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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1976
塔76 1/15 51–59ページ

偽りの王国の避難所を暴露する

1 イエスがからしの種粒の例えを語られた目的はどこにありましたか。それはどんな預言と調和していましたか。

さて,イエスが語られたからしの種粒のたとえ話,つまり萌芽期には非常に小さくてもやがて成長して木になる種粒のたとえ話の意図はどこにあるでしょうか。それは,イエスが言及されたイザヤ書 6章9,10節に描かれている否定的状況と一致している何かを示すことにあるに違いありません。(マタイ 13:13-15)七つ続いているたとえ話のこの三番目のたとえ話を語る際に,イエスはこう言われました。「天の王国はからしの種粒に似ています。人がそれを取って自分の畑に植えました。実にそれはすべての種の中でいちばん小さいものですが,成長したときには野菜のうちでいちばん大きくて木のようになり,天の鳥たちが来て,その枝の間に宿り場を見つけるのです」― マタイ 13:31,32。

2 からしの種粒の木を名目だけの教会になぞらえ,「シオンのものみの塔」誌,1900年5月15日号は,天の鳥が木の枝の間に宿ることをどのように説明しましたか。

2 「シオンのものみの塔」誌,1900年5月15日号,153ページには,次のように述べられています。「現在,成長の初期の状態にある,王国の三番目の例えの情景は,この福音時代の教会が非常に小さな初まりから相当大きなものになる,ということを示すためのものである。……ただしこの大きな成長は,必ずしも有利な地歩もしくは特別に望ましいものを意味するのではなく,逆に,空の鳥が来てその枝に住み,木を汚すという点で不利になる。これより前に出てくる種をまく人のたとえ話の中では,『空の鳥』はサタンおよびサタンの手先を表わしている。ゆえにわれわれは,ここで類以の適用を行ない,これを次のように解釈するのは正しいと思う。つまり,主イエスの植えた教会は急速に,かつ並々ならぬ繁栄を見せたこと,また教会が獲得したもの,教会の力その他のゆえに,サタンがその手先を通してやってきて,教会の多くの枝に宿った,ということである。彼らはこの福音教会の枝々に幾世紀もの間宿っており,現在もその中に見られる。それは汚すことを行なう分子である」。

3 「ものみの塔」誌の1910年6月15日号は,完全に成長したその「木」と鳥たちは何を表わすと述べていますか。

3 「ものみの塔」誌の1910年6月15日号も204ページで,いま引用した記事と同じ見解を示しながら,次のように述べています。「したがってこのたとえ話の教えはわれわれを次のような結論に導く。すなわちキリスト教会は一時期,それに所属することが恥ずべきこと,不名誉なことであったほどに,この世で微々たる存在であったが,ついに誉れあるもの,大いなるものとなり,仇のしもべどもがその陰で快楽を得た,ということである。こうして発達したものを聖書はバビロンとして表わし,種々の分派教派を持つ名目だけのキリスト教会全体がバビロン的であることを明らかにしている。主のみことばを傾聴せよ。『大いなるバビロンは……悪魔の住家,もろもろのけがれたる霊の檻,もろもろのけがれたる鳥の檻となれり』」。―「ものみの塔」誌,1912年6月15日号(英文),198ページ,「からし種のように」という見出しの記事もご覧ください。

4 (イ)「ものみの塔」誌のその二つの記事は,その象徴的な「木」は,何であるとは述べていませんか。(ロ)時と場所について言えば,からしの種粒のたとえ話はどんな状態や情景を表わすものではありませんか。

4 さてわたしたちは今1976年に住んでいます。そこで大きな疑問は,例の成長したからし種の木は何を表わしているか,ということです。先ほど引用した二号の「ものみの塔」誌は,大いなるバビロンである,と言います。この野菜の木は,天的権力を得て即位した14万4,001人の王国級を表わすとは言っていません。しかし,今日住んでいるわたしたちは,なんと言わねばなりませんか。わたしたちはまず,次のことを念頭に置いていなければなりません。つまり,からしの種粒のこの例えは,千年期の状態を表わすものでも,王国級の全員が天的栄光のうちに統治し,全人類がこのメシアの王国の支配下に避難することを示すためのものでもない,ということです。それは,「天の王国」の相続者に関する天の情景を表わしているのではなく,ある特定の期間におけるある物事の地上での状態を表わしています。

