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子供を懲しめて生命を得さす

『懲しめの叱りは,生命の道である。』― シンゲン 6:23,改訂標準訳

1 子供達は,どのように忠告されていますか? どんな質問に直面しなければなりませんか?

ヱホバは子供達に次のように教え戒しめて居ます。『あなたのお父さんの命令を守り,あなたのお母さんの教えを棄ててはなりません。命令と教えを,いつも心に留めて置きなさい。頸のまわりに結びつけなさい。あなたが歩く時に,命令と教えはあなたを導き,あなたが寝る時,あなたを見守るであろう。あなたが目を覚ます時,あなたと語るであろう。何故ならば,命令は燈火であり,教えは光りであるから。そして懲しめの叱りは生命の道である。』(シンゲン 6:20-23,改訂標準訳)時に,両親が正しい教えを与え,正しい手本を示しても,子供達が従わない時があります。それで,懲しめが必要となつて来ます。そして,非常な議論の的となつている問題に私達は直面せざるを得ません,すなわち,叩こうか?それとも叩くまいか?ということです。

2 叩くことについて,多くの児童心理学者は何と言いますか? しかし聖書は何と言いますか?

2 多くの児童心理学者は,子供に『手を出してはならない』と主張します。一人の心理学者はこう言いました『あなた方お母さん方達,あなた方が子供を叩く度毎に,子供を憎んでいるということをあなた方は表わしているのを認識していますか?』 ヱホバはこう申しています『鞭を惜しんで与えない者は,その子を憎む者である。子を愛する者は,熱心に子を懲しめる。』叩けば,子供の生命を救うことになるかも知れません。ヱホバはこう申して居ります。『子供を懲しめるのを差し控えてはならない。若し子供を鞭で打つならば,子供は死なないであろう。子供を鞭で打つならば,その生命を墓から救うであろう。』また『傷がつくまでに打つならば,悪い心を清め,打つならば,奥深いところをも綺麗にするであろう。』人や子供達の奥深いところを覗き見ることが出来る方はヱホバです。そして私たちの時代の時を前もつて示されるために,或る時ヱホバは人の奥深いところを覗き見られました。『人の心の傾向は,その若い時から悪くなるものである。』その救助の手段は?『愚かなことは,子供の心の中に結びつけられている,しかし,懲しめの鞭は,それを子供から追い出す。』― シンゲン 13:24; 23:13,14; 20:30,改訂標準訳。創世 8:21,新世。シンゲン 22:15,改訂標準訳。

3 矯正の言葉には,何故時々矯正の行為が続いて伴なわねばなりませんか? 恣に育てることと,懲しめることとの対照的な結果は何ですか?

3 或る子供にとつては,言葉では不充分な場合があります。それで両親は,言葉だけでなく,実際に行う人とならなければなりません,そして子供をアマヤかして駄目にしないために,鞭を用いなければなりません。子供はあなたの言葉を理解するでしようが,あなたの言葉に注意を払わないでしよう。シンゲン 29章19節(ア訳)はこう申しています『言葉だけでは,僕は訓練されない。何故ならば,彼は理解するが,注意を払わない。』2節後では(シンゲン 29:21,ア訳)『子供の時からその僕を,恣に育てるならば,終りには,忘恩の者となるであろう。』と述べられています。そのことは,また両親から恣に育てられた子供達にも全くあて嵌まることです,子供というものは,正しく直そうとしない溺愛の両親や,または怠慢な両親,あるいは甘やかし放題の両親に対して尊敬をいたしません。そのような両親ですと,子供はますます増長し要求するようになり,尊敬を持たなくなります。これに反して,賢明で,正しく,そして恵みの心を持つてなされる懲しめは尊敬を得ます。そのことについて,パウロはヘブル人に次のように書きました『私達の肉親の父は,いつも私達を懲しめ,そして私達はその父を尊敬して居た。……確かに,懲しめは,その当座には楽しくなく,悲しみに見えるが,しかし後になつて,それによつて訓練される者には,懲しめは平和の実,すなわち正義を結ぶであろう。』(ヘブル 12:9,11,新世)そのような懲しめは,訓練することであつて,苦痛の罰を与えるということではありません。

4 何時,利己的な気持のうちに懲しめはなされますか? 必要な懲しめの形式を決定する際に,何故一人一人の子供は考えられねばなりませんか?

