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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1976
塔76 5/15 296–303ページ

見えないかたを見ているように,確固たる態度を保ちなさい

「信仰によって彼はエジプトを去りました。王の怒りを恐れたからではありません。見えない神を見る者として,決意を固めていたからです」― ヘブライ 11:27,「新英語聖書」。

1 (イ)どんな証拠はエホバが生きておられることをわたしたちに確信させますか。(ロ)神の不可視性が,神の存在に疑いを投げかけないのはなぜですか。

今生きている人の中にも,過去地上に生きていた人の中にも,肉眼で神を見た人はひとりもいません。エホバはあまりにも栄光に富まれるゆえに,弱い人間はエホバを見て耐えることはできません。しかし,目に見えないからといってエホバの存在が疑われることもなければ,またそのためにわたしたちが信仰の目で,人格的存在としてのエホバを「見る」ことが不可能になるわけでもありません。エホバの特質と力も認めることができます。エホバの個性のある面は,その創造のみ業から悟り知ることができます。使徒パウロは,ローマ人にあてた手紙の中でそのことを述べています。「神の見えない特質,実に,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見えるからであり,それゆえに彼らは言いわけができません」。(ローマ 1:20)エホバの不可視性は,その存在に疑いを投げかけることもなければ,わたしたちが人格的存在としてのエホバを尊敬することを不可能にすることも,またエホバの特質,その道,そして他の人々とりわけご自身の民に対するエホバの態度,などに対する理解を不可能にすることもありません。エホバの特質や規準が不変であることも明らかです。そのことは,『われエホバは易らざる者なり』というエホバご自身の言葉によって確証されています。(マラキ 3:6)エホバが目に見えない方であるからといって,そのためにエホバの個性,態度,ご自分を愛する者たちを扱う扱い方,などに対する信仰を弱めるべきではありません。

2,3 エホバの民の生き方を変えることにおいて,信仰はどんなことを成し遂げましたか。

2 エホバの民は,神のお姿を見なくても,神に対して非常に強い信仰を抱いているので,神に喜ばれることを行なうためにその生き方を完全に変えてしまいました。このことは,多くのエホバの証人が,証人となる前に,不道徳であったり,不正直であったり,粗暴であったり,この世の快楽を愛する者,物質的利益を追い求める者であったり,また「名」を成すことに一生懸命になっていた事実から明らかです。―コリント第一 6:9-11。

3 多数の誠実な人々は,神を「見た」ことから,自分の人生航路と生き方を変えました。そして今では「身を転じ」ています。それは,エホバのご意志を第一に考えることはもちろん,正直であること,霊的な事柄に対する認識を示すことなどにより,神が示しておられる規準に従って生きるためです。―使徒 3:19。ペテロ第一 4:3,4。

4 神の民をして神の道を歩ませた動機は何ですか。

4 なぜそのように変化したのでしょうか。なぜなら,悟りの目でエホバが愛の神であることを見るようになったからです。エホバに喜ばれる道を歩むべく彼らを動かしたのはこれです。彼らはこの深い,永続的な信仰に動かされて,時には迫害のために,また大多数の人は聞こうとしないために落胆するようなことがあっても,来る年も来る年もたゆみなく「良いたより」を宣べ伝えてきました。わたしたちは神を「見た」ために,神を全く信頼しており,神への奉仕に喜びを抱いています。―エフェソス 1:18。使徒 5:42。マタイ 5:8,10-12。

自分の信仰に忠節である

5 エホバへの奉仕を長年行なっている人々の態度はどんなものですか。

5 良いたよりを世界中に宣べ伝えなさい,というエホバの命令に答え応じた多くの人々は,20年,30年,40年,あるいはそれ以上,この仕事を行なってきました。この奉仕を長く行なえば行なうほど,エホバの偉大な輝かしいみ業に対する彼らの認識は深まります。エホバに対する彼らの見方は一層明るくなります。エホバへの奉仕を多年続けている人々は,神から割り当てられたその仕事をやめようとか,手をゆるめようという考えは全くありません。約束の報いを得る時まで続行する決意をしています。―ヤコブ 1:12。