5 そのたとえ話が成就の最高潮に達する特別の期間とは何ですか。またそれはどこで成就しますか。

5 その特別の期間というのは,イエスが小麦と雑草および引き網の例えで示された期間のことです。雑草をまかれた小麦畑のたとえ話の中でイエスは,「収穫は事物の体制の終結であり,刈り手はみ使いたちです」と言われました。引き網のたとえ話ではイエスはこう言われました。「事物の体制の終結のときにもそのようになるでしょう。み使いたちは出かけて行って義人の中から邪悪な者をより分け,彼らを火の燃える炉にほうり込むのです。そこで彼らは泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう」。(マタイ 13:39,49,50)その「収穫」は,より分ける必要のある「雑草」のあるこの地上で行なわれます。同様に,ふさわしい「魚」をふさわしくない魚から分けることも,魚を取る「海」のあるこの地上で行なわれます。その象徴的な「雑草」およびふさわしくない「魚」とは,自称クリスチャンのことです。彼らは受け入れない心,遠い耳を持ち,目を堅く閉じているので,そのような自称クリスチャンを霊的にいやすことは不可能です。―イザヤ 6:9,10。マタイ 13:14。使徒 28:25-28と比較してください。「ものみの塔」1967年2月15日号の「家々に住む人がなくなるまで癒されない」という記事を参照してください。

6 今日のこの野菜の「木」は何であると主張しますか。したがってその象徴的な「木」はなぜ大いなるバビロンではあり得ませんか。

6 わたしたちの時代の「事物の体制の終結」までには,その象徴的なからし種の木は完全に成長しているはずです。その成長した状態は収穫の時が来たことを示します。霊的「小麦」すなわち「王国の子たち」の収穫は西暦1919年以来進行していますから,わたしたちは象徴的なからし種の木が現在地上で成長しきっているのをはっきり見ることができます。この野菜の木は,イエスが「天の王国は」それに「似ています」と言われたので,「天の王国」を代表すると主張します。ですから,からしの種粒から成長した木は大いなるバビロンを表わすはずがありません。なぜなら,同組織は,古代バビロンとともに始まった,偽りの宗教の世界帝国であるからです。大いなるバビロンはその全体が,「天の王国」すなわちメシアの「神の王国」である,またはそれを代表する,と主張するわけではありません。しかし,大いなるバビロンの,最も数が多くて顕著な部分は確かに,神の天的メシア王国を代表すると主張します。大いなるバビロンのその最も強力な部分は,千を超える分派教派を持つキリスト教世界です。

7 歴史の上でのキリスト教世界の非常な成長は何に起因しますか。キリスト教世界は実際にはいつどのように発足しましたか。

7 キリスト教世界は,西暦一世紀中に,エルサレムにあった最初の小さなクリスチャン会衆から生まれたと主張します。今日,キリスト教世界の会衆の数は何百万という数にのぼります。キリスト教世界は非常な成長を遂げました。しかし今日のその恥ずべき俗っぽさと霊性の欠如は,その非常な成長が,キリスト教世界の霊的美徳に起因するものでもなければ,聖書の真理の前進的光を有していたからでもないことをはっきり示しています。宗教の歴史が示すところによると,キリスト教世界は実際には西暦四世紀に,異教徒のローマ皇帝コンスタンチヌス大帝によって創始されました。彼は西暦312年にキリスト教に改宗したと主張しましたが,西暦337年5月22日に死亡する直前まで,バプテスマを受けずにいました。彼は当時の堕落したキリスト教をローマ帝国の国教会となし,そうするために300人余の背教し妥協した「司教たち」を用いました。ローマ帝国の教皇として彼は,小アジアで第一ニケア公会議を招集して教理を裁定し,同会議はそれを教会の教理として公布しました。

8 今日キリスト教世界にはどんな教理や慣行が浸透していますか。それはどのたとえ話の成就ですか。

8 今日,キリスト教世界の諸教会の固まり全体には何が浸透していますか。聖書の真の教え,組織法,やり方,行事などですか。そうではありません。それは教皇コンスタンチヌスが発足させた融合宗教です。同宗教の基礎をなすものは,神の霊感による聖なることばではなく,バビロン的教理と物事の仕方です。エホバ神の個性と属性をめぐる論争を,三位一体というバビロン的教理に有利な裁定を下して落着させたのは,ニケア公会議の議長としてのコンスタンチヌスでした。イエス・キリストは,キリスト教の教理と実践の腐敗のこの過程を,パン種のたとえ話を語ることによって予告され,こう言われました。「天の王国はパン種に似ています。女がそれを取って大升三ばいの粉の中に隠したところ,やがてかたまり全体が発酵しました」― マタイ 13:33。

9 宗教を腐敗させるこの影響力はキリスト教世界でどれほど長く働いてきましたか。それは悪魔の手先にどんな機会を与えましたか。

9 キリスト教世界の固まり全体は,いままでに16世紀の発酵期間を有しました。キリスト教世界が今日,バビロン的な教理や俗っぽさ,ニムロデのようにエホバ神の宇宙主権をあなどること,などによって完全に発酵していることを,だれが否定できますか。キリスト教世界の非常な数の偽りの「王国の子たち」のこの堕落により,その偽りの地上の「神の王国」は,「天の鳥たち」が完全に成長したからし種の木の枝に宿るのと同じように,悪魔サタンの手先たちが身を隠すのに格好の場所となりました。―マタイ 13:31,32。