4 懲しめる時には,次の諺を記憶して下さい。『思慮無き行為は悪し,あまりに事を急げば仕損じる。』突然に起つて,子供を打つことは,その動機があまり良くないことを示すものです。そのように打つことは,激情に襲われた両親が,感情的にその吐け口を出したにすぎません。そのような懲しめは,利己的な目的のものであつて,子供に対する愛の心からなされたのではありません。多くの場合には,全然叩かないという事と,絶えず叩くという二つの両極端の中間に,解決はあるようです。しかし,このことは,すべての場合に真であるということではありません。子供各自の気質や性質を良く考えねばなりません。ある子供は,非常に感じ易いので,叩くなどという非常な手段は必要でないでしよう。或る子供は非常に感じが鈍いので,叩いてもまだ不充分というような事もあるでしよう。人間について,次の二つの諺は書かれています。『感じ易い人の唇には,智慧がある。しかし,分別の無い人には,その背中に鞭が必要である。』『理知ある人にとつては,一つの叱りは,愚か者に対する百の鞭よりも深く沈む。』(シンゲン 19:2; 10:13; 17:10,ア訳)そのことは,子供達でも同じです。或る子供は,他の子供よりも感じ易いでしよう。或る子供は,他の者よりも心がやさしいでしよう。そのような子供を1回叱るだけで,充分な懲しめとなり,そして,その子よりもつと強情な子供に対して,1回鞭を加えるよりも,効果があることでしよう。そのような強情な子の心には,普通以上の多くの愚かさが結びつけられているかも知れません。

5 子供達が特別に手に負えないような乱暴な気質ならば,何故両親は,すべての人にまさつて忍耐すべきですか?

5 両親の方々,もしあなた方の子供がこのような強情な子供でしたら,我慢して辛抱しなさい。あなた方にとつて,次のように言うことは,あままりに無しつけで,気持よくなく,認めることが出来ないかも知れませんが,子供はその性質をあなた方から受けついだのです。あなた方にあつては,その性質は抑制されるでしよう,その性質は表面に表われないでしよう。しかし,その性質はあなた方のどこかにあるのです。何故ならば,あなた方の子供は,他の者ではないあなた方からそれを受けついだからです。私達は,その事実と直面しなければなりません。大人は,子供達に悪い出発を与えます。アダムとエバは,すべての人に悪い出発を与えました。そこで,聖書はこう述べています『婦の産む人は,その日少なくして艱難多し。誰か清き物を汚れたる物の中より出し得る者あらん。一人も無し。』『われ邪悪の中にうまれ,罪にありてわが母われをはらみたりき。』― ヨブ 14:2。詩 51:5。ロマ 5:12。

懲しめる時に,愛と良い分別を用いる

6 規則を作つて実施する時には,何が記憶されねばなりませんか?

6 子供達は,導きが必要であることを,このことは示します。また,子供達は完全ではあり得ないことを示します。分以上に多くのことを子供達に期待してもいけませんし,分以下に少く期待してもなりません。振舞の規則を,子供達に明白にしておきなさい。そして公正であつて,子供が間違える時には,愛の心を持つて許してやらねばなりません。そのことをする子供達の年齢を心に留めて置きなさい。子供達が,小さな大人のように行うなどと期待してはなりません。パウロは,彼が幼児の時には,幼児のように行つたと申しています。(コリント前 13:11)十分尤もな正しい規則を立てて,子供がその規則を知つた後は,その規則を直ぐに,そしてずつと変えることなしに実施いたしなさい。そうすれば,何を期待すべきかを子供は知ります。しかし,その規則が,あなたの気まぐれとか,瞬間の気分などに従つて,時折りにだけに,実施されるならば,そしてまた子供がその規則に服従しない時,それに対する罰がずつと遅れるならば,子供は大胆になつて仕舞います。そして偶然にその規則に違反するような場合でも,どの位までのところまで違反しても,大丈夫とか,またその違反することからどのくらいのものを得ることが出来るかというようなことを見るようになります。丁度,報いの罰が遅れているように見えると,悪いことをする人が大胆になるのと同じです。『悪しき事の報速にきたらざるが故に,世の人心を専にして悪を行う。』若し懲しめが公正でなく,ずつと一致していないならば,子供達が持つている公正の鋭い感覚は傷つけられ,怒りの気持が生ずるでしよう。ですから,愛と恵みの気持をもつて,公正と確固の中に正しく直しなさい。私達の身体が塵であることをヱホバは記憶されています。それで,子供の身体もまた塵であることを記憶しましよう。―伝道の書 8:11。詩 103:13,14。

7 エペソ書 6章4節とコロサイ書 3章21節に与えられている教訓に対して,ある両親はどのように違反しますか? 時と場所は何故考えられねばなりませんか?

