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  • 『貧しい人たちのことを忘れてはならない』

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  • 『貧しい人たちのことを忘れてはならない』
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1976
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1976
塔76 7/15 421–423ページ

『貧しい人たちのことを忘れてはならない』

エルサレムにあった,中心となる長老たちの一団は,パウロが同地における会議に出席した際,「ともに分かち合うしるしとして」パウロとバルナバに「右手を差し伸べ」,アジア地方の諸会衆にあてた権威のある手紙をその二人に託しました。その手紙は,ユダヤ人と異邦人の間の国家的な障壁を取り除くのに役立ちました。確かにその使命は重要なものでしたが,長老たちがパウロとバルナバに深く銘記させねばならないと考えた,もう一つの重要な問題がありました。その特別な諭しは,彼らが『貧しい人たちのことを忘れてはならない』というものでした。―ガラテア 2:9,10。使徒 15:22-29。

パウロは,自分が精力的に宣べ伝える業に携わっただけでなく,貧しい人たちのことを忘れないようにするという点でも真剣に努力したことを伝えています。パウロは,この寛大な精神を諸会衆に教え込むよう,常に励みました。エルサレムのクリスチャンが窮乏していたとき,パウロはヨーロッパ地方の諸会衆に,各々の能力に応じて必要とされる物を窮乏しているエルサレムの兄弟たちと分かち合うよう励ましました。―ローマ 15:26。コリント第二 8:1-8; 9:1-5。

クリスチャンはすべての人に対して寛大

貧しい人たちに対して配慮を示すことは,クリスチャンの手で書かれた聖書の中で終始強調されています。使徒ヨハネはこう述べています。「だれであろうと,生活を支えるこの世の資力があるのに,自分の兄弟が窮乏しているのを見,しかもその兄弟に向かって優しい同情の戸を閉じるなら,その者にはどんな意味で神の愛が残っているでしょうか」。(ヨハネ第一 3:17)イエスの異父兄弟ヤコブも同様にこう書いています。「兄弟か姉妹が裸の状態でいて,その日の食物にも事欠くのに,あなたがたのうちのだれかが,『安らかに行きなさい。暖かくして,じゅうぶん食べなさい』と言うだけで,体に必要な物を与えないなら,それはなんの益になりますか」。さらにヤコブは次の点を指摘しています。「わたしたちの神また父から見て,清く,汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです」― ヤコブ 2:15,16; 1:27。

パウロはエフェソスに残してきたテモテに,『りっぱな業に富み,惜しみなく施し,すすんで分け合う』必要性を会衆内の富んだ人々に思い起こさせるよう諭しました。また,ローマのクリスチャンたちにはこう告げました。「聖なる者たちとその必要に応じて分け合いなさい。人をもてなすことに努めなさい」。寛大さ,および人をもてなすというこうした特質は,クリスチャンが「真の命をしっかりとらえる」のに役立つ「りっぱな業」の肝要な一面です。―テモテ第一 6:18,19。ローマ 12:13。

物質の援助を与えるようにとの聖書の勧めは主に,他のクリスチャンと分かち合うことと関係しています。しかし,真のクリスチャンの寛大さはそこでとどまるものではありません。むしろ寛大さは,クリスチャン人格の特徴となる不変の特質で,窮乏している人に対して同情心を示すものでなければなりません。

もちろん,クリスチャンは,困窮している人すべてを助けるだけの資力を持ち合わせている訳ではありません。では,どのようにして最善の与え方を決定することができますか。使徒はこの点について次のように述べています。「すべての人,ことに信仰において結ばれている人たちに対して,良いことを行なおうではありませんか」。(ガラテア 6:10)クリスチャンは,まず最初に,自分たちの兄弟の必要に対して目ざとくあらねばなりません。しかしそれと同時に,苦しんでいる他の人々を見過ごしてもなりません。

多くの場合クリスチャンが,物質面で他の人に与えることのできるものはごく限られています。しかし,愛のこもった奉仕をすることはでき,そのほうがふさわしい場合もあります。近所の人が病気だとしましょう。その人は,クリスチャンが良いたよりについて語っても全く関心を示さなかったかもしれません。それでもクリスチャンは,自分にできること,つまりどんな手伝いができるかに関心を持ちます。主婦の方なら,病気のために,炊事や買い物ができない場合もあるでしょう。あるいは,病気の人が医者のところへ行くのに車を必要としていることもあります。容器に入った温かいスープを持って,病人を親切に見舞うだけでも非常に感謝されるでしょう。さらに,お年寄りや体の不自由な人を援助する方法は数多くあります。

そうした行為は,クリスチャンが熱心に携わるべき「りっぱな業」の一部です。(テトス 2:14)ヨッパという都市に住むクリスチャンの弟子であったドルカスを,聖書が高く評価していることに注目してください。それは,『彼女が善行とあわれみの施しに富んでいた』からです。ドルカスは物質の面では多くのものを持っていなかったかもしれませんが,貧しいやもめたちのために衣をこしらえるという愛のこもった奉仕を行なっていました。―使徒 9:36-40。

