「喜びをもってエホバに仕えよ」
「エホバを自分たちの神とする民は幸福である」― 詩 144:15,新。
1 エホバのしもべたちは不幸な人生を送りますか。
「ついに幸福を得たり」。これはかつてスウェーデンの一知事が自分の墓碑銘に刻ませたことばの一つです。(ラテン語でタンデム・フェリックス)その知事がこの句についてどう考えたかはさておき,このような人の生涯がほんとうに幸福なものであったかどうかは疑問でしょう。多くの人は,そして宗教生活に専念した人の中にさえ,多くの不幸を経験し,何ほどの善も行なわずに生涯を過ごしたと感じながら一生を閉じる人もあるでしょう。しかし,死ぬまで忠実に神に仕える人々はそうではありません。このような人はその敬虔なわざにより,エホバのみまえに良き名を築き,また死からの復活を保証されています。―伝道 7:1。ヨハネ 5:28,29。使行 24:15。
2 エホバに対する誠実さを保つと,どんな結果になりますか。
2 ヘロドトス(紀元前5世紀のギリシアの歴史家)は,「生涯の終わりを見るまでは,なにびとをも幸福な人と呼んではならない。それまでは精々幸運な人と言えるだけである」と述べました。確かに一生のあいだには良い事もあれば,悪いこともあります。しかし,ほんとうに神を愛する人々は,どんな事態に直面しようと,「わたしは死ぬまで,潔白を主張してやめない」と堅い決意をもって語ったヨブのように,神への忠実を保ちます。(ヨブ 27:5,口語)ヨブはエホバの恵みのうちに死に,後日,聖書の他の本の中にその名をとどめられました。(ヨブ 42:12。エゼキエル 14:14,20。ヤコブ 5:11)イスラエル人ダビデはかつて,「されど われは完全によりてあゆまん」と宣言しました。(詩 26:11)彼は神の御心にかなった人であり,また,忠実を保った者として生涯を終えました。(使行 13:22,23。ヘブル 11:32-34)ヨブとダビデはいずれもイエス・キリストの千年統治中,この地上によみがえります。(黙示 20:11-14)また,『喜びをもってエホバに仕える』今日の忠実で敬虔な人々にとっても結果はよいものになります。―詩 100:2,新。
3 エホバは,そのしもべとして死にさえ直面する人々に対し,必要な力をどんな方法でお与えになりますか。このことを示す例を上げなさい。
3 エホバはご自分の聖霊すなわち活動力を用い,そのしもべとして死に直面する際に必要な勇気と力さえお与えになります。(ピリピ 4:13)ナチス・ドイツの強制収容所でエホバの証人がしたゝめた多くの手紙はこのことを物語っています。打ち首の刑の宣告を受けたひとりの若いクリスチャンは両親にあててこう書きました。
「すでに真夜中が過ぎました。自分の考えを変える時間はまだ残っています。しかし,わたしたちの主を否定したあと,この世で再び幸福にすごせるでしょうか。決してできません! しかしわたしは幸福と平安のうちにこの世を去る覚悟ですからご安心ください」。
別の証人は妻にあてて書きました。
「今夜はわたしの最後の晩です。わたしの処刑の宣告はすでにわたしの前で大声で読み上げられました。最後の食事も終えました。それでこの手紙が届いた時には,わたしの生涯は終わっていることでしょう。死の針はすでに取り除かれ,墓に対する勝利がすでに得られたことをわたしたちは知っています。もちろんこうしたことはたいていの人にとって全くばかげたことでしょう。しかしそれは取るに足りないことです。やがて全能の神の御名が立証され,人類がそのことを目撃する日が訪れます……それでわたしはもう一度,あなたの穏やかな輝く目を見つめます。あなたの心に残る悲しみをことごとくぬぐい去りなさい。苦しみに負けないでこうべを上げ,死についてではなく,神を愛する者に神が与えてくださる命を思い,喜んでください」。