7 或る両親の方の中に,子供にいつも小言を言う方が居ります。実際には大して問題とならないことについて,くり返しクドクド言う方が居ります。それで子供達には,うるさいなという感情や,イライラさせたりジラせたりする感情を持たせてしまいます。ですから,子供達は言うことを聞かなくなり,いじけて仕舞うのです。このことは,両親に対する次の聖書の教訓に全く違反しているものです。『あなた方,父たちよ,自分の子供をイライラさせてはならない。ヱホバの懲しめと,権威ある忠告にあつて子供を育てなさい。』『あなた方,父たちよ,イジけさせないために,自分の子供をジラしてはならない。』(エペソ 6:4。コロサイ 3:21,新世)若し両親が,ヱホバの懲しめと,権威ある忠告に従うならば,大して重要でない事柄について絶えずやかましく小言を言つて,子供をイライラさせたり,ジラしたり,イジけさせるというようなことをしないでしよう。数多くの,必要のない禁止を設けて,子供をその禁止の中に囲み込んではなりません。本当に大切なところだけに禁止を設けなさい。十分な理由のある時に,子供をたしなめなさい。しかしただ権威を見せるためだけでそうしてはなりません。出来る時には,子供達自身で自分の選択や決定をさせ,良い選択や決定は賞めてやりなさい。子供達が,割り当てられた仕事とか,野外奉仕で良くするならば,彼等を賞めて,励ましなさい。聖書もこのことをしていませんか? 次のように記されています『良くした良い忠実な奴隷よ。』(マタイ 25:21,新世)或る時には,その行為自身は悪くなくても,時間と場所の関係上,行為を制御することは必要です。例えば,集会中に跳び廻ることはその子供と他の者に害を及ぼします。跳び廻ること自体は悪くありませんが,それをする時が悪いのです。遊ぶ時,跳び廻る時,聴く時,学ぶ時と夫々の時があります。ですから,すべての人の福祉のために,時と場所に十分気をつけて見ていなさい。―シンゲン 29:15。

8 懲しめには,どのように変つた形式がありますか? 多くの児童心理学者の見方はどのように変つていますか?

8 それで,懲しめるという問題について,要略を述べるならば,愛の心をもつて懲しめを行うべきであり,怒つた大声を出したり,ひどく打ち叩くなどをして懲しめてはならないということです。(シンゲン 15:1)折檻は,子供がやさしいか強情かというその気質に従つて異るでありましよう。愛情のしるしを与えるのを差し控えて,折檻することも出来ましようし,または愛情のしるしを与えることによつて子供に報いることが出来ます。乱暴な子供を温和しい子供のところから引き離して仕舞うとか,その乱暴な子供を家族の楽しみに加わらせないとか,その子の好きな食後のお菓子や遊戯を差し控えるとか,また時に家の秩序を保つためには文字通りの鞭を用いることが必要でありましよう。違つた方法の必要を説明するために,次の実際の場合を考えて下さい。ブルックリンに住んでいる小さな少年は歯医者のところに行くことになつていました。母親がその子を歯医者のところに連れて行く前,その子の4歳になる遊び友達は,歯医者のところに行く時には何時でも口を閉じて開けないと,その男の子に話しました。それで,母親がその子を連れて行つた時,その子は口を開けようとしませんでした。家に帰つて,その子はうんと叩かれました。その次に歯医者のところへ行つた時に,その子はまた口を開けようとしませんでした。前よりももつとひどく叩かれましたが,その子は歯医者の椅子で口を開けようとしませんでした。しかし,この子はテレビジョンが大好きでした。それでその子が,テレビジョンを見ることは,絶対に禁じられました。2日間テレビジョンを見ない日が続いた後,その子は歯医者のところで口を開けると言いました。しかし鞭を用いることに関して言うならば,増大しつつある年少者犯罪に直面して,多くの児童心理学者がその意見を変えて廻れ右をし,叩くことに賛成しているということは注意に値すべきことです。多くの者は,鞭を用いる考え方に戻り,賛成して居ります。お母さんの膝の上で学んだいましめは,お父さんの膝の上にのせられて学んだいましめ程,長く印象を残さないということを多くの人はどうしても認めざるを得ません。

9 広い意味で,矯正の鞭とは何ですか? そして,その鞭はどのように用いられますか?

9 しかし,聖書で矯正の鞭という語が使われる時,それは必ずしも文字通りの鞭を意味しません。広い意味でそれは両親の権威を意味します。矯正の鞭で矯正しようとするためには,様々な様式が用いられるでしよう。その様式がどんなものであれ,その鞭は愛と恵みの心をもつて用いらるべきであつて,決して怒つたり,非常な厳格さで用いてはなりません。子供のした振舞に対して,それ相応の罰を厳格に行つてはなりません。エレメヤ記 10章23節は引用されていますが,今一度24節と共にその節を読んでみましよう。『ヱホバよ,われ知る人の途は自己によらず,且つ歩行む人は自らその足履を定むること能わざるなり。ヱホバよ,我を懲したまえ,但道にしたがい,怒らずして懲し給え,おそらくは我無に帰せん。』それですから両親の方々,あなた方の子供達を懲しめる時には,愛の恵みの心をもつてなすべきであり,怒つたり,非常な厳格さでするべきではありません。クリスチャンとして,あなた方は厳格な公正の下にいるのではなくして,神の恵みの下にいるのですから,他の人にも,特にあなた方の子供達に恵みを示さなければなりません。子供達の不完全さと欠点は,多かれ少かれあなた方と先祖達によつて引き継がれたものです。そして,両親の権威の鞭を振るわれる時,もしあなたが一人以上の子供を持つているならば,不公平な偏愛を示してはなりません。さもないと,一人の子は他の子から憎まれるということになるでしよう。創世記に書かれてあるヨセフの兄弟達は,父親はヨセフだけを偏愛していると考えて,その結果ヨセフを憎みました。イエスの譬話に出ている年上の息子は,父親は放蕩息子を好んでいると考えて怒りを示しました。(創世 37:3,4。ルカ 15:25-30)若し一人の子供を,他の子供へのみせしめとするならば,そのみせしめをされる子供は他の子供から憎まれるようになるでしよう。

10,11 何が非常に必要ですか? それはどのように示されますか?

