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  • 人間はなぜ死ぬのですか
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1964
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1964
塔64 9/1 517–519ページ

人間はなぜ死ぬのですか

これについてはさまざまな意見があります。しかし神のことばはどう答えますか。

人間は死ぬことを望みません。人間は生きること,そして生活を楽しむことを望みます。そのため,病気をなくし,寿命を伸ばすためのあらゆる努力が払われています。にもかかわらず,全世界では毎日推定14万2000人が,そして1秒間に平均二人近くが死んでいます。1962年にはアメリカだけでも60万8082人が心臓病で死に,27万8562人がガンの犠牲になりました。しかし死はだれにも臨むものというだけでは,愛する者を亡くして悲しむ人にとって少しの慰めにもなりません。

そのような時に死は,単なる冷たい数字以上のものになります。それは残酷で無慈悲な敵となり,人はそれに直面して自分が無力なことを思い知らされます。そして,なぜだろう? なぜこうならねばならないのだろう? なぜ私の愛する者が死なねばならなかったのだろう,という言葉が思わずくちびるを突いて出ます。

いろいろな意見

だれかが死ぬと人々は,人間が死ぬのは神のみこころなのだろうかと考えます。不思議なことに,世界の宗教組織の多くが広めた教えによって,多くの人が,死は神のみこころであると信じるようになりました。一つの例をあげると,1962年の12月,ローマ・カトリックの枢機卿リチャード・クッシングは,マーガレット・カディガンという若い美しい娘が自分の兄に殺されたことについて意見を述べ,「私は彼女が答を得たと考える。それは全能の神から得られる唯一の答えだった」と言いました。それはどんな答えでしたか。「『私がおまえを愛し,家に迎えたいからだ』」。

しかしトマス・カディガンはそういう理由で妹を絞殺したのですか。神は天で彼女と共にいることを望み,彼の心に殺意をもたせて殺させたのですか。マーガレット・カディガンがひどい死に方をした真の理由,また毎年多数の人が同様な死に方をする理由はそこにありますか。人が年を取って死ぬのはそのためですか。思慮ある人は権威ある答を得たいと思うでしょう。

科学は,少なくとも年齢に起因する死にかんするかぎり答を出せると主張します。グラスゴー(スコットランド)のイブニング・シチズン紙の科学記者アラステヤー・ワード博士は次のように説明しました。「若い時にはわれわれが必要とする以上の細胞があるが,年を取るにつれてそれを失い,ついにはある特定の器官あるいは器官グループに細胞が不足するようになる」。そしてそのうちに,「急速な減少をはじめ,人体の複雑な組織は死んで分解してしまう」。

科学者が,老化や死を必然的なこととせず,むしろ病気とみて,その治療法の発見を望んでいるのはおもしろいことです。生化学者のウイリアム・ベックは,「物の道理からいって,なぜ死が必然的でなければならぬか,私にはその理由がわからない」と言っています。世界的に有名な医学者ハンス・セリエは,「老化が病気と考えられること」,そして「他の病気の場合と同じく予防と治療の可能性があること」を指摘しています。ノーベル賞受賞者ライナス・ポーリング博士によると,「理論の上では人間は死なずにすむものである。人間のからだの組織はひとりでに変る。人間は自分で自分を修繕する機械である」ということです。このように人間は,いつまでも生きる潜在力をもちながら依然死んでいます。なぜですか。

死が天の生命への飛び込み板だからですか。また神がその人を天に呼びたい時がきたからですか。それともただ年が寄って,からだの中の化学的毒素が,新しくできる細胞以上の数の細胞を殺すからですか。これが答えですか。あるいは人間の死にはほかにもっと根本的な理由がありますか。そこで,人間を造ったかたが,この問題につき何を言われているか調べるのは,道理にかなったことと言えるでしょう。

聖書の答え

驚くほど巧みに設計された人間のからだが,人間の福祉と幸福に関心をもたれる偉大な創造主によって造られたものであることに疑問の余地はありません。からだのすばらしい働きを考えてごらんなさい。一つの微小な細胞を一定の計画に従ってふやし,ついに多数の細胞,つまり新生児として母親の胎から産み出させる力などは,とりわけすばらしいものです。だれにせよ,からだのこのような生殖機能が,何十億年にもわたる盲目的で目的のない進化論的発達の結果と考えるのは愚かなことです。人間は偶然の所産ではなく,叡知ある名匠によって創造されたものです。

この理性的な結論は,最初の人間,および人間が神によって創造されたことにかんする権威ある記録を保存する地上最古の本の教えと合致します。今一般に聖書として知られているこの有名な本は,神が人間を完全に,永久に生きられるようにお造りになったことを示しています。この本は,創世記と呼ばれる最初の部分で,「エホバ神土の塵を以て人を造り生気をその鼻にふきいれたまへり人すなわち生霊となりぬ」と説明しています。人間は完全に造られました。聖書も神の創造について「その御行為は完く」と述べています。―創世 2:7。申命 32:4。