6 神の忠節な者たちはどんな事に耐えましたか。それらの試練をどのように考えましたか。

6 彼らはひどい迫害を受けたかもしれませんが,その信仰は依然として強く,変わっていません。彼らはよく忍耐しました。これからも引き続き反対に耐えてゆくでしょう。彼らは全能の神に対して忠誠を保つことを決意しています。エホバの忠節な者たちに対する迫害は,世界の多くの場所で生じ,悪魔的なナチ政権が支配していた間のドイツでは特にひどいものでした。もっと最近では,マラウィの残酷で非情な独裁者の下で迫害が行なわれています。クリスチャンの男女子供は,非常に苦しい試練の下で天の父に対する忠節を全うし,第一世紀のクリスチャンたちと同じく,そうすることを喜びとしました。宇宙の主権者なる支配者に対して自分の忠節を証明することを,彼らは特権と考えました。―ペテロ第一 4:12,13。詩 145:10。

7-9 (イ)ドイツとマラウィにおいて,エホバの証人たちはどのように信仰を実証しましたか。(ロ)それに耐えることを可能にしたのは何でしたか。

7 邪悪なヒトラー政権の下では,幾千人ものエホバの証人が職を,事業を,そして家を失いました。慣れた商売を続けることを禁じられた証人は少なくありませんでした。彼らの財産は没収され,年金は拒否され,その他個人的に多くの損失を被りました。親の元から連れ去られた子供は860人。逮捕された者は合計6,019人。そのうちの幾人かは二回,三回またはそれ以上幾度も逮捕されたため,全部で8,917の逮捕が記録されました。その人たちは刑務所で,1万3,924年にのぼる刑に服しました。これら忠実な男女の多くは強制収容所に入れられ,非道な仕打ちを受けながら,合わせて8,078年をそこで過ごしました。合計635人が獄死し,253人が死刑を宣告され,そのうち203人が実際に処刑されました。

8 もっと最近では,アフリカの国マラウィのいわゆる「クリスチャン」の独裁者が,ヒトラーの足跡に従い,同国内のエホバの証人の上に,後から後から迫害の波をもたらしました。1972年には3万人以上のそれらのクリスチャンおよび彼らと一緒に聖書を勉強していた人々は,命を守るために隣のモザンビクに逃れることを余儀なくされました。しかし1975年の8月と9月に,モザンビクで民族主義が復活し,その結果彼らはマラウィへ「送還」されました。マラウィでは再び非人道的な拷問や殴打に遭い,金銭,所有物,衣服などを強奪され,丸裸にされ,多くの婦人は強姦されました。1975年10月には,おとなのエホバの証人の全会衆が駆り集められ,ヒトラー式の収容所に入れられました。親は子供たちを,乳飲み子をさえ,収容所の外に残すよう強制されました。マラウィの大統領はなぜそういうことを命令したのかと尋ねられた時に,警官は,「お前らは子供たちに間違ったことを教えている。だからマラウィが子供たちを引き取るんだ。われわれは彼らをマラウィの市民にしてみせる」,と答えました。これ以上の悪魔的な行為をあなたは想像できますか。マラウィのエホバの証人たちは,国も,家も,子供たちも奪われてしまったのです。マラウィは,神の言葉聖書に従って「この世」とその政治に関し中立を保つという「犯罪」しか犯していない人々を迫害することにより,ナチの残酷好きの歴史を書き直そうとしているのでしょうか。―ヨハネ 17:16。

9 これはなんと悪魔的な記録でしょう! それにしても,それらのクリスチャンすべてをしてそのようなひどい扱いに耐えさせたのは,何だったのでしょうか。彼らは,神の言葉聖書に頼りました。彼らはそこに,モーセ,ヨシュア,預言者たち,そして第一世紀のクリスチャンたちの,忠実さと忍耐の模範を見,とりわけわたしたちの主また救い主であるイエス・キリストが示された忠実さの模範を心に銘記していたのです。―ヘブライ 12:1-3。