10 両親の方々,子供達は両親によつて愛されて居り,両親から必要と思われているということを,子供達に示すことは大切です。最近に,34人の捨て子は,母親の愛が無いという理由のためだけで死んだとニュー・ヨーク・タイムズ紙は報じました。能率についてのある本は,今行われている現代心理学で学校の先生を訓練することを述べていますが,しかし悲しみの口調をもつて次のようにつけ加えています。『だが,ただ子供達を愛した流行遅れの古い学校の女の先生の方が,生徒を助けるのにもつと成功したかも知れない。』ルックという雑誌は,最近に『子供達を取り扱うすべての規則と手段は,家庭の総体的な気分と雰囲気に比べる時,何物でもなくなる。』と申しています。愛とヱホバの御霊を中に持つている新世社会の雰囲気は,子供達を育てて,永遠の生命を得させるのに重要なものです。

11 両親の方々,甘い感傷とか,チヤホヤする話しをしたり,子供の気まぐれを皆恣にさせたり,子供の欲する物を皆与えることによつて,この愛は示されないのです。愛とは,甘やかして恣にさせることではありません。愛とは,自分は必要とされていると子供に感じさせるものです。子供達はヱホバからの相続として語られ,卓子の囲りの橄欖の若樹のようになぞらえられています。子供達が生長し,実を結ぶためには,やさしい世話が必要です。子供達は,母親の胎の実です。私達の唇の実は,ヱホバを讃美すべきであると,ヱホバの言葉は語つています,それで胎の実も同じくヱホバを讃美すべきです。(詩 127:3; 128:3。ヘブル 13:15)あなたの子供達は,ヱホバを讃美しますか? もしあなたがする決心であるならば,あなたの子供達も必ずするでしよう。子供達を助けなさい。彼等に道を示しなさい,彼等の歩みを指示しなさい,良い教訓を与えなさい,正しい手本を作りなさい,必要な時には,彼等の間違いを直しなさい,そして彼等を導いて新しい世の社会と共に永遠の生命を得させなさい。子供達が誇りの心をもつて口に出し,よろこんで楽しんで従うような手本となりなさい。サムソンを育てる時に,その父マノアがヱホバよりの導きを祈つたように,あなた方両親も,子供達を育てる時にヱホバの導きを祈りなさい。―シンゲン 17:6; 20:7。シシ記 13:8。

子供達に与える言葉

12 子供達は今何を考えているでしようか? 私達が動物の例を見て教訓を得ることは何故正しいですか?

12 それでは,今あなた方,子供達は何を考えていますか? 今,多くの大人達が集まつてあなた方子供達に対して群をつくり,あなた方を閉じ込めてしまつて,あなた方子供達の生活をひどいいやなものとさせてしまう多くの方法を考えているのだと思いますか? いいえ,私達大人は,あなた方に対して群をつくるのではなく,あなた方のためを考えて群をつくつているのです。それは,私達が強くなつてあなた方を保護し,あなた方を私達の中に保つて,神に奉仕させサタンから安全に身を守らせるためなのです。ヱホバを愛する者は皆共に群をつくり,互いに助け合つて神の業をしなければなりません。あなた方子供達のことが私達の論議の主題であるならば,それは,私達があなた方を愛するからなのです。そう,しかし,若しも大人が私達を愛するというならば,一体懲しめることとか,特に叩くなどということはどういう話なのだろうか,とあなた方は言うことでしよう。そうですね,あなた方子供達にとつて,それは急所を突いていることですね? この問題を十分徹底的に調べることを助けるために,あなた方子供達が愛している動物を見てみましよう。ヱホバの智は,彼の創造されたものに反映されますから,動物を見て教訓を得ることは,私達の考えを動物の水準に下げることではなく,神の考えにまで引き上げることです。蟻のところに行つて勤勉を学び,一致の手本として蝗を考えよと神は私達に語つて居ります。それで,或る動物がその幼いものに与える訓練を私達が見て学ぶことは,聖書からも認められるものです。何故ならば,動物の訓練は,神の与えた本能に従つてなされるからです。―ロマ 1:20。シンゲン 6:6-8; 30:27。ヨエル 2:7,8。

13 子供は限度があることを認めて,訓練は除々にすべきであるということについて,どんな実例がありますか?

