人間が完全な忠実に達する道
1 回復された地上の楽園を得るということは,誰に関係することですか?
前の記事の中で,人間は神に対する忠実を破り,そして目標から外づれましたので,どのように楽園を失つたかが分りました。いまから,罪人アダムの贖われた子孫たちは,回復された楽園をどのように得るかを研究しましよう。彼らが地上の回復された楽園を得るといつても,それは最初のアダムの家族のすべての者が,無条件で戻ることを意味しません。そうではなく,これは,別のアダムの下にある新しい家族制度に来る人々だけに関係するということが判ります。別のアダムとは,生命を与える父であつて,賢い牧羊者のように新しい群に注意を払います。イザヤ 9:6。ヨハネ 10:11-16。
2,3 アダムをエデンから追放して後に,神はなぜ彼に律法を与えませんでしたか? 生活のすべての関係支配する律法の完全な法典は,何時そして誰に与えられましたか?
2 まず次の質問をしましよう,アダムがエデンの楽園から追放された後に,ヱホバは彼に完全な従順という目標を再び語りましたか? エデンの庭園での法庭の裁きの後に,叛逆したアダムにむかつて神が再び語つたという証拠はありません。アダムが完全であつた時に,神は彼に律法を与えました。しかしアダムは利己的な心をもつてその神の律法を破りましたから,いまや不完全で叛逆したアダムに,神は律法を繰り返して話したりまたは新しい律法を与えて,アダムが最高の法律を与える神にたいして完全な忠実という目標に達するかもしれないなどと希望することはないでしよう。後になつて,ヱホバはアダムの子孫たち,たとえばアベル,エノク,ノアそしてアブラハムに話しをされました。これらの人たちは不完全ではありましたが,聖い人たちでありましたので,神は御自分の目的をいくらか示されました,そして神はアブラハムに責務を与え,彼に命令法令,また律法を与えたという記録があります。(創世 26:5。ペテロ後 1:1,21; 3:2)しかし,生命のすべての関係を支配する律法の,完全でそして詳細をつくした法典が,それらのうちの誰かに与えられたという記録はありません。実際に,モーセの時代まで神はそのようなすべてのものを含む律法の法典を与えなかつたと,パウロは示しています。しかしながら,罪とその友である刑罰の死は,王として支配し続けました。だが,アベル,エノク,ノアそしてアブラハムを含んで人間は,どれ程までに人間の完全さについての神の目標から外づれていたかを決めることはできませんでした。どの程度まで,人間は『神の栄光』に達していないかを知ることはできまんでした。なぜ?『なぜならば,(モーセを通しの)律法にいたるまで,罪は世にあつたが,律法のない時,誰も罪を負わせられることはない。しかしながら,死は王としてアダムよりモーセに至るまで支配し,アダムのした過ちの状に似ずに,罪をしなかつた者たちをも支配したのである。アダムは,将来に来るべき者に似ているものである。』ここにおいて,アダムのような者,すなわち第二のアダムの来ることをパウロは暗示しています。―ロマ 5:13,14,新世コリント前 15:45
3 しかし,モーセの時以前にも,ヱホバは他の律法を与えて,違犯者であるということを明らかにしませんでしたか? そうです。アブラハムに与えられた律法の他にもノアに与えられたもので,血を食べることを禁じ,また殺人を禁ずる律法がありました。(創世 9:4-6)アブラハムの孫の子にあたるヨセフは,主人の妻と淫行をすることは神に対して罪を犯すことであると語りました。(創世 39:7-9)ヱホバは,アビメレクの王を差しとめて,彼が知らずにアブラハムの妻と姦淫を行つてヱホバに対して罪を犯すのを防ぎました。(創世 20:6,7)これらの特定な律法は,ある人間の関係を支配しました,しかしそれらは,イスエルのような一国民を支配する完全な法典をつくり上げませんでしたし,また神であるとともに王である方への聖なる献身の特別な道を詳しく述べるものではありませんでした。生活のあらゆる面で,神であると共に支配者である方にたいしての特別な行いを支配するそのような法典は,仲立ちであるモーセを通して神が紀元前1513年律法をイスラエルに与えた時までありませんでした。
4,5 その律法の契約は,合法的には誰とだけに結ばれていましたか? どんな関係をそれは確立しましたか? それは,どのように聖いことを含みましたか?
