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  • わたしたちの神エホバは義かつ公正なかた
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1976
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1976
塔76 9/1 528–534ページ

わたしたちの神エホバは義かつ公正なかた

「忠実の神であり……義かつ方正であられる」― 申命 32:4,新。

1,2 (イ)聖書は裁き人としてのエホバをどのように描写していますか。(ロ)わたしたちはこれにどう反応しますか。なぜですか。

その昔,ヘブライ人のある詩篇作者は,エホバ神について,「彼は義と公正を愛される方」とうたいました。また別の詩篇には,「わたしは良く知っています,ああエホバよ。あなたの司法上の決定が義にかなっていることを」と記されています。これらの言葉は,幾世紀も昔に語られたとはいえ,人の心に訴えるものを持っていませんか。宇宙における究極の権威であられる創造者を,「義と公正を愛される方」と考えるのは,満足のいく,そしてまた心強いことではないでしょうか。―詩 33:5; 119:75,新。

2 わたしたちがこのように反応する一つの理由は,わたしたちのだれもがなんらかの形の不義や不公正を経験させられてきたからに違いありません。国家的,人種的,社会的背景のゆえに不公正な扱いを受けてきたかもしれません。あるいは学校で,職場で,近所で,不公平な扱いを受けてきたかもしれません。またわたしたちは,権力のある人が不当な扱いをしたということを,なんとしばしば耳にすることでしょう。

3,4 このことは多くの人間の裁き人のやり方とどのように対照的ですか。そのことからどんな質問が生じますか。

3 そのような扱いを受けることを人々がどう思うかにイエスは気づいておられました。それはある例えを話された時に言われた言葉から分かります。イエスは,明らかにローマ人によって任命されていたある裁き人について話されました。それはどんな裁き人だったでしょうか。彼は「不義な者」で,公平に扱ってもらえるという確信をもって頼れるような人間ではありませんでした。事実,その裁き人は,ユダヤ人のやもめがうるさくせがむので,ただそれだけの理由で最後に彼女のために公正な裁きを行なった,と述べられています。―ルカ 18:1-6。

4 あなたはそのような裁き人をどう考えますか。彼は公正な決定を下す者と考えられているのに,それをしようとしません。それに引き換え,「義と公正を愛される方」と正しく描写されている裁き人は,なんとさわやかな対照でしょう! しかし,考えてみましょう。詩篇作者はエホバについてそう言いましたが,あなたはエホバがそのような方であることを確信していますか。神は義でも公正でもない,と主張する人々がいることをあなたはご存じでしょう。そういう主張を突き付けられたことがありますか。その主張は神に対するあなたの見方に影響しますか。詩篇作者に共鳴する納得のいく理由を挙げることができますか。

5 神の義と公正のどの面をある人々は気にしていますか。

5 また中には,神の言葉と目的に関心を持ちながらも,エホバの義と公正に対する自分の確信に疑いの影を投げかける問題で心を悩ませている人たちもいます。そのような人々は,例えば,「大患難」がこの邪悪な事物の体制を終わらせるまでの短い期間に,一体どのようにしてすべての人が王国の音信を聞いてそれを受け入れる,または拒否する機会を得られるのだろう,といぶかっているかもしれません。(マタイ 24:21)心配の種とされる別の分野は,新秩序になったとき,果たしてある親せきや,現代のひどく悪い人々その他が死人の中からよみがえるのか,ということです。あるいは,新秩序で神は,とりわけ結婚や家族の事柄に関しどんな特権をお与えになるか,ということについても懸念があるかもしれません。そうした問題に関連してあなたは心を悩ませていますか,それとも,エホバは義かつ公正なことを行なわれる,と確信していますか。

6 「義」かつ「公正」であるとはどういうことですか。

6 義かつ公正であるとはどういうことですか。くだくだしい,形式張った定義を抜きにするなら,これは次のように言うことができます。「義」にかなった人とは,正しいこと,道徳にかなったことを行なっている人です。その人は善良で責めがありません。これと関連のある「公正な」人とは,正しく公平なことを,えこひいきなく行なう人のことです。したがってエホバを描写する,「忠実の神であり,不公正なところはない。義かつ方正である」という言葉の裏には多くの意味があります。―申命 32:4,新。

