忠実の目標から外づれる
『なぜならば,すべての人は罪を犯し,神の栄光に達しないからである。』― ロマ 3:23,新世
1 ヱホバはどんな種類の神ですか? 彼は誰と交りますか?
私たちの神であるヱホバは聖い神であり全智の神です。そして,最高の尊貴を持たれている王です。ヱホバ神は,絶対的に清浄で,また正しくて,汚れを持たず,正義に全く献身されています。ヱホバ神は,汚れたもの,清くないもの,そして不法のことをするのに没頭している者たちを非常に強く嫌います。この絶対的に聖くて,汚れのない神は,ただ汚れのない,潔い者たち,そして彼への忠実を保つ者たちとだけと交ることができます。(詩 41:11,12)ヱホバ神だけが,全き心からの献身,愛,そして奉仕をうけるのに正しく価値ある方です。イスラエル人たちにたいして,彼はこう言われました。『私はあなた方の神であるヱホバであつて,あなた方は自らを潔め,聖なることを証明しなければならない,なぜならば私は聖いからである。』ダビデはこう言いました『おお神よ,あなたは悪をよろこばず,また,悪しき人は一人もあなたと共にいることはない。』― レビ記 11:44,新世。詩 5:5,カトリック聖書。
2 ヱホバは祝福し,そして幸福にさせるちからを持つていますか? なぜ『はい』と言えますか?
2 この聖い神はまた聖い王であり,そしてまた幸福な神です。(テモテ前 1:11)彼は常に全き幸福の状態におられます。それですから,尊貴を持たれているこの方は,真の幸福の一番の源であります。あらゆる祝福と,あらゆる完全な贈りものは彼から流れて来ます。『天の光の父』として,ヱホバは常にその力の最高の高さにおられ彼に交るものたちに幸福と祝福をもたらします。彼にとつて,それ以上の高さの地位にまで力を築き上げることも,またそのような最高の地位から力が衰えてゆくということもありません。この『天の光の父』は,私たちの自然界の太陽とは違います。太陽は東から日出して,天空の最高に来,それから西の日没のところに落ちて行く時,日時計には影の変化が生じます。ヱホバは祝福を与え,そして幸福にする絶対最高の力を持つており,そしてヱホバのなされることに,私たちは全き確信を持つことができるのです。それらの点について,ヤコブはこのように書きました。『あらゆる良い贈り物と,あらゆる完全な賜物は,上からのものである,というのはそれは天の光りの父から降るからである。そして,父については,影が廻つて生ずる変化というものはない。』― ヤコブ 1:17,新世。
3 ヱホバは誰に合法の認めを与えますか? なぜ?
3 幸福で聖い神は,また友情のある神であり,忠実な助け手であります。そうです,彼と関係をもつている,聖くそして義しいすべての人たちにたいして,彼は本当に友であります。彼こそ,もつとも信頼を置ける友であります。彼はただ,友人としての関係を保ち続ける者だけと交渉を持たれます。彼の友だちは,個人的にも,また彼を王として認めるにしても,彼にたいして誠実,全き献身そして忠実を持つことによつて特徴が表されています。その証明を証した友たちに対して,彼らはヱホバの幸福な制度に交るものとして,ヱホバは神権的な合法の認めや,恵みや祝福を与えます。(ロマ 11:2)アブラハムの場合に気をつけてみましう。アブラハムは,神の証明された友として合法の認めを与えられ,そして信仰によつて義とされました。『アブラハムはヱホバに信仰を持ち,そしてその信仰は義しきものと認められ,彼はヱホバの友と呼ばれるようになつた。』ヱホバがその友の如き助け手であつた時,イスラエルは国民として幸福でした。イスラエルよ,あなた方は幸福である! あなた方のように,ヱホバの救いを楽しむ民は,誰であろうか? あなた方の助け手は楯であり,剣である方はあなた方の高貴な方である。』― ヤコブ 2:23,申命記 33:29,新世。
4 その友たちにたいして,ヱホバは何の目的を立てますか? あなたはそれを説明できますか?
