神の目的とエホバの証者(その3)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
第3章 チャールス・テイズ・ラッセルは大きな影響をおよぼす決定をくだす
トム: あなたがたが去られてからこの1週間中,すつかり考えこんでしまいました。聖書の中でパウロや他の者たちのことを読むときには,その地位とか権威を認めるのはむずかしくありませんが,今日ひとりの人とかひとつの制度が神により用いられていると信ずるのはむずかしいですね。それはなぜでしようか。
ジョン: むずかしいわけはないのですが,神がある時に証者として用いる者たちは,別の時に神が用いた者といつも同じような者であつた,ということを記憶して下さい。トムさん,なにか特定なことをお考えですか。
トム: そうですね。先週のあなたの話から使徒の時代から自由な世界の状態の必要が増したことが分かりました。それは認めにくいものではありません。でも『これこそ正しい道である』と叫び始めた全部の叫び声については如何ですか。もし神がその中のどれかを御自分の証者として用いられたいと望まれた,とするなら,どうしてそのことが分かりますか。お話しによると,シー・テイ・ラッセルは主の再臨を宣べ伝えることに参加ということですが,他の者にまさつて彼を選び出すのは,どんな理由によるのですか。
ジョン: わざは祝福されてきました。それで今日は,一晩のうちにお話しできる以上の多くの理由があります。話を進めて行くうちに,あなたはきつと同意されることと信じます。しかし,ラッセル当時の人々も認めたように,証拠を求めていた人には十分の証拠がありました。全くのところ,その点は今晩お話しようと思つているところです。
ロイス: すると,ラッセル氏がくだそうとしていた将来の行動についての重要な決定のことですか。
ジョン: そうです。思い出されることでしよう。初期の群れの人々は,主として時間の計算だけに興味を持つていました。ところが,ラッセルはちがつた考えを抱いたのです。たしかに,彼は年若い者でしたが,どんな問題に対しても分析するという点で人並み以上でした。そして,キリストの再臨の目的は,日付を決めるよりも一層重要であると確信を持つに至りました。
ロイス: ジョンさん,ついでですが,ラッセル氏が研究を始めたときは幾歳でしたか。
トム(中断する): 僕もそのことを尋ねたかつた。ちよつとこの物語りを中断して,大切な統計をいくらか学ぶことはどうだろう。ラッセル氏のことを個人的に知ることは良いと思う。
シー・テイー・ラツセルの背景
ジョン: それはたいへん良いことです。ラッセルが自分の宗教的な背景について真剣に考え,その基礎について質問し始めたのは,まだ10歳台の時でした。ここに,彼の伝記についての最初の節の言葉があります。それは,後日出版された人気のあつた本「世々にわたる神の経綸」の序文に掲載されたものです。
パストー<牧者>・ラッセルとして世界中に知られ,著者,講演者,および福音伝道者であつたチャールス・テイズ・ラッセルは,1852年2月16日,ペンシルヴァニヤ州のピッツバーグで生まれ,1916年10月31日に死亡した。彼はジョセフ・エルおよびエリザ・バーニイ・ラッセルaの息子で,両親は共にスコットランド ― アイルランド系の者である。彼は一般の学校で教育をうけ,個人指導bをうけた。
トム: 彼は非常に真面目な青年だつたにちがいない。
ジョン: その通りです。彼が9歳のときに彼の母親は死にました。それで放課後の多くの時間は,父親と共にすごしました。彼が12歳のとき,父親は午前2時に物置にいた彼を見つけましたc。彼は要語索引を熟読していて時間の経過に気づかなかつたのですd。ラッセルは15歳のときに父親と共同の働きで,紳士物を扱う店で仕事をしました。20歳台の始めごろ,彼は父親を援助していくつかの店に商売を払張し,国家的な連合の店をつくる途中でした。そのときに彼はそのすべてを断念して全時間を宣教についやすようにしたのです。彼が事業を閉鎖したとき,25万ドル以上の収益がありましたe。
トム: 彼は多くの資金と決意を持つていた人にちがいない。