証言を検討する

7 どんな証言を検討するのは適切ですか。

7 ある有名な法律家は,「公正というものなど法廷の内にも外にもないのだ」と言ったことがあります。法律関係の職業における経験と,他の人々の言うこととを考え合わせて,その法律家はそういう見方を持つようになりました。この世ではそれは一般に事実かもしれません。しかし,エホバに関しては「経験」は何を示したでしょうか。では幾つかの証拠を,つまりエホバと個人的に交渉を持ったことのある人々の証言を検討してみましょう。

8,9 (イ)アブラハムは神のある司法上の問題にどのように関係していましたか。(ロ)彼はその状況にどう反応しましたか。

8 聖書が書き始められる以前でさえ,信仰の人々は,神の義と公正について自分の考えを述べています。アブラハムはその良い例です。彼は神の命によりメソポタミアの都市ウルを去り,カナンの地の漂泊の住人となりました。(創世 12:1-5。ヘブライ 11:8)彼のおいのロトは,ソドムの町の近くに居を定めました。後日,アブラハムは,エホバを代表する一人のみ使いの訪問を受けました。そのみ使いは,住民の罪に対する激しい抗議の叫びが上がっているので,ソドムとゴモラに対し司法上の検閲を行なうつもりである,と言いました。(創世 18:20,21,新)一定の司法的処置を取ることがすでに決定している,とは言わなかったことに注目してください。むしろみ使いは,苦情と「叫びのそのとおりに彼らが行動しているのかどうかを見る」つもりでした。それを聞いてアブラハムはどう反応しましたか。

9 ロトを含むソドムの住民が救われる可能性に関心があったので,アブラハムはどんなことが起こるのか,祈るような気持ちで尋ねました。創世記 18章23節から25節(新)にはアブラハムのその言葉が記録されています。「本当にあなたは,義なる者を邪悪な者と共に除き去られるのですか。その都市のただ中に義なる者が五十人いたとすれば。それでもあなたはその人々を除き去り,その内にいる五十人の義なる者のためにその所を赦すことはされないのですか。あなたがそのように行動して義なる者を邪悪な者と共に死に処し,義なる者に対して邪悪な者に対すると同じ事が起きなければならないなどというのは考えられないことです! そのようなことはあなたについては考えられません。全地を裁く方は正しいことを行なわれるのではありませんか」。次いでアブラハムは,同都市に住んでいる,そしてその都市が救われるのを可能にする義なる者の最小限の数を知ろうとして,もし45人の,または40人の,または30人の,または20人の,または10人の義なる者がいるならどうなりますか,と尋ねました。―創世 18:26-33。

10,11 アブラハムはエホバが間違ったことを行なわれると信じていましたか。

10 道徳的で,善良で,正しい事を行なう努力をしていたという意味で「義」なる住民がそれだけの数もいなかったということを,アブラハムは,わたしたちが今知っているようには知らなかったのです。しかし,「全地を裁く方は正しいことを行なわれるのではありませんか」と言ったとき,アブラハムは神の義を真剣に疑問視し,神が公正を欠いた行動に出られることを恐れているという意味で言ったのでしょうか。

11 決してそうではありません。むしろ逆でした。その証拠に,アブラハムは,エホバのご性格について自分が知っていることを考えるとき,創造者が悪人と義人を共に滅ぼされることなど,どうしても想像できませんでした。アブラハムにとってそれは「考えられない」こと,思いもよらないことでした。アブラハムはそのように考えるほど神に関して無知ではありませんでした。パウロがヘブライ 11章の中で示している通り,アブラハムはエホバが「ご自分をせつに求める者に報いてくださる」方であることを知っていました。神は正しいことを行ないたいと願っている者たちを悪人と同じようには扱われない,という確信をアブラハムは抱いていました。しかし,どうしてアブラハムはそれを知ることができたのでしょうか。