ですから物質面での援助をする場合,クリスチャンは寛大であるだけでなく,識別力や分別を働かせねばなりません。自分の家庭の経済状態や福祉を脅かすほど,他の人々に与えるべきではありません。また,お金を浪費する人や,さらにはそのお金を使って悪い習慣を続けるような人に,金銭を与えるのも思慮の欠けた行ないです。また,怠惰な人を援助するなら,かえってその人の怠惰を助長し,別の面で怠慢さを示すよう促すことにもなります。パウロは,テサロニケのクリスチャン会衆に,こう書き送らねばなりませんでした。「『働こうとしない者は食べてはならない』と。ところが聞くところによると,あなたがたの間である者たちが無秩序な歩み方をし,少しも働かないで,自分に関係のないことに手出ししているとのことです。そのような人たちに,主イエス・キリストにあって命じまた勧めます。静かに働いて,自分の労によって得る食物を食べなさい」― テサロニケ第二 3:10-12。エフェソス 4:28と比較。

したがってクリスチャンはまず,神を愛する人々や良いたよりに誠実な関心を示す人々で,そのような助けを切実に必要としている人に物質面での援助を差し伸べます。しかし,できる時にはいつも,真に必要に迫られている他の人々をも助けます。もちろん,どんな場合でも,すべての人に霊的な援助を差し伸べます。彼らはイエスと同じ精神を抱いています。イエスが村から村を回って良い業を行なった際,それに同行した使徒マタイはこう記しています。「群衆を見て哀れみをお感じになった。彼らが,羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,ほうり出されていたからである」― マタイ 9:36。

神は寛大な人を愛される

窮乏している人に関心を示したり,援助の手を差し伸べたりする人を,神が見過ごされることはありません。神は,そうした行為をあたかもご自分に対してなされたかのようにみなされます。聖書はこう述べています。「貧しい者をあわれむ者は主に貸すのだ,その施しは主が償われる」。(箴 19:17,口)本当に寛大な人は,時として自分の経済力を実際に上回るほどの惜しみない施しをしたとしても,そのために自分が貧困に陥るのではないかと心配する必要はありません。霊感を受けた使徒は次のように書き記しています。「神は快く与える者を愛されるのです。さらに神は,その過分のご親切すべてをあなたがたに対して満ちあふれさせることができ,こうしてあなたがたが常に十分な自足力を備えて,あらゆる良い業のためにじゅうぶんのものを持てるようにしてくださるのです。(『彼は広く分配した。彼は貧しい者たちに与えた。彼の義は永久に続く』と書かれているとおりです)」。(コリント第二 9:7-9。詩 112:9)クリスチャンが愛の動機に基づいて与えるとき,それは神,およびその人が宣べ伝える良いたよりに栄光をもたらすことになります。「貧しい者に恵みを示している者は[その造り主]の栄光をたたえている」からです。―箴 14:31,新。

聖書は,良い妻について記述している中で,勤勉さや信頼の置けることなどのりっぱな特質と共に,次の点を挙げています。「[彼女は]手を貧しい者に開き,乏しい人に手をさしのべる……その夫は……町の門に座するので,人に知られている。[彼女の行ないによって,その地の人々が彼女の夫に敬意を抱くようになった]……その子らは立ち上がって彼女を祝し,その夫もまた彼女をほめたたえて言う」― 箴 31:20-28,口。

貧困は除き去られる

現時点では,イエスの次の言葉はクリスチャンの間にも当てはまります。「貧しい人たちは常にいます」。(マタイ 26:11)これは,変わりやすい世の経済情勢,また病気や迫害などの理由によります。しかし,聖書はこう約束しています。「貧しい者がいつまでも忘れられることはない。また,温和な者たちの希望が消え去ることも決してない」。(詩 9:18,新)神のみ子による王国の支配の下では,人々を搾取し,貧しい人や地位の低い人を抑圧する者たちはいなくなります。「彼は民の貧しい者の訴えを弁護し,乏しい者に救いを与え,しえたげる者を打ち砕く」― 詩 72:4,口。

地に対するキリストの支配下では,古代イスラエル人が神の完全な律法に従っていたならもたらされたに違いない,貧しい人のいない状態が行き渡ります。神は,イスラエル人が約束の地に入る直前に,こう言われました。「あなたがたのうちに貧しい者はなくなるであろう。あなたの神,[エホバ]が嗣業として与える地で,あなたを祝福されるからである」。(申命 15:4,口,[新])王国の義にかなった指導の下で,人々は,単に書き記された律法を与えられるのではなく,神の律法を心の中に書き記されるのです。というのは,「地に対する[神]からの裁きがあるとき,正義は産出的な土地の住民が確かに学ぶところとなるからです」。(イザヤ 26:9,新)そのような時代について,一人の預言者はこう書きました。「いつくしみと,まこととは共に会い,義と平和とは互いに口づけし,まことは地からはえ,義は天から見おろすでしょう。主が良い物を与えられるので,われらの国はその産物を出(すでしょう)」― 詩 85:10-12,口。

貧困が永遠にぬぐい去られるなら,それはどんなにかすばらしいことでしょう。だからといって,寛大さを示さなくてもよくなるという訳ではありません。すべての人は,社会全体を富ませ,その益のために,自分の能力や才能,そして自らの勤勉な働きの産物を分かち合えます。その時が到来するまで,互いに励まし合い,物質的なものと霊的な事柄を分かち合い,『互いのことをよく考えて愛とりっぱな業とを鼓舞し合って』ゆきましょう。そうした「りっぱな業」の中には,「貧しい人たちのことを忘れない」という業も含まれているのです。―ヘブライ 10:24。ガラテア 2:10。ローマ 1:12。使徒 2:42。

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