4 神権的な友情関係を持つ神は,何を目的とされますか? この最も大いなる友は,善を目的とされます。その善は,神であると共に王である彼自身と,また彼と聖なる一致を持ち,調和を保つすべての人々に,終りない幸福とよろこびをもたらすものです。聖なる神は,その僕たちにたいする善の目的を表わし示されますが,それは,よろこびに充ちたある存在期間から,次の期間へと,幸福の漸進的な状態を経験する機会を僕たちに与えることによつてなされるのです。どんな期間であつても,楽しまれた幸福の真の状態は,全き満足,よろこび,そしてたのしみの状態です。というのは,神と合法的な一致にいる彼の友だちのたのしみとよろこびのために,幸福な神によつて新しくもたらされる善きものが全く豊富にあるからです。『神を愛する者たちの善のために,神はそのすべての業を協力させられるということを私たちは知つている。それら神を愛する者たちは,彼の目的に従つて召されているのである。』― ロマ 8:28,新世。
自由意志への導き
5 愛ある父として,ヱホバはどのように自らを表わしますか? なぜ?
5 聖なる神は,また愛ある父でもあります。彼は最初にして最も大いなる父でありますので,友の如き従順な子たちで成り立つ家族のような制度を,どのように運営するか,彼は最も良く知つております。すべての霊者と最初の人間アダムは,完全に創造されてヱホバの子たちとなりました。それぞれは,神の像と様子にしたがつて造られ,そして自由意志というすばらしい贈り物をいただきました。自由意志というこの能力は,聖なる信用であつて,賢明に用いられるべきでした。天使であれ人間であれ,それぞれの造られたものは,その自由意志を良い方法に用いて,絶えず聖なることと,永遠の生命を得るという結果になるか,または悪い方法に用いて,腐敗,不潔,そして遂には死に果てるということもできました。最初から,創造者 ― 父は,その自由意志の子たちが,完全な幸福な状態にい続ける良い道に導こうと手段を講ぜられました。それで,彼らが自発的に,自由意志より忠実の路に従い続けたならば,彼らは目的あるものとされ,よろこびをつねに与えられ,そして幸福と良きことの源である聖なる神と密接な関係を保ち続けたことでしよう。―詩 25:21。シンゲン 11:3。ルカ 3:38。創世 1:26。
6 彼よりも低いものたちの正しい道を導くのに,どんな手段をヱホバは取られましたか?
6 自由意志を持ちながらも,神よりも低くつくられたものたちの正しい路を導くため絶対の自由を持つ神は,それではどんな手段を取られましたか? それは忠実の目標を設けることによつてです。その目標とは,つくられたものが,その最高の恩恵者である神とともに王である方に心からの全き献身を献げるかどうかを示すものです。また,その目標はある行いについて合法的な制限を置くものです。そのある行為以上につくられたものがその自由意志を勝手に用いて,しようとする時,神より認められないものでしよう。ヱホバは全能の神でありますので,彼より低く造られたものの相対的自由について,安全な境界をはつきり定め示す絶対の権利を確かに持つて居られました。それですから,そのように合法的に発表された制限によつて,つくられたものは,低い関係すなわち従属の関係にいるものであるということが常に思い起されました。また,つくられたものは,最高の主権者である神の御意をいつもたしかめ知らねばならないということを思い起されました。イエス・キリストは,地上にいる時に,これらのことを良く認識しておられていました。(マタイ 26:39)それに,そのような合法的な制限によつて幸福な存在をすぐ楽しむために是非必要なものが与えられないからといつて,つくられたものは,神によつて,辛いくるしいことがなされたということはありません。さらに,子たちが合法的な権利を持つているものを,神は禁じて差し控えることはありませんでした。そして,最後に,善を行うことについて,ヱホバはその友を試験する権利を持つておられました。アブラハムの友としての関係は,アブラハムの一人息子を犠牲にするようにと言われることによつて試験されました。そのことは,ヱホバが,彼の独り子を贖いとして与えるという良いことを予表しました。―創世 22:1-4。
7 神の僕たちは,神の二つの職務を,どのように尊重すべきですか? 彼らはどのように神の栄光を表わし示しますか?