4 律法の契約は,ただユダヤの国民とだけに結ばれていましたが,彼らがその契約の下で学んだこと,そしてその契約が指し示したことがらは,結局にはすべての国家の民に利益となるべきものでした。律法の契約は,10のいましめと,そして約600の追加された律法によつて構成された法規の一つの法典でした。全部の法典は,憲法として役に立ち,そしてイスラエル人を聖なる国民へと組織し,それでイスラエルは神であると共に王であるヱホバとの間に政府関係を持つようになりました。このことについて,ヱホバはイスラエルに次のように言いました。『もしあなた方が私の声に固く従い,そして私の契約を守るならば,あなた方は,たしかに他のすべての国民の中より私の特別な所有物となるであろう。なぜならば,全地は私のものであるからである。そしてあなた方は,私にとつて祭司と聖なる国民の国となるであろう。』― 出エジプト 19:5,6,新世。
5 モーセを通して与えられたこの律法の法典は完全でした。それは正しいもので,良く,そして聖なるものでした。(詩 19:7。ロマ 7:12。テモテ前 1:8)その法典は,聖なることの高い標準を表わし示しました。『聖い』そして『聖いこと』という言葉は,この律法の契約と関連して130回以上用いられています。その法典には,次のことがらを命ずる律法が書き含まれていました。すなわち,聖い安息日職務を掌る祭司たちへの聖い衣服,神であると共に王である方と彼の聖い僕たちとの間にある聖い集りの場所聖い注ぎ油,『聖いことはヱホバに属す』という文字が刻みこまれている大祭司の冠,聖い事がら,聖い大会,聖い寄附などです。また,民は清い食物を食べたり,体をいろいろ洗つたり,罪の代りの犠牲をささげたり,そして死んだものから離れていることによつて,彼らの神であると共に王である聖い方の前にあつて厳格に清さを保たねばならないと,律法は更に命令しています。―出エジプト 16:23; 28:2; 29:29; 30:25; 39:30。レビ記 5:15; 23:3。民数紀略 18:19。
叛逆
6,7 第一と第二のいましめを破ることは,なぜにそのような重い罰をうけるのが当然でしたか?
6 ある現代の人は,生きている神を無分別にも非難し,第一と第二のいましめを破つた者たちに,神が死の宣告を命ぜられたことについて悪くいいます。彼らの主張によるとそれらのいましめは,たんに道徳の律法であるというのです。(申命 13:6-10。レビ記 20:2)そのような人々は,次の事実を知つていません。すなわち,これら二つのいましめは,たんに道徳の法典への紹介であつたばかりでなく,国民についての書かれた法律の標準の一部であつたという事実です。実際には,憲法の前文であり,そしてそれだけに限らず,各イスラエル人が,最高の王ヱホバに対して持つた個人的な忠誠をそれらのいましめは支配したということです。第二のいましめによれば,心からの全き忠誠が要求されていることに注意しなさい。『あなた方は,それら(偶像)に礼をしてはならないし,また奉仕をするよう誘われてもならない。なぜならば,あなた方の神である私ヱホバは心からの全き献身を求める神である。』(出エジプト 20:5; 34:14,新世)それですから,イスラエル人が,ヱホバ以外の他の神に奉仕して,清い崇拝から離れ脱落し,または偶像に奉仕して偶像崇拝をするようになる時,それは第一と第二のいましめを破ることになります。国の中で最も重い犯罪を犯したのですから,最も重い刑罰をうけるのも当然であります。
7 聖書についての権威ジョージ・ブッシュが,この点について言つていることを聞いてごらんなさい。『出エジプト記についての手帳,批判,そして実際』という本の第3巻4頁で,彼は次のように言つています。『偶像崇拝は,もつとも悪化した人間の道徳の教えから見ても過ちとなつたばかりでなく,国家に対する叛逆の行いとなつたのである。偶像崇拝をすることは,実質上には,彼らの認めていた支配者の権威を拒絶したことであつた。それは,原の契約を破るもので,神に対する公やけの叛逆であり,誓いの忠誠を全く棄て去ることであつた。それであるから,あらゆる政府の確立された原則に基いて,彼らは最も重い罰をうけるのは,全く当然なことであつた。』
8 (イ)今日の国家の法律は,主権の威厳に反対して行われる行いを,どのように述べていますか?(ロ)今日のヱホバの証者は,何に慎重な考を払つていますか,そしてなぜ?
