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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1976
塔76 6/1 325–326ページ

「自分の心に語りなさい」

他の人が言った事や,した事のため非常に腹のたつ場合が時にあります。このように人をいらだたせる事態に直面した時どうすべきですか。聖書は次のことを勧めています。「あなたがたは怒っても,罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい」― 詩 4:4,口。

この助言には真の知恵があります。怒りの気持ちにかられて当然な場合もあるでしょう。しかしそうした時にこそ,特に自制が必要です。相手に向かって激しい行動に出て騒動を起こし,同様な仕打ちで仕返しをして相手の人に対し罪を犯す危険があります。これは激しい口論にならないとも限りません。いきり立った状態の時に人はしばしば後で深く後悔するような事をします。かっとなって親族や友人に重い傷を負わせたり殺したりさえする人のことを聞くのは今日そう珍しいことではありません。夜の静かな時間に自分のいらだった気持ちを静めるようにとの助言は確かに賢明なものです。

無分別な行動をしないためには,自分の言う事やする事の結果を思いはかることが必要です。神のしもべダビデはある時この事をしなかったため,ナバルという人に対して激しい怒りを覚え,危うく流血の罪を犯すところでした。これがその出来事です。

ダビデとその部下はナバルの群れと羊飼いを保護する点で,その周囲にめぐらされた垣のようでした。ナバルに示された好意に照らしてダビデはその後,使者を遣わしてナバルを祝福し,何であれ彼の望むものを与えて物質面での援助をするように求めました。ダビデとその部下から受けた恩恵を無視してナバルは使者をののしりました。この事を知らされたダビデは,ナバルをその家の男もろとも殺すことを決意します。しかしナバルの妻アビガルは手早く食糧をととのえ,ダビデに近づいて懇願し,みずから報復しないようにと願い出ました。―サムエル前 25:5-31。

彼女の言葉はダビデの心を動かし,ダビデに次の事を言わせました。「今日汝をつかはして我をむかへしめたまふイスラエルの神エホバは頌美べきかな また汝の智慧はほむべきかな汝今日わがきたりて血をながし自ら仇をむくゆるを止めたり」― サムエル前 25:32,33。

怒りを抑えておくことは,ダビデの場合と同様,必ずしも容易ではありません。しかし自分のことを深刻に考え過ぎないようにし,自分の評判を気にし過ぎないことは大きな助けになります。サウル王の例はこの事をよく示しています。イスラエルの王として最初に選ばれた時,彼は慎み深い,謙遜な人でした。王として油そそがれるに先だって彼は預言者サムエルにこう語っています,「わたしはイスラエルのうちの最も小さい部族のベニヤミンびとであって,わたしの一族はまたベニヤミンのどの一族よりも卑しいものではありませんか」。(サムエル前 9:21,口)謙遜なこの態度は,後にある人々から不敬な言葉を言われた時に無分別な行動を避ける助けとなりました。聖書はその事をこう述べています,「しかし,よこしまな人々は『この男がどうしてわれわれを救うことができよう』と言って,彼を軽んじ,贈り物をしなかった。しかしサウルは黙っていた」― サムエル前 10:27,口。

心のいらだちを抑えるうえでまた大切なのは,自分と創造者との関係を思い起こすことです。エホバ神は,敵の災いを見て喜ぶ人を顧みて恵みを施すようなことをされません。このような喜びは復しゅうの精神を表わしているからです。箴言 24章17,18節の言葉はこう警告しています,「汝の仇たふるゝとき楽しむこと勿れ 彼の亡ぶるときこゝろに喜ぶことなかれ 恐くはエホバこれを見て悪しとし……たまはん」。

いらだちが高じて激しい憎悪を抱くまでになると,人はエホバ神のみ前における自分の立場を危うくすることになります。恨みを抱くならば,神ご自身のために保留されているものを自分の権利として要求することになるでしょう。「復しゅうはわたしのもの,わたしが返報する,とエホバは言われる」。(ローマ 12:19)この理由で箴言 24章29節(口)は次のように助言しているのです。「『彼がわたしにしたように,わたしも彼にしよう,わたしは人がしたところにしたがって,その人に報いよう』と言ってはならない」。このように自分勝手に報復する人は,裁きを受ける身になった時,エホバ神からあわれみを受ける機会を失うでしょう。

また自制心を働かせないならば,自分の威厳を失うことになるかもしれません。聖書の箴言はその事をこう述べています,「愚かな人は,すぐに怒りをあらわす,しかし賢い人は,はずかしめをも気にとめない」。(箴 12:16,口)侮辱されたと感じて過度にいきりたち,無分別な行動をする人は,それを見る人々の目に愚か者と映ります。しかし賢い人は人を怒らせるような言葉を言われたり,行為をされてもそれを気にしません。侮辱されたからといって大騒ぎをせず,自分の舌を抑え,行動を慎みます。何事もなかったかのように不面目はやがて消え去ります。その人は思いの平安とともに自分の威厳を保ち,恥ずべき言葉を吐いて自分の品位を落とすようなことをしません。

そのうえ,自制を保つ人は精神的勝利を得ます。この事はイエス・キリストの場合,確かに真実でした。イエスは弟子たちに,「勇気を出しなさい! わたしは世を征服したのです」と言うことができました。(ヨハネ 16:33)脅かされ,ののしられてもイエスは決して世の悪しき道にならいませんでした。イエスについて使徒ペテロはこう書きました,「彼は,ののしられても,ののしり返したりしませんでした。苦しみを受けても,脅かしたりせず,むしろ,義にそって裁くかたに終始ご自分をゆだねました」。(ペテロ第一 2:23)世はイエス・キリストを同じ仕方で行動させることができなかったゆえに,イエスの前に敗北したのです。イエスは勝利者となりました。同様な勝利を得ることはわたしたちにとっても真に価値あることです。

時にはわたしたちをいらだたせた当人でさえ,わたしたちが穏やかに振る舞うことから益を得ます。親切が人に及ぼす良い影響は箴言 25章21,22節に強調されています。『なんぢの仇もし飢えなば之に糧をくらはせ もし渇かば之に水を飲ませよ なんぢ斯するは火をこれが首に積むなり エホバなんぢに報いたまふべし』。いわれなく人を騒がせた当人も親切にされるならば自分を恥じ,自分の言葉と行ないを反省するようになるかもしれません。これはその人を変化させ,その人の性質の良い面が引き出されるかもしれません。たとえそうでなくても,自制心を失わず,仕返しをしない人は創造者から報いを受けることを確信できます。

「自分の心に語り」,自制心を失わないのは確かに賢明なことです。このためには慎みと謙遜を培うのが良いことです。また軽卒な言葉を出したり,短気な行ないをしないように注意する必要があります。このようにしてわたしたちはエホバ神のみ前における自分の立場を危うくすることを避け,また自分の威厳を保ち,精神的勝利を得,さらには人を怒らせる挑発的な人々がその道を改めるように助けることさえできるのです。

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