7 ヱホバの制度の中にいるすべてのものにとつて,彼は聖なる神であると共に,絶対の王であります。その二つの職務を持つているために,ヱホバは全き心からの献身と,完全な従順,そして熟練した奉仕を要求する権利を持つています。ヱホバに対して,全く心からそのように行うことは,完全な忠実です。つくられたものが,神であると共に王である方の定められた忠実についての合法的な目標を尊重するならば,この真に聖なる方への忠義と誠実を,彼らは表わし示します。友情の関係を表わし示すものと神が考えられるこの定められた目標にかなうことにより,彼らはヱホバの前で合法的な立場を持つものです。自由意志で決定して,そして愛の心からヱホバの御意をしようと欲するものたちをつくられるのが神の目的でありますから,この神の定められた型に従うものたちは,ヱホバに讃美と栄光を捧げるようになります。それで誠実なものたちは,忠実の目標に従い達することにより,全き心からの献身のうちに神の栄光を表わし示しているということが,聖書から見て言えるでありましよう。(列王紀略上 9:4。詩 26:1-11,12)このことを支持するものとして,ヨシュアは次のように言つて真理を述べました。『彼は,全き心からの献身を求める神であられる。』― ヨシュア 24:19,新世。
罪
8,9 罪とは何ですか? ギリシヤ語とヘブル語で,『罪』という言葉の背後にある基礎の意味は何ですか?
8 さて,全き心からの献身,完全な従順,そして忠実を保つという目標が破られるならば,どういうことになりましようか? それは,目標から外ずれることになります。それは神の律法を破るという非常に悪いことになり,その結果は,神の栄光に達しないということになります。あらゆるものにもまして,それは,神であると共に王である方に対しての叛逆となります。これらはみな罪と呼ばれます。このために最も重い罰である死をうけるのは当然です。今日の国家でも,国家への叛逆は,最も重い罰である死が,その叛逆者にもたらされるのと丁度同じです。いま私たちは,そのような聖くない立場におるのであります。パウロは次のように正しく言いました。『なぜならば,すべての人は罪を犯し,神の栄光に達しないからである。』― ロマ 3:23,新世。
9 使徒パウロは,ギリシャ語を話す聴衆にギリシャ語で語りましたが,そのギリシャ語では,罪(ギリシャ語でハマーテイア)という言葉は,もともとに外ずれるということを意味しました。例えば,道から外ずれるという具合です。それから,その言葉は,あることをするのに失敗する,私たちの目的に失敗する,私たちの点から外ずれる,間違いをするという意味になりました。パウロはヘブル人でしたので,彼の読んだ聖書のヘブル語の部分では,罪する(ヘブル語でハタ)という動詞は,同じようにもともとは外づれる,それで失敗するという意味でした。例えば,シシ記 20章16節(新世)にはこう書かれています『この民のすべてのなかより,七百人の選ばれた者は左利きの者であつた。これらの者たちは,投石器で石を投げたが,毛すぢも間違わず外ずれなかつた。』またシンゲン 19章2節はこう言つています『考える前に行うことは無益なことである。急いですることは,目標から外ずれることである。』(モハット訳)次のシンゲン 8章36節にも注意してください『私(智慧)から外ずれるものは,自らを害するものである。私を憎む者は,死を愛す。』(ア訳)それで,罪とは,神の御意と律法をすることから外ずれる,または失敗するということです。『罪を行う者は,誰であつてもまた不法のことを行つているのである。それで,罪は不法である。』『すべての不義は罪である。』― ヨハネ第一書 3:4; 5:17,新世。
10 天使たちが試験されたという証拠はありますか? もしあるならば,それは何時でそしてどのようにしてですか?
