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エバ ― 同等のものか,それとも補うものか
「人が独りでいなくてもすむよう,別の被造物を創造することを決意した神は,『力において男と同等のもの』,男と同等の強さを有するものを造ることにした」。聖書言語学者R・デイビッド・フリードマンは聖書考古学レビュー誌の中でこのように主張しています。これは,創世記 2章18節中の二つの語に関するフリードマンの新しい解釈に基づくものです。その箇所のヘブライ語本文は次のように訳されてきました。「わたしは彼に,助けとなる伴りょを造ろう」。(カトリック・エルサレム聖書)「わたしは彼のためにふさわしい助け手を造ろう」。(新ユダヤ出版協会)『我彼にかなう助者を彼のために造らん』。(文語聖書)「わたしは彼のために,彼を補うものとなる助け手を造ろう」― 新世界訳。
女性は『力において男性と同等のもの』として造られたというフリードマンの考えは,大半の聖書翻訳者の学問的見解とは明らかに調和しません。伝えられるところによれば,聖書の編集者また翻訳者であるバーガー・ピアソンは,普通とは違うこうした訳し方に影響を与えたと思われる要素について,そのような変更は「最近になるまでだれも考えつかなかったことであろう」し,女性解放運動が行なわれるようになったために現代になって初めて考え出されたものである,と述べました。
男性を「補うもの」またその「助け手」としての女性の役割は,神の霊感を受けた言葉の他の箇所に見いだされる陳述によっても裏付けられています。例えば,使徒ペテロは,女性が『力において男性と同等のもの』として造られているという考えを支持せず,かえってこう諭しています。「夫たちよ,同じように,知識にしたがって妻と共に住み,弱い器である女性としてこれに誉れを配しなさい」。(ペテロ第一 3:7)しかし,補うものとしての女性の役割は女性を劣った存在にするわけではありません。実際のところ,女性は,神の物事の取り決め内において,男性を補うものとなるさまざまな特質を有しています。―コリント第一 11:3,11,12。エフェソス 5:21-33。
枢機卿の訓戒
オヤ・ディオセサナに載った書簡の中で,マドリードの枢機卿タランコンは,「クリスチャンたちに,神と教会だけでなく,政治社会に対する務めをも思い起こさせるべきである」と司教たちを訓戒しています。それはなぜでしょうか。同枢機卿は次のように述べています。「[総選挙直前の]時期であるから,率直な言葉で語って,だれも自分の務めを忘れることがないようにする必要があると考える。宗教上の理由もしくは愛国心のゆえに棄権することは正当化できない」。そして,さらにこうつけ加えています。「我々司教はわが祖国の最善の益を願っており……勝利を得るよう力を貸すべきである」。
これは,イエス・キリストの言葉と何という対照をなしているのでしょう。クリスチャンの群れの真の羊飼いである人々に対して,キリストはこう告げられました。「だが,あなたたちはこの世のものではない。わたしはあなたたちをこの世から選び出した。だから,この世はあなたたちを憎むのである」。イエスは,ご自分の追随者たちに,「祖国の最善の益」を求めるよう訓戒するのではなく,「まず,[神]の国……を求めなさい」と諭されました。―ヨハネ 15:19; マタイ 6:33,カトリック・フランシスコ会訳。
今日の家族関係
最近のニューヨーク・タイムズ紙のあるページに,家族の事柄を扱った二つの記事が載りました。そのうちの一つは「中国における間引き」と題する記事で,赤子の女児の殺害とその母親に対する虐待について報じた「中国の新聞の記事」に言及しています。政府の人口抑制政策の施行に伴い,「おびただしい数の女子の幼児が惨殺されたり,でき死させられたり,遺棄されて死ぬままにされたりしてきた。そして,大勢の婦人が虐待されている」と,その記事は伝えています。
「親の扶養」という見出しを掲げた別の記事は,ある場合に「家族内の成人した成員が成人した親族を扶養する」よう求めることによって社会医療計画に要する経費を削減しようとする米国政府の案に異議を唱えています。「子供たちは親を選んだのでも,生まれるよう選択したのでもない。子供たちは恩返しの世話をするという契約を結んでいるわけでもない」というのがそこで展開されていた論議の一つです。人にはそれぞれ自分で考えなければならない引退と老後の生活があり,年老いた親によって“重荷を負わされる”べきではない,とその記事は述べています。
ジャーナリストは人間関係についてさまざまな見解を抱いているようですが,女子の幼児やその母親が虐待されたり,年老いた親が顧みられなかったりしていることには,他にも理由があるでしょうか。少なくともある程度は他の理由が関係しています。聖書が予告していた通り,人々が「自分を愛する者」となり,『自然の情愛を持たなく』なってきているため,こうした事柄が今日生じています。このような事態は,わたしたちがまさしく「終わりの日」にいるということの一層の裏付けとなるのです。―テモテ第二 3:1-3。