10,11 (イ)からしの種粒のたとえ話の中で,人類の益とならない事柄が表わされていると言えるのはなぜですか。(ロ)それでからし種の「木」は今日どんな「王国」を表わしていますか。

10 キリスト教世界の多数の分派の中にそれら象徴的な「天の鳥」すべてが宿ったことは,キリスト教世界の霊的益にはなりませんでした。それはちょうど農夫が彼の庭または畑にまいたからしの種粒から成長した木のようです。その枝に宿った天の鳥たちは,種まき人の手から道端に落ちた種を食べてしまった,イエスの四種類の土のたとえ話に出てくる鳥たちと同じように,からし種を食べることができました。(マタイ 13:4)イエスが語られた限りでは,そのたとえ話の木は,人間の益には少しもなりませんでした。例えば,木が完全に成長した時,それを植えた者が来て鳥たちを追い払い,食物の味付けによいソースを作るためのからし種をたくさん集めたとは,そのたとえ話は述べていません。しかしその農夫が,「天の鳥たち」に宿り場を与えるため庭にからしの種粒をまいたのでないことは確かです。

11 すべての事柄を総合して考えてみると,今日の象徴的なからし種の「木」はまがいの「天の王国」,すなわち僧職者が平信徒を支配するキリスト教世界であることが明らかです。完全に成長したその「木」は,今日地上にいる,証印を押された霊的イスラエルの残りの者を,矛盾をきたさずに表わすことはできません。というのは,その人々はごく少数であって,数の上で成長しきった王国相続者14万4,000人全員ではないからです。それどころか,霊的残りの者の数は,27年以上減少を続けてきました。1975年の記念式には彼らの数は1万454人に減っていました。

わたしたちが予想するものとは異なるからしの木

12 種はその類を生み出さねばならないという聖書の法則に基づいて,からし種の「木」はキリスト教世界を表わすという説明に対し,必然的にどんな異議を唱える人が出てくる可能性がありますか。

12 もっとも,ある人は以上の説明に対して次のように異議を唱えるかもしれません。イエスのたとえ話では,からしの種粒をまいた人は,良い目的でそれをまいた。その種粒が,『その類に従い』からしの木に成長することを彼は期待した。(創世 1:11,12)彼は自分のまいたものが何か違うものになることを予期してはいなかった。まがいのからしの木が生えることなど考えてもみなかった。だから,まいた者がそのようなまがいものを得た,とどうして言えるだろうか。したがって,上記のように,からしの種粒から成長した「木」が,「天の王国」のまがいものであるキリスト教世界を表わす,などとどうして言えるだろうか。a そう言うことは,種はそれ自身の種類を産出しなければならないという神の律法に反してはいないか。神のこの律法は,霊的に適用するとき,「天の王国」とは反対のものであるキリスト教世界という考えを排除するのではないか。

13,14 (イ)もしイエス・キリストが存在しなかったなら,なぜキリスト教世界も存在しなかったでしょうか。(ロ)どんな標準に従って神はキリスト教世界にご自分に対する責任を問われますか。また彼女は何に似たものですか。

13 この点から言えば,事の始まりはイエス・キリストでした。もしイエスという人物が存在しなかったなら,キリスト教世界も存在しなかったことでしょう。簡単な陳述ですが,それでも真実です。西暦四世紀に,キリスト教世界は,まがいものであることが目立たないように,偽りのキリスト,偽りのメシアではなくて本物のキリストに自らを結びつけました。また自らをキリスト教世界と呼んで,キリストの公式の称号を取ることさえしました。イエス・キリストと関係のある種々の事柄を,自らの用に供します。水のバプテスマを施すこともします。一部の教会は今日でも完全に水に浸すことを行なっています。キリスト教世界はまた,パンおよびぶどうの木の産物をもって主の晩餐を祝います。キリスト教世界には長老,司教,執事などがいます。(フィリピ 1:1,欽定訳)また,聖書全部について言えば,西暦1950年に「新世界訳聖書」の出版が始まるまでエホバのクリスチャン証人が用いてきた聖書は,キリスト教世界の教会が運営する聖書協会から出されたものでした。

14 キリストの真の教会である,と現在まで主張してきたキリスト教世界の構造にイエス・キリストが巻き込まれていることは明白です。それにエホバ神もキリスト教世界のことば通りに,彼女自身の主張通りに受け取られます。そういう理由から,エホバはその主張にふさわしく生きることを彼女に求め,ご自身の要求を実践しない責任を問われます。このためにエホバは彼女に当然の罰を加えます。この「事物の体制の終結」において,エホバは彼女をその宗教告白に不忠実な者として裁かれます。彼女は,不忠実であった古代イスラエルの現代版です。

