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  • 自己犠牲 ― 神に喜ばれる道
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1969
塔69 10/15 623–630ページ

自己犠牲 ― 神に喜ばれる道

1 エホバはむかしご自分のしもべたちから犠牲をささげられたとき,どう感じられましたか。

昔神のしもべたちが正しい仕方で神に犠牲をささげたとき,それは神に喜ばれました。全地に及んだ大洪水で邪悪な者が一掃され,その後,ノアがエホバのための祭壇を築き,その上に燔祭をささげたときのことについて記録はこう述べています。『エホバその馨香をかぎたまへり』。(創世 8:21)それは神にとってきわめて満足のゆくものだったに違いありません。その民がイスラエルの地において神の指示に従ってささげた数々の犠牲についても同じことが言えます。

2 神はすべての犠牲を嘉納されましたか。なぜでしたか。

2 ところが,すべての犠牲が同様にエホバに嘉納されたのではないことを記録は明示しています。イスラエルの最初の王サウルは,アマレク人に関する事柄でエホバに従わず,アマレク人の王アガグとその民の牛や羊の最善のものを生かしておき,それらはりっぱな犠牲になると言いわけをしました。これに対しサムエルは語りました。「エホバはそのことばにしたがふことを善したまふごとく燔祭と犠牲をよみしたまふやそれ順ふことは犠牲にまさり 聴くことは牡羊の脂にまさるなり そはそむくことは魔術の罪のごとく さからふことは虚しきものにつかふるごとく 偶像につかふるがごとし 汝エホバのことばを棄たるによりエホバもまた汝をすてて王たらざらしめたまふ」― サムエル前 15:21-23。

3 エホバはマラキの時代にささげられた犠牲をどのようにみられましたか。

3 マラキの時代のこと,イスラエル人がバビロンの捕囚から戻ったのち,神はご自分の宮の祭壇にささげられた犠牲に関して,民と祭司たち双方にとがめがあることを認められました。祭司たちが「我らいかになんぢを汚せしや」と尋ねたのに対し神はこう答えられました。「汝らエホバの台は卑しきなりと云しがゆえなり 汝ら盲目なるものを犠牲にささぐるは悪にあらずや また跛足なるものと病ものをささぐるはあしきにあらずや 今これを汝のつかさにささげよ されば彼なんぢをよろこぶや汝を受納るや 万軍のエホバこれをいふ」。(マラキ 1:7,8)エホバはご自分の宮と祭壇にかかわる事柄を正すことを躊躇されませんでした。犠牲に関する偽善や不正は許されませんでした。

4 ミカ書 6章6-8節の記録は,エホバと犠牲に関して何を認識するのに役だちますか。

4 エホバはご自分がその民から何を望んでいるかを明示されました。犠牲の動物は最善のものでなければならず,また,清い心に基づく正しい動機でささげられるべきでした。ミカ書 6章6-8節の次のことばに注目してください。「我エホバの前に何をもちゆきて高き神を拝せん 燔祭のものおよび当歳の犢をもてその御前にいたるべきか エホバ数千の牡羊 万流の油をよろこびたまはんか 我とがのためにわが長子をさゝげんか わが霊魂の罪のためにわが身の産をささげんか 人よ彼さきに善事の何なるを汝ら告たり エホバの汝にもとめたまふ事は ただ正義をおこなひ憐憫を愛し へりくだりて汝の神とともに歩むことならずや」。明らかにエホバは供え物をささげる人の心を見ておられたのです。

5 (イ)エホバは今でも犠牲に関心を持っておられますか。どうすればそれがわかりますか。(ロ)今日の犠牲に含まれているのは,伝道することと教えることだけですか。それとも何が含まれていますか。