これは完全な人間の男と女のまえには,地上の楽園で永遠に生きる機会があったことを意味します。彼らが従順であるかぎり,天のみ父は,彼らのからだが設計どおり正しく機能を発揮するよう取り計らわれるはずでした。調節が完全に行なわれるので,体細胞は常に更新され,毒素は取り除かれるはずでした。これは彼らが精力の脈打つ健康に恵まれ,病気でゆううつな日など1日もないことを意味します。しかしそのような状態を変えてしまう何かが起きたことはたしかです。では人間はどんな理由で,病気になったり死ぬようになったでしょうか。

これに対する答えは,白衣の科学者が,実験室の試験管の中で調べ出すわけにはいきません。また,非聖書的ないい加減な言葉で遺族の耳をくすぐろうとする著名な宗教指導者たちの哲学めいた教えの中にも真理はありません。この問題について真実の知識を与えるのは,神のことばである聖書です。その聖書によると,人間が,無数の霊者によってすでに構成されていた神の大家族の一部としていつまでも生きつづけるために必要な条件は,神を家族のかしらとして神に従うことでした。故意に背くなら死という罰が加えられるはずでした。

エホバ神は,最初の人間夫婦を創造して間もなく,このことを彼らに教えてこう言われています。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると,きっと死ぬであろう」。これは簡明で理解できる言葉です。もし背くならば人間は死ぬのです。―創世 2:16,17。

人間は呼吸する空気,飲み水,食物を必要とするばかりでなく,たえず創造主との正しい関係をも必要とするように創造されました。神との正しい関係を保たなければ,からだに必要な食物と飲物を取らない場合と同じ有害な結果が生ずるはずです。つまりやがては死を招きます。そして実際にその通りになりました。最初の人間夫婦アダムとエバが神にそむいて禁じられた食物を食べたとき,神は彼らが楽園外の地上で死ぬことを告げ,二人を楽園外に追放されました。

しかし死はすぐにはやってきませんでした。神は人間を完全に造られたので,彼らのからだにはまだたくさん活力がありました。とはいえもはや完全ではありません。神は祝福をさしひかえられました。そのうちに人間は不完全性をあらわしはじめ,老化し病気をするようになりました。精密な機械が,製造者の明細な説明通りに操作されないなら次第に故障をきたし,ついにだめになるのと同じく,最初の人間夫婦は,造り主のおきてを破ったためにからだに欠陥を生じ,衰えはじめました。また病気もするようになり,ついに死がやってきました。かつて完全であったアダムは体力を使い果たしてのち,930歳で,すなわち神が限定された1000年という期間のうちに死にました。

それゆえに病気と死は,最初の両親が不従順になり,神の家族から追い出されたこの結果生じたものです。不完全な鋳型から完全な機械を作れないのと同じく,不完全になったアダムとエバは,罪に走る性向のない完全な子供を生むことができませんでした。そのため二人の子孫はみな病気にかかるもの,また死ぬべきものとなりました。―ヨブ 14:4

自分の妹を殺した青年の場合のような暴力行為の存在は,この罪に走る性向に起因します。またこの性向は,人間のからだを不完全にして,老化や病気による死を招くものでもあります。クリスチャン使徒パウロはそれをこのように説明しました。「このようなわけで,ひとりの人〔アダム〕によって,罪がこの世にはいり,また罪によって死がはいってきたように,こうして,すべての人が罪を犯したので,死が全人類にはいりこんだのである」。これこそ人間がなぜ老化し,死んで行くか,という質問に対する権威ある聖書の答えです。―ロマ 5:12。

無意識の死者にある希望

ですから,愛する者を家族から引き離すという暴力行為の責任は,多くの牧師が主張するごとく神にあるのではなく,むしろ人間自身にあるのです。神は人間が生きるように,そして命を楽しむように配慮されたのですが,最初の人間夫婦はその神に反逆し,自分自身とすべての子孫のうえに罪の宣告と死を招いたのです。このことは彼らにとって天国への片道切符を意味しませんでした。聖書によると人間の生命力は死と共に去り,「その日には彼のもろもろの計画は滅び」ます。―詩 146:4。

それで,死とは単なる推移であり,霊魂が解放されて異なった状態で存在することである,という牧師の言葉はあざむきであり偽りです。人間は「生ける魂になった」のです。(創世 2:7。コリント前 15:45)そして聖書は魂が死ぬべきものであることをくりかえし述べています。エゼキエル書 18章4節などがその一例で,「罪を犯した魂は必ず死ぬ」と述べています。

人間が死ぬと無意識になり何も感じなくなるのは事実ですが,一方聖書は死からの復活というすばらしい希望をさしのべています。「これを怪しむな。記憶の墓にいる者がみな彼の声を聞いて出てくる時がくる」とイエス・キリストは言われました。死は大敵です。しかし復活という神のすばらしい約束があるのを知ることはなんと大きな慰めでしょう。―ヨハネ 5:28,29,新世。

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