13 動物の両親が,その幼いものを訓練する時,幼いものには限度があるということを良く知つています。初めに,小さなものは,大きなことをすることが出来ません。それで,動物の幼稚園と言われるようなところで,小さな者は訓練を受け始めます。例えば,イワツバメは飛んでいる昆虫を捕えます。幼いイワツバメには,難しくてそれが出来ません,それで親鳥は,早く飛ぶ昆虫を捕えてから,子供の鳥のいる巣または棲木の近くを飛び,昆虫を落します。それで子供の鳥は飛び出て,ゆつくり落ちて行くその昆虫を捕えます。間もなくして,その子供の鳥も,親鳥のようにして自分自身の食物を得ることが出来ます。幼い狐が乳離れした後,母親の狐は,捕えたネズミや他の食物を洞穴の中に持つて来ます。後にそれを洞穴の入口のところに置きます。幼い狐が大きくなれば,なる程,母親はだんだん遠くの場所に食物を置きます。そうして幼い狐に,自分自身の食物を漁ることを教えます。この訓練の終り頃には,両親の狐は餌食を木の葉やゴミの下に隠すことすらします。それで,幼い狐は視覚だけでなく,嗅覚をどうしても用いなければなりません。これらの場合や,他の多くの場合に,幼いものが多く学べば学ぶ程,両親は少しのことしかしません。そのことは,あなた方子供達についても同じです。両親があなた方を訓練することは必要なことです,そしてあなた方が多く学び経験を得れば得る程,あなた方はもつともつと多くのことをするのが許されるでしよう。あなた方の能力が増えるにつれて両親の監督は少くなるでしよう

14 子供が大人をジラし続けると,懲しめられるということについて,どんな実例がありますか?

14 それでは,森林の中で行われている懲しめはどうでしようか? 全くの事実はこうです。森林の中にいる動物の母親達は流行遅れで古臭く子供の心理に関する近代的な本などは全然読まないようです。何故ならば,動物の母親達は,ほんとうに子供を叩くからです。1匹の子供の虎は,母親をずつと掻き続けましたので,その母親の虎はウルサク感じました。子供の虎のすることを無視しようとしましたが,とうとうその子の頭をすつぽり口に啣えて,ぎゆつと押しつけ,振り回しました。それでびつくり仰天した子供の虎は,その間中泣き叫んでいました。あなた方子供達の皆さん,お母さんが,あなた方の頭を口に啣えたなどということは恐らくないことでしよう,でもお母さんをウルサク感じさせて,止めなさいと言われても止めない時は,恐らくウンと振られたことでしようね。

15,16 ジツとしていないと言うことと,向う見ずなことをすることに対しては矯正が必要であるとどんな実例が示していますか?

15 あなた方子供達の中の誰かが,多分集会中などでジッとしていない為に,他の人に迷惑をかけたことがありますか? あなた方ジッとして居られない方は鹿のところに行くべきです。そして鹿のする仕方を考えて賢くなりなさい。母親の鹿は,その子供の鹿を隠して,動かずにジッとしていなさいと教えます。それで,その子供の鹿は何時間もの間,動かずにその儘ジッとしています。子供の鹿が,言われたことに従わず,動き出すなどということは,殆どありません。でも,若し言われたことに背いて,動くならば,母親の鋭い蹄で叩かれて仕舞います。

16 あなた方子供達の皆さん,冒険すぎたということで叩かれたことがありますか? 遊びの中で,あなた方が怪我をするのではないかとお母さんが考えるようなことをしてあなた方は叩かれたことがありますか? 若しあるのでしたならば,あなた方と同じような仲間が居ますよ。オモチャの熊みたいな小さな熊は,その母親の熊と一緒に捕われていました。その檻には1本の木がありましたが,子供の熊は小さな枝のところまで行けましたが,母親はそこまでついて行くことが出来ませんでした。最初の時に,母親はその子熊を捉まえて,ウンと叩きましたので,子熊の泣き声は遠いところからで聞くことが出来ました。それから後,その子熊は,小さな枝に行きませんでした。

17 生命を守るためには,懲しめることが必要であると,何が説明していますか?

17 幾年か前,西部合衆国にあるセクォイア国立公園で,食物の屑が,森林の開けたところに捨てられました。それで,それを喰べようと多くの熊がやつて来ました。或る時,1匹の母親の熊は,2匹の子熊を連れて森林の中からやつて来ました。でも,大人の熊たちが喰べている場所に来る前に,その母親の熊は子供たちを木の上にのぼらせました。1匹の子熊は降りて来ました,するとその母親はその子供に跳びかかり,その手でピシャピシャ叩き,その子をころがしました。その子熊は大急ぎで木に駈け上がりました。2匹の子熊は,ジッと木のところにいて,母親が,喰べるのを終えてから木の根元に来て降りなさいと合図するまで待つていました。この研究の前の方に出ていた聖句を憶えていますか? その聖句は,両親は子供を叩きなさいと言つていますね,でもその叩くことは,子供を殺すのではなくて,墓から子供を救い出すことでしたね? そう,この母親の熊は,まつたくその通りのことをしました。母親は子熊を叩きました,でもそれは子熊を殺しませんでした。子熊を死から救いました。大きな熊が喰べているところに,若し子熊が行つたならば,大きな悪い牡熊は,その子熊を殺したかも知れません。

18 森の中では,叩くというような懲しめは何故非常に重要ですか?

