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目ざめよ! 1971
目71 6/8 26–28ページ

「あなたのみことばは真理です」

死とはなんですか

「死とは今日の最も重要な問題である」。これは,アメリカのエール大学教授で精神医学者のR・J・リフトンのことばです。彼は一生を死の研究にささげ,「死んだ人は現に死んでいるのである」という一つの結論に達しました。―ニューズウィーク,1970年4月16日号。

辞書や百科事典は,死とは何かに関する問題にほぼ同様の解答を与えています。したがって,省略されていないウエブスター第三新国際辞典によれば,死は「もはや生きていない状態」,「動物や植物またそれらのいかなる部分においても,回復の可能性がなく,あらゆる生活作用が終わること」と定義されています。

また「大英百科事典」(1959年版)の第7巻,108,110ページはこうしるしています。「動物および植物体の生活作用が永久に停止すること,生命の終わり,もしくは死んでゆく行為が死[である]」。

アメリカのイリノイ州シカゴにあるクック・カウンティ病院の麻酔学主任,V・J・コリンズ博士は,「あらゆる生活能力の停止」の中に何が含まれているかを明確に説明しました。人の死亡を決定するための五つの基本的要素を取り入れた「採点カード」を考え出したのです。それは「脳作用,神経の反射作用,呼吸作用,循環作用および心臓の動き」で,これらすべてが停止した時,死は絶対的なものとなります。―サイエンス・ダイジェスト,1970年8月号。

以上の事柄すべては聖書の述べる死の状態と一致しています。それで不従順に対する宣告として,神は最初の人間アダムに「あなたはちりであり,あなたはちりに帰る」と言われました。(創世 3:19,新英語聖書)アダムは神によって地の塵から作られる以前どこにいましたか,彼は存在していませんでした。実在していなかったのです。アダムという人はいませんでした。ですから,かつての状態に戻ったアダムはどこにいますか。天にも,地獄にも,煉獄にもいるわけではありません。彼は存在を停止したのです。アダムという人間はいなくなりました。実在しなくなったのです。

聖書の残りの部分は,死が命の欠如,非実存であることを意味している点に再三再四私たちの注意を促しています。それで聖書の詩篇記者は次のような助言をしています。「君たちにも,いかなる人間にも信仰を置いてはいけない。それは救う力を持っていない。彼は最後の息を引き取ると,ちりに帰る。そしてその同じ時に彼の思考すべては終わる」― 詩 146:3,4,新英。

命のむなしさについて語った賢王ソロモンは,死の状態に関して人間を動物になぞらえ,こう述べました。「人間は偶然の奴隷であり,けだものは偶然の奴隷である。そして,一つの不幸が彼らすべてを待ち受けている。つまり死がどちらにも等しく臨む。彼らすべては同じ息を吸う。人にはけだものにまさるところがない。なぜならあらゆるものは空虚だからである。すべてのものは同じ場所に行く。すべてのものはちりから生まれ,ちりにすべてのものは帰る」。「しかし,生きているものの中に数えられる人にはまだ希望がある。生きている犬は死んでいるライオンよりもすぐれていることを覚えておくように。まことに,生きている者は自分が死ぬことを知っているが,死者は何も知らない。彼らにはもはや報いがなく,彼らは全く忘れられている。彼らにとって愛,憎しみ,野心,すべては今や過去のものである」― 伝道 3:19,20; 9:4-6,新英。

しかし読者は,人間の魂はどうなるのかとお尋ねになるでしょう。神のことばは,神が最初に人間を創造された時,『人間は生きている魂になった』と述べています。さらに,「罪を犯した魂は死ぬ」ともしるしています。ですから,人間の魂についても,死後の意識が維持されることはありません。a ―創世 2:7,新。エゼキエル 18:4,新英。