信仰の目で『見る』

10 (イ)モーセは若い時にどんな有利な立場にありましたか。(ロ)エホバに対してどんな忠節を示しましたか。

10 この世的な見地から見れば,モーセは物質的に極めて有利な立場にありました。彼はファラオの娘の養子でした。そういう身分であったので,彼は最上等の食物を食べ,最上等の衣服をまとい,ぜいを尽くした環境の中で華麗に暮らす立場にありました。(出エジプト 2:1-10)彼は非常な威信と名声を得たことでしょう。そして最後には広大な地所を相続したことでしょう。彼は最高の教育を受け,「エジプト人の知恵をことごとく教授され」,「ことばにも行ないにも強力な者」となりました。ですから,エジプト人の世界における彼の地位が極めて恵まれたものであったことは確かです。(使徒 7:20-22)それにもかかわらず,モーセは自分とエホバとの関係により大きな関心を抱いていました。この点でモーセは,1,900年の昔から今日までのすべてのクリスチャンのために正しい模範を残しました。神に対する,そしてまた自分の属する民族に対する忠誠心から,彼は「ファラオの娘の子と呼ばれることを」拒む決意をしました。使徒パウロによる聖書の記録は次のように述べて,モーセの先見の明と理解力のほどを示しています。「信仰によって,彼はエジプトを離れましたが,王の怒りを恐れることはありませんでした。彼は見えないかたを見ているように終始確固としていたのです。信仰によって,彼は過ぎ越しと血をかけることとを執り行ない,滅ぼす者が自分たちの初子に触れないようにしました。信仰によって,彼らは乾いた陸地を行くかのようにして紅海を通りました。しかし,あえてそこに乗り出したエジプト人たちはのみ込まれました」― ヘブライ 11:23-29。

11 モーセは,将来任務を果たす備えとしてどのように訓練されましたか。

11 モーセの大きな願いは,エホバの民に救いをもたらすことにおいてエホバに用いていただくことでした。40年の間,彼は遠く離れたミデアンの地にいて,敬虔の道を学びました。忍耐,温和,謙遜,辛抱強さ,柔和な気質,自制などの特性を養い,またエホバを待つことを学ぶ必要がありました。その荒野の中の一羊飼いとして彼は,遭遇するであろう失望や苦難に耐えるよう訓練され,備えをさせられました。同時に彼は,冷静であることや力を示すことの必要を学びました。なぜなら,それらの特質は,彼が将来任務を果たす際に,エホバの民を奴隷の境遇から導き出す際に,必要となるからでした。―使徒 7:29,30。

12 (イ)なぜモーセとアロンはエホバにより頼むのに勇気がいりましたか。(ロ)エホバはどのようにしてイスラエルを助けに来られましたか。

12 ファラオのような,とりわけ大きな権力を持つ王の前に出て,神の民を去らせよ,と最後通告を行なうには,モーセの側に勇気と雄々しさが必要ではなかったでしょうか。モーセと彼の実の兄弟アロンは,それを一度だけでなく幾度も行なったのです。とうとうファラオはイスラエル人を追い出しました。が,すぐに気が変わり,彼らを追跡しました。ファラオの権力から逃れる機会は無になるかに見えました。エジプト軍は彼らの背後に迫り,前方には広い紅海が横たわっていました。しかしエホバはモーセに,『手を海の上に伸べよ』と言われました。次いでエホバは,一晩中強い東風を吹かせて海を退かせ,海盆を広い範囲にわたって乾いた陸地に変えられました。イスラエル人は乾いた地を通り始めました。彼らが海床から出た時,エジプト人は追跡にかかりました。その時エホバはモーセに言われました。『汝の手を海の上に伸べて水をエジプト人とその戦車と騎兵の上に流れ反らしめよ』と。こうしてエホバはイスラエル人をエジプト人の手から救われました。『イスラエルまたエホバがエジプト人になしたまいし大いなる事を見たり ここにおいて民エホバを畏れ エホバとそのしもべモーセを信じたり』― 出エジプト 14:15-31。

13 (イ)ヨシュアとイスラエル人はどのようにしてエホバを「見る」ことになりましたか。(ロ)エリコの内側のだれがエホバを「見」ましたか。なぜ?