これらふたりのエホバの証人は他の多くの人とともにナチの手で死を受けるまで神に忠節をつくしました。しかし神に対する誠実さが,死に直面するところまで試みられるかどうかにはかかわりなく,エホバに忠実であることは,常に良い結果をもたらします。これとまさに対照的なのは,邪悪な人間の運命です。それは次のことばによく示されています。「邪悪な者は自分の悪のゆえに押し倒され,正しい者は自分の誠実さのうちにのがれ場を見いだすであろう」― 箴言 14:32,新。
エホバに仕えることを喜ぶ十分の理由
4 エホバのしもべであることが,幸福になる理由であるのはなぜですか。
4 エホバはご自分の忠節なしもべたちがたとえ死に臨もうと,さゝえてくださるとともに,彼らの前に復活の見込みを差し伸べておられます。しかしそれ以外にも,「エホバを自分たちの神とする民は幸福である」と言うことのできるさらに多くの理由があるのです。(詩 144:15,新)一つの理由を上げれば,「全地の至上者であられる」エホバに仕えることは,はかり知れない楽しい特権です。(詩 83:18,新)「神は愛である」としるされていますから,神のしもべであることは決してつらいことではありません。(ヨハネ第一 4:8,新)エホバの証人は大いなる災いの時の今,「幸福なる神の栄光の福音を」ゆだねられているゆえに確かに喜ぶことができます。(テモテ前 1:11)また,神への忠実な奉仕によりエホバを喜ばせるということは,なんという大きな喜びでしょう。―箴言 27:11。
5 人類の大多数の人々と異なり,クリスチャンは将来に関して何を知るゆえに喜ぶことができますか。
5 そのうえクリスチャンは,暗たんたる,きびしい将来に向かう人類の大群衆とは異なり,将来の事柄を知っているゆえに喜ぶことができます。神は愛の心から聖書の幾多の預言を通して,また,「すべての事を究め,神の深き所まで究(め)」るご自分の霊を用いて,クリスチャンに対し将来の事柄を明らかにしてこられました。(コリント前 2:10)したがってエホバのしもべたちは,今がこの事物の体制の終わりの日であることを知っており,『彼らの救いが近づいている』ゆえに『こうべを上げる』ことができるのです。(ルカ 21:25-28,新。マタイ 24:3-14,34。テモテ後 3:1-5)詩篇 37篇37,38節の次のことばは今の時代のうちにいっそう深い意味を帯びてきます。「完人に目をそゝぎ直人をみよ和平なる人には後あれど 罪ををかすものらはともにほろぼされ 悪しきものの後はかならず断るべければなり」。神を信頼し,喜びをもってエホバに仕える人には幸福な将来が保証されています。ゆえに,「万軍のエホバよ なんぢに依頼むものはさいはひなり」とはほんとうに真実なことばです。―詩 84:12。
6 クリスチャンの友を持つことはなぜ喜びですか。
6 エホバ神に献身した人はまた,最善の友を得たことを喜べます。クリスチャンの中には,父や母そのほか家族の者が,聖書にかなった生活を追い求めることに激しく反対するために,彼らから別れねばならない人がありますが,それでもこれら神のしもべたちは幸福です。それはイエス・キリストの次のことばの成就に個人的にあずかっているからです。「我がため,福音のために,あるひは家,あるひは兄弟,あるひは姉妹,あるひは父,あるひは母,あるひは子,あるひは田畑をすつる者は,たれにても今,今の時に百倍を受けぬはなし。すなはち家・兄弟・姉妹・母・子・田畑を迫害とともに受け,また後の世にては,永遠の生命を受けぬはなし」。(マルコ 10:29,30)忠実なクリスチャンは,神のみことばに従って生活をしますから,道徳的に清く,かつ高潔です。(ロマ 12:2)彼らは古い人格を脱ぎ捨てて,新しい人格を着ました。(コロサイ 3:8-11)その行ないは彼らが,「なんぢら過ぎにし日は,異邦人の好むところをおこなひ,好色・欲情・酩酊・宴楽・暴飲・律法にかなはぬ偶像崇拝に歩みて,もはや足れり」と語ったクリスチャン使徒ペテロに同意していることを示しています。(ペテロ前 4:3)クリスチャンはもはや堕落した肉のわざにふけらず,神の聖霊の実を培い,それを表わし,「みたまによりて歩むべし」との勧めに心を用います。(ガラテヤ 5:19-26)このような友を持つことは,なんという喜びでしょう!