ジョン: ラッセルは,多くの面でそのことを示しました。まだ若者であつた頃,そして神の目的についての真理を知る前に,彼は夜になると外に出かけて,人目につく場所に聖句を白墨で書きつけました。そうすれば,通りすがりの労働者たちは,その聖句から警告をうけて,「地獄の苦しみ」から救われる,と考えたのです。神の愛を教える彼の熱心は,ひじように強いものでした。そして,ついにこの神を冒潰する地獄の火の教理が間ちがいであることを知るにいたつたのです。そのわけで,彼はその生涯のわざのためにすべてのものをついやしました。後日の共同者は,彼がはげしく次のように述べていると告げています。
もし,永遠の責句が聖徒をのぞくすべての者の運命である,と聖句が教えているなら,それを教えなければならない。まつたく,毎週,毎日,毎時間,家の屋根から大声で叫ばれねばならぬ。しかし,もしそう教えていないなら,その事実を知らせるべきである。そして,神の聖なる御名を汚すよごれを取りのぞくべきであるf。
しかし,私たちが読んでいる伝記のなかには,さらに幾つかの点があります。お示ししましよう。
パストー・ラッセルは,1879年マリア・フランセス・アックレイと結婚した。しかし,子供という祝福はこの結婚にともなわなかつた。17年後,彼の雑誌管理について意見の一致が得られず,両人は別居生活をした。……
彼は新しい宗教の創立者でなく,またそのような主張をしたことは一度もない。彼は,イエスと使徒たちの教えた大きな真理を再興し,20世紀の光をこれらの教に向けた。彼は,神から特別の啓示をうけたとは主張せず,むしろ聖書の理解される神の予定の時が来たと主張した。また,彼は主とその奉仕に全く献身していたため,聖書の理解がゆるされた。彼は聖霊の実の進歩とめぐみに献身していたため,主の約束は彼に成就された,「これらのものがあなたがたに備わつて,いよいよ豊かになるならば,わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について,あなたがたは,怠る者,実を結ばない者となることはないであろう」。―ペテロ後 1:5-8g。
ロイス: しかし,ジョンさん,パストー・ラッセルの下さねばならぬ決定についてはいかがですか。その決定は彼の仕事を全くだめにしたかもしれぬ,と仰言いましたね。
ジョン: トムさんがパストー・ラッセルの仕事に神の是認のあつた証拠をたずねたとき,私はそのことを考えていました。実際には,そのことについて数多くの決定がふくまれていて,そのすべては時の計算ということに関連していたのです。ラッセルの選んだ道は,特に意義深いものでした。そのわけは,それは彼の最初の大試練であり,非常に大きな結果をもたらすようになつたからです。
時の特色は重要になる
再臨論者たちは,キリストが戻るとき,かれは肉体でくると一般に信じて,教えていました。しかし,おぼえていらつしやるでしよう,ラッセルの研究の群れはそうでない,ということを認識しました。イエスが来るとき,彼はちようど御使が来るように目に見えないであろう,とパストー・ラッセルは知りました。
それから,1876年,パストー・ラセルが仕事の旅行でフィラデルフィアにいたとき,「朝の先触れ」(英文)という雑誌1部を入手しました。御記憶にあるでしよう,この雑誌はニューヨーク,ロチェスターのエヌ・エッチ・バーバーの出版していたものです。キリストの目に見えぬ再臨を待つていた別の群れがあると知つたラッセルはおどろくと共によろこびました。両人の見解は似ていたので,ラッセルはこの出版物を更に多く読みました。もつとも,それは再臨論者の出版物である,と彼は認め,そしてその時まで彼らの教理を重んじようとしませんでした。しかし,神の教えるものならどの面からでも学ぶ,ということにラッセルは興味を抱いていました。彼は雑誌内に示される年表に興味を持ち,ただちにバーバーと連絡をとり費用はラッセル持ちで二人は会合し,このことを更に論ずることにいたしました。
バーバーの群れの中のひとりは,「新約聖書」のベンジャミン・ウイルソンのダイアグロット訳を入手したように見えます。その人は,マタイ伝 24章27,37,39節のところで欽定訳に「来る」と訳されている言葉が,ダイアグロット訳では「臨在」と訳されているのに気づきました。これがきつかけになつて,バーバーの群れは時の計算の他にキリストの目に見えぬ臨在を提唱するようになつたのです。ラッセルは,最初キリストの再臨の目的に興味を持ちました。それが人間の目に見えないものと認識してから,彼は時ということを真剣に考慮するようになりました。彼はバーバーの提出した証拠に満足しました。