18 動物界に年少者犯罪は全然ありません。何故ならば,動物の母親の中に怠慢なものは居ないからです。動物の母親は,その手で折檻するのを差し控えて,子供を甘やかして駄目にするということはありません。子供を叩きますが,それは子供の生命を守るためです。動物の母親は,子供のために戦つて死ぬこともあります。丁度あなた方の両親が,あなた方のためには死ぬようなことがあるのと同じです。でも動物の母親は子供を叩きます,丁度同じように,あなた方の両親はあなた方を叩くでしよう。森の中では,最初の失敗は,多くの場合最後の失敗となります。若し子供の動物が母親の言うことに背いて従わないと,その子供の動物は,餌食となつて,他の動物のお腹に入つて仕舞うという結果になるでしよう。叩かれることは,動物の子供達にとつて愉快なものではありませんね。でも,喰べられて仕舞うより,打たれる方が良いですね。

19 なんという動物のようなものは,ヱホバを愛するすべの人を貪り食おうと求めていますか?

19 あなた方子供達の皆さんは,今一寸考えつかないかも知れませんが,一つのおそろしい獣のようなものが居るのです。それは,あなた方を喰べて仕舞おうと欲しています。ペテロは,そのものについて,私達の全部に警告しこう申しました『あなた方の敵である悪魔は,吠える獅子のように歩き廻つて居り,誰かを貪り食おうと求めている。』(ペテロ前 5:8,新世)その誰かとは,あなた方です,何故ならばあなた方はヱホバを愛するからです。その悪魔は,ヱホバを憎みます,そしてヱホバを愛するすべての者を,悪魔の古い世の環境の中に巻き込もうと欲しています。動物の母親が,子供達を懲しめて,子供達を喰べられないようにするのと全く同じく,あなた方の両親はあなた方を懲しめて,あなた方が悪魔の世で貪り食われないようにしているのです。動物の母親は,神が与えられる本能に従つて,子供達を訓練し,懲しめます。あなた方の両親は,神の与えられる聖書に従つて,あなた方を訓練し,懲しめます。

20 年少者犯罪について,聖書はどんな例を記録していますか?

20 あなた方の両親が,あなた方を神権的に愛されるならば,両親は,あなた方を導いて,若いサムエル・エレミヤ・テモテ,そしてイエスの取つた途に従わせるでしよう。両親は監督して,あなた方を悪い手本から引き離させるでしよう。その悪い手本とは,例えばソドムの悪い少年達が群をなして集まり,神の天使達を襲撃して,不道徳な行為をしようとしたことなのです。(創世 19:4,5)あなた方の両親は,あなた方を導いて偽りの崇拝から遠ざけるでしよう。それは,ヱホバを怒らせたイスラエルの子供のように,あなた方がなつてもらいたくないからです。ヱホバはこう話されました。『子供達は薪を集め,父親は火を焚き,婦人は粉をこねてパンをつくり,天の女王に捧ぐ。そして他の神々に酒を注いで,私を怒らす。』(エレミヤ 7:18,欽定訳)昔の子供達がヨブにしたように,あなた方はヱホバの僕達を嘲笑しないでしよう。ヨブは『童子等さえも我を侮り,我起き上れば,則ち我を嘲ける』と言いました。(ヨブ 19:18)神の僕達を侮り嘲ける時には,あなた方は神を冒瀆していることになるのです。昔の子供達の群集は,エリシヤを侮り嘲けつて『禿頭よ,のぼれ』と言いました。それでヱホバは,2匹の熊をして,その悪い子供達の中42人を裂かせて仕舞いました。―列王記略下 2:23,24。

21 エリシヤを嘲笑した子供は,本当は何のためにヱホバの怒りを招きましたか? 年が若いからということで,その悪行は救われないと何が示しますか?

21 或る人を禿頭と呼ぶだけにしては,そのことは,ひどい仕打ちのように見えます,しかしそれには不敬以上のことが含まれていたのです。『のぼれ』と言つたことが,神の怒りをもたらしたのです。エリヤは天にのぼつたとエリシヤは報告しましたが,その「のぼれ」とは,エリシヤもエリヤのように天にのぼれと命じたのです。(列王下 2:11)それは,エリヤの場合になされたヱホバの奇蹟に対しての不信仰を示し,エリシヤを嘲笑して,同じことを二度行わせ,そのことを証明させようとしたのでした。それは又,エリヤが天にのぼつたようにエリシヤも天にのぼるべきであり,そのようにして社会からエリシヤを除去して仕舞うということをも示しました。エリシヤの居ることは望ましくなく,その区域から居なくなつてもらいたいということを,それは暗示しています。この悪い行為に対しては,大人達に責任があつたようです。子供達が嘲笑したことは,たとえ宗教的にエリシヤに反対した大人達によつて直接にそそのかされなかつたとしても,それは大人達の態度を反映したものです。とにかく,子供達は冒瀆しましたので,罰せられました。シンゲン 20章11節(欽定訳)にこう述べられています『子供でさえも,そのする業が清いか,正しいで知られる。』冒瀆する悪い者達は,たとえ年が若いからといつても救われないでしよう。そのことは,ハルマゲドンの時のヱホバの刑を執行する軍勢に与えられた命令から判ります。『彼に従いて,邑を巡りて撃てよ,汝等の目人を惜み見るべからず,憐むべからず。老人も少者も童子も孩子も婦人もことごとく殺すべし。』― エゼキエル 9:5,6。

22 両親に従うことを,子供達はどのように考えて見ますか?

