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    ものみの塔 1981 | 5月15日
    • 神のみ前で良い名を得てください

      「良き名は良き油にまさり,死ぬる日は生るる日にまさる」― 伝道 7:1,口語訳。

      1 すべての人は自分のために何を得ますか。また他者に何を得させることがありますか。

      だれの場合であっても,たとえ何もしない人の場合であっても,人の行為には付随的な何かが伴います。りっぱな家具を造る人なら,付随的に名工としての名を得ます。おいしい料理を作る婦人であれば料理上手という名を得ます。3番目の例として,何もしない人であれば,怠惰という名を得ます。すべての人は自分のために名を得ます。さらに,わたしたちが他者に名を得させる場合もあります。サウルとその一党は中傷によってダビデの名を汚しました。ダビデは自作の幾つもの詩により,神の名を高めました。エホバは,ダビデが自分のために良い名を得ることを可能にされました。神を代表すると唱える人の中には,宗教上の偽りや反道徳的な行為によって神のみ名を汚す人がいます。真の崇拝者は自らの言動により神の名を高め,そうすることによってエホバ神のみ前で自分たちのために良い名を得るのです。―詩 64:1-6。歴代上 17:8。エゼキエル 36:20-23。

      2 伝道之書の中には,一見奇妙と思えるどんな記述がありますか。その後にどんな助言が続いていますか。

      2 聖書の伝道之書の中には,ある読者にとって非常に奇妙な記述と思えるような一節があります。そこにはこう書かれています。「良き名は良き油にまさり,死ぬる日は生るる日にまさる」。どうしてこのようなことがあり得るのでしょうか。死が生にまさることがどうしてあるのですか。もしどちらかを選択するとしたら,命を終わらせるより生き始めるほうを選ぶのではありませんか。ではこの節を,後に続く幾つかの節と共にもう一度読んでみましょう。

      「良き名は良き油にまさり,死ぬる日は生るる日にまさる。悲しみの家にはいるのは,宴会の家にはいるのにまさる。死はすべての人の終わりだからである。生きている者は,これを心にとめる。悲しみは笑いにまさる。顔に憂いをもつことによって,心は良くなるからである。賢い者の心は悲しみの家にあり,愚かな者の心は楽しみの家にある。賢い者の戒めを聞くのは,愚かな者の歌を聞くのにまさる。愚かな者の笑いはかまの下に燃えるいばらの音のようである。これもまた空である」― 伝道 7:1-6,口語訳。

      3 (イ)ここで述べられているのは古代イスラエルのどんな習慣ですか。そうした時にどんな考えは大きな慰めとなりますか。(ロ)ここで言及されている名が良い名であることはどのようにして分かりますか。

      3 これで,死ぬ日が生れた日に勝るという奇妙な記述の意味がはっきりするのではないでしょうか。これらの言葉が語られた状況や背景について知るなら,確かにはっきりしてきます。この記述は古代イスラエルの習慣と関係があります。ある家で,愛されていた人が亡くなった場合,その住まいは悲しみの家となりました。友人や隣人たちがやって来て哀悼の言葉を述べるのが当時の習慣でした。愛されていたその人が神のみ前で良い名を得ていたのであれば,その人の死の日が生れた日に勝るという考えは大きな慰めになったことでしょう。原語のヘブライ語では,この段落の第1節は確かに「良き名」ではなく,ただ「名」となっています。a それでも,この名は良い名と理解されるべきものです。同じような例が次の箴言 22章1節(新)に見られます。「豊かな富よりも,名を選ぶべきである」。幾つかの翻訳では,それがどんな名のことかを示すために「良い」という形容詞を補っています。b 箴言の場合も伝道之書 7章1節の場合も,この名とは当然良い名を意味しています。そうでなければこれらの記述は全く意味を成しません。

      4 わたしたちは死に際して,生まれた時にはなかったどんなものを得る場合がありますか。なぜですか。

      4 良い名であれ悪い名であれ,わたしたちは生きている限り自分自身のために名を得ます。もしわたしたちの行動が神の観点から賢明なものであれば,神のみ前で自分のために良い名を得ることになります。しかしそれには時間がかかります。生れ出たその日に,わたしたちは何かの名を得るほど長い時間生きるわけではありません。さらに,わたしたちはアダムの罪の下に生まれ,死を宣告されています。(ローマ 5:12)したがって,幾年か経た後の死の日にわたしたちが神のみ前で良い名を得ているのであれば,生れた日にはなかった何かを所有していることになります。わたしたちは,キリストの王国の下で神が死者を命によみがえらせる時に思い出してくださるような名を得ているのです。「義なる者の思い出は祝福を得ることになり,邪悪な者たちの名は腐る」― 箴 10:7,新。

      悲しむ人は益を受ける

      5 悲しむ人は悲しみの家の中に座って何を深く考えるかもしれませんか。

      5 しかし古代イスラエル人が遺族を慰めるために悲しみの家へ行く時には,その当人も益を受けました。幾つかの節を読み返してこの点を考えてみましょう。「悲しみの家にはいるのは,宴会の家にはいるのにまさる。死はすべての人の終わりだからである。生きている者は,これを心にとめる」。(伝道 7:2,口)この人は無神経に自分自身の快楽を追求するのではなく,後に残された人々に親切な態度で同情心を示しますが,それだけにとどまらず,この家で人が亡くなったこと,それは何も異常な出来事ではないこと,死は万人に臨むこと,それは自分にも臨むことなどを思い巡らします。死が臨む時,自分の死の日は自分の生れた日より勝ったものとなるだろうか。自分の死ぬ日には神のみ前で良い名を得たと言えるほど,自分は一生涯賢明に行動するだろうか。生きている者は,変化する時間があるうちにそのことを心にとめなければなりません。良い名は,臨終の時のわずか数分間の悔い改めでは得られないからです。