10 完全な忠実という目標によつて,天使たちが試験をされたという聖書の証拠はありますか? あります。ペテロはノアの時代に『罪を犯した』または目標から外ずれた天使たちのことを述べ,そして神はそれら天使たちの不法に対して,彼らを罪するのを差しひかえなかつたと述べています。(ペテロ後 2:4,5)どんな自由意志の道にこれらの天使たちは従いましたので,その生命の路についての明白な禁止をも犯し,そして全き心からの献身にも反対してしまうようになりましたか? 聖書は,このことについて,次のように答えています『さて,人は地の表で,その数が増し始め,娘たちが生まれるようになつた。その時,神の子たち(天使)は人の娘たちに気がつき,彼らが美しい者であることを見た。神の子たちは,選んだすべての娘たちを自分の妻にした。』(創世記 6:1,2,新世)幾年か後に,神が天使たちの上に置いた合理的な制限の一部をイエスは,表わし示しました。天にいる誠実で聖い天使は,結婚したり,嫁いだりすることはないとイエスは言いました。(マタイ 22:30)それですから,ノアの時代の大洪水以前に,人間の娘たちと同棲したすべての天使たちは,完全な従順という目標から外ずれてしまいました。これらの悪い心を持つた天使たちは,神の真の友では全然ないということを証明し,彼らの首領である悪魔サタンと共に,神の敵としてヱホバの天の家族制度からおい出されています。それで,彼らは自らの自由意志をつかつて悪の道に走りましたので,自分自らの上に不幸をもたらし,その最後は全くの絶滅ということになるでしよう。―ルカ 8:31。
エデンにあつた忠実の目標
11 エデンで神が置いた忠実の目標は何でしたか?
11 しかし,最初の完全な人間については,どうでしようか? 聖なる友であると共に恩恵者であるヱホバ神の前にあつて,その道を賢明に導くよう人間の前におかれた忠実の合法的な目標は何でしたか? それは,明白に言われた特定な律法であつて,その律法を破るならば,それは友情の関係を破つたもの,叛逆,そして罪の行いと,神は,考えられるでしよう。その律法は,完全なアダムと彼の美しい妻に明白に置かれました。『そしてヱホバ神はまたこの命令を人間においた「庭園にあるどの木からも,あなたは十分満足に食べてもよい。しかし,善と悪を知る木については,あなたはその木から食べてはならない。なぜならば,あなたがその木から食べる日に,あなたは必らず死ぬであろうから。」』この目標については,不明瞭のところは全くありませんでした。その目標はやさしく理解できました。その目標はやさしく守れました。この目標から外ずれた結果もまた明白に述べられていました。すなわち,そのような叛逆の行いにたいして,人間は必らず死ぬであろう。―創世 2:16,17。
12,13 アダムとエバの前に神は目標を置かれましたが,なぜそのことは当然に正しいことでしたか?
12 人間の福利のために,ヱホバ神は忠実のこの目標をつくられましたが,そのことについてはヱホバ神は絶対の権利を持つて居られました。人間が自分自身のことを知つていたよりも,ヱホバは人間をより良く知つていました,なぜならばヱホバは人間を創造された方だからです。この変らずにある目標によつて人間が,その創造者 ― 至高者に依存する低い者であるというのを忘れないことは,人間の福利のためであるとヱホバは知つておられました。神と人間の間にそのような導きの道標を準備することによつて,実際にヱホバは,愛の神として真の愛を表わし示しました。この合法的な制限を受けたからとて,アダムと彼の妻になにも辛く苦しくなることはありませんでした。というのは,楽園の庭園にいて幸福な生活をするのに,彼らから必要なものが取り去られるということではないからです。他の木から果実を食べる合法的な権利を彼らは持つていました。しかし,この特別な木についてだけ,彼らから食べる権利は失われていました。
13 若しアダムが,受けるにふさわしいことを証明したならば,非常に価値ある賜物が彼のために準備されていました。ヱホバ神は,エデンと呼ばれる地の区域の東の方にあつた大きな地域にアダムとエバをおきました。この大きな地域は,非常に高い程度にまで開墾されていました,というのは神によつて設計されて置かれ,美しい楽園で庭園であると共に荘園になつていたからです。それに加えて,この地域には,あらゆる種類の害を加えぬ動物で一杯でした。同様に,果実を結ぶ木や,あらゆる種類の植物で,この地域は良く植えられていました。実際には,この地域はたんに始まりのものであつて,遂には計り知れない鉱物の資源を持つ全地球にまで拡大されるべきでありました。神の与えられたこのすばらしい美と,平和と,調和,そして大きな自然の富の中にあつて,アダムとエバは幸福な家庭を持ちました。あらゆる完全な贈り物をされる大いなる神は,その証せられた友としてアダムにそのようなものを永遠に持つという価値ある権利を,渡す前に,アダムを試験をしましたが,神は確かにそうする権利を持つておられました。誰が今日,財産の非常に価値ある賜りものを自由に敵に渡すようなことをしますか? 正常な心を持つている人は,そうしないでしよう。神の場合も同じです。人間は最初に,神であると共に王である方に対して忠義を守る友,そして信頼するに足る友であることを自ら証明しなければなりません。この原則と一致して,ヱホバ神は後に,地上にいるイエスを試験されましたが,それはイエスが新しい世の王となるのに果して適しており,そして価値があるかということを試験されたのでした。―創世 2:8。ヘブル 2:18。
14 さらにどんな理由によつて,ヱホバはアダムと彼の妻を試しましたか?