13 モーセの後継者ヨシュアも信仰を示しました。彼もまたエホバを「見た」のです。契約の箱を担いでいた祭司たちがヨルダン川に足を踏み入れると,上流の水が奇跡的にせき止められ,イスラエル人は,祭司たちがヨルダンのまん中の乾いた地に立っている間に,干上がった川床を歩いて渡りました。それらのイスラエル人にとってエホバの臨在は現実のものでした。次いで彼らはエリコへ向かいました。そこで彼らは,一日に一回町の周りを行進し,それを六日間続け,七日目には七回まわりました。祭司たちが角笛を吹き鳴らし,民が叫び声を上げた時,難攻不落と思われたエリコの城壁は崩れ落ちました。確かにイスラエル人は,こうしたことすべてにおいてエホバを「見る」ことができました。(ヨシュア 3:15-17; 6:10-16)しかし,エリコの内側にいたある人も,その時にエホバを「見」ました。それはラハブです。エホバの偉大なお力に対する信仰のゆえに彼女は救われ,彼女の家族も救われました。ラハブは,ヨシュアの使者たちをかくまうという行ないにより,自分の信仰を表明しました。―ヨシュア 2:1-21; 6:25。ヤコブ 2:25。ヘブライ 11:30,31。

14 ザレファテのやもめはどのようにしてエホバを「見」ましたか。

14 後日,預言者エリヤはザレファテのやもめを訪ねました。その女の子供は病気にかかって死にました。それでエリヤは,『なんじの子を我に授せ』と言い,それから『これを己の居る樓に抱えのぼりて己のとこに臥しめ』ました。『しかして三度身を伸してその子の上に伏しエホバに呼わりて言う わが神エホバ願わくはこの子の魂を中に帰らしめたまえと……その子の魂中にかえりて生きたり』。そのやもめは実際にエホバを「見」ましたか。そうです,見たのです。しかし肉眼で見たのではありません。信仰の目で見たのです。なぜなら,エリヤにこう答えたからです。『我はなんじが神の人にしてなんじの口にあるエホバの言は真実なるを知る』― 列王上 17:7-24。ヘブライ 11:35。

15 「雲のような証人たち」の模範からわたしたちは何を学びますか。

15 昔の忠信者たち,すなわち,アベル,エノク,ノア,アブラハムそしてモーセの時代に至るまでの他の人々,ヘブライ 11章に挙げられている人々すべて,また無数の他の人々は,彼らが神を「見た」ことをあかししています。彼らについて,ヘブライ 12章1節には次のように書かれています。「こうして,これほど大ぜいの,雲のような証人たちに囲まれているのですから,わたしたちも,あらゆる重荷と容易に絡みつく罪とを捨て,自分たちの前に置かれた競走を忍耐して走ろうではありませんか」。この人々は信仰を表明して,神と神の不変の目的に関し,論破することのできないあかしを行ないました。彼らは,肉眼ではなく信仰の目で実際に神を「見た」のです。あなたも彼らのような強い信仰をお持ちですか。

信仰は行動を促す

16 どのようにして信仰の目で「見」ますか。

16 あるものを肉眼で実際に見たことがなくても,経験を通して,あるいは他の人々の業績を通してそれをめいりょうに認識したなら,わたしたちは信仰のこの特質を働かせているのです。わたしたちは,新秩序が近いのを認める,あるいは「見る」というふうに言うかもしれません。しかしそれは実際に幻を与えられたということではありません。もっともわたしたちは,現在あるわたしたちの霊的パラダイスの中で,それを本当に前もって味わっています。しかしその実際の意味は,わたしたちがそれを自分の信仰の目で見た,ということです。ローマ 1章19,20節のパウロの言葉は,この点にわたしたちの注意を引いています。「神について(は)……明らかだからで(す)……というのは,神の見えない特質,実に,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して明らかに見えるからであり,それゆえに彼ら[不信者]は言いわけができません」。信仰は実際の証拠の上に築かれます。神の言葉の確実さ,神の預言の正確な成就は,わたしたちの心に強い信仰を植え付けます。

17 「見えないかたを見ているように……確固」たる態度をどのように示しますか。

17 エホバが望んでおられるのは,すべての者が「悔い改めに至ること」です。(ペテロ第二 3:9)ですからわたしたちは確固たる態度で他の人々に宣べ伝えなければなりません。宣べ伝える自分の能力に限界を感じるかもしれませんが,それはこの信仰を築く業から退く理由とはなりません。エホバは,「命の水」を受ける者が皆,それを他の人々にも差し伸べることを望んでおられます。わたしたちはモーセのように,「見えないかたを見ているように……確固」たる態度を持ち続け,他の人々も神を「見る」ように助けましょう。啓示 22章17節でわたしたちは次のように告げられています。「霊と花嫁は,『来なさい!』と言いつづける。そして,だれでも聞く者は,『来なさい!』と言いなさい。そして,だれでも渇いている者は来なさい。だれでも望む者は命の水を価なくして受けなさい」。わたしたちは強い信仰を抱いて,その招待を差し伸べる活動に,心を込めてあずかるべきです。