      6 この場合,悲しみが笑いに勝っているのはなぜですか。

      6 「悲しみは笑いにまさる。顔に憂いをもつことによって,心は良くなるからである」と記述は続きます。(伝道 7:3,口)あさはかな浮かれ騒ぎに時間を取られるよりも,自分の人生を吟味し,過去の過ちを直視し,犯してしまった間違いを悲しむ方が勝っています。そのようにすれば心は向上し,自分の生き方を変化させて,信頼の置けない愚か者のように笑って暮らすのではなく,賢明に振る舞い始めるように動かされます。「賢い者の心は悲しみの家にあり,愚かな者の心は楽しみの家にある」のです。―伝道 7:4,口。

      7 (イ)このことから,悲しむ人はどんな心境になる場合がありますか。(ロ)愚かな者の笑いが,かまの下のいばらの音に似ているのはなぜですか。

      7 さらに,「賢い者の戒めを聞くのは,愚かな者の歌を聞くのにまさる」と述べられています。(伝道 7:5,口)葬式の時のように,死と接するのは厳粛な経験であり,人はその機会に自分自身の生き方を顧みるようになるはずです。それに,賢明な助言者の言葉に聞き従う心境になるかもしれません。批判は,親切に与えられた場合でさえ耐え難いものですが,それでも「愚かな者の賛美」つまり歌を聞くよりも勝っています。(新英訳聖書)聖書の中に含まれている賢明な戒めについて聞き,その戒めに注意を払うなら,わたしたちは神のみ前で良い名を得ることができます。愚かなへつらいの言葉に耳を傾けて時間を浪費してしまうのはむなしいことです。「愚かな者の笑いはかまの下に燃えるいばらの音のようである。これもまた空である」。(伝道 7:6,口)料理用のかまの燃料にいばらを使っても,何の役にも立ちません。やかましい音をたてて炎は燃え上がりますが,すぐに火の勢いは衰え,いばらは灰と化してしまいます。いばらには,肉が煮えるまで燃え続けるような十分な物質が備わっていないのです。これ見よがしのやかましさは愚者の笑いと同じく無益なものです。それは永続的な価値のある事を何一つ成し遂げられません。

      さらに奇妙な記述

      8 より深い理解を踏まえた上で,どんな教訓を今認めることができますか。

      8 さて,このような深い理解を踏まえた上で,「死ぬる日は生るる日にまさる」という記述にもう一度戻ってみましょう。これがもはや奇妙な記述ではなく,神のみ前で良い名を得るためにどう生きるべきかに関する力強い教訓であることが分かってきました。それで死ぬ日は生れる日に勝っているのです。もとよりそれは,わたしたちの死ぬ日が訪れたならばの話です。「なんですって? わたしたちの死ぬ日が訪れたならばの話ですって? では死が訪れないことがあるというわけですか。それは死が誕生に勝るという記述以上に奇妙な言葉ですね」,と声を上げる人がいることでしょう。

      9 どんな状態をあなたの目は見ていますか。その目は実際に何を見るはずですか。

      9 これも,わたしたちの住んでいる時代を理解しているかどうかの問題です。あなたは見る目を,本当に見る目をお持ちですか。今の時代が危機的で対処しにくい時代であること,多くの人々が自己中心的でごう慢なこと,結婚生活が破綻をきたし,家庭が崩壊していること,あらゆる所で詐欺やうそや暴力犯罪が見られること,クリスチャンと唱える人の多くでさえ偽善的であることなどをみなさんは見ておられるに違いありません。しかしあなたの目はこうした事柄の意味を見ていますか。その意味についてテモテ第二 3章1-5,13節は次のように述べています。

      「しかし,このことを知っておきなさい。すなわち,終わりの日には,対処しにくい危機の時代が来ます。というのは,人びとは自分を愛する者,金を愛する者,うぬぼれる者,ごう慢な者,冒とくする者,親に不従順な者,感謝しない者,忠節でない者,自然の情愛を持たない者,容易に合意しない者,中傷する者,自制心のない者,粗暴な者,善良さを愛さない者,裏切る者,片意地な者,誇りのために思い上がる者,神を愛するより快楽を愛する者,敬神の専念という形を取りながらその力において実質のない者となるからです。こうした人びとからは離れなさい。しかし,邪悪な者とかたりを働く者とはいよいよ悪に進み,惑わしたり惑わされたりするでしょう」。