12 なぜアブラハムはエホバの行なわれることに確信を持つことができましたか。

12 一つには,自分自身の場合にエホバがしてくださったことをアブラハムは知っていました。アブラハムは信仰をもって行動し,命令に従ってウルを去りました。神はそれを無視されたでしょうか。いいえ,神はアブラハムを祝福し,栄えさせられました。(創世 12:16; 13:2)エジプトではエホバは,ファラオに犯されないようアブラハムの妻を守られました。(創世 12:17-20)後日アブラハムは,おいのロトを『誘かいした』四人の王に対し,神の助けを得て勝利を収めることができました。(創世 14:14-20)確かにアブラハムは経験を通して神を知っていました。

13 神の過去の行動はどのように重要になってきますか。

13 しかし,エホバが義かつ公正であられることをアブラハムが信じていたのには,さらにほかの理由がありました。アブラハムの時代以前に住んでいた人々に対する神の態度がそれでした。例えば,大洪水前に,アブラハムの先祖ノアはその家族と共に,『心の考えの傾向がすべて常に悪いばかり』である人々の世のただ中に住んでいました。(創世 6:5-7,11,12,新)暴力に満ちたその世を神が終わらせたとき,「同時代の人びとの中にあって非の打ちどころのない」者であったノアはどうなりましたか。(創世 6:9,13,新)神は義人ノアとその家族を一掃し,悪人と共に彼らを拭い去られましたか。確かにそのようなことはされませんでした。そしてアブラハムはそのことを知っていました。―ペテロ第二 2:5。

14 この証拠はどんな結論に導きますか。

14 したがってアブラハムは,ソドムに住む義人と悪人を神が同じように扱われるかどうかという,この一見未確定に思える状況に直面したとき,自分の考えの導きとなるものをたくさん有していました。義なる審判者が,両方の部類の人々を同様に扱うことなど「考えられない」,と結論した彼は正しかったでしょうか。確かに彼は正しかったと言えます。ソドムとその周辺の町々は滅ぼされました。しかしエホバは,「義人ロト」がその家族と共に逃げる機会を得るよう取り計らわれました。―ペテロ第二 2:7,8。創世 19:21-29。

15 なぜこれはわたしたちの関心を引きますか。

15 ところで,義人と悪人の生死が関係してくる将来のある事態を神がどう扱われるか,という疑問に,もしあなたが直面したなら,どうでしょうか。アブラハムに対する神のすべての行動のみならず,ノアに対する神の行動についてもあなたは知っています。神が義かつ公正なことを行なわれたことが理解できます。このことは,将来に臨むその状況の中で神に何を期待するかに影響しますか。聖書にある証言を無視しますか,それともそれによって自分の考えを正しく作り上げますか。

慎み深さが必要

16,17 この問題において慎み深くなければならないのはなぜですか。

16 わたしたちは,ソドムとゴモラの変質的な住民が完全に堕落していたことを,聖書の記録を読んで知っていますから,彼らの罪に対する叫びが上がった理由を理解することができます。また彼らを滅ぼしたことが神の義かつ公正な行動であったことを認めることができます。(創世 19:4-11。ローマ 1:26-28,32)しかし,もしだれかがすべての事実を知らず,その住民は正常で汚れを知らない人たちのようだった,とでも考えていたならどうでしょうか。もしそうであったなら,神が火といおうでそれらの町を滅ぼされたと聞けば,その人は創造者につき性急で正しくない結論を下すかもしれません。

17 このことから,神の行動について結論を出すことに関し慎み深くなければならないことが,はっきり分かるはずです。箴言 11章2節(新)には,「知恵は慎み深い者たちと共にある」と述べられていますが,これは確かにこの問題について言えることです。過去における神の行動のあるものに関する重要な事実についての知識に欠けているであろう単なる人間が,自ら裁判官や陪審員となって「全地を裁く方」を非難しようとするのは賢明でしょうか。こういう箴言もあります。「聞く前にある事に返答しているのは,その者の愚かさまた辱めである」。(箴 18:13,新)末梢的なことをほんのわずかしか知らない,まして最も重要な事実や関係している原則などは特に知らない人が,「全地を裁く方」は不公正な,義にもとった行動をしたと結論するのは,まさにそれではないでしょうか。