8 実際に,今日の国家の法律に従うと,主権の力の威厳に反対する前述の行いは,高い叛逆であると考えられます。そのような犯罪は,叛逆罪と言われます。叛逆罪とは,法律的には,主権の力に反対して行われた行為のことです。またはもつと特定の時には,主権の支配者の威厳を傷つけるいろいろな罪過の行為のことです。ボービアーの法律辞典(1934)の689頁は,それを『重い叛逆』であるとはつきり示しています。それですから,ヱホバの主権の威厳に対して,アダムがエデンで犯した罪過や,そして多くのイスラエル人たちが,彼らの神であり王である主権者への忠誠を破つたことは,現在の法律の標準に従つてさえも,非常に重大な罰を受くべき犯罪をしたことになるのです。罪とは何であるかを明白に示し,そして聖いことを強くすすめた律法の下に,イスラエル人たちはおりましたから彼らは祝福をうけることもできましたが,また失敗をして,目標から外づれ,そして律法を破つたために不幸な結果をうけたのでした。(申命 28:1-68)小心な悪口者たちに次のことを注意させなさい。すなわち,今日のヱホバの証者は,第一と第二のいましめの基調となつている原則に,いまでも慎重な考慮を払い,いかなる国の国旗に対しても敬礼せず,また偶像崇拝をしないということです。それは,ヱホバ神への全き心からの献身が,できるだけ清いままの状態でいるためです。
9 律法の手段によつて,ユダヤ人たちは自らを義とするのに成功しましたか? あなたの答えは,なぜそうですか?
9 不完全なイスラエル人たちが,この律法を完全に守つて,全くの聖さと正義という神の高い啓示された標準にまで達することはできましたか? 答えは,もちろん「いいえ」という,否定です。そのことは,律法の契約の行われていた約1500年の間,ユダヤの国民について書かれている聖書の記録に示されています。自分自らを義しいと思つた多くのユダヤ人たちは,律法の働きによつて彼らは聖くなり,そして,聖さについての神の高い標準にかない,また神は律法によつて彼らを義しいものと言い表わす,あるいは彼らを義としなければならぬと考えました。しかし,パウロは強調して,次のように示しています『しかしながら,律法の働きによつては,人間は神の前にあつて義しいと言われない』― ロマ 3:9-20,新世。
なぜに律法の契約
10 どのような面で,律法はユダヤ人たちに役立ちましたか? 律法は彼らに何を示したにちがいありませんか?
10 それでは,聖い完全な律法は,なぜユダヤ人たちに与えられましたか? 聖書に示されていますが,それには理由が三,四あります。第一に,聖さについての合法的な標準は,ユダヤ人たちにとつて鏡として役立つたに違いありません。法律の要求に反対して行う自分たちの生活を調べて,この鏡を見る度毎に,その鏡は罪とは何であり,そして彼らが神の完全な栄光からどれ程に離れていて,不十分であるかを示したに違いありません。このことについて,パウロは正しく次のように言つています『律法がなかつたならば,私は実際に罪を知るようにならなかつたであろう。』『なぜならば,律法によつて,罪についての正確な知識があるのである。』(ロマ 7:7; 3:20,新世)律法によれば,彼らの神であるとともに王である方の不快を和らげるために,動物の犠牲が必要でした。そして,その律法の下にあつて,彼らは全き心からの献身が不足しており,また欠点を持つているということを見る度毎に,真の贖い主が必要であると彼らは強く認識したに違いありません。それで,彼らが信仰を持つことのできるキリストへの願いを彼らは持つたにちがいありません。『この信仰が到達する以前には,私たちは律法の下にあつて守られ共に閉じ込められ,必らず表われるべきはずの信仰を待ち望んでいた。結局において,律法は,キリストに導く私たちの教師であつた。それは,信仰によつて私たちが義と言われるためである。』― ガラテヤ 3:23,24,新世。
11 さらにどんな理由によつて,律法の契約は与えられましたか? 事実は何を示しますか?
