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目ざめよ! 1974
目74 8/22 5–7ページ

神にどんなことを話しますか

神に話しかけることができ,しかも神がそれを聞いてくださるという考えに多くの人は圧倒されます。ある人びとは,自分には神に正しくお話しする能力がないと考えて祈とう書を使い,特定の時にそれを読みます。「異言」に頼り,自分にもわからないことばをぶつぶつ唱える人たちもいます。そういう人たちは,聖霊がそれらのことばを,彼ら自身にも理解できない,受け入れられる祈りに翻訳してくれることを望みます。

神が人びとに望んでおられるのはこのような祈り方ですか。

なるほどイエス・キリストは,「求めつづけなさい。そうすれば与えられます」と言われました。(マタイ 7:7)しかしイエスは,祈とう書を見ながら同じことを繰り返さねばならない,と言われたのではありません。「祈るさいには……同じことを何度もくり返し言ってはなりません」とイエスは言われました。(マタイ 6:7)わたしたちの祈りは自然に湧き出るものであるべきです。自分にもわからない出まかせなことばではなく,高いところにおられる慈愛深い神に聞いていただきたいと思うことを言い表わしたものでなければなりません。

祈りによってわたしたちは創造者に対する崇拝と愛を表現することができます。自分の感情と願いを注ぎ出すことができます。詩篇作者は,『そのみ前になんじらの心をそそぎいだせ 神はわれらの避所なり』と書きました。―詩 62:8。

はばかりなく語る

わたしたちは友だちがいるとその友だちに話しかけます。遠慮なく気楽に話します。自分が愛している人びとには自分の感情を言い表わすことができます。神に対してもそのように話すことができます。

聖書の述べるところによると,アブラハムは神を信じていました。そして「『エホバの友』と呼ばれるようになりました」。(ヤコブ 2:23)それはアブラハムにとって非常な特権でした。しかしイエスは,わたしたちもエホバに愛され得ることを示されました。そしてこう言われました。「わたしのおきてを持ってそれを守る者,その者はわたしを愛する人です。さらに,わたしを愛する人はわたしの父に愛されます」。(ヨハネ 14:21)ですから信仰と従順はみ父に近づく道を開きます。

実際に神は,わたしたちが神を求めさえすれば,非常に近づきやすいかたです。「実際のところ神は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません」と,クリスチャン使徒パウロは言いました。(使徒 17:27)しかし,神にはばかりなく話すためのひとつの基本条件は,神のみ子イエス・キリストに対する信仰です。聖書はこう述べています。「そのイエスにより,彼に対する信仰のゆえに,わたしたちはこうしてはばかりのないことばで語ることができ,また確信をいだいて近づくことができます」― エフェソス 3:12。

神がわたしたちの祈りを歓迎してくださること,またイエスへの信仰を通して「はばかりのないことばで語る」ことができるようになることを知った以上,わたしたちはそのことから励みを得て,常に神と語るようにすべきです。わたしたちが神に語れることはたくさんあります。

感謝の表現

聖書には無数の例があります。エホバ神が人間の益のためにしてくださった多くのすばらしい事がらを考えてごらんなさい。詩篇作者ダビデはそれを次のように指摘しました。「わたしの神エホバよ,あなたのくすしきみわざと,わたしたちに対するみおもいよ。あなたに並ぶ者はいません。それについて述べ,語ろうとしても,あまりに多くて数え上げることができません」― 詩 40:5,新。

これは確かに真実です。わたしたちが食べる食物のことを考えてごらんなさい。それはエホバ神に感謝すべきことではありませんか。イエス・キリストと使徒パウロは,こうした食べ物が与えられることを神に感謝しました。(マタイ 14:19。使徒 27:35)子どもでさえ食事のときに,「どうぞ」とか,「ありがとう」と言うことを教えられます。神が食物を備えてくださることに対し,子どもほどの感謝もなくてよいものでしょうか。

神は「邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせ,義なる者の上にも不義なる者の上にも雨を降らせてくださるのです」と,イエスは言われました。(マタイ 5:45)このことに対してもわたしたちは感謝すべきではないでしょうか。実際に,わたしたちが感謝できる神の賜物は数えつくせないほどあります。

あなたは食物に風味があることを神に感謝したことはありませんか。音や音楽を鑑賞する能力,夕立のあとの空気のすがすがしさ,春の山腹に咲く野花の美しさなどについてはどうですか。

こうした事がらはどれひとつ,楽しいものにしなければならなかったわけではありません。たとえば食べることは,雑仕事 ― 生きるために毎日行なういやな仕事にすることもできました。しかし神はこうしたことがわたしたちにとって楽しみとなるように,わたしたちがそれらを楽しむことができるように,わたしたちをつくってくださいました。あなたはそのことを神に感謝したことがありますか。「すべての事に感謝しなさい」という使徒パウロのことばをおぼえていましょう。―テサロニケ第一 5:18。

壮麗な夜のアルプスの谷から,星のきらめく大空を眺めたり,人の子ひとり見えず,人家ひとつない広い雄大な原野を何時間も自動車で走ったりして,神の創造の広大さを感じたことはありませんか。そのようにして神のみわざを思いめぐらすひととき,わたしたちは,頭上の遠い星がわずかに暗示している,創造された宇宙の広大さに対し人間がいかに微々たる存在であるかを痛感します。