14 最初にアダムとエバは,このすばらしい地域に置かれましたが,その寿命はどれ程の期間か定められていませんでした。地上に栄えていた他の動物は,彼らに与えられていた制限された寿命を持つていたことは明らかです。(ペテロ後 2:12)どの特別な動物の種類も,その寿命だけ生きて,地の増しつづける富に貢献をし,それから死んで行きますが,それはその子孫が,その族または種に割りあてられた終生の仕事をして行くためです。(偶然なことですが,動物が死んで行くのをアダムが見たことは,忠実の目標を守わないことに対する刑罰として,ヱホバがアダムに発表して用いられた言葉『死』に強い力がつけ加えられました。)しかし,アダムについては,ヱホバ神は彼の寿命をはつきりと定めませんでした。むしろ,アダムの寿命の期間は,開放の状態であり,忠実の合法の目標を守ることに依存しました。しかしなから,人間の構造は,もともと人間が永久に生きることができるようつくられたものです。それで,贈りもののうちで最も大きな贈りもの,すなわち終ることのない寿命である永遠の生命を楽しむのに,アダムとその子孫たちが価値あるものであるかどうかを試験する更に別の権利を,神は持つておられました。このより大きな贈りものは,庭園にあつて,『生命の木』として知られている別の合法的な道標と結びつけられていました。
善と悪
15,16 (イ)この忠実の目標は,あきらかにどんな種類のものでしたか?(ロ)他の法定の象徴について,どんな例がありますか?
15 忠実の目標が,『善と悪を知るの木』に結びつけられていたということには,何が意味され,示されているようですか? この禁じられた木を実際に触れても,また食べても,身体の上に益もまた害も生じなかつたことは明らかです。むしろ,この木と関係を持つことは,良心に影響するようでした。後になつてアダムにエバがこの木の果実を食べた時に,その肉体の上に表われた反動を聖書は記録していませんが,しかし彼らの良心は,すぐに罪を犯したと感じたということを聖書ははつきりと示しています。『それで,二人の目は開け,彼らは,裸であることを自覚し始めた。』(創世 3:7,新世)彼らの目が開いたといつても,それは彼らの身体の目を指していることはありません,なぜならばその違法の行いをした時に,彼らの目は十分に開いていたにちがいありません。それで,反応をしたのは「彼らの心の目」または良心です。そして,また神の智慧で満たされた大きい頭脳の能力をうけたことではありません。(エペソ 1:18)別の興味ある事実はこうです。正しいものと間違えているもの,あるいは善と悪との間を『知る』,または裁くことは常に支配者であるということです。アダムを庭園から追放した時に述べられた神の言葉の中に,このことは言われています。その言葉から,アダムは何が『善』また何が『悪い』かということを『知る』ために,自分自ら裁き人になろうと決定したことが推測されます。そうすることによつて,彼は天の至上の権威を拒絶しました。『それからヱホバ神は言われた「ここに人間は私たちの一人のようになり,善と悪を知るようになつた。」』これらの言葉によつて,次のように結論づけられます。すなわち,神であるとともに王である方と,人間の間にある互いの政府的な関係にあつて,その木は合法的なしるしまたは象徴,道標として役立つたということです。―創世 3:22,新世。
16 この木の道標としての性質については,似ている意義を持つものがあります。それは,ラバンとヤコブの間の合法的な徴としてギレアデにつくられた証しの塚は,両人の互いの合法的な行いを牽制しました。(創世 31:48-53)別の例えは,現代のものです。非常に重要な法定の書類が封筒に入れられ,糊で封せられて,その上に公式の印がおされている場合に,開封する資格のない人は,その封筒を開けるべきではありません。もしそのような人が開けるならば,書類の機密性を破ることになります。罪となるのは,封印を実際に破ることではありません。禁ぜられている封印を見過してしまうという不法のくわだてこそ罪となるものです。その禁ぜられている封印とは,封筒の内部にあるものにたいして単に法定の象徴または防禦するものです。