18 どんな方法で自分の限界を克服することができますか。

18 モーセは自分では,与えられた使命を果たす適任者だとは思いませんでした。自分はりゅうちょうな話し手ではないと言って辞退しました。(出エジプト 4:10)にもかかわらず,エホバの後ろだてを得て,成功しました。わたしたちも,自分に個人的な限界があっても,自分の使命を果たす際にはエホバが力づけてくださる,という確信を持つことができます。多くの人はすでにこの気持ちを,しかも一度ならず経験しているのではないでしょうか。エホバの証人の会衆の集会に出席し始めた時にあなたは,「まあ,わたしには皆さんのように堂々と話すことなどとてもできません」と言いましたか。また,大小を問わず聴衆の前で話すことなどとてもできない,とも考えたかもしれません。でも実際には今かつて不可能と考えたことを全部していないでしょうか。それはあなたが神の言葉を学び,神の霊があなたと共にあってあなたに力を与えていることを知っているからです。―コリント第二 12:10。

19 (イ)わたしたちはだれの業にあずかっていますか。(ロ)どんなすぐれた例がこのことを確証していますか。

19 エホバがその民にお与えになった仕事は,彼らの仕事ではない,ということをわたしたちは忘れてはなりません。それはエホバの業であって,人々がそれにこたえて心を開くようにするのはエホバなのです。フィリピで伝道したときの使徒パウロの経験は,そのことをよく示しています。「紫布を売る,テアテラ市の人で,神の崇拝者でもあるルデアという名の女が聴いていたが,エホバは彼女の心を大きく開いて,パウロの話す事柄に注意を向けさせた」。そうです,ルデアの心を開いたのはエホバでした。その結果,「彼女とその家の者たちがバプテスマを受け」ました。―使徒 16:14,15。

20,21 (イ)反応の鈍い区域の挑戦にどのように応じますか。(ロ)エホバの名はどのように関係していますか。

20 わたしたちは,自分が持っている能力や特質を何でも,社会的地位とは関係なく,正直な人々の心に訴えることに活用すべきです。わたしたちはどこに力を求めるべきでしょうか。モーセとアロンを強めたように,どんな場合でも,どんな事態に遭遇しようとも,大胆に恐れなく行動できるまでにわたしたちを強めてくださるのは,エホバです。エホバを絶えず「見」続けることにより,わたしたちは,たとえ大多数の人がこたえ応じなくても,努力を続け,「良いたより」を伝え続けることができます。(テモテ第一 4:10)人々の反応がどれほど鈍くても,彼らが将来どうするかを,わたしたちは予見できません。彼らは変わるかもしれません。エホバは忍耐をして,彼らに変化の機会を十分に与えておられるのです。(ペテロ第二 3:9)ちょうどモーセが幾度もファラオの前に出たように,わたしたちも,反応を示さない人々を重ねて訪問すべきではないでしょうか。エホバのみ名が関係していることを忘れずに,エホバを常に自分の前に置いているなら,わたしたちはそのようにするでしょう。―詩 16:8。

21 たとえ人々が変わろうとしなくても,神のみ名は知らされます。エホバの裁きが表わされる前に,十分の警告が与えられるのです。ですから,すべての国は最後に,神がエホバであることを『知らねばならない』でしょう。―エゼキエル 39:7,新。

22 地球上の多くの場所でどんなことが起きていますか。わたしたちはそれからどのように励まされるべきですか。

22 今日,世界の多くの地域で,以前なかったほど多くの人々が神の言葉にこたえ応じています。(イザヤ 60:8,22)所によっては人々は,家庭聖書研究をしてください,とエホバの証人のところに頼みに来ます。もしあなたの地方でこのようなことが起きているなら,あなたはもっと多くの人を助けることができるように,自分の仕事を調整する気持ちにならないでしょうか。それは,人々をその家に訪ね,また彼らと一緒に勉強することによってさらに大きな援助を与えることに,一層多くの時間を用いるようあなたを励まさないでしょうか。この方法であなたは,宣べ伝える業と弟子を作る業を拡大することができます。恐らく次にできることは,一時または正規開拓奉仕(全時間奉仕)に従事し,それによってさらに多くの人々が信仰の目で神を「見る」ように援助することです。今ほど多くの働き人と,収穫の業に対する熱意とが必要な時はないのです!―ルカ 10:2,3。