パストー・ラッセルは,積極的な確信に満ちた人で,主に全く献身していました。彼は後日,次のように書いています。
我々の住んでいる特別の時は,キリストの弟子である我々の義務とわざの上に重要な影響を持つと私は直に悟つた。我々は収穫の時に住んでいるゆえ,収穫のわざをしなければならぬ,また現在の真理は,主が私たちを用いて刈入れのわざをさせるかまであるということも悟つた。この刈り入れの仕事は,主の子供たちのあいだのいたるところで行なわれるh。
この確信は,クリスチャン奉仕者としてのラッセルの全生涯中ずつとありました。
ラッセルがバーバーと会つた結果,ピッツバーグにあった彼の研究の群れは,ロチェスターの群れと合同し,ラッセルは自分の個人資金の中からバーバーに寄付して,再び「朝の先ぶれ」(英文)誌の出版を始めさせました。バーバーの仕事は印刷業でしたから,彼が雑誌を印刷し,ラッセルは「朝の先ぶれ」(英文)の共同編集者になり,この企業の経済的な面を援助することに同意しました。
ラッセルはいま神の御心の知識を得て,奉仕の気持で火のごとく燃えました。しかし,個人的な野心に満ちたわけではありません。その大切な音信と共に彼の取つた最初の段階は,そのことを示しています。しかし,また彼のうけた最初の失望をも示します。次のことをお読みしましよう。
1877年,ラッセルはアレゲニーとピッツバーグの牧師たち全部の会合を召集し,そして主の臨在を示す聖句を示し,牧師たちにその音信を調べて宣明するようにとすすめた。二つの都市の牧師たち全員は出席していたが,その全員は信ずることを拒絶した。同じ年,彼は世俗の仕事を止めて,聖書に示されている仕事のために全時間と全財産を捧げようと決意した……彼のとる道が聖書と一致するものであるか,また彼の誠実を表わすものであるかどうかを決定する手段として,彼は次のことに神の是認があるか否かをためそうと決定した: (1)生涯をこの道にささげる,(2)わざの拡大のために財産をささげる,(3)全部の集会の際に寄付の徴収を禁ずる,(4)彼の財産が使い果された後は,わざをつづけるために人に願い求めぬ寄付(全く自発的なもの)に依存するi。
ロイス: そんなことは今までに一度も聞いたことがありません。パストー・ラッセルは,その全生涯中に寄付を集めたこともなく,金銭を願い求めたこともない,というのですか。ラッセルは,ほんとうに勇気と確信にみちた人にちがいありません。
ジョン: 彼は信仰の人でした。彼は神の御心を理解する特権にめぐまれ,自分でもそのことを知つていました。1877年のときは,わずか25歳の青年でした。しかし,アレゲニーとピッツバーグの宗教指導者たちが,始まつたと彼の感じた収穫のわざに参加するというすばらしい機会をうけなかつたとき,ラッセルはちゆうちよしませんでした。彼の信仰は,幾倍も多く報われました。
同じ年である1877年,ラッセルはバーバーとの共作で「三つの世界あるいはあがないの計画」(英文)という本を出しました。そのような本は,かつて出版されたことがありません。それは始めて時の預言の説明と回復のわざとを結びつけましたj。この初期の時に,地を妨害せずに支配するサタンの期間,すなわち「異邦人の時」の終りは1914年に来ると認めました。ほとんど直ちに,ラッセルは別の重要な決定を下さねばなりませんでした。
困難な問題は解決する
ロイス: この1914年という点でパストー・ラッセルは決定を強制されたというのですか。
ジョン: その特定な点ではありません。しかし,それはバーバーとの交際およびそのときまでに示された真理への献身ということが含まれていました。この試練については,ものみの塔(英文)主題聖句ルカ伝 22章31節「サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願つた」(新口),の下に記されたラッセルの言葉に気をつけて下さい。彼は次のように述べています。