18 どんなことからヨブはひどい苦しみを経験することになりましたか。

18 ヨブと関係のある聖書の記録も,このことをさらに示すのに用いることができるでしょう。ヨブと,後ほどヨブに助言する彼の三人の友には分かりませんでしたが,サタンはヨブの忠実さについてエホバに挑戦しました。エホバはヨブの愛ある忠節心を確信しておられたので,サタンがヨブに次々と災難をもたらすのを許されました。ヨブの財産は取り去られました。羊の群れや家畜の群れの世話をする者たちは襲撃者たちに殺されてしまいました。息子や娘たちは時ならぬあらしで死にました。そしてヨブは重い身体的病気にかかり,妻までが彼を非難しました。(ヨブ 1:6-19; 2:1-9)ヨブと他の人々はどう反応したでしょうか。あなたならどう反応したでしょうか。神についてどんな結論を下したでしょうか。

19 ヨブはどう反応しましたか。しかし彼の三人の友はどうでしたか。

19 神に忠節であることを決意していたとはいえ,ヨブはなぜ自分が苦しむのか理解できませんでした。自分自身の義を弁護するために彼は,神には悪人ばかりでなく義人をも苦しめる権利がある,と言いました。(ヨブ 32:2; 10:7; 16:17; 23:11; 33:8-12)むろん今日わたしたちはヨブが『知識なくして語って』いたことを知っています。というのは,彼を苦しめていたのはサタンであって,エホバではなかったからです。(ヨブ 34:35,新)ヨブの友たちはどんな立場を取りましたか。彼らも事実を知らずに慎みのない愚かな答えをしました。神は人間の忠実さなどには関心がない,と非難しました。(ヨブ 4:17-19; 15:15,16)また事実上彼らは,ヨブの息子たちが罪を犯していると非難し,エホバが彼らを殺した,と主張しました。(ヨブ 8:3,4,20)ヨブの友たちの論議は結果として「神をよこしまな者とする」ものであった,と聖書は正しく述べています。―ヨブ 32:3,新。

20 (イ)この例は,聖書の特定の記録に対するわたしたちの反応にどう影響するはずですか。(ロ)わたしたちの反応はどうあるべきですか。

20 今日,わたしたちは記録全体を研究することができ,またそれらの友が神の行動の仕方に対する見方をいかに誤っていたかを難なく理解することができます。しかし,わたしたちがあまり情報を多く与えられていない,聖書の他の記録についてはどうでしょうか。例えば,エホバかまたはエホバの命を受けた人たちがよこしまな人々や都市または国民を処刑したことを聖書で読むなら,わたしたちはヨブの友に倣って「神をよこしまな者とする」でしょうか。(申命 9:1-5)すべての事実や関係している問題をたとえ知らなくても,起きた事柄は,エホバが「義と公正を愛される方」であることと一致していたに違いない,と結論するほうがずっと賢明であり,より慎みのあることではないでしょうか。(申命 7:2,23-26。レビ 18:21-27)それは,ヨブとその友たちを正した若者エリフの確信でした。エリフは宣言しました。「神は断じて悪を行うことなく,全能者は断じて不義を行うことはない。まことに神は悪しき事を行われない。全能者はさばきをまげられない」― ヨブ 34:10,12,口。

すべての人に対して義かつ公正である

21,22 エホバの義と公正はどんな重要な面で多くの人間のやり方と異なっていますか。

21 エホバの義と公正はどのようにすべてを包容するのでしょうか。すべての人に,またあらゆる時にそれらが適用されることを期待できるのでしょうか。わたしたちがこのことを心配するのは無理もありません。というのは,人間が権力の座つまり高い地位についていると,人を扱う仕方はその人が「どんな人であるか」に左右されることが多いからです。金持ちであり重要人物であるなら,悪いことをしても「大目に見られる」とか,許されるとか,あるいは軽い罰ですむかもしれませんが,貧しく重要でない人は,どちらかというと厳しく処罰されます。あなたはそういうことを見たことはありませんか。しかし,エホバはどうでしょうか。

22 エリフの意見はわたしたちに答えを与えています。エホバのことを説明するに当たり,エリフが,神のヨブに対する行動だけについて述べていないことに注目してください。彼は総括的な宣言をしました。「神は断じて悪を行うことはなく,全能者は断じて不義を行うことはない」。次いでエリフはこうつけ加えます。エホバは,「君たる者をもかたより見られることなく,富める者を貧しき者にまさって顧みられることはない。彼らは皆み手のわざだからである」― ヨブ 34:19,口。