確かに聖書は,「死んでいる」ある人々のことを意識を持つものとして述べています。しかし,それらの人々は,文字どおりにではなく霊的な意味で死んでいると言われているにすぎないのです。したがって,使徒パウロはこう述べています。「罪とよこしまにあってあなたがたが死んでいた時,あなたがたが現在の時代の悪い道に従った時があった」― エペソ 2:1,2,新英。

興味深いことに,神学者の間に見られる現代的な風潮は,死者は実際に死んでいることを認める方向を示しています。それで,アメリカのニュージャージー州にあるプリンストン神学大学のジェームズ・ラプスレーは死の問題に関する学術書の書評の中で次のように述べています。「文献は,魂の不滅性を信ずる西洋文明の伝統の衰退およびその結果として生ずる死の世俗化を反映すると同時に,それを証明する資料をあげている。ある優勢な神学的観点に立って,死の問題をさまざまな角度から扱った,『死に対する見方』と題する論文集の中で,L・H・シルバーマンとL・ケックは,魂が不滅であるという観念に聖書的根拠が一つもないことを示している」。―「今日の神学」1970年4月号。

ところがこうした事実にもかかわらず,キリスト教世界の非常に多くの僧職者たちは,葬式の際,人間の魂は不滅であると教える古い教儀に従った説教を今だにしています。プロテスタントの福音教会または根本主義派の牧師であれば,亡くなった人をその死に際して天の至福に託し,死者がたまたまローマ・カトリック教徒であれば,司祭は彼の魂を煉獄の責め苦に置くのです。

こうした事柄を考えると,かつてある葬儀屋から聞いたことばが思い出されます。彼はカトリック教徒やプロテスタント,ユダヤ教の信者など数多くの死者をほうむりましたが,葬式の話を聞いた後にエホバの証人を埋葬し,「死んでいる人を埋めたのはこれが初めてだ」とつぶやきました。

しかし,人間の魂が不滅であるという神話を捨てた,キリスト教世界のそれら僧職者たちは,彼ら自身認めるとおり,一つの問題に直面しています。それで,アメリカ中西部にある一大学の宗教および哲学科の教授ミントン博士は,「死に関する神学の心要」と題する一記事の中でこう述べています。「死を個人的に克服するという問題にまじめに取り組まなければならない。なぜなら,死が『世俗の』人にとって現実に問題であることは,盲人を除くすべての人の目に明らかだからである」。―ザ・クリスチャン・センチュリー,1970年3月25日号。

そうした『世俗の』僧職者にとって死はなぜ問題となるのでしょうか。文字どおりの天や,人間が不滅であるという神話に対する信仰を拒絶しただけでなく,死者の復活という聖書の与える希望をも拒絶したため,自分の群れの信者たちに提供するものを持たず,したがって,命が彼らにとって現実的な意味のないものになっているのです。しかし,聖書が死者は実際に死んでいるのだと教えているにもかかわらず,聖書をほんとうに信じている人にとって死は少しも問題になりません。なぜなら聖書は死者の復活という希望を差し伸べているからです。

使徒パウロは,コリント前書 15章で死者の復活を支持するすぐれた論議を展開しています。またイエスご自身も,「これを不思議に思ってはならない。なぜなら,墓の中にいるものすべてが彼[イエス]の声を聞き,出て来る時が来ようとしているからだ」と言われました。―ヨハネ 5:28,29,新英。

したがって,復活の希望は将来に見込みがあることを示していますから,現在の命を意味あるものにします。人が得た知識や築き上げた正しい行ないの型は,死によってとこしえに消滅するのではなく,復活の際に含められるのです。

[脚注]

a 「新アメリカ聖書」(1970年,ローマ・カトリック発行)の注によれば,「魂」ということばは「その人が生活し,希望を持ち,愛し,意志を持つものであることに重点を置き,さらにそれが具体的,肉体的なものであることを示しつつ,人全体」をさしていて,「魂と肉体は相反しておらず,また無関係な存在ではない。両者は一つの具体的な実在を単に異なった方法で描写したにすぎない」。

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