      10 あなたの耳は何を聞いていますか。その耳はさらに何を悟らなければなりませんか。

      10 あなたは聞く耳を,本当に聞く耳をお持ちですか。1914年以来世界を悩ませてきた戦争,ききん,地震,疫病などについてあなたは聞いておられるに違いありません。全世界をむしばんでいる道徳の崩壊のこともご存じでしょう。エホバの証人による,キリストの王国に関する良いたよりの全世界的な伝道の業についても,またその千年王国が近いことをふれ告げたゆえに彼らの上に押し寄せた迫害の波についても聞いておられるでしょう。しかしあなたの耳はこうした事柄の意味について聞いていますか。弟子たちがイエスに向かって,「わたしたちにお話しください。そうしたことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」と尋ねた際,イエスが前述の事柄を終わりのしるしとして予告されたという真理をあなたの耳は捕らえていますか。―マタイ 24:3。

      11 あざける者たちは何と言いますか,そしてそのことは何を示すものですか。

      11 あなたの心はこのすべてが意味するものに対して敏感ですか。それとも耳にたこができてしまい,「こうしたことはすべて以前にも起こった」と言いますか。あざける人々がいるということ自体,わたしたちが「終わりの日」にいることを示す別のしるしとなっています。こうした人々が出ることについてはペテロ第二 3章3,4節で次のように予告されていました。「終わりの日にはあざける者たちがあざけりをいだいてやって来るからです。その者たちは自分の欲望のままに進み,『この約束された彼の臨在はどうなっているのか。わたしたちの父祖が死の眠りについた日からも,すべてのものは創造の初め以来と全く同じ状態を保っているではないか』と言うでしょう」。

      新しいもの

      12 世界の歴史において新しいものが現在ありますか。

      12 しかし,わたしたちの惑星の全域に及ぶ汚染を考えてみるなら『すべてのものは創造の初め以来と全く同じ状態を保っているのではない』ことに気付かれるでしょう。あなたの心はそうした事実に敏感であるに違いありません。人間が,人の住める惑星としての地球を破壊するだけの力を備えたことはこれまでありませんでした。人間は今その力を手中に収め,まさにそうした事柄を行なうために現在その力を用いつつあるのです。科学に携わる人々は,全人類に祝福となるはずの科学工業技術を企業経営者たちに与えましたが,その祝福も,そうした技術が環境を汚染し,死をきたす病気が地球に忍び寄るに及んで,のろいと化してしまいました。わたしたちの吸う空気は有毒物で汚染されるようになり,食物を生み出す土壌には毒物が染み込み,飲料水を提供する多くの川や湖は瀕死の状態にあり,広い海も国際的な汚水溜めと化しつつあります。

      13 しるしのどんな点についてあざける者たちは,「それは以前にもあった」と言うことはできませんか。

      13 あなたの心は,命を支える地球の能力が危機に瀕していることやそうしたことが以前には一度も起こらなかったこと,そしてあざける者たちもこの事実を歴史は繰り返すという言葉で片付けるわけにはゆかないことを認めていますか。あざける者たちはそうしたいと思うかもしれません。というのは,地球を破滅させるということも「終わりの日」のしるしの一部として予告されていたからです。聖書の啓示の書は今から19世紀ほど前にこの点を明らかにし,その11章18節でこう述べています。「諸国民は憤り,あなたご自身の憤りも到来しました。また,死んだ者たちを裁き……あなたの名を恐れる者たち(に)報いを与え,地を破滅させている者たちを破滅に至らせる定めの時が到来しました」。

      14 イエスの時代の大部分の人が警告に留意しなかったのはなぜですか。そして現代の大部分の人が警告に留意しないのはなぜですか。

      14 あなたの目が実際に見,耳が実際に聞き,心が無感覚になっていないのであれば,わたしたちが「終わりの日」に住んでいて,この邪悪な事物の体制の終わりが近付いていることを悟るでしょう。しかしながら人類の大部分は,イエスの時代の大部分の人々がイエスの警告の音信を理解しなかったように,このことを理解していません。当時イエスが,イザヤの預言を引用して彼らに語られたことは,現代の人類にも当てはまります。

      「わたしが例えを使って彼らに話すのはこのためです。彼らは見ていてもむだに見,聞いていてもむだに聞き,その意味を悟ることもないからです。イザヤの預言は彼らに成就しています。それはこう述べています。『あなたがたは聞くには聞くが,決してその意味を悟らず,見るには見るが,決して見えないであろう。この民の心は受け入れる力がなくなり,彼らは耳で聞いたが反応がなく,その目を閉じてしまったからである。これは,彼らが自分の目で見,自分の耳で聞き,自分の心でその意味を悟って立ち返り,わたしが彼らをいやす,ということが決してないためである』」― マタイ 13:13-15。

      15 今だれが,どんな希望を抱いて喜べますか。

      15 その次の節でイエスはご自分の追随者たちに,「しかし,あなたがたの目は見るゆえに,またあなたがたの耳は聞くゆえに幸いです」という言葉を付け加えられました。今日,わたしたちが「終わりの日」に住んでいることを見る目と聞く耳と理解する心を持つ人々は,本当の意味で幸福になれます。「これらの事が起こり始めたなら,あなたがたは身をまっすぐに起こし,頭を上げなさい。あなたがたの救出が近づいているからです」とそうした人々は告げられているのです。(ルカ 21:28)「終わりの日」に住んでいる人の中には,自分の死の日を迎える必要のない人たちがいることでしょう。イエスは現代をノアの時代になぞらえられました。ノアとその家族が,その邪悪な世を滅ぼした洪水に際して保護されたと同じように,今日でも賢明に行動して神のみ前に良い名を得る人々は,エホバ神がハルマゲドンの戦いにおいてこの邪悪な事物の体制を滅ぼされる時も死を見ることはありません。したがって,自分の死を決して見ない人がいると言っても,不可能なことを述べているのではありません。むしろそれは,神から与えられる希望の表明なのです。