その時にいたるまですべてのことは順調に行なわれてきた。我々は真理については大きな祝福をうけたが,真理についての我々の愛と忠実が特に験されたわけではない。1878年の夏とともに,主が十字架にかけられた時と主が前述の言葉を述べた時に平行して,ふるいわけることは始まつた。それは以来つづけて行なわれており,そしておそかれ早かれ,現在の真理の光をうけいれるすべての人を験すにちがいない。
「あなたがたを試みるために降りかかつて来る火のような試錬を,何か思いがけないことが起つたかのように驚きあやしむことなく」なぜなら「その火は,それぞれの仕事がどんなものであるかを,ためすであろう」。……,〔ペテロ前 4:12,新口〕
明白に分かるごとく,この試練とふるい分けることの目的は,その心の願いが無私のもの,主に全く絶対的に献身しているものすべてを選ぶことである。それらの者たちは,主の御心の行なわれることを欲し,主の知恵,主の道,そして主の御言葉に対する確信は極めて大きいので,他の人の詭弁でも,または自分自身の計画や考えによつても,主の言葉から引きはなされることを拒絶する。このふるい分ける時にいるこれらの者たちは,強められて主にあつてのよろこびと,主の計画についての知識を増すであろう。そして,幾千人という人々があやまりに陥ることがあろうとも,その信仰は験される。―詩 91:7。
それからパストー・ラッセルは,このときまですべての人の抱いていた間ちがいの見解を説明しています。コリント前書 15章51節と52節にあるパウロの言葉にもとづいて,ある人々は次のことを期待していました,「ある時が来ると生ける聖徒たちは,体のまま突然に奇跡的に取り去られ,今後は主と共に永久にいる」。ある人々は,このことが1878年に生ずると信じていました。それで,目に見えるものが何も生じないので失望を感じたのです。しかし,パストー・ラッセルは聖書を再び調べて,次のことを悟りました。すなわち彼らの「間ちがいは,生ける聖徒たちが,死ぬことなく直ちに変死することを見たいと思つた点である。これは普通の教会全部の間ちがいの見解であつて,我々はいままでに守つたこともなく,捨てたこともない」。ラッセルがこの聖句を再び調べた結果,次のことが分かりました。使徒の言葉の真実の意義は,キリストの体に属する者たち,そして彼の臨在とその再帰後に生きている者たちは,キリストの再臨前の人々のように墓の中で無意識に横たわることがありません。その代り,彼らは死ぬと同時に瞬間に変化してキリストと共になります。これは実際には,聖句の重要な啓示であつて,多数の正統派キリスト教徒は,まだこのことが認識できないのです。ラッセルは次のように述べて,この点をむすんでいます,「それで,このように再び調べた結果,道の上にはいつそうの光が示された。そして,はげましを与える良い原因となり,主が引きつづきみちびいていることを明らかに示した」。
原則に忠実を保つ点でためされる
このように明白な見地とあかるい希望を得ることに援助をうけたとき,そして他の者を援助しようと熱心に努力していたとき,1878年の春は,バーバー氏と彼の影響下にいた多数の者にとつて祝福とははるかに縁遠いものになつた。バーバー氏は,前述した明白で平易な解決を排斥し,生ける聖徒が連れ去られなかつたということから人々の注意をそらすために,何か新しいものを得ねばならぬ,と感じたようである。しかし,人間が分以上の責任を感じ,新しい光を強制しようとつとめることは,なんと危険なことであろう。我々を驚かせて,苦しみを感じさせたことは,バーバー氏が間もなくして,あがないの教理を否定する記事を「先ぶれ」(英文)に書いたことである。―その記事は,キリストの死がアダムとその子孫に対するあがないの価なることを否定し,そして次のように述べていた。すなわち主の死は人間の罪の罰に対する支払いにはならない。ちようどハエの体にピンを突き刺してハエを苦しませて死なせても,両親は子供の非行に対する正当な解決と考えないと同じである,と言う。私はびつくりした。バーバー氏は,我々の罪のそなえものとしてのキリストの仕事を明白に理解しているものと,私は考えていた。……私はバーバー氏の持つていた以上の明白な見解に対して過大の評価をしていたか,または彼がキリストの正義の婚礼服を故意に脱ぎ捨ててしまつたのである。後者の方が残されていた唯一つの結論である。というのは,後になると彼はキリストの死が人間のあがないの価であるとかつて認めていた,と述べたからであるk。