22 両親が希望しますので,あなた方は両親に従うかもしれません。それは良い理由です。しかしここに,それよりも良い理由があります ― ヱホバが希望されますから,あなた方は両親に従いなさい。ヱホバは直接あなた方に次のように申しています『子供達よ,主にあるあなた方の両親に従いなさい。何故ならば,これは正義のことであるから。「あなたの父親と母親を尊びなさい。」これは第一の命令であり,そして「あなた方に良いことであり,地上で長生きをする」という約束をもつものである。』(エペソ 6:1-3,新世)動物の子供は長く生きるために,従わなければなりません。ここで,あなた方が地上で長生きしたいならば,両親に従わなければならないと,ヱホバは申されています。あなた方はヱホバを愛しますか? それではヱホバに従いなさい。(ヨハネ第一の書 5:3)『主にある両親』に従いなさい,とヱホバは述べられています。それですから,ヱホバの証者であるあなた方の両親に従いなさい。或る時に従うことが難しい時であつても,とにかく従いなさい,そして両親に従うことは,ヱホバに従うものであると見なしなさい。妻は夫に従うべきであり,奴隷はその主人に従うべきであると神は述べています。夫や主人に従うことを,妻や奴隷はどのように考え見るべきですか? 妻は,『主に対して』従うように,夫に従うべきであると述べられています。奴隷は,『キリストに対して』従うように,主人に従うべきであると述べられています。あなた方子供達,あなた方は『ヱホバに対して』従うように,真心をこめて両親に従いなさい。それはあなた方のためになることです。(エペソ 5:22; 6:5-8。コロサイ 3:23,24,新世)それですから,両親に従うということは,あなた方が証言の業に出掛けるのと同じように,ヱホバに奉仕していることになるのです。いましめの叱りや懲しめに気を附けることは,生命を意味します。しかし,『両親に従わない小供達は,『死にふさわしい』ものです。―シンゲン 15:10; 29:1。ロマ 1:30,32,口語。

ヱホバの道を選ぶ

23 両親は子供達を教えねばならないということについて,どんな聖句は,その真理を決定的に確証しますか?

23 両親に対するヱホバの道は,彼等がヱホバの言葉によつて導かれることであり,子供達にとつては,そのような両親によつて訓練されることです。以下の聖句は,その真理を決定的に確証していませんか?『われら,之をその子孫にかくさず,ヱホバのもろもろの頌美と能力とそのなしたまえる奇しき事跡とを,きたらんとする世につげん。そはヱホバ証詞をヤコブのうちにたて,律法をイスラエルのうちに定めてその子孫にしらすべきことをわれらの列祖におおせ給いたればなり。これ,来らんとする代,のちに生るる子孫がこれを知り,みずから起りて,そのまた子孫につたえ,彼等をして神によりたのみ,神の御業を忘れず,その誡命をまもらしめん為なり。』『父は,なんじの真をその子にしらしめん。』『汝ら,之を子に語り,子はまた之をその子に語り,その子之を後の世に語りつたえよ。』『今日私が警告としてあなた方に語つているすべての言葉に,心を向けなさい。そして,あなた方の子供達に命じて,この律法のすべての言葉を注意してするようにさせなさい。何故ならば,それは,あなた方にとつて意味の無い言葉ではなく,あなた方の生命を意味するからである。』― 詩 78:4-7。イザヤ 38:19。ヨエル 1:3。申命記 32:46,47,新世。

24 何故私達は,古い世の方法の影響を受けてはなりませんか?

24 ヱホバが,私達のあゆみを指示し,私達の道を選ばせるようにしなければなりません。悪行と犯罪と死という腐つた果で,世を満たしている古い世の方法を,決して新しい世の社会の中に採用してはなりません。個性を抑制したり,失望させたり,阻止させてはならないと,古い世の人々が言うならば,勝手に言わせておきなさい。彼等は,死んで行く古い世の馬鹿げた智慧で全く盲目にされているのです。それで彼等には,性的に不道徳なことや,泥棒や,殺人や,嘘言者や,冒瀆する者達や,そして偶像崇拝者は禁止され,失望させねばならぬということを見ることが出来ないのです。若し人々が堕落した肉の古い人格を阻止せず,また脱ぎ捨てようともせず,そして敬虔や新しい人格を着ないなら,その人々も,またその人格も,ハルマゲドンの時に,全く滅びてなくなつてしまうでしよう。(エペソ 4:22-24。コロサイ 3:5-10)抑制されずに,そして死ぬよりは,禁止されて生きる方が良いことです。新しい世の社会にいる人々は,今禁止され,抑制されて生長し,彼等の中にある生まれながらの悪に打ち勝たねばなりません。古い世の道その方法,そのあゆみに私達が引かれて行くことは,自ら滅びに行くことです。古い世の人々は,一つの混乱からよろよろと出てくるかと思うと,すぐに別の混乱によろめき込んで行きます。ハルマゲドンの時,彼等は一つの混乱に歩み込みますが,二度と再びその混乱から出て来ないでしよう。その時に,人の選んだ定まりない不規則な道は,全くなくなるでしよう。

25 古い世と,子供を育てることに関して,私達は何と言いますか?