      16,17 人々はどんな事実を直視するのを嫌いますか。わたしたちにとって現在非常に重要なことは何ですか。

      16 古代イスラエルでは,自分の寿命はまだ残されているのだから,これから神のみ前で良い名を得ればよいと考える人がいたかもしれません。人は,自分が明日にも死ぬかもしれないという事実に気付きません。他の人がそうなっても自分はそうならないと思っています。自分よりも若いほかの人が死ぬことがあっても自分は例外なのです。いつでも,これから数年間は生きられると考えています。そのような考え方は,人間にありがちな危険な思い違いです。古代イスラエルの人の場合にもそれは危険な思い違いだったことでしょう。しかし現代のわたしたちにとってはなおさら危険な思い違いです。わたしたちが生活しているのは,70ないし80年といった普通の寿命を全うできるような正常な時代ではありません。わたしたちは「終わりの日」に住んでいるのです。一つの事物の体制が滅亡する時が近付いています。エフェソス 5章15-17節の次の言葉に留意するのは,極めて重要なことです。「ですからあなたがたは,自分の歩き方をしっかり見守って,それが賢くない者ではなく賢い者の歩き方であるようにし,自分のために,よい時を買い取りなさい。今は邪悪な時代だからです。それゆえ,もはや道理をわきまえない者となってはなりません。むしろ,何がエホバのご意志であるかを見きわめてゆきなさい」。

      17 死の日が訪れる前,命がある今こそ,神のみ前で良い名を得る時なのです。

  • 今,良い名を得てください!
    ものみの塔 1981 | 5月15日
    • 今,良い名を得てください!

      「あなたの手の見いだすなすべきことは,すべて力の限りを尽くしてこれを行なえ。シェオル,すなわち,あなたの行こうとしている場所には,業も企ても知識も知恵もないからである」― 伝道 9:10,新。

      1 いつわたしたちは神のみ前で良い名を得なければなりませんか。

      「でも,わたしが生きているうちに終わりが来ないとしたらどうですか。幾世紀も前から人々は自分が生きているうちに終わりが来ると考えていたのに,それは来ませんでした」という意見についてはどうですか。その期待が実現しなかったとはいえ,それら多くの人々の生涯は,神のみ前で良い名を得,神のみ子に信仰を働かせる時となりました。それは「終わりの日に」永遠の命によみがえらされるためです。(ヨハネ 6:40; 11:24)今の「終わりの日」のはるか前に,使徒パウロは,「今からのち,義の冠がわたしのために定め置かれています」と言うことができました。人がどんな時代に生きていようと,また世の終わりが近かろうと遠かろうと,自分の命がある時こそ良い名を得るべき時なのです。―テモテ第二 4:8。ヘブライ 11:4-38。

      2 (イ)物質的なものにせよ他の物にせよ,わたしたちが死ぬ時に持ってゆけるものが何かありますか。(ロ)ですからどんな諭しは適切だと言えますか。

      2 「母の腹から出たときと同じように,人は裸で再び去って行く。来たときと同じである。その骨折りに対して,人はその手で持ってゆけるものを何も運び去ることができない」。(伝道 5:15,新)物質的な面について言えば,死人が「その手で持ってゆける」ものは何一つありません。それでも,今の人生のうちで永続的な価値を持つ唯一のもの,つまり神のみ前における良い名だけは持ってゆくことができます。わたしたち一人一人が生きている時,それが神のみ前で良い名を得るべき時なのです。その時間を活用してください。その時間を取り戻し,買い取ってください。「あなたの手の見いだすなすべきことは,すべて力の限りを尽くしてこれを行なえ。シェオル,すなわち,あなたの行こうとしている場所には,業も企ても知識も知恵もないからである」。この事物の体制の終わりに位置し,生きている人々の多くが死を見ないですむ今は特に,クリスチャン活動においてわたしたちの手の見いだすなすべきことを力を込めて行なう時です。―伝道 9:10,新。

      3 何に関する正確な知識は重要ですか。その知識は何を成し遂げることができますか。

      3 神のみ前で良い名を得ようとするのであれば,わたしたちは正邪という二つの範ちゅうに関心を持たなければなりません。よこしまな行ないをやめ,正しいことを行ない始めなければなりません。どのようにしてそうするのでしょうか。思いが関係するようにならなければなりません。「この事物の体制に合わせてはなりません。むしろ,思いを作り直して自分を変革しなさい」とパウロは述べています。(ローマ 12:2)パウロはこの定則をエフェソス 4章23節で,『あなたがたの思いを活動させる力において新たにされなければならない』と繰り返しています。この力については,コロサイ 3章9,10節に次のように示されています。『古い人格をそのならわしとともに脱ぎ捨て,新しい人格を身に着けなさい。それは,正確な知識により,またそれを創造したかたの像にしたがって新たにされてゆくのです』。思いを活動させ,思いを作り直させ,神の恵みへとあなたを導く力は,神のみ言葉である聖書に関する正確な知識です。