15,16 イエスの小麦と雑草のたとえ話は,イエスが現在までキリスト教世界の成長に巻き込まれていることを示していますか。

15 イエス・キリストがキリスト教世界の成長に巻き込まれていることに対しては,聖書に基づく証拠に加えて,小麦と雑草(毒麦)の例えがあります。事実,「人の子」イエス・キリストは,自分の畑にそれらの雑草をまくようなことはしませんでした。彼の敵悪魔サタンがそれをまきました。たとえ話では,小麦をまいた人の奴隷たちが小麦畑に雑草のあるのをすぐに見つけて,その雑草の芽を抜き取りたいと思いました。しかし小麦をまいた人,つまり小麦畑の所有者は,彼らがそうするのを許しませんでした。彼は忍耐と寛容をもって,雑草と小麦を両方とも,ペンテコステごろになる収穫の時まで,一緒に成長させておくよう奴隷たちに命じました。その時には彼は,今や完全に成長した雑草を小麦から分けます。

16 イエスのたとえ話のこの特色の成就において,イエスは,キリスト教世界が姿を現わすがはやいかそれを滅ぼすというようなことをせずに,同世界が拡大することを許されました。その意味ではイエスは,キリスト教世界が現在の大きさ,つまり同世界史上最大の規模にまで成長することにかかわりを持っておられます。この記事を書いている今に至るまで,イエス・キリストはキリスト教世界を滅ぼしておられません。彼女は依然,イエスの許しにより,小麦をまいた人の畑,『彼の畑』,彼の「耕されている」宗教の「畑」の中に場所を占めています。―マタイ 13:24-27。コリント第一 3:9と比べてください。

17 象徴的な「引き網」はだれが扱ってきましたか。1891年と1912年に,この「引き網」は何を表わすと言われていましたか。

17 イエスとキリスト教世界の関係をさらに示しているのは,引き網のたとえ話です。(マタイ 13:47-50)引き網を操作する漁師たちは,栄光を受けられたイエス・キリストの指揮下にある天のみ使いたちです。しかし引き網そのものは何を表わしていますか。たとえ話では,『天の王国は引き網に似ています』となっているので,引き網は「天の王国」級の成員14万4,001人を表わしていますか。そうではありません。たとえ話の特色すべてを総合して考えてみるなら,引き網がそれを表わしているとは言えません。1891年に発行された「あなたの王国が来ますように」という本(英文)の214ページには,引き網は「名目だけのキリスト教会」を表わしていると書かれています。1912年6月15日付の「ものみの塔」誌は201ページで,「魚を取る網のたとえ話」という見出しでそれのことを,「あらゆる型のキリスト教をすべて寄せ集めた福音の網」と述べています。

18 1967年11月15日の日付の「ものみの塔」誌は,引き網が何を表わすと述べていますか。

18 さらに最近では,「ものみの塔」誌の1968年3月15日号に,「網をおろしてすなどれ」と題する研究記事が載りました。169ページの6節には次のように書かれています。『網は仲立ちイエス・キリストを介して,神との新しい契約下にある神の会衆を自任する地上の組織を表わしています。したがって,それは,霊的イスラエル,天の王国でイエス・キリストとともに治めるため神の霊で油そそがれた聖なる国民であると唱えます。その中には自らの主張にふさわしい者と,偽りの,あるいは不忠実な者とが含まれます。したがってこの網には,当然,キリスト教を名のる数百の宗派と,幾十万人の自称クリスチャンをもつキリスト教国が含まれます』。

19,20 (イ)象徴的なからしの種粒と接するイエスの経験は,エレミヤ記 2章21-23節に述べられているような,エホバのどんな経験と似ていましたか。(ロ)ホセア書 10章1-4節で,エホバはイスラエルの堕落をどのように象徴的『ぶどうの木』として表わされましたか。

19 このようにイエス・キリストは,王国のたとえ話の中で,ご自分と名目だけのキリスト教世界のクリスチャン団体の形成ならびに成長とのつながりを示されました。イエス・キリストとキリスト教世界との関係は,イエスの天のみ父エホバと,背教した古代イスラエルとの関係に似ています。エホバは西暦前1513年の昔にイスラエルの国を建てられましたが,その目的は良い正しいものでした。しかし,神が選んでパレスチナの約束の地にお植えになったその国はどうなりましたか。エホバご自身が,エレミヤ記 2章21節から23節の中でその問いに答え,こう述べておられます。『われ汝を植えて佳きぶどうの樹となし全き真の種となせしにいかなれば汝われに向いて異なるぶどうの樹の悪しき枝にかわりしや たといそうだをもて自ら洗いまた多くの灰汁を加うるも汝の悪はわが前に汚れたりと主エホバいい給う 汝いかで我は汚れずバアルに従わざりしということを得んや 汝谷の中のおこないを見よ 汝のなせしことを知れ 汝は疾走るわかき牝のらくだにしてその途にさまよえり』。