トム: 「婚礼服」と彼が言つた意味は何ですか。
ジョン: ラッセルはマタイ伝 22章11-14節にあるイエスのたとえ話について言及していました。このたとえ話は,客を自分の息子の婚礼に招いた一人の王のことを述べています。最初に招待されたものたちは来ることを拒絶しました。それで,王はついに大道や小道に人をつかわして他の者たちを集めました。ところが,最終の婚礼の宴のとき,この事に対する正しい認識を示す適当な婚礼の式服を着ていない人がいました。イエスは,彼と全く一致していることを正しく示す者だけが,選民の集まりの中にとどまるのを許されると示したのです。ラッセルはこのたとえ話をそのように適用することにより,バーバーがイエスのあがないの犠牲の価値を捨てたことは,そのクリスチャン識別を故意に捨てたものである,と示しました。次の言葉を述べたペテロは,このことを警告しました,「民の間に,にせ預言者が起つたことがあるが,それと同じく,あなたがたの間にも,にせ教師が現れるであろう。彼らは,滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み自分たちをあがなつて下さつた主を否定して,すみやかな滅亡を自分の身に招いているl」。
マリヤ: そのときパストー・ラッセルはわずか26歳で,バーバー氏ははるかに年上の人でした。それに「朝の先ぶれ」(英文)は,その創始者という意味では,バーバー氏の雑誌でした。もつともパストー・ラッセルは,この分裂が生じたときには,資金を供給していたのです。それで,パストー・ラッセルは,バーバー氏の立場に容易に影響をうけたでしよう。せつかく両人が得た地位を失なうのを恐れて,パストー・ラッセルはバーバー氏に反対することをためらうこともできたはずです。
積極的な行為は妥協を打ち破る
ジョン: ラッセルは年若い者でしたが,妥協は背教の始まりであると,聖書を研究していたので知つていました。それで,便宜のために神の原則あるいは真理を捨てることは,致命的なことです。真理に忠実を保つことについて,これは実際にはラッセルの受けた最初の試錬でした。彼は直ちに道を選びましたが,それは決定的なものでした。彼はすぐに「先ぶれ」(英文)に一つの記事を書き,そのあやまりに反対しました。数ヵ月のあいだ類似の記事は出版され,それからラッセルは次のように報告しています。
いまは私に明白に分かつた。主は,私が経済的に援助することをもはや許さないこと,また我々の聖なる宗教の基本的な原則に反対するものと共にいてはならない,ということである。そのゆえ,間ちがつた者たちを回復させようと,最も注意深い努力 ― しかし成功しなかつた ― を払つてのち,私は「朝の先ぶれ」(英文)から手を引き,バーバー氏との今後の交際を全く中止することにした。しかし,単に手を引くだけでは,我らの主なる贖い主に対して保ちつづける忠節を示すのに十分でない,と感じた。……それ故,私が別の雑誌を始めるのは主の御心である,と私は理解した。この雑誌内において,十字架の旗は高くかかげられ,あがないの教理を守り,そして大いなるよろこびの良いたよりは,できるだけ広範囲に宣明されねばならぬ。
主のこのみちびきに従い,私は旅行を断念した。そして,1879年の7月,「ものみの塔とキリストの臨在の先ぶれ」(英文)創刊号が刊行された。それは最初から,あがないを特に提唱した。そして,神の恵みにより,最後までそうであるようにと,我々は希望するa。
清い教理に対するこの大胆な立場が,大きな影響をおよぼすということは,そのときにおいては分かりませんでした。しかし,今でこそ明白に分かりますが,もしラッセルがこの大切な問題について妥協していたなら,エホバにささげる彼の奉仕は,背教のキリスト教国の宗教家たちが捧げていた不適当な犠牲と同じく,すこしも価値がないものでしよう。それは重要な決定をくだす時でした。それは,エホバの代表者であるキリスト・イエスが「麦」級を集めるために用いる機関を選んでいた時でした。