11 律法はどれ程にユダヤ人たちを導いて,キリストが来られた時に,彼をうけ入れさせねばなりませんでしたか? ヱホバ神との新しい関係を始めるようキリストが現われた時,律法はユダヤ人たちをして第二のアダムを認めさすことができたにちがいありません。そのことは,律法に書かれていました。『そして,あなた方は私の命令と裁きの決定を守らねばならない。もし人がそれらを守るならば,そのものはそれによつて生きるに違いない。私はヱホバである。』(レビ記 18:5,新世。ロマ 10:5)別の言葉で言うならば,その当時に全く聖い神の標準として役立つたすべての律法を残らず守つた人は,罪の無い人であつたでしよう。または,ヱホバから義しいと言われ,完全な人間としての生命を持つ権利が与えられたものでしよう。それで,この人は,罪を犯す以前の最初の完全なアダムと相当します。それですから,律法の契約によつて忠実なイスラエル人たちは注意をいつも払つていて,完全な贖い主としての資格を持つそのような完全な人を認めることができたのでした。これは又,彼らの約束されたメシヤすなわちキリストが果さねばならぬ別の要求でありました。完全に聖く,そして罪が無く,また神であると共に王であるヱホバに全く心から献身していて,しかも完全な人間としての生命の権利を持つというこの非常に大切な要求に,イエス,キリストはかなつていましたか? それにたいしては,全く確定的の肯定の答えです。イエスは彼の忠実を守りました。イエス自ら,自分は義しいと考えていた当時のパリサイ人たちを非難してこう言いました『あなた方のうちの誰が私を罪に定めるのか?』(ヨハネ 8:46,新世)イエスの資格についてのこの点に対して,パウロは次のように証言を加えています『このような大祭司は,私たちにふさわしいものとなつた。その方は愛ある御親切な方であり,偽りなく,汚されず,罪人から離れてそして天よりも高くなつたのである。』― ヘブル 7:26,新世。
12 なぜ律法は相当せる贖いが必要でしたか? 誰がその贖いを与えましたか?
12 実に一人の神がおられ,また神と人間との間に一人の仲立ちがおられる。すなわち人間キリスト,イエスである。彼はあらゆる人間のために御自身を,相当する贖いとして与えられた。イエス,キリストは,最初の完全なアダムに相当した人間であつたとこの聖句は確証しており,そしてまた不従順の故に失われたアダムの魂の代りに,人間の贖い主として彼の魂を与えられたということをも確証しています。神の律法は,あるものにたいしてはそれと相応せるもの,魂にたいしては魂というこの要求を前もつて予表していました。『しかし,もしも命をなくすような事故が起きるならば,あなた方は魂に対して魂を与えねばならない。』忠実な人間の多くの人のために贖いとして自分の魂を与えたとイエスは個人的にも証言しました。『人の子が来たのは,仕えられるためではなくて,仕えるためであり,多くの人のために引き換えの贖いとして自分の魂を与えるためである。』― テモテ前 2:5,6。出エジプト 21:23。マタイ 20:28,新世。
新しい道
13 人間のために,どんな新しい道が必要でしたか? なぜ? 誰を通して新しい道は來ましたか?
13 すでに学びましたように,律法の契約による取り極めは,不完全で堕落したユダヤ人たちを,完全で聖いという神の高い標準にまで引き上げませんでした。それで,神より見て,人間がその完全さに引き上げられることは,ちがつた取り極めによつてなされねばなりません。『実に,律法(契約)は,なにものをも完全にしなかつた。しかし,より良い希望がもたらされたことは,完全にしたのである。そのより良い希望を通して,私たちは神に近づいているのである。』それでは,人間を神に近づけるのに成功し,そして遂には,神より見て人間を義しきものまでに引き上げる,そのより良い取り極めとは何ですか? 西暦33年ヱホバはイエスの『苦しみの杭に律法を釘づけすることによつて』合法的に律法を終結させましたが,その時に律法契約の制度は終りました。それは新しい取り極めへの道を開きました。その新しい取り極めは,神の前にあつて正義へと人間を引き上げるものであり,贖い主であるイエス,キリストによつて指導されるもので,神の恵みある御親切の道です。『罪があなた方の支配者であつてはならない,というのは,あなた方は律法の下にいるのではなくして,恵みある御親切の下にいるからである。』『律法はモーセを通して与えられた。恵みある御親切と真理は,イエス,キリストを通して来たのである。』― ヘブル 7:19。コロサイ 2:14ロマ 6:14。ヨハネ 1:17,新世。
14,15 (イ)新しい道は,どのように明白に始められましたか? 先ぶれは,どんな発表をしましたか?(ロ)『終りのアダム』は誰ですか? 人間を向上させる新しい計画について,彼はなぜに実際的な説明を与えることができましたか?