5 律法契約が廃止されるとともに,動物の犠牲も廃止されました。しかし神は今日でもなお犠牲に関心を持っておられます。昔と同様,正しい種類の犠牲に関心を持っておられるのです。使徒パウロはヘブル書 13章15節の次のことばの中でこの点を明らかにしています。「このゆゑに我らイエスによりて常に讃美の供物を神にささぐべし,すなはちその御名をほむる口唇の果なり」。賛美の犠牲を神にささげることには,御国の良いたよりを人々に伝え,また正しい仕方でそうすることが含まれています。パウロがここで言っている,真理を伝道し,教えること以外にも,クリスチャンはさまざまな方法で神に犠牲をささげます。むろん,献身したクリスチャンの全生涯は犠牲の一つです,このことはペテロの次のことばからもわかります。「汝らはこれがために召されたり,キリストも汝らのために苦難をうけ,汝らをその足跡にしたがはしめんとて模範をのこしたまへるなり」。(ペテロ前 2:21)献身してバプテスマを受けたクリスチャンの行ないがすべて御旨にかなうものでなければならないことについては,ペテロはさらに次のように語っています。「異邦人の中にありて行状を美しくせよ,これ汝らをそしりて,悪をおこなふ者といへる人々の,汝らの善き行為を見て,かえつて脊顧の日に神をあがめんためなり」。(ペテロ前 2:12)使徒パウロもこれらの点を強調してこう述べました。「したがって,兄弟たちよ,神のあわれみによってあなたがたに願う。あなたがたのからだを,神に喜ばれる生きた,清い犠牲としてささげなさい。これはあなたがたの理性の力で行なう神聖な奉仕である」。そして,この道が現在の古い邪悪な事物の体制に属する人々の歩む道とはなんの関係もないことを明示するため,パウロはさらにこう述べています。「そして,この事物の体制にそって形造られるのをやめなさい。むしろ,神の,善良で,好ましく,かつ完全な御心をわきまえ知るため,心を作り変えて,自分を新たにしなさい」。(ロマ 12:1,2,新)そうです,神はもはや動物の犠牲には関心を持っておられませんが,ご自分のしもべたちが今日地上で清い崇拝のためにささげる犠牲に関心を払っておられます。そしてそれらの犠牲には彼らの生き方全部が含まれているのです。神は,かつてイスラエル民族のためになさったとおり,ご自分が何を求めておられるかを今日のご自身の民に明らかにされました。

6 神はご自分の民に恵みを施しておられることを示すほかのどんな事をその民のために行なわれましたか。

6 神はこの「終わりの日」にご自分の民のため,彼らがその恵みの下にあることを確証するような事柄をほかに行なわれましたか。はい行なわれました。1919年,神は霊的なイスラエルの油注がれた残れる者を大いなるバビロンの捕われから解放し,ご自分の奉仕を行なわせました。そして,その油注がれた残れる者のすべてを集めるわざがほぼ完了した1935年ごろ,今度は,“大ぜいの群衆”を構成する人々を集める仕事を残れる者に行なわせられ,こうして集められた人々もこの大規模な集めるわざを助けることになりました。今日,110万人余のこれら大勢の羊のような人々は,全地の2万5000余の会衆の中でやさしくまた注意深く牧されています。神は時宜にかなった豊かな霊的糧をもって彼らを養っておられ,彼らは絶えず成長して霊的な力を増しています。神はこの「一つの群れ」に,成すべき膨大な仕事をお与えになりました。彼らは終わりが来る前に,人の住む全地で「御国の良いたより」を証しとして宣べ伝えねばなりません。(マタイ 24:14,新)それらの人々が享受している恵まれた立場と,彼らを守るために神が設けられた取り決めとは,イザヤ書 32章1,2節(口語)にこう述べられています。「見よ,ひとりの王が正義をもって,統べ治め,君たちは公平をもってつかさどり,おのおの風のさける所,暴風雨をのがれる所のようになり,疲れた地にある大きな岩の陰のようになる」。エホバの民はどこに立っているかを知っており,幸福で満ち足りています。

7 神がご自分の民に対し数々の仕方で恵みを示されたのであれば,どんな質問を提起できますか。

7 このすべてが真実である以上,どんな犠性が神に喜ばれるかに心を用いる必要がありますか。神の求めておられることが何であるかは今日明らかに示されているとわたしたちは語ってきました! また,神はご自分の組織に対する是認を表わされました。では,わたしたちの献身は神に受け入れられ,わたしたちのわざは神に喜ばれていると確信してしかるべきではありませんか。ほかにも必要なことがあるのですか。

8 クリスチャンは常に何を行なわねばなりませんか。なぜですか。

8 エホバがご自分の民に対する是認を表わし,祝福を与え,そのわざを繁栄させられたのは確かであっても,クリスチャンがその恵まれた立場に引き続きとどまって,神に喜ばれる犠牲をささげるには,自分自身と,自分の行なっている事柄とを常に吟味しなければなりません。パウロが当時,真理のうちにすでに信仰を確立したクリスチャンに警告した次のことばに注目してください。「兄弟よ,心せよ,おそらくは汝らのうち活ける神を離れんとする不信仰の悪しき心をいだく者あらん。汝らのうちたれも罪の誘惑によりて頑固にならぬやう,今日と称ふるうちに日々互に相勧めよ」― ヘブル 3:12。