      4 悪行をやめるだけでは万全でないのはなぜですか。ほかにどんなことを行なわなければなりませんか。

      4 してはいけない事柄をき然とした態度で絶とうと頑張っても,いつもうまくゆくわけではありません。しばらくの間そうした事柄を絶つことに成功した場合はどうでしょうか。それでもまだ安全ではありません。イエスはこのことを例えによって示されました。ある汚れた霊がその「家」である人を離れ,後でそこに戻って来ました。家にだれも住んでいないのを見て,その霊は別の七つの霊を引き連れて中に入りました。「こうして,その人の最終的なありさまは最初より悪くなります」。(マタイ 12:43-45)邪悪な霊を家から一掃するだけでは万全ではありませんでした。邪悪な霊が再び入り込めないようにするには,良いものでそこを満たすことが必要でした。よこしまなことを行なうのをやめ,空白の状態を作り出すだけでは万全ではありません。正しいことを行ない始めなければならないのです。自分を善行で満たし,悪行を締め出すのです。「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば,彼はあなたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば,神はあなたがたに近づいてくださいます」とヤコブは述べました。(ヤコブ 4:7,8)怠惰は,サタンを招じ入れるようなものです。思いを真理で満たしておくのは保護となります。―フィリピ 4:8,9。

      手引きの必要性

      5 多くの人が,聖書を読んでもむずかしく感じるのはなぜですか。19世紀前のある人は,この問題をどのように解決しましたか。

      5 今は宗教界にも哲学界にも,正邪に関して迷路のような相矛盾する意見が存在しています。研究の一環として聖書を読もうとする人もいますが,難解な本だと感じます。そういう経験をするのは彼らが最初ではありません。19世紀前のこと,一人のエチオピア人が兵車に乗ってイザヤ書を読んでいました。「フィリポ[福音宣明者]は並んで走り,彼が預言者イザヤの書を声を出して読んでいるのを聞いて,こう言った。『あなたは自分の読んでいる事がらがほんとうにわかりますか』。彼は言った,『だれかが手引きしてくれなければ,いったいどうしてわかるでしょうか』」。フィリポはその兵車に乗り込み,一緒に走りながらその宦官を手引きしました。―使徒 8:26-35; 21:8。

      6 現代の“フィリポ”を見いだせるのはどこであり,どこではないでしょうか。

      6 神のみ前で良い名を得る生き方を聖書から見定める点で他の人を手引きする資格を備えた,現代の“フィリポ”はどこにいるでしょうか。人々が考えるような,キリスト教世界に属する既成の,重んじられている正統的な宗教の中にいるのではありません。フィリポは高名な書士でもパリサイ人でもなく,白眼視され,中傷され,迫害を受けていたクリスチャンでした。歴史の教訓が教えるところによると,人々に受け入れられている既成の宗教組織は,しばしば人間の哲学のえじきになり,神の言葉を不純なものにしたという罪を負っています。

      7 (イ)古代のイスラエルはどんな方法で神の言葉を不純にしましたか。(ロ)現代のキリスト教世界のある教会や教会員は,どの程度までイスラエルに似ていますか。それはどの聖句に違反していますか。

      7 イスラエル国民にはエホバの律法がありましたが,彼らはバアルの性崇拝というみだらな偶像礼拝を付け加え,それを森や高き所で行なって自らの崇拝を不純なものにしました。歴代志略下 33章17節はこの混合について言及し,こう述べています。「それでも,民はなおも高き所で犠牲をささげていた。ただし,それは彼らの神エホバに対してであった」。真実のものと偽りのものとのこの混合については,エリヤもイスラエルに対し次のように決定を促しています。「あなた方はいつまで,二つの異なった意見の間でのろのろしているのですか。もし,エホバが真の神であれば,これに従って行きなさい。しかし,もしバアルがそうであれば,それに従って行きなさい」。(列王上 18:21,新)今日の教会や教会員の多くは,ポルノ,不義の性関係を扱った映画,婚前交渉,姦淫,同性愛行為などを大目に見,神から禁じられているこうした事柄を許容し,それらをならわしとするところまで行っています。―ローマ 1:26,27,32。コリント第一 6:9,10。啓示 21:8。

      8 バビロンの捕らわれから帰還した時,ユダの国はどんな新しい方法で神の言葉を不純なものとし,またむなしくしましたか。

      8 このようなみだらな行為のために,ユダ王国はバビロンに捕らえ移されました。帰還した後もユダはまた神の言葉を不純なものにしましたが,今度は性を崇拝する偶像礼拝によってではなく,人間の伝統や哲学を加えることによってそうしたのです。イエスはこの点に関し,彼らの宗教体制すなわち書士とパリサイ人を非難し,こう宣告されました。「あなたがたも自分たちの伝統のゆえに神のおきてを踏み越えているのはどうしてですか。偽善者よ,イザヤはあなたがたについて適切に預言して言いました,『この民は口びるでわたしを敬うが,その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを崇拝しつづけるのはむだなことである。人間の命令を教理として教えるからである』」― マタイ 15:3,7-9。