14 地上で宣教した3年と半年の間,イエスは完全に引き上げられ,向上される新しい道を全く準備し,そしてその新しい道が忠実な人間の永遠の福利のためにどのように働くかを示されました。西暦29年の秋に,ヨルダンの河でイエスが洗礼をうけた時に,キリストの先ぶれの発表者であつた洗礼者ヨハネは,次のような注意を引く驚きの言葉を発しました,『「みなさい,世の罪を取りさる神の小羊! ………私が水で洗礼をし始めたのは,彼がイスラエルに明白に表わされるためである。」……「天から鳩のように聖霊が降りてくるのを私は見た。そしてそれは彼の上にとどまつた。……それから,私はそれを見て,このものは神の子であると証言するのである。」イエスの献身した日に,ヱホバ神の聖なる活動力は,鳩の形のさまに現われて,イエスの上にくだりました。それは目に見えるはつきりした方法のうちにされたものでしたが,天の父は,罪を取り去るための贖いの犠牲として,イエスが完全な人間の生命を捧げるのをうけ入れられたということを証明しました。このようにして,罪は真にゆるされ,罪の結果からの奇蹟的ないやしと,また新しい正義の世にあつて,完全で,罪のない生命を永遠に楽しむという希望が得られる新しい予定は始められました。ヨハネ 1:29-34,新世。
15 この献身の日より以後,イエスは神によつて新しい霊的のものと認められ,天にあつて霊の生命を持つ希望が与えられました。『最初の人アダムは,生きている魂となつた。終りのアダム(イエス,キリスト)は,生命を与える霊となつた。』(コリント前 15:45,新世)イエスは苦しみの杭の上にかけられて死んで,彼の人間としての犠牲が完成されるまで,さらに3年と半年の間,完全な人間としての肉体ではありましたが,この地上にあつて,いろいろな実際的な説明を与えることを神より許されました。それらの説明は,人間を完全にまで引き上げ向上されるというこの新しい予定が,ヱホバの予定の時にどのように行われるかということを示すものでした。
新しい家族の報い
16,17 (イ)神の合法の手順によれば,ヱホバは,人間を回復させる予定をどのようにして可能にいたしますか?(ロ)人間の家族の処罰と,また義と認めることの間に,どんな対照を聖書は与えていますか?
16 『終りのアダムが,生命を与える霊となつた』ことは,第二のアダムであるイエス,キリストが,新しい家族の取り極めの下にあつて生命を与えるということを示しているにちがいありません。最初のアダムは,族長または家族の首でありましたが,子孫たちに生命を伝える前に,非常な罪人となりました。それですから,子供たちを持ち始めた時,彼は子供たちに,罪に満ちた大きな無能力,病気,そして死を伝えました。アダムの子孫にはそれらのものを取り去ることは,決してできなかつたのです。このように,最初のアダムのために,ひどい家族の処罰は,古い人間の種族からもたらされているのであつて,その刑罰は病気とか死の形に表われて,いまでもひき続いているのです。古いアダムの家族に属する成員たちには,決してうける価値のないような愛ある恵みと御親切をヱホバ神は持たれていますので神は,忠実の目標から一度も外づれたことがなく,そして人間としての生命の権利の価値を持つている新しいアダムを準備されました。神の合法の手順によれば,このことによつて何がなし得られますか? それによつてもつともすばらしい救いの予定はでき,新しい家族の首を中心とする新しい人間の家族が形づくられることなのです。そのような新しくて義しい家族の首は,全く十分に価値をうけるような義しい記録を持つておりますので,彼の新しい家族制度の成員になるよう紹待されるすべての人々にたいして,善,いやし,そしてついには完全という生命の結果を伝える力を合法的にもまた実際にも持つているのです。古いアダムの家族のうえにある家族の処罰と,『終りのアダム』であるイエス,キリストの義しい贖いの行いによつて,信ずるものに来る報いについて,どのようにパウロは対照しているかに注意をいたしなさい。
17 『それで,(最初のアダムの)一つの過ちによつて,すべての種類(古いアダムの家族全部)の人々への結果は処罰であつた。それと同じ様に,(第二のアダムであるイエス,キリストの)義とする一つの行いによつて,(信じそして従う)すべての種類の人々への結果は,生命をうけるのに義であると認めることである。一人の人(最初のアダム)の不従順によつて,多くの人は罪人とされたが,それと同じく一人の人(第二のアダム)の従順によつて,多くの人は義なるものとされるであろう。』― ロマ 5:18,19,新世。
回復の型
18 イエスのくびきを負い,真の幸福をうけるために,誰が,イエスの弟子になるよう招待されましたか?