9 自分を吟味することの必要について聖書の他の記述者はなんと述べていますか。

9 したがって,知らないうちに邪悪な心をいだくことがあり得るのは明らかですから,絶えず用心していなければなりません。ゆえにエレミヤは言いました。「心はすべてのものよりも偽るものにしてはなはだ悪し たれかこれを知るをえんや」。(エレミヤ 17:9)それでパウロはさとしています。「なんぢら信仰にをるや否や,自ら試み,自ら験しみよ」。(コリント後 13:5)またこう語りました。「さらば自らたてりと思ふ者は倒れぬやうに心せよ」。(コリント前 10:12)そうです。わたしたちは絶えず自分自身を吟味しなければなりません。

真理を知ることが必要

10 自分を吟味し,神に受け入れられる犠牲をささげるのに何が助けとなりますか。

10 どうすればこのことが行なえますか。一つには,真理に遅れないようにすることです。エホバが愛の心から今日のわたしたちに真理を得させ,また真理を引き続き増し加えておられるのであれば,わたしたちはそれを研究し学ぶことによって,エホバに感謝を表わさねばなりません。今日の世界では,科学および専門技術の知識が多種多様な分野であまりにも急速に進んでいるため,そうした知識を記録することさえ困難だとされています。真理についても同じことが言えます。学ぶべきことは多く,しかも学ぶための時間は限られています。遅れずについてゆくことに心を用いないとすれば,神が今日のわたしたちに特に求めておられることが何かをどうして確認できるでしょうか。

11 真理をほんとうに知るのはなぜそれほど大切なことですか。

11 正確な最新の知識は大切です。それは自分自身の益となるばかりでなく,わたしたちは他の人を教える者でなければならないからです。人を教えるには,自分が知っていなければなりません。わたしたちが真理をほんとうに知って理解しそして伝えるなら,関心を持つ人々は真理を認めることができるでしょう。イエス・キリストとそのことばを聞いた人々についても同じことが言えます。マタイ伝 7章28,29節(新)はこう述べています。「さてイエスがこれらのことばを語り終えられたとき,群衆はその教え方に驚嘆した。イエスは彼らの律法学者たちのようにではなく,権威を持つ者のように彼らを教えられたからである」。人々を驚嘆させたのはイエスの力強い話し方とその印象的な容姿だったと考えてはなりません。それらの点が関係していたことには疑問の余地がありませんが,人々を信服させたのは確かに彼の話された事柄でした。話し方も大切ですが,内容つまり話す事柄はもっと大切です。このことは使徒パウロにもあてはまります。彼の風貌や話し方はさほど印象的ではなかったようです。しかし彼の話した事柄は人に感銘を与え,彼は多くの人々を説得してキリスト教の道を歩ませました。

12,13 正確な知識を十分に持つことの価値と大切さをたとえで示しなさい。

12 物事をほんとうに知ることの大切さは,人々の用心深いお金の扱いかたにその例を見ることができます。何かを買う場合,だれしもごまかされるのを好みません。品物の価値と最もよく見合った値段で買いたいと考えます。しかし買う前にその道の専門家に相談します。もしその専門家が,受けた教育と経験のゆえにその分野の権威者であれば,その人の知識ははかり知れないほど貴重です。ましてその人が自分の親友で信頼できる人であればなおさらです。一般的に言ってそうした知識の持ち主はかけがえのない存在です。

13 健康に関する問題についても同じです。人は自分のからだの状態を正確に知りたいと思います。そしてありのままを,わかりやすく説明してもらいたいと思います。そうするとき,初めて,健康の回復もしくは増進を図る方法を考慮できます。この場合,その道の専門家に相談することを望みます。その道に詳しい人で,信頼のおける人を求めます。

14 真理に関してこのことがいっそう重要なのはなぜですか。

14 神のことば聖書の真理についてはなおさらです。今日この世界には永遠の命に関心をもつ人がまだいます。もしわたしたちが真理をほんとうに知り,それらの人々の質問に答えられ,また神が行なわれたこと,そして今後行なわれる事柄を簡潔かつ明確に説明できるなら,彼らは納得するようになるでしょう。今日でもやはりある人々は知識を身につけたクリスチャンの教え方に驚嘆しています。なぜなら,そのような人々はそうした教えが真理であることを認め,信ずるようになっているからです。しかし人を教え,確信させるには,自ら研究し,知らねばならないということを認識すべきです。こうした愛他的な理由で,知識を取り入れようと熱心に努力する人は,確かに神の霊の助けを受け,神を公に宣明してささげるその人の犠牲は,確かに神に喜ばれるものとなるでしょう。