17,18 (イ)『善』と『悪』の定義は,何ですか?(ロ)何が善であると,誰が決定しますか? これは何を確証づけますか。
17 次の質問は,『善』とは何ですか? そして『悪』とは何ですか?ということです。善とは,正しくて完全で,そしてヱホバの規則と正しい振舞いの原則と調和一致するものです。悪とは丁度その正反対です。悪とは,間違いであり,正しい振舞いの規則と原則と調和しないものです。創造者である神は,数日の創造の日の結果を『善し』と言われ,判断されました。(創世 1:10,12,18,21,25)成熟していないもの,または子供は,正しい振舞いについて規則をつくり,そうして何が善であり,何が悪いかを定めることができますか? もちろんできません。それですから,地上の父親たちは,子供たちをこらしめて,至上の権威によつて明白に定められている善の標準に従わせようとしているのです。(ヘブル 12:7-11)善であることの規則を決定するのは,下の位のものではありません。そう決定する方は,法律を作る上位のものです。ヱホバ神こそ最終の裁き主でありまた支配者です。そして,実際に何が善く,何が悪いかを決定される方です。
18 ある人はイエスのところに来て,何が善であるかについて彼に尋ねました。イエスは,正しい答えを彼に与えて,こう示しました。すなわち,ヱホバ神だけが善を決定される唯一人の方であり,また神はつねに正しいことを命令されるのであるからつくられたものは,神の命令することに従わねばならないということです。『さて,みなさい! ある一人の人が彼のところに来てこう言つた「先生,永遠の生命をえるために,どんな善を私はしなければなりませんか?」 イエスは彼に言われた「何が善であるかについて,なぜ私に尋ねるのか? 善である方は一人おられる。生命に入りたいと欲するならば,いましめをつねに守りなさい。」』― マタイ 19:16,17,新世。
19,20 (イ)この地に,罪はどのように導き入れられましたか?(ロ)原罪は,性の密通となぜ関係がありませんでしたか?
19 悪魔サタンは卑劣にも,何が善であるかを決定するヱホバ神の権利に対して,論争を引きおこしました。それはいまから約6000年前,エデンの中のことでした。サタンはエバに悪い考え方をうつし,下位のもので低いものである彼女の中に悪い欲望をかき立てて至上の支配者ヱホバを無視させ,ヱホバの代りに,何が善いか悪いかについて彼女自らで判断させようとしました。『それを食べたその日に,あなたの目は必らず開き,また必らず神のようになつて,善と悪とを知るようになると神は知つているからである。』エバの中にあつたこの悪い欲望は,充ちみちて彼女はその禁ぜられた木を食べるという行いをするようになりました。『それで,女は,木の果実が食物として善く,目に美しく,見るからに良いものであるのを見た。女はその果実を取り始め,食べ始めた。後に,夫が共にいた時女はいくらかの果実を夫に与えた。そして夫はその果実を食べ始めた。』ここにおいて,アダムとエバは,完全な従順と忠実という神の目標から外づれ,永遠の恥辱を自らの身にもたらしました。全くその時から彼らは不幸,不法,不潔そして結局には死という道に入り従いました。彼らは至上主権者御自身の規則と言葉を無視し,そして重い叛逆という行いをいたしました。―創世 3:5,6,ヤコブ 1:14,15新世。
20 キリスト教国の中の或る宗派はこんな風に主張しています。すなわち,アダムの原罪は,密通をしたことと関係していたというのですが,その主張は間違いであるということに注意しなければなりません。性交は問題とする点ではありませんでした。それは,人間にたいする定められた目標となるのではありませんでした。それより前の命令によつて,夫と妻が性関係を持つことは,合法的となつて許されていました。(創世 1:28を見なさい)アダムの原罪は,定められた目標から外づれることをした悪い行いでした。アダムは,神であると共に王であるヱホバを拒否して叛逆し,何が善であり,何が悪であるかについて規則の別な形式をうけ入れましたが,それが彼の原罪でありました。
結果は聖くない
21,22 アダムの罪の結果は何でしたか? 家族の無資格とは何ですか?