神の御言葉から啓示された真理は,注意深い熱心な研究をしていたラッセルとその仲間の者たちに与えられました。いまやエホバが,神の御心を知つて行なうと誠実に願い求めていたすべての人々を「暗やみからすばらしい光」に召される時が来た,という正直な確信を持つていた彼らは,それらの真理を受けいれることができました。ラッセルの立場は,ガラテヤ書 2章4,5節の聖句を思い起させます。ロイスさん,その聖句を読んでいただけますか。
ロイス(読む): それは,忍び込んできたにせ兄弟らがいたので ― 彼らが忍び込んできたのは,キリスト・イエスにあつて持つているわたしたちの自由をねらつて,わたしたちを奴隷にするためであつた。わたしたちは,福音の真理があなたがたのもとに常にとどまつているように,瞬時も彼らの強要に屈服しなかつた」。それを述べた人は,パウロでしたね。
ジョン: そうです。パウロの時の初期会衆内には,そのような問題がたくさんありました。彼は神の御言葉の真理の側に立つだけでなく,今日の私たちのために多くの助言を与える言葉をも書きました。その忠実を保つたパウロが豊かに祝福されたと同じように,ラッセルや彼の初期の仲間たちも豊かに祝福されました。
忠実は祝福を増し加える
これらの確信は,バーバーと「朝の先ぶれ」(英文)との啓発的な経験と相まつて,ラッセルをして次のことを認識させました。すなわち真のクリスチャンたちで成りたつこの小さな群れが,神の御こころに忠実を保ちつづけるためには,これらの真理の出版をしつかり保たねばならぬということです。たしかに,彼らの始まりは,小さなものでした。しかし,それはゼカリヤ 4章10節の聖句,「誰が小さいことの日をいやしめたか」(欽定訳)を思い起させます。1879年に始まつたこの日に,小さなピッツパーグの群れは再び独力で働きました。それは「小さいことの」日でありました。
1879年7月1日号の「ものみの塔とキリストの臨在の先ぶれ」第1号は,わずか6000部でしたb。シー・ティー・ラッセルは,編集者になり,5人の他の円熟した聖書研究生たちは,定期的に記事を提出しました。この新しい雑誌の最初の言葉は,興味深いものですから,読んでみましよう。
これは,「シオンのものみの塔」(英文)の第1巻第1号である。いまこの出版物の目的を述べることは,適当であろう。我々が,「末の日」―「主の日」― 福音時代の「終り」に住んでおり,その結果「新しい」時代のあけ方に生活していることは,御霊にみちびかれて御言葉をくわしく学んでいる者たちの認める事実です。しかし,また世界に認められる外部のしるしも同じ証言を立てている。それゆえ,我々は「信仰の家人」がその事実に全く目ざめるようのぞんでいるc。
この雑誌は,その最初からエホバの御名に証を立てています。この雑誌は,エホバとその御国の事柄にささげられているのです。第2号のなかで,「あなたは『シオンのものみの塔』を欲しますか」という見出しの下に,こう述べられていました。
「シオンのものみの塔」(英文)はエホバがその支持者であると我々は信ずる。そうであるかぎり,その雑誌は人間に支持を乞い願い求めようとはしない。「山々の金と銀はみな我がものである」と言われる御方が,必要な資金を供給しないなら,それは出版を中止する時である,と我々は考えるd。
それから2年の後,エホバの御名と識別が論ぜられました。1882年,7月号には「イスラエルよ,聞け! 我らの神エホバは唯一つのエホバなるぞ」と題する7頁の記事が出ました。この記事は「三位一体の教理」すなわち「三位を持つ一つの神」という教えの間ちがいを指摘しました。1882年の8月,「エホバの名前は父に正しく適正するものか,あるいはキリストに適用するかについて尋ねられました。その答は,次のように与えられていました。
エホバという御名は,聖書中では父以外の他の者に決して適用されていない,と我々は確信をもつて論ずる。それと逆なことを主張する者たちは,一つの聖句を持ち出してきて,それはイエスかあるいは御父以外の他の者に適用すると示す。ここに,この事を確定的に証明する方法がある ― 新約聖書を書いた者たちは,旧約聖書からたくさん引用している。彼らは,エホバという言葉の出ている箇所を引用して,それをイエスに適用しているだろうか。そうしていない,と我々は主張する。それに反して,我々はイエスに適用されないで,明白に御父に適用されているたくさんの同様な引用文のひとつをあげる。それは詩篇 110:1で,「主(エホバ)は我が主(アドンー主人)に,坐せと言つた」その他である。(この聖句がイエスにより(ルカ 20:41-44),ペテロにより(使行 2:34-36,そして33)適用されていることに注意しなさい。この一つの聖句だけで,十分の解答であろう。もし,人がその聖句を曲解するなら,他の聖句をも用意しているe。