20 またホセア書 10章1節から4節でエホバはこう言っておられます。『イスラエルは果をむすびて茂り栄えるぶどうの樹その果の多くなるがままに祭壇をまし その地のゆたかなるがままに偶像を美しくせり かれらは二心をいだけり 今かれら罪せらるべし……かれらは虚しきことばをいだし 偽りの誓をなして約をたつ 審判は畑の畝にもえいずる茵陳のごとし』。

21 (イ)イエスの時代のユダヤ人は,背教していることをどのように示しましたか。(ロ)だれの経験は,イエスが象徴的なからしの種粒をまき,それが不適当な木に成長する可能性があることを示していますか。

21 イエス・キリストとその使徒たちの時代にもイスラエル民族は,エレミヤやホセアの時代と同じように背教していました。事実,メシアなるイエスに死をもたらし,イエスの使徒や一世紀の弟子たちを迫害したのは,イスラエルのその世代でした。イザヤもイエスも,特にそのようなイスラエルを指して,彼らは目を堅く閉ざし,その耳を遠くし,心を鈍くしているので,彼らのために霊的いやしはない,と言いました。(イザヤ 6:9,10。マタイ 13:13-15。使徒 28:24-28)それゆえに,その背教した世代は西暦70年に国家的災いを被りました。ではここで,たとえ話の中の種をまいた人としてのイエスは象徴的なからしの種粒をまいておきながら,どうしてそれを異種の木,つまりキリスト教世界と呼ばれる腐敗したまがいものにならせ得たか,と問う人がいるでしょうか。古代イスラエル民族に接したエホバの経験は,そのような問いに対して神の答えを与えます。

22 なぜイエスはからしの種粒のたとえ話を語り,完全に成長したその「木」がまがいものの組織を表わす,と考えることができましたか。

22 預言的先見の明あるイエス・キリストは,ご自分が一世紀にまいた象徴的なからしの種粒がどうなるかを予知することができました。イエスはイスラエルの歴史に精通しておられ,預言をすべてご存じでした。ですから,からしの種粒のたとえ話を語ることができ,「天の王国」のまがいものであるキリスト教世界を,「天の鳥たち」が宿る完全に成長したからしの木で表わされるものとして考えることができました。―マタイ 13:25,38,39; 24:23-25をご覧ください。

23 (イ)そのたとえ話が,からし種の「木」の滅びを示していないことから,どんな結論を下すべきではありませんか。(ロ)引き網のたとえ話は,魚を取るその網についてどんなことを示していませんか。

23 イエスのたとえ話そのものは,あるいはそのたとえ話に関する限りでは,鳥が荒らした「木」によって象徴された物が滅ぼされることを示していません。しかしそれは,象徴的な「木」,すなわちキリスト教世界の上にそのような滅びは臨まないと論ずる根拠とはなりません。(ルカ 13:5-9と比較してください)引き網についても同じことが言えるでしょう。イエスのたとえ話は,引き網がなくなることは示していません。しかし引き網が再び使われるということも示していません。もし使われるとすれば,それはたとえ話に描かれているのと同じような様々な魚を再び「海」から引き上げるでしょう。ですから,たとえ話がそこまで示していなくても,それは引き網によって表わされているものが,神の定めの時に排除されることなどないという意味ではありません。み使いの指導による活動は,その象徴的な引き網を使って過去19世紀間続けられてきました。しかし,その象徴的な網でたぐり寄せられた海の生物をえり分けることがいったん完了したなら,魚を取る仕事は繰り返されないでしょう。

24 たとえ話の中には示されていなくても,なぜ象徴的な引き網は神の定めの時に排除されますか。

24 引き網が「名目だけのキリスト教会」あるいは『本物と偽物とを包含する,キリスト教徒と公言する』組織を表わしている以上,その象徴的な引き網は実際に排除されるでしょう。キリスト教世界を含むそのような宗教的仕組みは捨て去られ,再び用いられることはないでしょう。エホバ神は,「事物の体制の終結」の終わりまでには,真の「天の王国」のための良い「魚」をすべて得ておられるでしょう。(マタイ 4:17; 13:47-50)したがって例えがそのことを示していなくても,それは,象徴的な引き網がその目的を達成して排除され,葬られ,再使用されなくなることを否定する証拠とはなりません。それでもイエスは,「天の王国」はその引き網に似ている,と言われました。ですから引き網そのものが,14万4,001人の成員の王国級を表わしていないことは確かです。