      9 どんな効果的な方法で,パウロは欺きを行なうぶどう酒売りと不忠実な宗教家とを比べていますか。

      9 パウロは,「わたしたちは恥ずべき隠れた事がらを捨て去ってしまい,こうかつに歩むことなく,また神のことばを不純にすることもありません」と述べ,人間の哲学によって神の言葉を汚すことを非としました。人をだます当時のぶどう酒売りは,量を増やし多くの収益を上げようとして安物の酒を混ぜることやぶどう酒に水を加えることもよくしました。同様に宗教家の中には,人間の伝統や哲学を神の言葉に加え,それを世の人の耳に快く響くようにする人がいました。しかしパウロはそうではありませんでした。「わたしたちは,多くの人のように神のことばを売り歩く者ではなく,誠実さから出た者,そうです,神から遣わされた者として,神の見ておられるところで,キリストとともに語っているのです」とパウロは言明しています。―コリント第二 4:2; 2:17。

      10 パウロはどんな警告を与えましたか。その警告が誤っていなかったことはどのように明らかになりましたか。

      10 パウロはキリスト教から背教者が出るという警告を与えていましたが,西暦4世紀になって,キリスト教はローマ皇帝コンスタンティヌスによって著しく不純にされました。(使徒 20:29,30)その結果,エジプトやバビロンに起源を持つ悪魔的な教理,例えば三位一体,霊魂不滅,地獄の火,煉獄,死者のための祈り,ロザリオの使用などの教理とキリスト教との融合が見られました。これらの教理は聖書にはありませんが,いわゆるキリスト教の教会の信条の中に組み入れられています。それらの教理は現代まで続いています。さらにキリスト教世界の今日の現代的な教会は,神の言葉を一層不純なものにしています。聖書の信頼性をなしくずしに打ち壊そうとする高等批評や,神が天と地と命の創造者であられることを否定する非科学的な進化論という理論を加えているのです。

      11 安全な手引きとしての現代の“フィリポ”を特色づけるのは,どんな異なった特質と確信ですか。

      11 では安全な手引きをする現代の“フィリポ”はだれでしょうか。それは,聖書が神の霊感を受けた言葉であることを信じ,それを足のともしび,道の光とし,それに何を加えることもそれから何を取り去ることもせず,たとえ『すべての人を偽り者』とするとしても神とその言葉を真実とし,『証しのため全地で王国のこの良いたよりを[公に]宣べ伝える』ために身を費やす人々です。(テモテ第二 3:16。詩 119:105。申命 4:2。ローマ 3:4。マタイ 24:14)彼らは権威あるものとして聖書を用い,彼らの言葉ではなく,神の言葉のみを信じ,彼らの話す事柄を調べるよう,聞く人々に勧めます。(使徒 17:11)神のみ前で名を得るためには,こうした忠実な導き手になり,「あなたがたのうちにある希望の理由を問う人のだれにも,その前で弁明できるよう常に備えをし……柔和な気持ちと深い敬意をもってそうする」ことを目標としなければなりません。つまり,パウロが述べているように,「ひとりひとりにどのように答えるべきかがわかるようにな(る)」のです。―ペテロ第一 3:15。コロサイ 4:6。

      わたしたちが目指すべき人格

      12 ただ神の言葉を学んで,それを他の人に伝えること以上に大きな意味を持つものは何ですか。

      12 神のみ前で良い名を得るには,研究して答えを知るだけでは不十分です。この知識をまず自分に当てはめなければなりません。個人的に益を得るためには,それを個人的に受け入れなければなりません。古代イスラエルの悲しみの家にいた人と同じように,『それを心にとめ』なければなりません。(伝道 7:2,口)「それであるのに,ほかの人を教えているあなたが,自分を教えないのですか。『盗んではいけない』と宣べ伝えているあなたが,自分では盗むのですか。『姦淫を犯してはいけない』と言っているあなたが,自分では姦淫を犯すのですか」。使徒パウロでさえ次のように述べています。「自分の体を打ちたたき,奴隷として連れて行くのです。それは,他の人たちに宣べ伝えておきながら,自分自身が非とされるようなことにならないためです」。(ローマ 2:21,22。コリント第一 9:27)これはわたしたちが行なっていること以上に根本的な事柄です。それはわたしたちがどんな人間であるかということです。「心の中の秘められた人」はどのような人ですか。『あなたはどんな種類の人になるべきですか』。―ペテロ第一 3:4。ペテロ第二 3:11,12。

      13 人々を評価することについてのサムエルの考えをエホバはどのように調整されましたか。

      13 わたしたちがどんな人間かを決めるのはわたしたちの外見ではありません。預言者サムエルは,エッサイの息子の一人に油をそそいでイスラエルの王とするため,エッサイのもとに遣わされました。サムエルは体つきのがっしりした長子を見て好ましく思いましたが,エホバはサムエルに次のように言われました。「その外見や丈の高さを見てはならない。わたしは彼を退けたからである。神の見るところは人の見るところと異なるからだ。人は目に見えるものを見るが,エホバは心がどうかを見るからだ」― サムエル前 16:7,新。

      14 外見は人を欺く場合のあることを示すどんな別の証拠がありますか。重要なことは何ですか。

      14 外見は人を欺きます。イエスは書士とパリサイ人が外見は義にかなっているように見えても,内側は腐敗していると述べました。(マタイ 23:3,27,28)パウロの時代のユダヤ人たちは割礼という外面的なしるしが自分たちを救うと考えましたがパウロはこう述べました。「外面のユダヤ人がユダヤ人ではなく,また,外面の肉の上での割礼が割礼でもないのです。内面のユダヤ人がユダヤ人なのであり,その人の割礼は霊による心の割礼で(す)」。(ローマ 2:28,29)パウロはまた,自分が成し遂げることのできる偉大な事柄を列挙した後で,「[もしわたしに]愛がないなら,なんの価値もありません」と付け加えました。神のみ前で良い名を得るために行なうどんなことであろうと,それは心からの愛を動機としたものでなければなりません。『わたし,エホバは心を探る』と聖書は述べています。―コリント第一 13:1-3。エレミヤ 17:10,新。