7 (イ)クリスチャンはこの世の人々に見られる思想上あるいは政治上の意見の相違のために仲たがいをすることはありません。なぜですか。(ロ)真のクリスチャンはどんな事のゆえに人種的な偏見を持っていませんか。
7 この世の友人どうしが思想上あるいは政治上の意見の相違のために仲たがいをするのは珍しいことではありません。しかし『喜びをもってエホバに仕える』人々のあいだにはこのようなことは生じません。彼らは,「我の世のものならぬごとく,彼らも世のものならず」と言われたイエス・キリストのことばに従って,この世の事柄ではすべて中立を保ちます。(ヨハネ 17:16)政府の,「上にある権威者」に対しては,相対的な服従を示し,「カイザルのものはカイザルに」返しますが,それとともにクリスチャンは「神のものは神に」返します。(ロマ 13:1,新。マルコ 12:17,新)そして,エホバの御心と人間の考えとが衝突する場合にはいつでも「支配者として人間より神に従わねばなりません」。(使行 5:29,新)それに加えて真のクリスチャンは,人種的な偏見など,この世のさまざまな偏見をいだいていません。なぜなら彼らは,エホバが「一人よりしてもろもろの国人を造りいだし,これを地の全面に住ましめ」られ,また,「神はかたよることをせず,いづれの国の人にても神を敬ひて義をおこなふ者を容れ給ふこと」を知っているからです。(使行 17:26; 10:34,35)聖書のこうした見方をする人々と交わることは大きな喜びです。
8 聖書に一致した行ないをしている人はなぜ喜ぶことができますか。
8 聖書に一致した行ないをしてエホバを喜ばせる人には,喜ぶべき理由があります。クリスチャン使徒パウロは,「われ常に神と人とに対して良心の責なからんことをつとむ」と述べました。(使行 24:16)今日のクリスチャンも同じことに努めています。ゆえに,悔い改めることをしない故意の悪行者に必ず加えられる神の報復を恐れずに生活できます。(マタイ 12:22-32。ヘブル 10:26-31)そのうえクリスチャンは箴言 3章21-26節(新)の次のような訓戒に心を用い,こうして,そこに述べられている保証のことばの成就にもあずかります。「実際的な知恵と考える能力とを守りなさい。そうすれば,これらのものはあなたの魂の命となり,また,あなたの首の飾りとなるであろう。その場合,あなたは自分の道を安全に歩み,あなたの足は何にもぶつからないであろう。あなたはいつ横になっても,恐怖を感ずることがなく,あなたは横たわり,あなたの眠りは快いであろう。あなたは突然のどんな恐ろしいものもおそれる必要がなく,また,邪悪な者たちに嵐が臨んでいるからといって,恐れる必要もないであろう。実際には,エホバご自身があなたのよりどころとなり,あなたの足が捕われないように確かに守ってくださるからである」。喜びをもってエホバに仕えるとき,なんという祝福がもたらされるのでしょう!
9 クリスチャンは大いなるバビロンが存在するにもかゝわらずなぜ喜ぶことができますか。
9 しかし,クリスチャンの喜びのもう一つの大切な理由を考えてください。世界にまたがる偽りの宗教の帝国,大いなるバビロンは,「もろもろの民,群衆,国民,国語」を意味する『水の上にすわって』います。とはいっても,それは比喩的な意味で,エホバを崇拝する人々の上に「すわっている」,つまり宗教的な影響や支配を及ぼしているのではありません。(黙示 17:1,15,新)彼らは天からの警告に従って大いなるバビロンからのがれ去りました。そして,それがまもなく滅ぼされることを知っています。(黙示 18:4,5,8)その束縛から離れた彼らは,その汚れた偽りの宗教の犠牲者ではありません。そして,偽りの宗教ではなく,聖書の真理こそその所有者をほんとうに自由にするものであることを知っています。(ヨハネ 8:31,32)こうした自由を持っていることは,クリスチャンが喜ぶべき別の理由です。
昔のエホバの証人の幸福な生活
10 (イ)モーセはエジプトを支持することにより何を得ていたことが考えられますか。(ロ)モーセの場合,神を第一にすることによりどんな祝福がもたらされましたか。