15 (イ)知識は個人個人にどれほど深くはいらねばなりませんか。(ロ)真理が人の心に触れると,どんな結果が生じますか。

15 そのような知識を取り入れる際,その知識をどこに収めるかに心を用いるのは大切です。それは単に頭にはいるだけでなく,心に深くはいらねばなりません。ある人は真理の知識をかなり持っていながら,宣教に熱心でないのはなぜですか。一方,前者ほどの知能に恵まれず,また真理の深い事柄に関するすぐれた知識がなくても,奉仕に熱心に携わり,自分の学んだことをなんとかして人々に伝えようとするのはなぜですか。むろんこのことにはわたしたちの決して知り得ないさまざまな事柄が関係しているのは確かですが,真理が心に触れるかどうかが大きな問題であることはまちがいありません。後者が学んだ事柄はその人に正しい影響を与えました。学んだことがその心に達したゆえに,その人は自分の知識をできるかぎり活用して善を行ないたいと願っています。エホバの恵みの下に引き続きとどまり,御旨にかなう犠牲をエホバにささげたいと願う人にとってこれは肝要なことです。

16 (イ)エホバとイエスは人々についてどう感じておられますか。(ロ)わたしたちはこれをどのように模範とすべきですか。

16 真理が心に達すると,その人は他の人々にいっそう関心をいだくようになります。人々に関心を持つなら,あなたのささげる犠牲は確かにいよいよ神の是認を受けるものになるでしょう。神は物よりも人々により深く関心をいだいておられることを忘れないでください。明らかにこの理由で,神は物質の宇宙や動物の創造ののちに人間をお造りになったのです。創世記 1章26節は,神が「我らのかたちのごとくに我ら人を造(らん)」と告げられたことを述べていますが,それは人間がエホバの属性に似た属性をもつという意味です。ヨハネ伝 3章16節にはこうしるされています。「それ神はその独子を賜ふほどに世を愛し給へり,すべて彼を信ずる者のほろびずして永遠の生命を得んためなり」。これは,たとえ今はまだ良いたよりを知らず,また神に献身していなくても,あがない得る状態にある人々に対し,神が愛をいだいておられるという意味です。イエス・キリストも同様です。マタイ伝 9章36節はイエスについてこう述べています。「群衆を見て,その牧ふ者なき羊のごとく悩み,かつたふるるをいたく憐み(給ふ)」。イエスがあわれまれた人々の多くは決して真理を擁護する立場を取らず,またその追随者にもなりませんでした。しかしイエスはそれらの人々にごく自然な関心を示し,人々を助けたいとの願いをいだかれました。

17 他の人々に個人的な関心を持つことについて聖書の他の記述者はなんと述べていますか。このことは今日どのようにあてはまりますか。

17 他の人々に対するこうした個人的な暖かい関心を決して失ってはなりません。これは神に大いによみせられる資質です。こうした神にふさわしい資質をわたしたちが持っているということは,単に人道主義的な立場からだけではなく,神の見地に立って人々の命に関心をいだいていることを意味しています。わたしたちは神の高遠なお目的を心にとめます。それは人間に関係しているからです。兄弟たちの問題や他の人々に対して無関心になったり,彼らと疎遠になったりするのは正しいことではありません。イエスは言われました。「互に相愛することをせば,これによりて人みな汝らの我が弟子たるを知らん」。(ヨハネ 13:35)詩篇作者はこのことの必要を悟り,こう述べました。「われは汝をおそるる者またなんぢの訓諭をまもるものの侶なり」。(詩 119:63)使徒パウロは語りました。「仁慈とほどこしとを忘るな,神はかくのごとき供物を喜びたまふ」。(ヘブル 13:16)使徒ペテロは,他の人々,なかんずく兄弟たちのことを愛の心から考える必要を認識しました。しかしまた,「をしむことなく互にねんごろにもてなせ」と述べて,この問題でまちがった動機がもぐり込むことのないように警告しました。(ペテロ前 4:9)そうです,他の人に対する個人的な関心を培うのは神の喜ばれる事柄です。