ひとりでいる,そのような得がたいひとときは,偉大な創造者に語りかけ,神に仕えたいという,そして神の恵みを得たいという願いを告げる絶好の機会です。「祈とう書」も「わかりにくいことば」も必要ではありません。ただ心と思いを開き,自分が深く敬愛する権威ある人たちに対する場合と同じように,創造者に話しかければよいのです。

いろいろな問題について

真の友の価値がとくによくわかるのはどんなときですか。それは困ったときではないでしょうか。そういうときにエホバに頼れるとは,なんとすばらしいことでしょう。事実,聖書は,『なんじの荷をエホバにゆだねよさらば汝をささえたまわん』と述べています。―詩 55:22。

聖書には,自分の問題について神に祈った人の例がたくさんあります。たとえば病気の人も神に祈り,エホバが『わずらいの床にあるをたすけ給』うようお願いすることができます。(詩 41:3)ユダのヒゼキヤ王も祈りました。(歴代下 20:1-6)しかしわたしたちは,エホバが奇跡的にいやしてくださることを期待すべきではなく,むしろ,その特定の健康問題に賢明に対処できるよう祈るべきです。またエホバから慰めが与えられるよう,そしてからだのすばらしい治ゆ力が健康を回復させるまで忍耐できるよう,祈ることもできます。

また,不当な扱いを受けた場合にも,導きと力を祈り求めることができます。使徒パウロとシラスはそうしました。彼らは伝道を行なったために投獄されました。そして獄にいる間「パウロとシラスは祈りをしたり,歌で神を賛美したりしていた」と,聖書は述べています。エホバ神は彼らを救い出されました。―使徒 16:23-35。

神にひどく反対していた人でも,逆境に落ち入ったとき悔い改めて祈り,エホバの助けをいただくことができます。ユダの悪い王マナセは,バビロンの獄中で苦しんでいたとき神に祈りました。そして神は,『その祈りを容れそのねがいを聴きこれをエルサレムに携えかえりて再び国にのぞましめたまえり これによりてマナセ,エホバは誠に神にいますと知れり』と聖書は述べています。過去において悪を行なっていたにもかかわらず,マナセは,ほんとうに悔い改めへりくだって心を神に向けたとき,解放と慰めを得ました。―歴代下 33:10-13。

エホバ神はなんとあわれみ深く寛大なかたでしょう。わたしたちは確かに,エホバに頼って,自分のかかえている問題をつぶさに,ためらわずに告げ,神の恵みを求めるよう励まされます。

物質的必要物

しかしわたしたちは,自分自身の事がらよりも神の事がらを重要視すべきことをいつもおぼえていなければなりません。ですからイエスが教えた模範的な祈りは,神のみ名が清められること,神の王国が来ること,そして神のご意志が成ることを,自分の物質的必要物よりも前に願い求めています。―マタイ 6:9-13。

わたしたちも,自分の物質的必要物を祈り求める前にまず神のみ名と王国のことを述べなければなりません。イエスは,「その日の必要に応じてその日のためのパンをわたしたちにお与えください」と言いなさい,と教えてくださいました。(ルカ 11:3)これはつつましいお願いです。利己的でも,物質主義的でもありません。「わたしたちにお与えください」という表現には他の人びとも含まれています。「その日の必要に応じて」というのですから過度の量ではありません。使徒は言いました。「命を支える物と身を覆う物とがあれば,わたしたちはそれで満足するのです」。(テモテ第一 6:8)ですから生活必需品を祈り求めることはできますが,それ以上のものを求めるのは正しくないでしょう。

霊的必要物

わたしたちがエホバに求めることのできる霊的必要物は非常にたくさんあります。たとえば,古代の聖書詩篇作者が神にお願いしたことを考えてみましょう。『なんじの律法をわれに教えたまえ なんじのさとしのみちを我にわきまえしめたまえ われ汝のくすしき事跡をふかく思わん われに汝のいましめの道をふましめたまえ……われにそう明と知識とをおしえたまえ……ねがわくは知恵をあたえて我になんじの誡命をまなばしめたまえ』。わたしたちも同様のことについて神に語り,いつも公正で正しいことをするよう,神の助けと導きを祈り求めることができるのではないでしょうか。―詩 119:26,27,35,66,73。

初期のクリスチャンたちは,神に何を話すことができるかについて多くのことを教えてくれます。彼らは聖霊を祈り求めました。(使徒 8:14,15)また,宣教が成功するように,「あらんかぎりの大胆さをもってみことばを語りつづけることができるように」,祈りました。(使徒 4:29)神の指導と保護に対し神に感謝しました。また,「少しもはばかりのないことばで良いたよりの神聖な奥義を知らせることができるように」ということもお願いしました。わたしたちも同じような事がらについて祈れるのではないでしょうか。―コリント第二 2:14。エフェソス 6:18,19。

またほかの人びとのために神にお願いできることも非常にたくさんあります。(コロサイ 1:9,10。フィリピ 1:9-11)神にお話しすることは確かにたくさんあります。そしてエホバ神がわたしたちのためにしてくださったことすべてを思いめぐらすときわたしたちは,「たゆまず祈りなさい」という使徒の教えに従うよう励まされないでしょうか。―ローマ 12:12。

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