25 そして,子供達を育てるということに関して言うならば,この古い世はみじめな失敗をいたしました。古い世は神に反対する近代的方法によつて播かれた犯罪の腐つた収穫を,苅ります。しかし,古い世には,古い世の道をその子供達に行わせなさい,だが,新しい世の社会の子供達に,古い世が干渉させてはなりません! 世の人々には,彼等自身の道を選ばせなさい,そして彼等自身の歩みを定めさせなさい。彼等の道は,死に終り,彼等の自ら定めた歩みは,墓に導くでありましよう。そして,死と墓に行く途中では,彼等の道は,語ることの出来ないような非常な堕落と犯罪で取り散らかつているのです。私達は,古い世の途を一つとして欲しないのです。その歩み,その堕落,その犯罪の一つとして私達は全然欲しません。また古い世と共に死を共にし,墓を共にすることを全然欲しません。私達の新世社会の子供達のためにも,こんなものを一つとして私達は欲しません!

26 私達自身の子供達と,その訓練に関して,私達は何と言いますか?

26 私達の子供達のために,私達は正しい道を欲します。正しい道とは,ヱホバの道を意味します。私達は正しい歩みを欲します。正しい歩みとは,ヱホバの歩みを意味します。そして,新しい世に到達するまでの途中に於いて,私達の子供達の道が,堕落した悪行の代りに道徳的健全さで印をつけられ,そして犯罪の悪行の代りに讃美の業で印をつけられることを欲します。増大して行く不敬虔の只中にあつて,私達は,しようがないと言いながら座つて,腕を組み,爪を噛んで子供達のことを心配し,彼等が古い世の汚れた海に沈まないようにと希望するなどというようなことをしません。私達は子供達に,良い教訓を与え,正しい手本を示し,必要な懲しめを施すということによつて,彼等を新しい世の社会と共に航海させて行きます。私達が子供を懲しめて,私達は子供を憎んでいると,この世の利口ぶつた人が言うならば,そう言わせておきなさい。懲しめを受けない彼等の子供達は彼等と共にハルマゲドンで死ぬでしよう。しかし,懲しめを受けた私達の子供達はヱホバの新しい世の社会の中にあつて,私達と共に永遠に生きるでしよう。子供達を,本当に憎んでいるのは誰ですか? そして,子供達を本当に愛しているのは誰ですか? 誰が子供達を死に導きますか? そして,誰が子供達を生命に導きますか? 私達の子供達を,何故古い世の道に従つて訓練して,古い世と共に殺させるようなことをするのですか? 私達は,新しい世の社会の道に従つて彼等を訓練します。そうすれば,彼等は,新しい世の社会と共に永遠に生き残るでしよう。人間にとつて正しく見える道を忘れなさい。神にとつて正しい道を学びなさい。神にとつて正しい道が,人間にとつて,間違つていると見えても,何を私達が気にする必要がありますか? 誰を私達は悦こばせようと努めていますか? 神ですか? または人間ですか? どんな場合でも,全くヱホバ神を常に私達はよろこばせようと努めているのです!

27 それで,私達は何と結論しますか?

27 あなた方両親の皆さん,あなた方は何をしなければならないかを知つています。あなた方子供達の皆さん,あなた方は何をしなければならないかを知つています。ヱホバは,御自分が何をするかを知つています。若し私達が,ヱホバに従うならば,私達のために,彼は事柄を為して下さるでしよう。若し私達が彼に従わないならば,私達に反対して彼は事柄を為されるでしよう。柔和で従順な者は,地を相続するということを記憶しなさい。地に戻るのではなく,地に住むように努力しましよう。現在は,決定の時です。私達は,私達の決定をしなければなりません。古い世は,古い世の決定をしなければなりません。そして永遠の運命は,その決定に懸かつているのです。それで,結論に於いて,次のように言えます。彼等の目に,ヱホバの道を選ぶことが悪く見えるならば,ヱホバのこの日に於いて,誰の導きを取り,誰の道を選ぶかということは,彼等に選ばせなさい。しかし,私達と,新世社会にいるすべての者に関するならば,私達は神ヱホバをして私達の歩みの指示者とし,私達の道を選び手といたします。今,私達の中にいる何千という子供達,そしてハルマゲドンが打つ以前,私達の中にいるであろう幾千という子供達,さらに,今間近に迫つている果てしない新しい世で,他の羊が生むであろう数多くの子供達にとつて,そのことは,すべて永遠の福祉を与えるものです! 新しい世の社会にいるすべての両親達をヱホバが助けられて,彼等がその子供達を新しい世の社会に向つて育てることが出来ますように。

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