よい交わりとはどんな交わりですか
人間の是認を得るために,真理を曲げるべきですか。どうすれば自分の交わりを調べることができますか。
普通の人ならだれでも仲間同志の交際を楽しみます。すべての人が,騒音や群衆のそうぞうしさを好むというわけではありませんが,やさしくて気持ちの明るい友人との交わりには,だれでも幸福を感じます。むずかしい仕事や,日常生活のいろいろな問題を一時忘れてくつろげる,気の置けない仲間と一緒にいるのはほんとうに楽しいものです。
人間のこの集まろうとする強い衝動は,どこへ行っても見られます。この点,人間は羊に似ていて,群れをなす傾向があります。団体,組合,クラブ,協会がたくさんあることを考えてごらんなさい。人々は,共通の趣味にひかれ,あるいは温い友情を求めて,そういうところに集まります。
郊外や海浜へのピクニック,さわやかな秋の夜,キャンプのたき火を囲んでの雑談,ピアノのまわりでの合唱などは,とくに忘れがたいものですが,そのおもな理由はこうしたことに親しい交わりの楽しさがあるからです。グループでスポーツの試合を見に行ったり,音楽を聞きに行ったりする時でさえ,その喜びの源は,気心の合った者たちと一緒にいるということにあります。ひとりでそういうところへ行ってごらんなさい。そうすれば,みんなでいく時と同じほどの喜びが味わえないことに,すぐに気づくでしょう。わたしたちはお互いを必要とし,互いの交際を求めます。わたしたちは生まれつきそういう欲求をもっているのです。
交わらないほうがよい時
交わりは楽しいものです。しかし,益になるものばかりとは限らないということも心にとめておかねばなりません。交わりには,人を堕落させるものもあれば,向上させるものもあります。あなたのいちばん悪いところを引き出す人もいれば,いちばん良い点を引き出す人もいます。ですから,両者を見分けて,悪いほうを捨て,良いほうを保つ能力は重要なものになってきます。
ひとつの例として,人間の歴史の初期の状態,つまり地上の部族がシナルの平野に集まった時のことを考えてみましょう。もっともらしい動機から,一つの大きな計画が立てられていました。人々を中央権力のもとに集めておくために,高い塔のある大都市を建設しようというのです。しかし神の目的は,人々が全地に広がることでした。彼らの交わりに対するエホバの怒りは,神が彼らのことばを乱して,その計画を捨てさせたときにあらわれました。―創世 11:1-9。
それから何年もたって,イスラエルが,先祖に約束された土地にはいった時,神のきらわれる別の交わりがはじまりました。神はイスラエル人に,その土地の住民との交わりを堅く禁じていられました。なぜですか。それは,カナン人をその腐敗のゆえに滅びに定めていられたからです。そういうカナン人と少しでも交われば,イスラエルは影響されて,真の神の崇拝から離れてしまったでしょう。―出エジプト 34:12。申命 7:1-5。
一致や平和共存のためという理由で同調を求められた時でさえ,イエス・キリストや使徒たちは,どんな態度をとりましたか。使徒パウロは次のように言いました。「不信者と,つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか,キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか」。(コリント第二 6:14,15)イエスがいつも偽善者との交わりを避け,むしろ義を慕い求めるけんそんな人々と交わられたことを,使徒はよく知っていたのです。
今日における交わりの危険
過去におけると同様に,今日における一致の要求もしばしば動機や目的を無視したものです。何を犠牲にしても仲良くしようというわけです。『あなたがどんなことを信じていても,それを他の人に話そうとしなければそれでいいから,わたしたちの仲間にはいりなさい』という魅惑的な誘いがたびたびあります。この場合,それが宗教団体であろうと,ちょっとした社交的なグループであろうと,まず彼らの考えと目的を調べてみます。
それは,神も聖書も尊敬しない少数の人によって牛耳られるグループだった,ということはよくあることです。そういうサークルの中では,聖書にもとづく信仰のことばは歓迎されません。宗教にかんする議論は人々を一致させるよりも分裂させる,と言われるでしょう。しかし,そういうグループが一方では,ある政治上の問題をめぐって激論を戦わすこともあるのです。神のことばを討議すれば,自分たちの習慣や行ないがさばかれるという恐れが心の底にあるのでしょうか。