18 イエスが地上で宣教をされたときのいろいろな出来事を振返つて考えてみましよう。そして,地上でヱホバを愛する人々が,完全の目標にまで引き上げられる時のその回腹の予定を行うのに,イエスがどのようにその結果,規模,そして時間を示されたかを見てみましよう。先ず,霊的な必要物を意識していた人々,罪を負わされて後悔していた人々,神を愛した素直な人々,正直な心を持つ人々,義に飢え渇いている人々,憐み深い人々,そして迫害をされた人々にたいして,イエスは真の幸福を与えたということに私たちは注意します。イエスは,偽善者や,自ら義しいと考えていた人々,また賢くしてそして知識のある者と自称する多くの人々を招待し,罪をゆるす新しい仕方の下にあつて,彼の弟子になるようすすめませんでした。「霊的の必要を意識している者は幸福である‥‥義に飢え渇いている者は幸福である‥‥あなたは,これらのことを賢くして知識のある人々より隠して,幼児に示された。荷を負つて,疲れている人々は,私の,ところに来なさい。私は生気づけよう。私の,くびきを取つて,私の弟子となりなさい。なぜならば,私は温和であつて,心のへりくだつた者であるから,あなた方は魂に生気を得るであろう。私の,くびきは親切のものであり,私の荷は軽いのである。』(マタイ 5:3-10; 11:25,28-30)『私のところに来なさい』というイエスの招待を聞いた人々は,多くの正直な心の人々であり善意者でした。そしてそれらの人々は,イエスの足跡に従うクリスチャンとなりました。今日でも多くの人は聞いて,同様な路に従います。
19 人類を完全に回復する行いについて,どんな型をイエスは置きましたか?
19 これらのユダヤ人の善意者たちの中で,40以上の驚くべき奇蹟をイエスは行いました。これらの奇蹟はみな,彼の将来の贖いの犠牲に基いて行われそれは人類を完全に回復する日が来る時に,イエスの用い得る力を説明し示すものでした。彼は気違いをいやし,悪の霊を出し,熱病をなおし癩病をきよめ,中風をいやし,しなびた手を回復し,12年間血が流れ続けた女をいやし,視力を回復させ,啞をして話しをさせ,腰の曲つていた婦人を真真ぐにし,水腫の人をいやし,切り取られた耳を元通りにし,そして,最後に,あらゆる奇蹟の中で最も大きなものである三つの復活を彼は行いました。回復のいやしは,なんと広い範囲に及んでいたのでしよう。イエスキリストは,新しい地の社会にあつて,永遠に続くいやしをする力を持つていますが,その力も及ばないような,罪の生み出す妨害とかまた人間の堕落という証拠は全くありません。
20 (イ)実体の安息にあつて,イエスはどんな種類の人々をいやすと,彼は明らかに示しましたか?(ロ)このことが行われる時を,イエスはどのように示しましたか?
20 イエスの宣教の中で,私たちを慰める別の事実はこうです。イエスは,その奇蹟のいやしをユダヤ人だけに限定しませんでした。彼が,ユダヤ人でない人,そしてサマリア人でない人を直した二つの場合がありましたが,それは,回復の時において,イエスの臣下となるよう招待されている全国民からの人々は,この大きないやしの奉仕をうけるであろうということを示しています。(マルコ 7:24-26。マタイ 8:5-10)と同様に,イエスは多くの奇蹟を安息の日に行つたということに注意するのも興味深いことです。イエスがこれらの能ある業を行つて,安息を破つていると,パリサイ人たちは実際に彼を非難した程です。安息日に善をすることは,律法にかなうものであるとイエスは言い,そして最後に彼は安息の主であると話しました。それで彼の永遠の回復の予定の時について,ここに緒が見出されます。それは,キリスト,イエスが,主として支配する千年の安息である,千年の御国支配の間であつて,誠実な人は,忠実の目標にかなうよう助けられます。―マタイ 12:1-8; 19:28。
罪はゆるされる
21 地上で宣教している時,他のどんな権威をイエスは明らかに示しましたか? クリスチャンにとつて,これはどんな慰めでありますか?