18 (イ)ある人々は何に助けられて,多年御心にかなった仕方で神に仕えてきましたか。(ロ)それはなぜ助けになりましたか。(ハ)神の是認を受ける道を歩む人々についてはどうですか。

18 自分のささげる犠牲をいつも神に喜ばれるものとするには,明らかに絶えざる注意が必要です。それには忍耐がいります。神に仕える多数の忠実なしもべが多年,そうした立場を保つのに何が助けになったかをあなたは知りたいと思われますか。彼らは神への奉仕の道に生涯をささげることを誓い,その歩みのゆえに御国の事柄に全く没頭もしくは専念できたのです。日毎になされる自己犠牲の個々の行ないはうるわしいものです。しかし,もしエホバに全時間仕えることが御心であって,それを自らの務めにし得るなら,これはさらに良いことです。事実,そのほうがずっと容易です。どの全時間の伝道者にでも尋ねてごらんなさい。彼らの大多数は自分のなすべきことについてはもはや少しの疑問もいだいていません。その道は一生涯にわたる自己犠牲の道です。とはいっても,不断の努力や決意がもはや不必要だというのではありません。それは必要です。しかし彼らは自ら理知的に,かつ進んで携わることに決めた予定あるいは毎日の務めを持っています。これは,すでに決定が下されたこと,今や自分たちの前にはなすべき,そしてその遂行が事前に予定されている仕事があるということを意味しています。「われここにあり我をつかはしたまへ」と語ったイザヤは確かに,一生涯にわたる奉仕の道に携わって神の導きのままに働くことを自ら誓ったのです。またこののち,エレミヤが神の是認されたその道を歩んでゆくのはいっそう容易だったにちがいありません。

19 (イ)正しい種類の犠牲をささげる人はなぜ幸福ですか。(ロ)このことはダビデや他の人々の場合どのように示されていますか。

19 神を喜ばせる犠牲はある意味で少しも犠牲とは思えません。なぜですか。なぜなら犠牲をささげる人は,幾らかの損失あるいは苦労を伴うにしても,喜びを見いだすからです。つまり何事を問わず有意義なことを成し遂げるには一生懸命に働かねばなりません。ダビデ王の一生はいつも平穏無事だったと考えることはできません。若いころ彼は仲間の戦士たちとともに戦場で働きました。また,彼は王として重い職責をになわねばなりませんでした。しかしやがて年老いたダビデはエホバの奉仕に費やした一生を満ち足りた気持ちで回顧しました。そして,自分自身の献身の生涯のみならず,他の神のしもべたちのそうした生涯をも心にとめてこう述べました。「われむかし年わかくして今おいたれど 義者のすてられ 或はその裔の糧こひありくを見しことなし」。(詩 37:25)神の奉仕に費やしたその生涯中,ダビデが自分の払った犠牲を後悔したことを示すものは何もありません。箴言に「公義をおこなふことは,義者のよろこび(なり)」としるされているとおり,正しいことを行なったダビデは幸福でした。―箴言 21:15。

20 今日どんな人々のなかに幸福と満足とを見いだせますか。

20 今日でも同じです。神の奉仕に一生をささげている人の心は満ち足りています。このことはブルックリンのベテルで20年,30年そして40年あるいはそれ以上の歳月を送ってきた人々にとって確かに真実です。それは容易な人生ですか。そうとは言えません。ここ,ものみの塔協会の本部に来る人は,1000人余の成員のひとりになりきれるかどうかが試みられます。そして各人は自分の割当ての仕事を持ちますが,それも時には容易な,あるいは楽しい仕事ではありません。しかしここには,起きている時の自分の時間のすべてを,愛他的精神をもって他の人々の最善の益のためにささげる機会があるのです。また生活に必要な物は供えられていますから,各人は御国の事柄に専念できます。そして,自分の行く手を知って長年歩んできた円熟したクリスチャンと交わることもできます。こうした奉仕に多年を費やし,今もなお喜んでいるひとりの人はこう言いました。「もしハルマゲドン後に新しい秩序がなかったとしても,わたしはここで神に仕える機会を見のがすことは考えなかったでしょう。なぜなら,今ここにいること自体が十分の報いだからです」。これは犠牲を払っていることばと思えますか。