      15 わたしたちはどんな種類の人になるべきですか。

      15 ではわたしたちはどんな種類の人になるべきでしょうか。使徒パウロは,命じられている事柄と禁じられている事柄をかなり長く次のように列記しています。

      「あなたがたの愛を偽善のないものとしなさい。邪悪なことは憎悪し,善良なことにはしっかりとつきなさい。兄弟愛のうちに互いに対する優しい愛情を抱きなさい。互いを敬う点で率先しなさい。自分の務めを怠ってはなりません。霊に燃えなさい。エホバに奴隷として仕えなさい。希望によって喜びなさい。患難のもとで耐え忍びなさい。たゆまず祈りなさい。聖なる者たちとその必要に応じて分け合いなさい。人をよくもてなすことに努めなさい。迫害する者を祝福しつづけなさい。祝福するのであり,のろってはなりません。喜ぶ人たちとともに喜び,泣く人たちとともに泣きなさい。他の人たちのことを,自分自身に対すると同じような気持ちで考えなさい。高ぶった事がらを思わず,むしろ,へりくだった事がらを求めなさい。ただ自分の目から見て思慮深い者となってはなりません。だれに対しても,悪に悪を返してはなりません。すべての人の前によいものを備えておきなさい。できるなら,あなたがたに関するかぎり,すべての人に対して平和を求めなさい。わたしの愛する者たち,自分で復しゅうをしてはなりません。むしろ神の憤りに道を譲りなさい。こう書いてあるからです。『復しゅうはわたしのもの,わたしが返報する,とエホバは言われる』。悪に征服されてはなりません。むしろ,善をもって悪を征服してゆきなさい」― ローマ 12:9-19,21。

      16 わたしたちは何を避け,何を求めるべきですか。

      16 こうした種類の人にわたしたちはなるべきなのです。わたしたちの弱点ゆえに欠けているところに神の憐れみが働かなかったとしたら,恐ろしいことになります。ここに助けの偉大な源があります。つまり同じ目標を持つ人々と交わるのです。『賢い者たちと共に歩んでいる者は賢くなり,愚鈍な者たちと付き合う者は苦しい目にあいます』。「惑わされてはなりません。悪い交わりは有益な習慣をそこなうのです」。神の言葉を不純にする,偽りの宗教の不義の世界帝国から遠ざかってください。「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄をともに受けることを望まないなら,彼女から出なさい」。彼女の罪は天にまで達していますが,その良心には焼き金が押されて罪を感ずることがありません。文字通りの娼婦の場合と同じように,この女にも次の言葉が当てはまります。「これが姦淫を犯す女の道である。すなわち,その者は食べて,自分の口をふき,『わたしは何も悪いことをしなかった』と言った」。ですから,「ある人びとが習慣にしているように,集まり合うことをやめたりせず」,神のみ前で良い名を得ようとしている人々と交わることによって力を得るのは重要なことです。―箴 13:20,新。コリント第一 15:33。啓示 18:4。箴 30:20,新。ヘブライ 10:25。

      今がその時

      17,18 わたしたちは今どんなことに注意を集中すべきですか。これを延ばしてはならないのはなぜですか。

      17 サタンの邪悪な体制の終わりが近付いているのですから,『どんな種類の人になるべきか』ということに,わたしたちの思いを作り変えることに,古い人格を脱ぎ捨てて新しい人格を着けることに,そして神のみ前で良い名を得ることに注意を集中しましょう。それは『わたしたちの死ぬる日が生るる日にまさるものとなるため』です。(伝道 7:1,口)あるいは,地上のパラダイスを受け継ぐことを希望する人の場合には,その死の日が臨むことはないかもしれません。

      18 しかし,終わりがもう来てもいいころだと思う人がいるかもしれません。主はその到来を延期されたとお考えですか。神の王国の宣明という重要な業の手をゆるめ始め,知らないうちに不品行に陥るようなことさえありますか。終わりがいつ来ようと,今は,良い名を得ることにおいて,あなたの手の見いだすなすべきことを行なうべき時です。わたしたちのだれであっても,明日は死んでいるかもしれません。わたしたちは枯れゆく花,消えてゆく露,過ぎ去ってゆく影のようなものです。(ヨブ 14:1,2。ヤコブ 4:14)伝道之書 9章12節(新)は次のように警告しています。「人も自分の時を知らないのである。まさに災いの網に掛かる魚のように,わなに掛かる鳥のように,人の子らも災いの時に,それが突然彼らに襲うときに,わなに掛かる」。