23,24 (イ)繰り返し区域を回ることによって何が成し遂げられますか。(ロ)どんな態度を取ることがここでわたしたちに勧められていますか。

23 あなたの住んでいる地方の状態が今どうであろうと,人々が真理を度々耳にすればそれだけ,永遠の命を意味する知識を取り入れる機会は増えるのです。(ヨハネ 17:3)わたしたちは,わたしたちの側のだらしなさのゆえに,だれかが勉強をして命の授与者についてさらに多くを学ぶ機会を持てない,ということがないようにしたいと思います。―エゼキエル 33:8,9。

24 わたしたちは,人々の状態が容易ならぬものであることを知っているのですから,あわれみと同情を示すべきではないでしょうか。(マタイ 9:35-38)その状態を見るときにわたしたちは,たとえ自分に都合が悪くても,彼らがエホバについての真理を学ぶのを助けるために進んで自分の時間と努力を犠牲にする気持ちを養うべきではないでしょうか。―エフェソス 5:15-17。

反対に直面してしっかりと立つ

25 (イ)地球のいろいろな場所で,多くのエホバのクリスチャン証人たちはどんな経験をしてきましたか。(ロ)わたしたちはこのことからどんな影響を受けるべきですか。

25 エホバの証人は,世界のいろいろな場所で激しい試練を受けてきました。多くの場合,そのために命を失うに至りました。わたしたちは過去わずか2,30年のうちにいかに多くのドイツ人のエホバの証人が命を失ったかを考えてみました。今でさえ,マラウィや他のアフリカの国々,また幾つかの共産国における迫害は,極めて激しいものがあります。人は反対に直面するときに,これら忠節な人々の模範から非常に大きな励ましを得ることができます。真理とその原則のために,彼らはなんと不屈な態度を堅持してきたのでしょう! 神が彼らと共におられる証拠を彼らは持っています。―エレミヤ 1:19; 15:20,21。

26,27 (イ)過去の忠実なエホバのしもべにはどんなことが起きましたか。(ロ)わたしたちは何を予期しなければなりませんか。そしてどう反応すべきですか。

26 過去においても,多くの忠実なエホバのしもべたちは,不当な嘲笑に耐えてきました。忠誠を保ったためにヨブがどんなにかばかにされ,あざけられ,笑い草にされたかを思い出してください。(ヨブ 12:4; 17:2)またダビデもばかにされ,あざけられました。―詩 22:7; 35:16。

27 エレミヤも嘲笑され,笑いとあざけりの的にされました。そのために,エホバについて語ることはやめる,という決意を口に出すことさえしました。(エレミヤ 20:8,9)しかし,彼はやめませんでした。なぜやめなかったのでしょうか。なぜなら,エホバの偉大さや恵み深さを認識しており,またエホバが常に自分と共にいてくださり,自分の命をねらう者の手による死から自分を救い出してくださったことを認めていたからです。ではわたしたちも,エレミヤのように確固たる態度を保つとき同様の祝福を期待できるのではないでしょうか。現代のエホバの証人として,わたしたちは,エレミヤが生涯中そうであったように,世から憎まれていないでしょうか。本当にわたしたちは,一つの国民として迫害と非難に生き残ったことで自らを慰めることができます。エホバがご自分の民を支えてそれらの試練を通過させてくださったのだ,ということを十分に認識することができます。(エレミヤ 20:11,13)ですから,エホバの至上性を否定したり,真理に関する業を推し進める点で手をゆるめたりすることは,大変愚かで不信仰な行為と言わねばなりません。

