思いを,つまり思考力を保護するということです。神の目的と調和した確かな希望を抱いていれば,困難に直面してパニックになったり絶望したりして,思いの平安が打ち砕かれることはないでしょう。そのようなかぶとの要らない人がいるでしょうか。
パウロは,神のご意志に関連した希望について,別の生き生きとした例えも用いました。「この希望を,わたしたちは魂の錨,確かで,揺るがぬものとして抱いて(います)」と書いています。(ヘブライ 6:19)パウロは何度か難船を切り抜けたことがあったので,錨の価値を十分に知っていました。船乗りは嵐に遭うと錨を降ろすのが普通でした。錨が海底をしっかりつかめば,船は海岸の方に吹き流されて岩場に乗り上げることなく,比較的安全に嵐を乗り切ることができました。
同じように,もし神の約束がわたしたちにとって『確かで揺るがぬ』希望となっているなら,それがこの騒然とした嵐の時代を乗り切る力になります。エホバは,人類がもはや戦争,犯罪,悲しみ,そして死にさえ悩まされることのない時代が間もなく訪れると約束しておられます。(10ページの囲み記事をご覧ください。)その希望をしっかり保つなら,災いを避けるように助けられ,今の世界に広く見られる無秩序で不道徳な精神に呑み込まれることなく,神の規準に従って生きてゆこうという気持ちを保てます。
エホバが差し伸べておられる希望は,あなた個人とも関係があります。エホバは,ご自身の意図した生活を人々が送るようにと望んでおられます。エホバの願いは,「あらゆる人が救われ(る)」ことです。どのようにして救われるのでしょうか。まず一人一人が「真理の正確な知識に至る」必要があります。(テモテ第一 2:4)わたしたちは,読者の皆さんが神の言葉の真理についての,命を与える知識をぜひ取り入れられるようお勧めいたします。その知識に基づいて神が与えてくださる希望は,この世界で見いだせる他のどんな希望よりもはるかに勝っています。
そうした希望があれば,無力感を覚えることは決してありません。あなたの目指す目標が神のご意志と調和したものである限り,神はそれを達成するのに必要な力を与えてくださるからです。(コリント第二 4:7。フィリピ 4:13)あなたが必要としているのは,そのような希望ではないでしょうか。ですから,もし希望を必要とし,それを探してこられたのであれば,元気を出してください。希望は目の前にあります。あなたはそれを見いだすことができるのです。
[10ページの囲み記事/図版]
希望の理由
ここに挙げる聖書からの考えは,希望を強める助けになるでしょう。
■ 神は幸福な将来を約束しておられる。
神の言葉によれば,地球全体はパラダイスとなり,一致した幸福な人間家族が住むことになります。―詩編 37:11,29。イザヤ 25:8。啓示 21:3,4。
■ 神は偽ることができない。
神はどんな偽りをも忌み嫌われます。エホバは限りなく聖なる方,浄い方で,偽りを語ることは不可能です。―箴言 6:16-19。イザヤ 6:2,3。テトス 1:2。ヘブライ 6:18。
■ 神は無限の力を持たれる。
エホバは唯一の全能者です。この宇宙に,神の約束の成就を阻み得るものはありません。―出エジプト記 15:11。イザヤ 40:25,26。
■ 神は人がいつまでも永久に生きることを望んでおられる。
■ 神は希望を抱いてわたしたちを見ていてくださる。
神はわたしたちの過ちや失敗にではなく,良い特質や努力のほうに目を向けてくださいます。(詩編 103:12-14; 130:3。ヘブライ 6:10)神はわたしたちが正しいことを行なうようにと希望し,そうする時に喜んでくださいます。―箴言 27:11。
■ 神は各人がご意志にかなった目標を達成するように助けると約束しておられる。
神の僕たちが無力に感じる必要は全くありません。神は最も強力な力である聖霊を豊かに注いで助けてくださいます。―フィリピ 4:13。
■ 神に対する希望は決して失望に終わらない。
その希望は全く確かで信頼できます。神があなたを失望させることは決してありません。―詩編 25:3。
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かぶとが頭を保護するように,希望は思いを守る
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確かな土台に根ざした希望は,錨のように人を安定させる
[クレジット]
Courtesy René Seindal/Su concessione del Museo Archeologico Regionale A. Salinas di Palermo
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