そういう交わりでは,沈黙が罪になる危険が多分にあります。公然と議論しあう時に,メンバーのある者が,神と神のことばについてうそやけがしごとを言うとき,真理を擁護して発言する人は,信仰の強い人です。おく病な人はたいてい,意見の衝突や,友だちの尊敬を失うことを恐れてだまっています。もちろん,「黙るに時があり,語るに時があり」ます。しかし,うそつきや冒とく者にされたくなければ,だまってばかりいるわけにはいきません。―伝道 3:7。
ユダの支族のダビデ王は,神を恐れぬ利己的な者と交わらなかったので,はばかることなく次のように祈ることができました。「わたしは偽る人々と共にすわらず,偽善者と交わらず,悪を行なう者のつどいを憎み,悪しき者と共にすわることをしません」。(詩 26:4,5)「偽善者」ということばには,ある原則をはっきり主張すれば「友だち」が自分から離れていくとか,自分の主張と一致した行動をする責任が生まれることを恐れて,聖書の話が出るとすぐ話をそらすような人も含まれていることはたしかです。
法律はよく守っても,神と神のことばにまったく信仰をもたぬ人々との交わりも,悪い影響をおよぼします。そういう人たちと交わっていると,神の是認よりも人間に認められることを重要視するまでに,考えがしだいに堕落していく恐れがあります。それに,そういうグループの思想を変えさせることは不可能です。まずたいていの場合,彼らの無神論的な考えかたがこちらにうつります。使徒パウロはこの危険を認めて,「まちがってはいけない。『悪い交わりは,良いならわしをそこなう』」と警告しています。―コリント第一 15:33。
正しい交わりの中に幸福を求める
神の知恵はわたしたちにこう告げています。「友はいずれの時にも愛する,兄弟はなやみの時のために生れる」。(箴言 17:17)こういう友と交わるのはいつでも楽しいものです。彼らは聖書にもとづくあなたの信仰を尊敬し,もしあなたが信仰のために迫害を受けるなら,あなたを支え,支持する用意があります。悩みの時にも,あなたを友とすることを恥じません。
そのような強い,破れることのない友情の得られる場所はただひとつ,つまり,神の真の証人たちの会衆の中以外にはありません。そこには,真理を語ったり,神のことばやその原則の討議をきらったりする空気はまったくありません。正しいことを行なうために苦難があなたにのぞむなら,彼らは心からあなたを支え励ましてくれます。御国会館で毎週行なわれる集会に定期的に出席して彼らと交われば,それは,創造者を愛し敬う人々との友情のきずなを強くする機会になります。
神と正義を愛して集まる人々に,いくつかの義務があることはいうまでもありません。そういう人々は,絶えず新しいスリルを求め,時間をつぶす方法を考えている,不注意で,不信仰な人と同じようであってはなりません。価値ある交わりは,人々を価値ある活動に導きます。人々が真の意味で互いの荷を負うクリスチャンの社会の中では,責任をもって神に奉仕することが少しもいやでないことに,あなたはすぐに気づくでしょう。実際のところそれは喜びをもたらします。
あなたはだれと交わりますか
当然なことですが,人はそれぞれ,交わる相手を自分で決めなければなりません。しかし賢明な人は,愛のこもった神の助言に注意します。神は,不信仰で自分勝手な者たちについて,「彼らの仲間になってはならない」と警告していられます。また,「知恵ある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害をうける」と教えていられます。(箴言 1:15; 13:20)神はまたモーセをとおして次のことを定め,このことに関する考えを表わされました。「あなたは多数に従って悪をおこなってはならない。あなたは訴訟において,多数に従って片寄り,正義を曲げるような証言をしてはならない」。(出エジプト 23:2)エホバは,エホバの定めた原則にもとる考えかたや行動をする者に,諾々と従う人をきらわれます。
わたしたちの住むこの時代,つまり利己的で不法な者たちの影響により,人間社会全体が堕落しつつあるこの苦難の時代を預言した,使徒パウロは,非行者のリストに,「神をそしる者,親に逆らう者,恩を知らぬ者」「善を好まない者」「乱暴者,高言をする者,神よりも快楽を愛する者」を含め,それから厳粛な態度で,「こうした人々を避けなさい」と勧告しています。(テモテ第二 3:1-5)この悪い事物の制度の「終りの時」に,この忠告を心にとめて,神を愛し正義を愛する人々とのみ交わることは,すべてのクリスチャンにとって重要です。そうする人は,友情のことで失望することは決してありません。彼らは心から,『ともにいるのはよいことである』と言うことができるでしょう。