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楽器の演奏によってエホバをほめ歌うものみの塔 1977 | 9月1日
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来たさないようにすべきです。それで,音楽の番組を準備するに際し自分の熱意や楽しみを制限するのは賢明なことではないだろうか,という疑問も生じるでしょう。
もちろん,気持ち良く聞ける音楽を演奏するためには,真剣さが必要です。しかし真剣になり過ぎると,往々にして霊的な益を得損ないます。楽器の演奏は個人研究や公の証しの業に代わるものではありませんし,オーケストラで演奏する楽しみが地域大会での主な喜びであってはなりません。長年,大きな大会で音楽の準備や指揮に携わってきた一人の人は,音楽に関連した活動のために,こうした大会からの霊的な益をいかに得損なったかを後になって初めて気付く,と語っています。平衡を保つことによって,そうした損失をできるだけ減らすことができます。
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どんな人の死を悼み,葬式をしますかものみの塔 1977 | 9月1日
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どんな人の死を悼み,葬式をしますか
「これまでに知られている人間集団の中で……何の儀式も行なわずに自分たちの中から出た死者を捨ててしまうような集団はない。それとは全く対照的に,自分たちの同類が死んでも,それを葬る動物はいない」。「生物の中で,自己意識と死の意識を発達させたのは人間だけである」。a これらの言葉はまさに至言です。―創世 23:3,4をご覧ください。
ソ連生まれの現代の科学者テオドシウス・ドブザンスキーの語ったこの言葉は,3,000年ほど昔に,ソロモン王が次のように述べた理由を明確にしています。「嘆きの家に行くことは宴の家に行くに勝る。それがすべての人の終わりだからである。生きている者はそれを心に留めるべきである」。そうです。わたしたちの内部には自己意識と死の意識があるので,人間は普通,友人や仲間の信者あるいは親族が亡くなると,何らかの宗教的儀式を行ないます。―伝道 7:2,新。
嘆きの家に行くほうがよいとのソロモンの言葉は,嘆きの家であればどこであってもそこへ行き,遺族と共に悲しむのがクリスチャンにとって正しく,またふさわしいということを意味していますか。あらゆる種類の人の死を嘆き悲しむのはふさわしいことですか。神のみ言葉である聖書はそれについて何と述べていますか。
聖書には,人の死を悼んだ例が数多く挙げられています。父イサクの死に際して,ヤコブとエサウがその死を嘆き悲しむのはふさわしいことでした。ヤコブは,愛児ヨセフが野獣に殺されたと思ったときに嘆き悲しみました。族長ヤコブ自身が亡くなったときには,その家族だけでなく,エジプト人たちまで大いに嘆き悲しみました。イスラエル人は自分たちの指導者であったモーセの死をいたく嘆きました。ヨシア王は無分別にも自ら介入した戦いで戦死しましたが,エレミヤおよびすべてのユダヤ人はその善良な支配者の死を大いに嘆きました。後代になって,人々は,ラザロ
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