エホバにささげられたパン種のはいったものはどうか

25 名目だけのキリスト教団体はバビロン的なもので発酵していますが,それでもある人々は,女がこね粉の中に隠したパン種についてどんな疑問を持っていることが考えられますか。そしてなぜですか。

25 鳥に荒らされた,からしの種粒から成長した「木」で表わされている名目だけのキリスト教団体が,バビロン的な教理や慣行で腐敗してしまったかどうかについては疑問はありません。前述の論議の中で,自称キリスト教団体のこの腐敗は,女が固まり全体を発酵させるために少量のパン種を大升三ばいの粉の中に隠した,というイエスのたとえ話の中で表わされていることを指摘しました。(マタイ 13:33)それでもまだある人には,そのたとえ話の説明では納得できないで次のように自問するかもしれません。そのたとえ話の中のパン種は,悪い事柄,つまり宗教の腐敗を本当に表わしているだろうか。それは王国相続者の真のクリスチャン会衆に義と神聖さを浸透させる力を表わしてはいないか。モーセの律法に従ってエホバ神にささげられた物をみよ。それにはパン種がはいっていたがエホバに受納された。このことは,聖書がパン種を良い事や正しい事を表わすのに用いることを示してはいないか。イエスが語られた,ひとかまど分の多量のこね粉の中に隠されたパン種のたとえ話の場合もそうなのではないか。

26 そのような質問をする人は,大祭司がペンテコステの日にささげた小麦のパン二個の中のパン種について,どのように推理することが考えられますか。

26 パン種のはいったもので,エホバのご命令のもとにエホバにささげられエホバに受納された,指摘されそうな顕著な例は,陰暦の春のシワンの六日にあたる七週の祭りの日,すなわちペンテコステに,ユダヤの大祭司がささげたパン種のはいったパン二個です。ペンテコステは,大祭司が大麦の収穫の初穂をささげたニサン16日から50日目に当たりました。(レビ 23:15-17。申命 16:9-12。使徒 20:16。コリント第一 16:8)その二個のパンが極めて丁重に扱われたことから考えて,人は次のように推理するかもしれません。エホバはその祭りの日にパン種のはいった小麦のパン二個を受納される。では,この場合にエホバがパン種のはいったものを受納されるということは,パン種がそこでは良い意味を帯びているということではないか。これはパン種が神のみ前で時には良い象徴的意味を帯びることも確かにある証拠ではないか。それに,パン種のはいったパンが,エホバの古代選民の間でいかに好まれたかを考えてみよ。それに反し,パン種を入れずに焼いたパンは,「憂患のパン」と呼ばれた。(申命 16:1-3)そのことは確かに,聖書の中でパン種が象徴として使われるとき,それに良い性格を与えるにちがいない。

27 そのような考え方をするなら,ペンテコステの小麦のパン二個の実体の中のパン種の意味について,どんな結論に達するでしょうか。

27 七週の祭りの日にささげられた,種を入れて焼いた小麦のパン二個についてそのような考え方をするなら,当然どんな結論になりますか。ペンテコステのその二個のパンは,神の目的に従って訪れる事柄を予影する象徴であった,ということになります。それで,種を入れて焼いたパン二個をシワンの六日にささげることの実体においては,パンの中のパン種が象徴するものは,良いもの,正しいもの,徳のあるものであるはずです。そこでわたしたちは尋ねます。その種を入れて焼いた小麦のパン二個自体は何を予表していますか。それらは,西暦33年のペンテコステの日に生まれた,不完全な人間である信者から成る真のクリスチャン会衆を予表しました。(「シオンのものみの塔」,1898年3月1日号,68ページ,4節〔英文〕)それでもしパン種がペンテコステの日に何か良い面を表わしたとすれば,それに調和して,新しいクリスチャン会衆はそれ自体の中に,パン種の実体である善,特別の「聖霊の恵み」を有して発足するよう示されていることになります。こうしたことがすべて,聖霊のそそがれる前に生ずるのです。

28 しかし,「ものみの塔」誌と一致して,ペンテコステの予表的な小麦のパン二個の中のパン種は何を表わしていますか。

28 しかし,クリスチャン会衆の人間の成員は,神の聖霊が彼らの上にそそがれたペンテコステの日に,彼ら自身の内面的巧徳を有して発足しましたか。そうではありません。彼らは自分自身の義を有してはいませんでした。ですから,小麦の収穫の初穂のささげ物の中にあったパン種は罪を,つまり王国の共同相続者であるクリスチャン会衆の成員が不従順なアダムから受け継いだ罪を表わす,と長い間説明されてきました。(ローマ 5:12。「ものみの塔」誌〔英文〕,1912年6月15日号,198ページ,「パン種のたとえ話」という見出しの二節をご覧ください)しかしながら,西暦33年のペンテコステの日には,「み子イエスの血がわたしたちをすべての罪から清める」ということが,クリスチャン会衆の不完全な成員にとって真実となりました。―ヨハネ第一 1:7。アルフレッド・エーデルシェイム著「ザ・テンプル(神殿)」,1881年版,229ページ1節から231ページまでご覧ください。b