23 モーセの律法はこの事実をどのように裏付けていますか。

23 エホバがイスラエル人に与えた律法の一面に注目するなら,この事実は裏付けられます。人間の裁き人が,種々の問題および個人が犯すかもしれない違法行為を扱う際の規定を定めるに際し,エホバは裁き人たちに,「あなたがたは,さばきをする時,人を片寄り見てはならない。小さい者にも大いなる者にも聞かなければならない」とお命じになりました。(申命 1:17; 16:18-20,口)そのことが要求されたのは,不穏の原因を作らないということだけが目的だったのでしょうか。そうではありません。それが期待されたのは,そうすることによって裁き人たちは彼らの神の性格を正しく反映することになったからです。次のように書かれています。『なんじらは人のために裁判するにあらずエホバのために裁判するなり 裁判する時にはエホバなんじらと偕にいます……我らの神エホバは悪しき事なく人を偏見ることなく賄賂を取ることなければなり』― 歴代下 19:6,7。出エジプト 23:6,7。

24 それでわたしたちは何を確信できますか。

24 エホバの公平な義と公正に関するこの証言は,エホバがわたしたちをどう扱われるかを示す心強い証言ではありませんか。わたしたちはまたその証言を,次のことを暗示するものとしても見なければなりません。つまりエホバは,まだ将来に属する問題に関しても必ず,ご自分が過去においてお定めになりまた守られた規準に従って行動されるということです。

わたしたちが持つ義と公正の観念

25 わたしたち自身の内面の「感覚」は,エホバについて何を証ししますか。

25 神の義と公正に関して検討できる別の方法は,わたしたちの持つ内面の感覚と関係があります。人間は神の像に造られたと聖書は述べています。(創世 1:27)といってもそれは神の体の形という意味ではありません。なぜなら神は霊であられ,わたしたちは肉だからです。コロサイ 3章10節に示されているように,むしろこの「像」は性格もしくは特性と関係があります。神は,愛や公正や義や知恵を含むご自分の特性を持つ者としてアダムを創造されました。わたしたちは不完全で,完全なアダムとはほど遠いものですが,世界中の人間が,ある程度の良心もしくは道徳観念を示すとおり,ほとんどの人間は,そうした神の特性をある程度反映します。(ローマ 2:14,15)そういうわけで,わたしたち自身が持つ公正と義の観念は,神がそれらの特性を持っておられまた示されること,ただしわたしたち人間よりもはるかに優れた方法で示されることをわたしたちが確信する理由となるはずです。

26,27 このことは地獄の火の教理を用いてどのように説明することができますか。

26 この「感覚」が示す反応の一例として,多くの人々が火の燃える地獄の教理に対して示す反応を,あるいはわたしたち自身のそれに対する反応を考えてみましょう。多くの教会は,とりわけ過去において,悪人の魂は地獄の中で永遠に責めさいなまれる,と教えました。聖書はそのような教えを支持しません。死者は無意識で,そのほとんどは復活によって再び生きる,と聖書は述べています。(伝道 9:5,10。エゼキエル 18:4。ヨハネ 5:28,29; 11:11-14)しかし,聖書がどう述べているかを知らなくても,多くの人は地獄の火の教理を不快に思います。自分の教会がそれを教えていても受け入れることができません。性に合わないのです。愛と公正と義の神が,仮に60年間悪かったある人間を,ひどい苦しみで永遠に責めさいなむということなど信じられないのです。そして多くの人は,自分のその公正と義の感覚を神の言葉が支持していると知ってあんどしました。

27 神の「像」を不完全にしか反映しないわたしたち人間が,義かつ公正なことが行なわれるのを見たいという抑えがたい欲望を持っているということから,エホバご自身がそのような特性によって導かれておられるというわたしたちの確信は一層深められるはずです。