21 神に喜ばれる犠牲の手本をどこに見いだすことはできませんか。なぜですか。

21 このことばは,神学校で多年の教育を受けたのち,しばらく教会に勤めたキリスト教国の牧師たちが到達した結論に似ていますか。いいえ,似ていません。それら牧師の多くは神とその聖書を信じているという見せかけを今やすべてかなぐり捨てようとしています。そして自分たちの進路を変え,抗議デモや暴動の扇動者と化してさえいるのです。彼らの達した結論は,単に聖書を説くだけでは不十分だということです。彼らは,しいたげられている者のために何事かを成し遂げるには,神が行動を起こされるまで待てない,実力が行使されている場合には,たとえそれが神やカイザルの政府の非とする暴力に訴えてまでも,実力行使に加わらねばならないと考えています。確かにこうした牧師たちの中には,エホバに喜ばれる犠牲をささげる人の手本を見いだすことはできません。

警戒すべき事柄

22 (イ)自分のささげる犠牲をいつも御旨にかなうものとするには,何を警戒しなければなりませんか。(ロ)一例をあげなさい。

22 しかしこの問題に関して警戒すべきことがあります。それは憤りです。要求が多すぎるという気持ちの大きくなる場合があるのです。これはだれにも起こり得ることです。それは「すべての人にはるかにまさって柔和であった」モーセにも起きました。イスラエル民族がカナンの地に向かう荒野の旅にのぼってまもなく,人々は肉がないと言って不平をこぼしはじめました。モーセはエホバに語りました。「我は一人にてはこのすべての民をわが任として負ふことあたはず これは我には重きにすぐればなり 我もし汝の前に恩をえば請ふ かく我をせんよりは むしろただちに我を殺したまへ 我をしてわが困苦を見せしめたまふなかれ」。(民数 11:14,15)エホバはわたしたちにあまり多くを要求してはおられません。なすべき仕事は確かにたくさんあります。しかしモーセが正しい見方をするように助けられ,心を強められたように,正しい見方を持てば力づけられます。

23 (イ)犠牲を御旨にかなうものとするには,ほかに何を警戒すべきですか。(ロ)一つの例を述べなさい。

23 また,ねたみにも警戒しなければなりません。これもやはりだれにでも生じ得ます。これはモーセの兄アロンおよび姉のミリアムに生じました。そのふたりは明らかに,モーセはあまりにも大きな権力と権威を持っていると感じたのです。そしてモーセにこう語りました。「エホバただモーセによりてのみ語りたまはんや また我らによりても語り給ふにあらずや」。(民数 12:2)そしてミリアムはエホバの怒りを買ってらい病にとりつかれ,モーセのとりなしを受けてようやく直りました。他の人々のほうが責任や特権の点で自分よりもずっと恵まれていると感じますか。会衆内でもう少し目立った者になりたいという欲望が,それと気づかないうちに心に生ずるのを許すことがありますか。これは注意すべきことではありませんか。仲間の兄弟たちのある人々が,その行なった良いわざのゆえに報われるのを見て喜び,また清い崇拝のためにより大きな仕事をするよう彼らを励ますほうがはるかにすぐれています。

24 誤った犠牲についてはどうですか。

24 また,誤った犠牲にも警戒しましょう。残業をしたり,あるいは妻にも仕事をさせたりして,むすこを大学にいれたいと考えていますか。それは一種の“犠牲”ですが,そうする価値がほんとうにありますか。そうした若者の多くはたいてい,神に対する信仰はおろか子供に大学教育を受けさせるため苦労した親に対する愛や敬意すらほとんど,あるいは全く失って大学を卒業します。こうした経験のため悲惨な失意に陥った人もいます。それは誤った犠牲です。これとは対照的に,キリスト教に基づく訓練を子供に施し,子供の従うべきクリスチャンの手本を示すことにもっぱら心を配る親は,そうした努力が,神に喜ばれる犠牲であることを知るでしょう。

25 エホバにささげる犠牲に関し,わたしたちはどうして喜ぶことができますか。

25 エホバの最も喜ばれる犠牲をささげ得る時代にいるわたしたちは恵まれています。そうした犠牲が,形式的かつ分派的な仕方によってではなく,啓発を受けた知性に富むクリスチャンのささげる賛美という形で供えられるのはうれしいことです。神が何を喜ばれるかは確かに明らかにされました。神に喜ばれる犠牲について知り,かつそのような犠牲をささげるのはなんという特権でしょう!

[627ページの図版]

聖書の真理が心に触れると,その人は他の人々に深い関心を払うようになり,神を公に宣明するという犠牲を定期的に神にささげることに努めます

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