10 生涯をエホバにさゝげた昔の人々は大きな幸福を味わいました。モーセはそのひとりです。エジプトにおけるモーセの若い時代についてステパノはこう述べました。「遂に棄てられしを,パロの娘ひき上げて己が子として育てたり。かくてモーセはエジプト人のすべての学術を教えられ,ことばとわざとに能力あり」。(使行 7:21,22)言い伝えによれば,モーセはエチオピアに対するエジプトの戦いを指揮して,勝利を収め,凱旋したとされています。(ヨセハス著「ユダヤ人古誌」,第2巻,第10章)これは言い伝えにすぎません。モーセがエジプトを支持することによって,軍事または政治面で名声を得たり,物質面で有利な地歩を得たりすることができたかもしれませんが,聖書は何も述べていません。しかしながら聖書はこう伝えています。「信仰によりてモーセは人となりしときパロの女の子ととなへらるるを否み,罪のはかなき歓楽を受けんよりは,むしろ神の民とともに苦まんことをよしと(せり)」。なぜですか。「キリスト[神の油そそがれた者となる特権]によるそしりはエジプトの財宝にまさる大なる富と思へり,これ報を望めばなり」というのがその理由です。(ヘブル 11:24-26)モーセは神を第一にしました。モーセはその忠実な歩みのゆえに,報いの多い長い生涯と,エホバに用いられて神の民をエジプトの束縛から導き出す特権とを享受しました。確かにモーセは,人生を浪費したという感慨をいだいて死んだ人ではありません。彼はエホバに忠実に仕えたゆえに,聖書の約束する新しい秩序の下でよみがえり,神の用いられるメシヤなる解放者,大いなるモーセ,イエス・キリストの下で『全地の君』のひとりとして仕えることでしょう。―詩 45:16; 72:1,4,12-14。
11 ルツは宗教上のどんな決定を下しましたか。また,その結果,どのように幸福がもたらされましたか。
11 宗教上の正しい決定を下して幸福な結果を見た人にモアブ人の女ルツがいます。イスラエルのさばき人の時代のある飢饉の時,ベツレヘムのエリメレクとその妻ナオミおよびその二人のむすこがモアブの地に居住しました。エリメレクの死後,むすこたちはモアブ人の女オルパとルツをそれぞれめとりました。その後,これらのむすこたちも死に,3人のやもめがあとに残りました。やがて3人はユダの地に向けて出発しました。ナオミは若いふたりの女たちに,自分の民のもとに戻るよう極力すゝめたところ,オルパは涙ながらに勧めに応じ,『その民とその神にかへり』ました。しかしルツはその義理の母と別れることを拒み,次のように語りました。「我は汝のゆくところに往き 汝の宿るところにやどらん 汝の民はわが民 汝の神はわが神なり」。(ルツ 1:1-16)ルツは少なくとも幼少のころ偽りの宗教を教えられたと思われますが,偽りの神々への献身はルツの望むところではありませんでした。ナオミの神エホバはルツの神でもあったのです。やがてこの忠実なモアブ人の女はボアズの妻そしてダビデの祖父オベデの母になりました。(ルツ 4:13-17)考えてみてください! ルツはメシヤなるイエスの女子祖先となる特権にあずかったのです。(マタイ 1:1-16)ルツはキリストの千年統治に際してこの地によみがえらされるとき,「汝の民はわが民 汝の神はわが神なり」とかつて語ったことばにしっかり従ったことを喜ぶでしょう。
12 エホバに仕えるため,悪霊崇拝に関してある人々は自分の立場をどのように変化させねばなりませんでしたか。
12 なかには喜びをもってエホバに仕えるため,徹底した悪霊崇拝をやめた人々もいます。エペソにおける使徒パウロの宣教についてこう報告されています。「信者となった者の多くがやってきて,自分たちの行なっていた事を公に告白し,また告げた。実際に,魔術を行なっていたかなり多くの者は自分たちの本を集め,すべての人の前でそれを焼いた。彼らがその本の価を計算したところ,銀五万片に相当した。こうしてエホバのことばは盛んになり,そして力強くひろまって行った」。(使行 19:18-20,新)悪霊崇拝に関する行ないはエホバのしもべたちのすべき事柄ではなく,「呪術をなす」者は,「火と硫黄との燃ゆる池」で報いを受けると予告されている邪悪な者たちの仲間です。彼らはこうして,復活のない「第二の死」にはいります。(黙示 21:8。申命 18:10-12。イザヤ 8:19,20)しかし,悪霊崇拝をやめ,魔術の本を焼き捨てて,『喜びをもってエホバに仕えた』それらエペソ人の新しい幸福な生活を想像してください。
13 コリントの一部の人々は,道徳上の大変化を遂げたため,どんな結果がもたらされましたか。