21 この一つの叛逆の行いは,意識的にした罪のものであり,その結果はアダムだけではなく,アダムより生じた彼の家族にも全地に亙つて,災いをもたらすこととなりました。『一人の人によつて罪は世に入り,その罪によつて死が世に入つた。それで,死はすべての人に及んだというのはすべての人はみな罪を犯しているからである。』(ロマ 5:12,新世)アダムは,いまや法律を破つたものであり,以前には神であると共に王であつた方の敵となりました。それで,直ちにヱホバによつて法庭に呼び出され,女とまたサタンの支配した蛇とともに有罪であると判定され,宣告されました。アダムと彼の妻は,それ以後は叛逆者として神の聖い制度から追い出されました。人間は,エデンの完全な庭園から追放され,最後には死ぬという限定された寿命を与えられました。そして,顔に汗をながして生活を立てるために,未だ開墾されていない地の部分に住まねばなりませんでした。(創世 3:16-19)ヱホバ神は,もはや彼らの愛ある友でもなければ,賢い助言者でもありませんでした。そして,アダムとエバは神の制度より追い出されてしまいましたので,彼らはその未熟でまた未経験な判断にしたがつて,自給自活の道を構じなければなりませんでした。激しい仕事の辛い苦しさ,人間のつくつた制度がもたらした失望と悲しみ,そして彼らの息子が,気の狂つた人殺しの兄弟によつて殺されて,最初の人間が死ぬのを見るという非常な悲劇これらすべての苦しみは,かつては完全な人間であつたという構造の機能をだめにしてしまう傾向へと導きました。病気がひろまり,そして遂には死がその後に続きました。完全な人間イエスが木の上にかかつた時,彼の神経系統の上に生じたおそろしい苦しみは,どのように彼の死を早めたかを忘れないでください。
22 子供たちは両親の資産と負債を相続します。アダムは,聖くない者,叛逆の追放者,エデンの美し庭園の地を持つ権利を有しない者,限定されない生命の寿命を持つ権利を有しない者として,死にましたので,これらの無資格または不利益は子孫の上にも来ました。それで,叛逆の族長として,アダムはすべての人間の人種の上に,家族の無資格をもたらしました。
23,24 (イ)最初の1600年間,どんな種類の記録を罪はつくりましたか?(ロ)これらの結果に対して,ヱホバはどのように見られましたか?
23 追放されてから後に,何が善であり,何が悪であるかについて,アダムはその聖くない不完全な判断に依存しなければなりませんでしたから,彼の930年という寿命の残つている年の間,彼はますます真の忠実という神の最初の目標から外づれていつたことでしよう。腐敗して下落して行くこの傾向は,次から次へと時代がたつにつれて彼の子供たちはより大きな堕落をするということへ導きました。ついに約1600年の後に,人間はそんなにも堕落して聖くなくなり,完全な忠実という目標から非常に外づれましたので,ヱホバは地に人間をつくつたことを残念に思い心苦しく感じました。ただノアだけが,全く義しいものであると証明されました。ノアもまた罪人として生まれましたので,完全という神の始めの目標から外づれてはいましたが,しかし彼の時代の他の人たち程に堕落していませんでした。詩 51:5。
24 『ついに神は,人間の悪が地に大きくなり,人間の心にある考えはいつも悪だけに傾いているということを見られた。それでヱホバは地に人間をつくられたことを残念に思い,心苦しく感じました。それでヱホバは言われた「私が創造した人間や,家畜や,匍う動物や,天の飛ぶものを,地の表面からふき去ろう。なぜならば,私はそれらのものをつくつたことを残念に思うからである。」しかし,ノアは,ヱホバの目の中にあつて恵みを受けました。ノアは義しい人でした。その当時の人々の中にあつて,ノアは欠点のない人であるということを証明しました。ノアは神と共に歩きました。』(創世 6:5-9,新世)ある人はこんな風に尋ねるでしよう。ノアの時代の大洪水で,8人の良い人を除いて,神はすべての人を滅ぼしたのであるならば,その後になつて,人間が完全の状態にまで引き上げられ向上される見込みはどのようでしたか? この質問の答えについては,次に続く記事を見てください。