29 (イ)ペンテコステの日は,初穂をささげるどの日と結びつけられていますか。どのように?(ロ)ペンテコステより前の,収穫の初穂をささげるその日に関しては,パン種の問題はどうなっていましたか。

29 ペンテコステの小麦のパン二個についてのその説明には,もう一つ裏付けとなる事実があります。それは,ペンテコステ,すなわち七週の祭りの日(シャブオス)が,時を数えることによって,大麦の収穫の初穂をささげる日と結びつけられている,ということです。それをささげることはニサンの16日,すなわち過ぎ越しから三日目に行なわれました。(レビ 23:9-17)ニサンの16日に,大祭司が『[イスラエルの]大麦の収穫の初穂の束』を揺り動かした時,それとともにパン種をささげることはされませんでした。油で湿らせたきめのこまかい麦粉が一エパの十分の二,一ヒンの四分の一のぶどう酒とともにささげられましたが,パン種はささげられませんでした。(レビ 23:13)事実,この儀式は七日にわたる種入れぬパンの祭りの間に行なわれました。その七日の間は,パン種が周りにあってもならず,食べてもいけないことになっていました。ではなぜ,ニサン16日のこの儀式にはパン種がなかったのに,これと関係のあるペンテコステの祭りにはパン種があったのですか。

30 (イ)もしパン種が何か正しいものを予表したとすれば,大麦の初穂をささげる日にパン種がなかったことは,何を示したでしょうか。(ロ)大麦の収穫の初穂の束は何を予表しましたか。

30 ペンテコステの日に神がパン種を受納されたので,パン種は良いことの象徴であると考えるとすれば,大麦の収穫の初穂の束を揺るときに一緒にささげる物の中にそれを加えることを許されなかったのはなぜですか。もしパン種が良い意味での象徴であったなら,パン種がないことは,大祭司がささげた大麦の束に良い何ものかが欠けていることを示さないでしょうか。そうです,そのことは,この預言的状態の成就において,なんらかの美徳もしくはなんらかの「聖霊の恵み」が欠けていることを予表することになるでしょう。しかし本当にそういうことですか。その答えを得るには,大麦の収穫の初穂の束が何を予影していたかを考えてみなければなりません。それはほかでもない,復活された主イエス・キリストご自身でした。―コリント第一 15:20。

31 (イ)イエスはどの日に復活されましたか。なぜその日に復活されたのですか。(ロ)イスラエルでパン種を用いることを許されなかったことは,キリストの復活について何を示しましたか。

31 この事実と調和して,イエス・キリストは西暦33年ニサン16日,日曜日,すなわち七日にわたる種入れぬパンもしくは菓子の祭りの最中に,死人の中からよみがえらされました。確かに,その栄光ある復活の際,イエスは何か良いもの,何らかの徳や「聖霊の恵み」を得そこなってはいませんでした。つまり除かれていたパン種が何か好ましい象徴,いわゆる『義のパン種』であるとみなされるべきであるなら,当然そこに想定されるようなことはありませんでした。それとは全く逆に,大麦の収穫の初穂の束が揺り動かされたニサンの16日にパン種がなかったことは,イエス・キリストが完全な,義にかなった,罪のない霊者として復活させられることを予表していました。テモテ第一 3章16節に述べられているように,イエス・キリストは復活されたときに,「霊において義と宣せられ」ました。彼には象徴的な「パン種」はありませんでした。

32 (イ)イエスは主の夕食を制定するに当たり,ご自分が裂いたパンについてなんと言われましたか。(ロ)したがってそのパンが無酵母のものであることは,その場合何を象徴しましたか。

32 これに関連して,次のような事実があります。ニサンの16日,すなわち大麦の収穫の初穂がエホバ神にささげられた日は,過ぎ越しから三日目であったということです。西暦33年ニサンの14日,イエス・キリストは過ぎ越しの食事を祝ったあと,種を入れずに焼いたパンを取り,それを裂いて,ご自分の忠実な使徒たちに,「取って,食べなさい。これはわたしの体を表わしています」と言われました。(マタイ 26:26)用いられたパンにはパン種がはいっていなかったのですから,パン種は良い象徴であるということを根拠にして論ずれば,これは,イエスの肉体に重要なものが欠けていた,義が欠けていた,「聖霊の恵み」が欠けていた,ということですか。決してそういう意味ではありません。イエスが,わたしの体を象徴する,と言われたパンが無酵母のものであったということは,イエスの肉体が,あらゆる罪と不完全性から自由であったことを表わしました。―ヘブライ 7:26。