      19,20 (イ)道徳的に清い生活を送ることに加えて,ほかのどんなことが求められますか。(ロ)今行動することが緊急な問題となっているのはなぜですか。

      19 わたしたちは,永遠の命を得るためにどうすればよいかを尋ねようとイエスのもとに来た青年以上のことを行なわなければなりません。この青年は道徳的には清い生活を送っていたようですが,それだけでは不十分でした。イエスはそれに加え,「来て,わたしの追随者になりなさい」と青年に告げられました。イエスは模範となっておられます。(マタイ 19:16-22。ペテロ第一 2:21)イエスは個人の生活において,行動の仕方に関する神のご命令を実践しただけでなく,他の人々に「王国の良いたより」を宣明されました。イエスは「あなたがたは悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」と言明され,「すべての都市や村を回る旅に出かけて,人びとの会堂で教え,王国の良いたよりを宣べ伝え」られました。(マタイ 4:17; 9:35)群衆がもっとイエスと一緒にいたいと考え,イエスを引き留めようとした時,イエスはこう語られました。「わたしはほかの都市にも神の王国の良いたよりを宣明しなければなりません。わたしはそのために遣わされたからです」。群衆が霊的に「痛めつけられ,ほうり出されて」いるのを見て,イエスは『彼らを哀れに思われました。彼らが羊飼いのいない羊のようであったからです。そして,彼らに多くのことを教え始められました』。(ルカ 4:43。マタイ 9:36。マルコ 6:34)イエスは「行って,『天の王国は近づいた』と宣べ伝えなさい」という指示を与えてから,使徒たちを宣べ伝える業に遣わされました。―マタイ 10:7,8。

      20 今わたしたちは,このサタンの体制の危機的な終わりの日に住んでいます。『残された時は少なくなっています』。「良いたより」を告げ知らせることは緊急な問題です。(コリント第一 7:29; 9:16)今は,『王国のこの良いたよりが,終わりが来る前に,人の住む全地で宣べ伝えられる』と予告されていた時です。(マタイ 24:14)この邪悪な体制に終わりをもたらすエホバの時がいつになろうと,次のことを片時も忘れてはなりません。命がある今こそ,予想できない死が臨む前の今こそ,「良いたより」を宣べ伝える業にあずかり,神のみ前に良い名を得るべき時なのです。

      [28ページの図版]

      どんな時代に生きていようと,命のある時が良い名を得るべき時である

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1981 | 5月15日
    • 読者からの質問

      ● 会衆の監督は「ひとりの妻の夫」でなければならない,とパウロは述べています。どんなクリスチャンにも重婚や一夫多妻は許されていないのに,パウロはなぜ監督の資格としてこの点を挙げているのでしょうか。

      テモテ第一 3章2節で,使徒パウロは,『したがって,監督は,とがめられるところのない人で,ひとりの妻の夫であり,習慣に節度を守……る人であるべきです』と記しています。「ひとりの妻の夫」という表現は,当人が性的な悪行に関して少しも後ろ暗いところがなく,結婚に関するクリスチャンの基準の模範になっていなければならないことを意味しています。

      イエスはご自分の弟子たちに神の最初の結婚の取決め,すなわち一夫一婦制を固守するよう指示されました。(マタイ 19:5,6)ですから,一夫多妻をやめなければ,だれもクリスチャンとしてバプテスマを受けることはできません。それでも,パウロが長老たちに関してこの点を強調したのはふさわしいことでした。ユダヤ人の間では一夫多妻が認められており,キリスト教が広まってゆく国々には一夫多妻が広く見られるかもしれなかったからです。会衆に交わる新しい人は,長老たちの模範から,クリスチャンの間で認められている取決めは一夫多妻ではなく一夫一婦制であることを悟れるようでなければなりません。

      しかし,「ひとりの妻の夫」という言回しはさらに多くを示唆しているとも考えられます。当時,道徳の緩んだ世相を反映して,離婚や再婚が手軽にまたひんぱんに行なわれていました。

      「ギリシャおよびローマの法律はいずれも,買収さえすれば容易に離婚できるようになっていたので,夫婦が別居し,互いが生きている間に他の人と結婚するのはごく普通のことであった。それゆえ,ひとりの人に生きている妻が三,四人いるという場合もあった。いやむしろ,いずれも次々にその人の妻となったことのある女性と言った方がよいかもしれない」。(コニーベアラーとホーソン共著,「聖パウロの生涯と手紙」)クリスチャンはそうであってはなりませんでした。配偶者が「淫行」(ゆゆしい性的な不道徳)を犯した場合にのみ,その人には離婚して別の人と結婚する自由がありました。(マタイ 5:32; 19:9)「ひとりの妻の夫」という資格は,聖書的な根拠なしに妻と離婚し,その後再婚したような人ではないという点で長老たちが模範を示すことを意味しています。

      学者たちの中には,テモテ第一 3章2節を長老は絶対に再婚できないという意味に理解している人もいます。しかし,すでにイエスが述べておられた事柄およびパウロがほかのところで書いている事柄の示すところによれば,再婚そのものは間違った行為ではありません。ですからそのために人がとがめのある者となり,会衆で長老として奉仕する資格を失うことはありません。やもめ(そして論理的に言って男やもめ)が情欲に燃えたり,何もしないでいて人のことに手出ししたりするよりは結婚した方がよい,とパウロが書いていることを思い起こすとよいでしょう。―コリント第一 7:8,9,36-39。テモテ第一 5:13,14。

      長老が「ひとりの妻の夫」であることは,重婚や姦淫に関しても潔白であるという考えをも伝えるものです。長老はその結婚生活において道徳的にとがめられるところ

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