21 イエスはまた,罪をゆるす権威を持つていました。イエスがこの力を持つていると言いましたので,ある学者たちはイエスを非難して,彼は神を冒瀆していると言つた程です。これに答えて,彼が奇蹟を行うことも,また『あなたの罪はゆるされた』ということも全く易しいことであると,イエスは示しました。イエスにとつて,奇蹟をすることも,また罪のゆるしを言うことも,同様に易しいものであつて,両方は回復の予定に関係しています。『「しかし,人の子は,地上にあつて罪をゆるす権威を持つていることをあなた方に知らすために,一」それから彼は中風にかかつている人に言つた。「起きなさい。寝床を畳んで,家に行きなさい。」』(マタイ 9:6,新世)真のクリスチャンが悔攻めて,罪をゆるしていただくよう,イエスの名にあつて父なるヱホバに祈る時,そのゆるしは与えられるということを知るのは,なんという大きな救いの気持をそのクリスチャンに感ぜさせることでしよう! ―マルコ 11:25。新世。
22 ヱホバの民は,どんな幸福をいま持つていますか?
22 『その不法の行いはゆるされ,その罪がおおわれる者たちは幸福である。その罪を,ヱホバが決して考えにいれられない者は幸福である。』(ロマ 4:7,8,新世)今日,油注がれた残れる者たちは,信仰を持つていましたので義と認められ,そして相続して来た罪の過去の記録は拭き消されました。他の羊もまた,その罪がゆるされているという印しを持つています。両方の群は,神の真理の言薬によつて,霊的ないやしをうけているという事実と相共に,ヱホバのすべての証者は,現在であつても非常な幸福をたのしんでいるということを,これは意味しています。彼らは心をいれかえており,そしてすでに霊的には聖さという高い目標にまで引き高められています。そうです,彼らは神であると共に王であるヱホバに全き心からの献身を捧げ,ヱホバに対して絶対の忠実を保とうと決心しています。しかし,その完全な標準に達するまで,人間はまだまだ長い道を行かねばならないということを私たちは知つています。でも,私たちは一歩一歩,ヱホバの準備される道をたゆまず歩みたいと願います。ヱホバは,恵みある御親切を持たれて,その道を準備されましたが,それは,人間が,神の像のうちにあつて人間としての完全に引き上げられ,向上するためです。
23 イエス・キリスト千年の御国によつて,神が人間を引き上げ向上させることの最終の結果は何でしようか?
23 より一層の幸福を得る時が来るのを,私たちは期待をもつて待ちのぞんでいます。その時はハルマゲドンの後です。そして肉体のいやしが,生き残つた者たちや,彼らの子孫,そして復活された者たちに対して始められます。人類は過去6000年の間,罪の中にあつて神のもとの目標から離れ,非常に低い水準にまで落ちましたが,しかし,その速度の早められた予定によつて,イエス,キリストは一千年の中に,人間の新しい家族を引き上げ向上させることをなしとげるでしよう。肉と心においても,全くの完全の状態に彼は人間を回復させますので,完全と忠実についてヱホバの再び言われる条件に,人間はたやすくかなうことができるでしよう。罪と死の王のつらい支配の下にあつた時代の痛み,苦痛,失敗,まちがい,弱さ,なやみ悲しみ,不具,短所,病気そして怠慢などはその時においては全く忘れ去つてしまうことでしよう。それから,再建のその千年の最初の部分の間に平行する予定の仕事として,全地はエデンのような楽園になるでしよう。千年が終つて,向上して高められた多くの人類が,終ることのない寿命の賜物をうけるにふさわしいかどうかを決定する最終の試験に通過した後,全く生気に溢れる人類は,聖く,完全で真に忠義を保つ者たちであつて,楽園に居ながら将来を迎えるでありましよう。彼らは,その自由意志の力を用いて,彼らの聖なる神の栄光を保ちますので,地上にいる光り輝く臣下たちは,永遠に亙つてよろこびつづけ,永しえに亙つて幸福でありましよう。(エペソ 1:21)彼らは永久に,ヱホバ神への忠実を保ち,ヱホバ神を立証いたします。