13 ギリシアの古都コリントは「東洋と西洋の悪徳があい会した悪名高い歓楽の町」と評されています。西暦1世紀,クリスチャン使徒パウロはこの町で伝道し,こゝにクリスチャン会衆を設立しました。(使行 18:1-11)そして後日,この町の仲間の信者に手紙を書き,淫行をする者,偶像崇拝者,盗みをする者,大酒飲み,その他これに類する者は神の国を相続できないということを指摘しました。それからこう述べました。「あなたがたのある者はかつてそのようであった。しかしあなたがたは,わたしたちの主イエス・キリストの名により,また,わたしたちの神の霊によって,洗い清められ,聖別され,義とされたのである」。(コリント前 6:9-11,新)そうです,エホバは彼らの多くを助けて道徳的に大きな変化を遂げさせ,彼らはこうして健全で幸福な生活を営むようになりました。そのうえ,死ぬまで神への忠実を保ち,よみがえらされてイエス・キリストとともに天で不滅の命を受ける喜びにあずかったのです。―コリント前 15:42-57。
14 パウロの生活にはどんな重大な変化が生じましたか。
14 パウロ自身の生活にも変化が起きました。彼は,キリストの追随者の熱狂的な迫害者として迫害を続けるためダマスコに向かう途中,栄光に輝くイエス・キリストの奇跡的な出現に接して,反対をやめました。神の過分の恵みにより,それまでの迫害者はキリストの忠実な追随者として迫害を受ける者の一人となり,「異邦人の使徒」になりました。(ロマ 11:13。使行 9:1-20)そしてそのような立場に立って,イエスのためにさまざまの悩みを耐えたのです。(コリント後 11:23-27; 12:10)サウロは神の助けを得て変化を遂げ,喜びをもってエホバに仕えました。この使徒は今や他の油そゝがれた忠実なクリスチャンと天でともになり,『義の冠』を得ているのです。―テモテ後 4:6-8。
今日のエホバの証人の幸福な生活
15 ひとりのクリスチャンは霊的な戦いに何十年も携わって忠実に奉仕したのち,なんと述べましたか。
15 エホバのしもべたちには喜ぶべき多くの理由があります。さまざまな立場の人がエホバに仕えるため自分の生活を変化させました。また今でも相当数の人々がそうした変化を遂げており,なかには,昔エホバの側に立った人々と比べ得るほどの変化を遂げる人もあります。軍人としての生涯を歩んでこの世の物質的な事柄を追い求める代わりに,イエス・キリストの兵卒(テモテ後 2:3,4)となることを選んだ現代のひとりの忠実なクリスチャンは,霊的な戦いに何十年も携わって忠実に奉仕をしたのち,喜びをいだいて次のように言うことができました。「わたしは1964年,ブルックリンのものみの塔ギレアデ聖書学校に71歳で入学し,高度の神権的な訓練を受けることができ,たいへんうれしく思っています。『万軍の神』エホバおよび,任命された指令官であるキリスト・イエスが,その霊的な戦士すべてを力づけてくださり,最後の勝利に至るまで戦いを忠実に遂行できるようにとわたしは祈っています。―エレミヤ 38:17」。
16,17 (イ)偽りの崇拝から真の崇拝に転向した例を上げなさい。(ロ)ほかにも,『喜びをもってエホバに仕える』ため,ある人々はどんな変化を遂げましたか。
16 ルツのように,偽りの崇拝をやめて真の宗教に帰依し,宗教上の変化を遂げた人は幾千人もいます。たとえば次の報告を見て下さい。
「何年も前のこと,熱心な新教徒で聖書の研究生だったドイツ生まれのある若い婦人は,もし自分がカトリック教会の信仰を持ち,修道女になれたなら,貧困に苦しむ人々のためもっとよく奉仕できるに違いないと考えていました。そして彼女は修道女になり,聖心修道会にはいったのです。カブリニ女子修道院長がその総会長でした。やがて彼女はカブリニの同行者となって各地を旅行し,後日,女子修道院長の職に昇進しました……その後,彼女はアメリカに渡り,修道女であるその秘書とともにニューヨーク市近郊に孤児院を開設しました。しかし彼女は真理を教えていただきたいと涙のうちに神に祈っていたのです。そこで小型のラジオを買い,色々な宗教番組に耳を傾けました。ある日のこと,WBBR[当時の,ものみの塔ラジオ放送]の番組を聞き,真理の光が洪水のように彼女の心に差し込みました。彼女は真理を見いだしたのです! ただちに文書を注文した彼女は,修道服をまとったまゝ近所の人々に証言しはじめました。また,その秘書も真理を知り,証言するようになりました。そして,その後まもなく形式的な宗教のころもを脱ぎ捨てて,偉大なエホバをほめる賛美のころもを身につけました」。