28 (イ)三人の忠実なヘブライ人の裁判について述べなさい。(ロ)彼らの経験とパウロの言葉からどんな教訓を得ますか。

28 激しい試練の下にあるといっても,わたしたちの状態は,シャデラク,メシャク,アベデネゴが直面した状態ほどにむずかしいものではないでしょう。火の燃える熱い炉に投げ込まれる事態に直面した時でさえ,彼らは次のように言いました。『もし善からんには王よ 我らのつかうる我らの神我らを救うの能あり 彼その火の燃ゆる炉の中と汝の手の中より我らを救いいださん』。(ダニエル 3:17)しかしここで口をつぐむことをせず,さらにこう言いました。『たといしからざるも王よ知りたまえ 我らは汝の神々につかえずまた汝の立てたる金像を拝せじ』。(ダニエル 3:18)エホバはサタンがわたしたちに与えるどんな害をも元に戻すことがおできになる,ということを認めるなら大きな慰めを得られます。ですから,完全な状態の下における永遠の命と比べるなら,一時の苦しみが何でしょう。コリント人に対して言ったパウロの言葉は非常に慰めとなり,また問題をどう見るべきかを示しています。「患難はつかのまで軽いものですが,いよいよ重みを増す永遠の栄光をわたしたちのために生み出すからです。同時にわたしたちは,見えるものではなく,見えないものに目をとめます。見えるものは一時的ですが,見えないものは永遠だからです」― コリント第二 4:17,18。

29,30 (イ)どんな忍耐の模範に従うべきですか。(ロ)ヨブの忠実さはわたしたちにとってどんな模範ですか。

29 わたしたちの仲間のエホバの証人たちが圧迫され,迫害されていることは,わたしたちにとって悲しいことかもしれません。イスラエル人がファラオの手によってかこくに扱われているのを見た時,モーセにとってそれは悲しいことでした。(出エジプト 5:22,23)兄弟たちが苦しんでいるのをわたしたちは確かにかわいそうに思いますが,兄弟たちの上に降りかかる苦しみを見て恐れてはなりません。(コリント第一 12:26)万一同様の苦しみがわたしたちの上に臨んだなら,わたしたちは,わたしたちの信仰は勝利を得るという確信を抱いて,彼らの忍耐強さの模範に従うでしょう。ペテロ第一 1章6,7節には次のように述べられています。「このことをあなたがたは大いに喜んでいます。もっとも,現在しばらくの間,やむをえないことであるにしても,あなたがたはさまざまな試練によって憂え悲しんできました。でもそれは,火によって試されていながらも滅びてしまう金よりはるかに価値のある,あなたがたの信仰の試された質が,イエス・キリストの表わし示される時に,賛美と栄光と誉れのいわれとなるためなのです」。

30 次の点を念頭に置いていることは大切です。つまり試みのもとで信仰を保つことは,サタンがうそつきであることを証明するのに役立つということです。そのすぐれた模範はヨブです。サタンは,ヨブをして『神の顔に向かって神をのろわせる』ことができると挑戦していましたが,ヨブは試練の間ずっと『忠誠を固く保ちました』。彼は真の神を敬い続けました。―ヨブ 2:4,5,9,10,新。箴 27:11も参照。

31 わたしたちは信仰をもって何を楽しみに待つことができますか。

31 わたしたちは信仰の目で,期待を抱いて前途を見ることができます。エホバが敵に対して勝利を得,その民を患難から救出されるところを脳裏に描くことができます。パウロはテサロニケ人に手紙を書き送り,悪行者や迫害者がどうなるか,次のように述べました。「この同じ者たちは,主のみまえから,またその力の栄光から離れて永遠の滅びという司法上の処罰を受けます」― テサロニケ第二 1:9。

32 敵がわたしたちにどんな不利な事態をもたらそうとも,わたしたちはなぜちゅうちょすべきではありませんか。

32 わたしたちの前に置かれた,神のことば聖書の中の模範から,わたしたちは大きな慰めを得ることができます。ですから,人々または政府の憎しみのゆえに,わたしたちにとって不利などんな事態が発展しようとも,わたしたちは,わたしたちを支えるエホバの能力に対する絶対の確信を維持することの重要さを理解できます。エホバのその能力には,エホバに忠節に奉仕するときに,エホバがわたしたちを保護してくださることも含まれます。では,輝かしい勝利の祝福にわたしたちをあずからせることのできる『見えない神を見ているように』,確固たる態度を保ち,前進しましょう。

[299ページの図版]

モーセがその手を紅海の上に伸べると水は分かれた。それでイスラエル人は乾いた地を通った

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