33 それで聖書はパン種をどのように象徴的に用いていますか。これを支持するどんな証人がいますか。

33 以上述べてきたことと一致して,象徴としてのパン種もしくは生パンは,聖書全巻を通し好ましくない意味で,あるいは否定的な面に使われている,と述べている「ものみの塔」誌の1900年5月15日号と,1910年6月15日号は正しいわけです。パン種もしくは生パンのことが初めて出てくる出エジプト記 12章15節から20節,13章7節より,最後に出てくるガラテア 5章9節に至るまで,聖書はパン種を悪いことの象徴として用いています。その事実に対する証人が必要とあらば,わたしたちには,聖書がパン種を一貫して悪いこと,正しくないこと,間違い,罪などを象徴するのに用いている事実を証言する証人が少なくとも二人います。イエスはパリサイ人のパン種とサドカイ人のパン種に言及されました。(マタイ 16:6-12。マルコ 8:15。ルカ 12:1)使徒パウロは,固まり全体を発酵させるパン種に気をつけるよう,警告しています。彼は予表的な種入れぬパンの祭りに言及し,パン種が何を象徴するかを明確に説明して次のように述べます。「わたしたちの過ぎ越しであるキリストはすでに犠牲にされたのです。ですから,古いパン種や悪と邪悪のパン種を用いず,誠実さと真実さの無酵母パンを用いて祭りを行なおうではありませんか」― コリント第一 5:6-8。申命 17:6,7; 19:15。テモテ第一 5:19。ヘブライ 10:28。c

34 したがって,パン種のたとえ話は何を示すものですか。

34 以上のことから分かるように,イエスは,大升三ばいの粉の中に少しのパン種を隠した女のたとえ話をされたとき,パン種の意味について例外をもうけられたのではありません。イエスの教えは一貫していて,この場合にもパン種を,好ましくない事柄を表わすのにお用いになりました。ですからそのたとえ話は,「天の王国」に関連した事柄についての好ましくないものを例示しているに違いありません。この場合,ひとかまど分の多量のこね粉の発酵は,間違ったバビロン的教理と慣行で自称クリスチャン会衆が腐敗することを,預言的に示しています。それは,完全に成長したからしの木が表わすものの象徴的な発酵を示しています。ですからマタイもルカも,パン種のたとえ話を適切にもからしの種粒のたとえ話と並べて述べ,ルカなどは,偽善的な宗教家に対する激しい非難の直ぐあとに,このたとえ話を記しています。―ルカ 13:10-21。

[脚注]

a 1975年発行の,「世の苦難からの人間の救いは近い!」(英文)という本の206-209ページをご覧ください。

b 230ページ,12行目から14行目にかけて次のように述べられています。「したがってそれらはパン種を入れて焼いてあった。イスラエルの公の感謝の供え物は,至聖所さえも,不完全さと罪に影響されており,罪祭を必要としているからである」。

前述の事柄と一致して,カイル,デーリッチ共著「旧約聖書に関する注解」(第二巻-モーセの五書)の,「エホバの安息日と祭日の清め。―23章」という副見出し(437ページ)の部分の,443ページの16行目から34行目に,次のように述べられています。

「『……20節。祭司その初穂のパンとともにそれら(酬恩祭の子羊二匹)を揺りて,エホバの前に揺祭となすべし。(前述の)子羊二匹とそれら(パン)はエホバに聖なるものにして祭司に帰すべし』。……罪祭はイスラエルの会衆に罪の感情を意識させ抱かせることを目的としていた。こうして,パン種を入れたパンを日ごとに食してはいても,彼らが自分たちの古い性格というパン種に仕えず,むしろ彼らの主なる神に許しと罪の清めとを求め,嘆願するようにするためであった」。

c 「ユダヤ百科事典」,1971年版,第7巻,1235-1237段に,「ハメツ……『発酵した生パン』」と題する項目があり,1237段の「ユダヤ思想におけるパン種」という見出しのところに,次のように書かれています。

「パン種は腐敗と不潔の象徴と考えられている。『生パンの中の酵母』は,『われわれが神の意志を行なうのを妨げる』ものの一つである。(Ber.17a)この思想はカバラ思想において著しい発展を遂げた。新約聖書も,『悪と邪悪のパン種』に言及し,それを『誠実さと真実さの無酵母パン』と対照させている。(コリント第一 5:8)同様にその語は,パリサイ人とサドカイ人の腐敗した教理と考えられたものに適用されている(マタイ 16:12。マルコ 8:15)。

「それは特に,一門の中の清くない家系のさまざまな要素の混合に適用された。こうした考えのもとでは,(発酵した)『生パン』は『ふるいにかけられた純粋の粉』と対照された……」。

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