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  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1964
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1964
塔64 8/15 483–484ページ

小さなことをなぜ大げさに言うのですか

もぐらを見たことがありますか。これはねずみに似た動物ですが,生涯の大部分を地下で過ごすので,見たことがないかもしれません。土を掘るこの小さな哺乳動物のもぐらの体長は平均15センチほどしかありませんが,穴を掘ったり,こん虫を捕食したりする習性をもつこととその毛皮とで,かなり有益な動物と考えられています。

もぐらはよく芝生や庭に穴を掘ります。しかしそれでできるもぐらづかは,ふつう4センチから8センチの高さにすぎないので,たいした害とは考えられません。

もぐらづかはそのように小さいので,諺にさえなっています。たとえとしてのもぐらづかは,たしかに迷惑ではあっても,人を困らす問題を生み出すほどのものではありません。ではなぜ人々は時々もぐらづかを山のように言うのですか。理由はたくさんあるでしょう。しかし聖書が述べているように,「心はよろずの物より偽るもの」ですから,人々が気づかない理由もいくつかあるに違いありません。―エレミヤ 17:9。

ある人は若さと,知識や経験の不足とから,小さなことでも大げさに騒ぎたてます。小さな子供には,ちょっとしたことでも一大事に思えます。新婚夫婦は,ふたりのうまが合わないこと,物事を同じように考えないことを突然に発見することがあります。ふたりの相違というのはごくわずかなもので,実際にはもぐらづかかも知れません。しかし知識と経験がないため,それを山のように考えてしまいます。

また気が小さいために小さな事を大げさに騒ぎたてる人がいます。アリにとってはもぐらづかも山のように見えます。小さなことをくよくよする人は,人からちょっとした不親切な,あるいは思慮のない行いをされると,たいへん悪いことをされたように考えます。宗教的,人種的,国家的あるいは家族的団結心や偏見も,人をして小さな事に大騒ぎをさせます。自分たちのグループの者がどんなはた迷惑なこと,非礼なことをしても見のがしますが,他の人種または宗教の者が同じことをするなら,そのことを大げさに言い,彼らに対して不親切な,道理にはずれたことを言ったりしたりする口実にします。それと同じくしゅうとめも,自分の子供の欠点は見逃がしても,婿や嫁のことになるとちょっとの欠点でも大げさに言う場合があります。

また,あることを非常に気にして,守勢をとっているために物事を大げさにとる人がいます。男が皮膚の色や宗教,女が年齢や体重を気にしている場合,そのいたいところに触れる不注意な,あるいはちょっとした言葉にすぐ気を悪くして,大げさに言うこともあります。

ある人に対して恨みをいだいているために小さなことを大げさに言う人もいます。その人から気にさわることをされたので,仕返しをするつもりでいるのです。そういう間違った考えをもっているために,ほかの人がするなら見逃がすようなことでも,その人ならすることなすこと少しでも変わっていたり気にさわるとそれをよい口実にいやな顔をしたり,怒った様子をみせます。

時には,仕事仲間,宗教活動の仲間,配偶者,婚約者のどちらかが相手をわずらわしく思うようになる場合があります。関係の解消を望む者は,自分のその行為を正当化できる機会を相手の行動に見つけようとします。それでその目的を達するために小さなことを大げさに言います。それと同じく,エホバ神のみこころを行なうために献身しながら,それに飽きた人は,コースを変えたり止めたりするための口実をさがします。そしてたいていの場合おそかれ早かれ,だれかが言ったことしたこと,または出版物などがよい口実になります。それは小さなことを大げさに言っているのにきまっていますが,そのような人にはそれを克服することができないのです。

物事を針小棒大に言うのは,分別のない,公正を欠いた,愛のない,時には信仰のないことを示す行いです。分別のない行為だと言えるのは,それが生活を不愉快にするだけで,だれをも幸福にしないからです。私たちはこのように教えられています。「悟りは人に怒りを忍ばせる,あやまちをゆるすのは人の誉である」。知恵のある人は,小さなことを大げさに騒ぎたて,ちょっとした侮辱を誇張していうことからどんな善も生じないことを知っています。―箴言 19:11。

イエス・キリストが定めた,「人々にしてほしいと,あなたがたの望むことを,人々ににもそのとおりにせよ」という「黄金律」も,小さなことを大げさに言うのをゆるしません。また人種的,宗教的,国家的あるいは家族的関係から生ずる党派心や偏見もゆるしていません。―ルカ 6:31。

ことに,他人の欠点を大げさに言うのは愛のない行いです。「愛は」罪を大げさに吹聴して不当に人の注意をそれに向けさせることをせず,むしろ「多くの罪をおおうもの」です。そのとおり愛は,「恨みをいだかない。……すべてを忍び,すべてを信じ,すべてを望み,すべてを耐え」ます。愛は7回だけでなく77回人を許します。―ペテロ前 4:8。コリント前 13:5,7。マタイ 18:22。

そして最後に神と神のみことばである聖書に対する信仰と信頼の問題があります。信仰があれば,小さなことを大げさに言わないばかりか,大きな問題を小さくすることさえできます。イエスは言われました。「もし,からし種一粒ほどの信仰があるなら,この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば,移るであろう。このように,あなたがたにできない事は,何もないであろう」。使徒パウロはそのような信仰をもっていたので「わたしを強くして下さるかたによって,何事でもすることができる」といえました。―マタイ 17:20。ピリピ 4:13。

それで心を守ることにより,また知恵と愛と信仰をもって努力することにより,小さなことを大げさに言う間違いを避けましょう。

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