28 自分が感じることは正しい道ということについて,なぜわたしたちは依然注意が必要ですか。

28 反面,わたしたちが明らかに不完全なのは事実ですから,わたしたちはこの「感覚」がゆがまないように,そして間違った結論にわたしたちを導くことがないように注意しなければなりません。何が義かつ公正であるかに関するだれかの感覚が不完全さによって誇張されると,その感覚はでこぼこのあるガラス板を通して物を見ている人のようになるかもしれません。向こう側にあるものをはっきり見たいとどんなに思っても,その人の目に映る像は欠点のあるガラスの影響を受けています。

29,30 (イ)一部の人々は救いについてどう結論しましたか。(ロ)しかし聖書は何と教えていますか。

29 神の行動の義と公正に対するわたしたちの見方にも同様のことが起こるかもしれないことは,一部の人々が信じるようになった事柄に認められます。彼らは,自分自身の同情の念,正義感,公正の観念に動かされ,自分たちがこのように感じるのであるから,まして神はそれ以上にそのように感じられるに違いないと確信して,万人救済の教理を教えてきました。神が不完全な人間を永久に滅ぼすのは公正なことでも義にかなったことでもない,と彼らは推論します。それで彼らは,神はキリストの犠牲に基づき,生まれてきた人間すべてを許されるのだと結論します。それどころか,神は悪魔サタンでさえもお許しになる,とまで言います。

30 その教理はある人々の感情や情緒の『琴線に触れる』かもしれませんが,エホバご自身が聖書の中で述べられていることとは絶対に一致しません。聖書は,人間の不完全さによってゆがめられていない神の見方をわたしたちにはっきりと理解させてくれます。聖書は,罪を犯し聖霊を冒涜する者についてこのように述べています。「聖霊に言い逆らうのがだれであっても,その者はゆるされないのです」。(マタイ 12:32)また使徒パウロはヘブライ人のクリスチャンたちに次のように書き送りました。「真理の正確な知識を受けたのち,故意に罪をならわしにするなら,罪のための犠牲はもはや何も残されておらず,むしろ,裁きに対するある種の恐ろしい予期……があるのです」。(ヘブライ 10:26,27)確かに聖書は,一部の人間が永遠の救いを得ないことを示しています。イエスはそのことを次のように言われました。「み子に信仰を働かせる者は永遠の命を持っている。み子に従わない者は命を見ず,神の憤りがその上にとどまっているのである」― ヨハネ 3:36。ローマ 2:7,8。

31 わたしたち自身の「感覚」に加えてほかに何が必要ですか。なぜですか。

31 したがって,わたしたちは次のことを理解することができます。すなわち,わたしたち自身の義と公正の「観念」に基づく単なる人間的な考えは平衡が保たれねばならず,エホバご自身が言われることに導かれねばならないということです。神が「義と公正を愛される方」であることを証明する証言と証拠がふんだんにあるとは,なんとありがたいことでしょう。(詩 33:5)しかも神によるそれらの特性の行使は不完全さによってゆがめられることがないと知れば,その感謝は一層深まるはずです。あらゆる面で,あらゆる時に,そしてあらゆる人に対して,神はその豊かな知識と知恵と愛とに従って完全なことを行なわれるのです。わたしたちは常に,「わたしは良く知っています,ああエホバよ。あなたの司法上の決定が義なることを」と言うことができるでしょう。―詩 119:75,新。ローマ 11:33-36。

32 それでわたしたちはどんな分野を検討することができますか。

32 このことに対する確信は,すでに述べた王国伝道の行なわれる範囲や,新秩序における復活とか結婚などに関する問題のように,神が将来行なわれる事柄についての疑問に対するわたしたちの考えに確かに影響を及ぼすはずです。それで次の記事ではこれらの問題を聖書に照らして,またわたしたちの神が義かつ公正であられることを十分に確信して,検討してみることにしましょう。

[530ページの図版]

全地を裁く方エホバは正しいことを行なわれる

神はアブラハムの従順に対する報奨として家畜の群れを与えられた

神はソドムを滅ぼしたときにロトを救われた

神は悪人を滅ぼしたときにノアとその家族を救われた

[532ページの図版]

エリフはヨブとその友たちの誤りを正して言った。「神は断じて悪を行うことなく,全能者は断じて不義を行うことはない」

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