それで,パストー・ラッセルはエホバの証者のひとりとして働き,仕えましたf。
神の経路は識別のしるしを示す
トムさん,お分かりのように,たくさんの仕方の中に証拠は明白に次のことを示し始めました。すなわち,いろいろと聞えた多くの声のうち,エホバはいま「ものみの塔」と呼ばれる出版物を選んで,人類の世界に神の御心を啓示し,その頁を通して述べられる言葉によって,世界の人口を二分し,神の御心を行う者と神の御心を行なわない者に分けています。この理由の故に,1879年はわざの行なわれる転向点になりました。シー・ティー・ラッセルの指導するこの小さな群れは,試錬をうけて1914年に期待される最高潮にみちびく大きな予備運動をするのにふさわしいと分かりました。しかし,40年にも足らない年月中に,この小さな群れは世界中に何を行えると期待できますか。条件が有利な時でも,その仕事は手に負えないもののように見えました。しかし,恐れを感ぜぬこれらの巡回の伝道者たちは,最もつらい反対をうけるということを知りつつも,実際に仕事をし始めました。約40年のうちにエホバの御名の賛美にささげられた彼らの記録は,ゼカリヤ書 4章6節に述べられている通りの言葉を成就しました,「万軍のヱホバのたまふ是はいきほひによらずちからによらず我霊によるなり」エホバだけが御自分の民をやしない,みちびくことができます。
[脚注]
a (イ)ジー・エル・ラッセルは1897年,84歳で死亡しました。彼は息子の親密な協同者として,協会の活動をつづけました。(ものみの塔〔英文〕1898年1月1日号,4頁)
b (ロ)「聖書研究」(1886年)第1巻,序文「自伝」1頁,(1926年版)また,1916年のものみの塔(英文)356頁を見なさい。
c (ハ)「聖書研究」第7巻(1917年)53頁(1918年版)
d (ハ)「聖書研究」第7巻(1917年)53頁(1918年版)
e (ニ)ジエイ・エフ・ルサフォード著「教役的な天での大いなる戦い」(英文)16頁。
f (ホ)「聖書研究」第1巻(1886年)序文: 「自伝」18頁(1926年)
g (ヘ)同書1と2頁。
h (ト)1916年のものみの塔(英文)171頁。
i (チ)「聖書研究」第7巻(1917年)55頁(1918年版)
j (リ)1916年の「ものみの塔」171頁。
k (ル)1916年の「ものみの塔」(英文)172頁。
a (ワ)1916年の「ものみの塔」(英文)172,173頁,1909年1月1日,その名前は「ものみの塔とキリストの臨在の先ぶれ」(その説明として1908年の「ものみの塔」(英文)372頁を見よ),1931年10月15日,その名前は「ものみの塔とキリストの臨在の先ぶれ」に変わり,1939年1月1日「ものみの塔とキリストの御国の先ぶれ」に,1939年3月1日,現在の名前であるエホバの御国を知らす「ものみの塔」に変わつた。創刊号から1891年の12月まで,その雑誌は月1回の発行で,1892年1月1日からは月2回の出版になつた。(1891年のものみの塔(英文)173頁を見よ)外国語の「ものみの塔」の出版回数は異なります。
b (カ)1879年8月号の「ものみの塔」(英文)2頁。
c (ヨ)1879年7月の「ものみの塔」(英文)3頁。
d (タ)1879年8月号の「ものみの塔」(英文)2頁。
e (レ)1882年8月の「ものみの塔」2頁と3頁。
f (ソ)「三つの世界」(1877年)の20頁には,「主」という言葉の代りにエホバという御名が出ています。それは次のようなゼパニヤ書 3章9節を引用して次のように述べています,「そのとき,我は人々を清い言葉に変え,エホバの御名を呼ばしめ,ひとつ心をもつてエホバに仕えさせん」。それでラッセルは初期のときから神の御名を知つていました。