17 『喜びをもってエホバに仕える』ため,今日ある人々は,古代エペソで魔術を行なっていた大勢の人がクリスチャンになるためにしたと同じく,心霊術をやめました。なかには,コリントでキリスト教に帰依した一部の人々の場合のように,道徳面で大きな変化を遂げた人もいます。また,今エホバに仕えている人の中には,タルソのサウロが使徒パウロになる前にしたごとく,忠実なクリスチャンをかつて迫害してきた人もかなりいます。ナチの手で迫害を受けて苦しんだあるクリスチャンの男子が寄せた次の報告は,強制収容所のエホバの証人が収容所の要員に対し,いかに公然と,かつ大胆に証言し,そうした転向をもたらしたかを物語っています。
「こうした恐れを知らない伝道と隣人愛と より,ライオンの穴に等しい収容所内でしばしば信仰が生まれました。方々の収容所のこゝかしこで親衛隊員がナチ党員の誓いを破棄し,エホバに対する信仰を表明しました。私たちを迫害したこれらの『サウロ』たちは『パウロ』になり,わたしたちの仲間の囚人になったのです!」。
エホバに仕えて喜びを表わしなさい
18 真の崇拝を追い求める人はどんな特権にあずかれますか。
18 次のことは否定できません。モーセは忠節という正しい道を選び,ルツは宗教上の正しい決定を下しました。魔術をやめてキリスト教に帰依した昔のエペソの人々は,道徳的な変化を遂げて神のしもべとなったコリントの住民と同様,賢明に行動しました。また,タルソのサウロがクリスチャンの使徒パウロとなって一生をエホバにさゝげたのは確かに賢明かつ正しいことでした。これらの人々および,同様な立場を取った現代の他の人々は,神のみ前で豊かな祝福にあずかり,計り知れない貴重な特権の扉が開かれました。あなたもすでにそうした人々のひとりかもしれません。あるいは,これから真の崇拝を追い求め,『喜びをもってエホバに仕える』ことを決心しておられるかもしれません。もしそうであれば,豊かな祝福にあずかれるでしょう。なぜならエホバについて,「あなたは御手を開き,すべての生ける物の願いを満たされます」と言われているからです。(詩 145:16,新)たとえば,神のみことばを伝道し,かつ教えて,優しい心の持ち主が神の正しいご要求にその生活を合わせるのを助ける喜ばしい特権にあなたもあずかれるでしょう。
19,20 (イ)エホバに仕えることにより喜びと祝福がもたらされることを示す例を上げなさい。(ロ)真の幸福と満足を心ゆくまで味わうには何が必要ですか。
19 忠実なクリスチャンは満足の味わえない,もしくはむなしい生活をして悲しい思いをすることがありません。それどころか,迫害にもかゝわらず多年神に仕え,また御国の伝道の仕事にあらわに注がれた神の祝福に心を動かされたひとりのエホバの証人はこう書きました。「このすべてを経験して,なんという満足感を味わえるのでしょう! エホバの助けと保護が差し伸べられていることをなんとしばしば感じさせられたことでしょう! 死の淵に臨んだことも再三ありましたが,詩篇作者とともに『エホバはわが牧者なり われ乏しきことあらじ』と言うことができます…エホバの召しに答え,その証人として心をこめて宣教に携わるとき,確かにエホバは,わたしたちが願い求め,あるいは理解し得る以上の豊かな祝福を与えてくださいます」。(詩 23:1)多年,奉仕者として働いてきた別の証人は93歳の高齢で次のように述べることができました。「全時間をエホバへの奉仕に費やすことは私の生涯の喜びです。私は,イエス・キリストとその『光にある聖徒』とともになって,このことを永遠に行なえる時を待ち望んでいます。―コロサイ 1:12」。
20 これは喜びをもってエホバに忠実に仕える人々の経験です。(詩 100:2)彼らは次のように語ったダビデと同様,神について確信をもってこう語ります。「なんぢ生命の道をわれに示したまはん なんぢの前には充足るよろこびあり なんぢの右にはもろもろのたのしみとこしへにあり」。(詩 16:11)しかし真の幸福と満足とを心ゆくまで味わうには,神の家に喜びをもたねばなりません。
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真のクリスチャンは,神はかたよりみないかたであって「一人よりしてもろもろの国人を造りだした」かたであることを知っています