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  • どうして神の存在を信ずるのですか
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1973
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1973
塔73 4/15 227–231ページ

どうして神の存在を信ずるのですか

あなたは神の存在を信じていますか。神の存在を信じている人の中には,そうでない人よりも自分のほうが「すぐれている」と自負する人がいます。しかし,仮にあなたが神の存在を信じていると唱えていて,その理由を説明するよう求められたとしましょう。あなたは神の存在を信じている理由をはっきりと説明できますか。

驚くべきことに,クリスチャンと称する人のほとんどはそうすることができません。中には,単に親が神の存在を信じていたからとか,そうするのが社会的に人気のある土地にたまたま今住んでいるからといった理由で,神の存在を堅く信じている人もいます。しかし,それでは,神の存在を信ずるよう他の人を納得させることにはならないのではないでしょうか。多くの人びと,いわゆる一部のクリスチャンの子どもたちさえ神の存在を疑うようになっている理由の一つは,信者が自分の確信している事がらを確信をもって説明できないという点にあります。また,率直に言って,神の存在を個人的に確信しているのでないかぎり,人は圧力を受けた場合,その信仰を固守することはまずできません。

神の存在に対する合理的な信仰は,わたしたちが理知を働かせて真実であると確定できる事実に立脚していなければなりません。しかし,昔の著述家が述べたように,『いまだ神を見し者』はいません。(ヨハネ 1:18)それで,神の存在を確信するには,わたしたちの信仰は観察される他の事物や個人的に積んだ経験に基づいていなければなりません。そうすれば,推理力を働かして,神の存在に対する攻め破られることのない信仰を培うことができます。

何が創造物を生み出したか

たとえば,際限がないように思われる星の輝く空や,数多くのさまざまな地上の生物を観察するとき,あなたはどんなことを考えますか。あなたは思わず,そうした事物の源について推論しますか。それは「結果」から「原因」を推論する思考方法です。存在している「結果」つまり創造物について論究すれば,その背後に何らかの「原因」がなければならないことが明らかになります。しかし,『どうしてその原因が神でなければならないのか』と問う人がいるのももっともなことです。それは単なる盲目的な偶然ではないのでしょうか。

では,経験が示すことを考えてみてください。時計について言えば,明らかにその存在の原因である製作者がいます。綿密に設計された時計は原因について何事かを,つまりそれは設計する能力を備えた理路整然とした思考の所産であることを明らかにしてはいませんか。それは知性のある実在者によって作られたのです。

ところが,人間はこの地上で印象的な天体を規準にして時計を合わせます。天体の運行の規則正しさや,この地上のある種の原子の振動を利用して,人間は今日,1秒を分数に分けたほんのわずかの時間まで正確に時計を調整できます。創造物に見られるこのような絶妙な設計もまた,知性の存在を示してはいませんか。それに,個性とは別個に存在する知性などというものをご存じですか。ですから,おわかりのように,原因と結果に関する法則を考えると,創造物はそれを造った者としての知性のある存在者つまり神が実在することを証拠づけていると結論せざるをえません。

同様に,生命そのものについてはどうですか。あなたは,生命がそれ以外の何らかの源から来たなどということをご存じですか。神の存在を疑う人たちは,この簡単な質問をなんとかして言い抜けようとします。しかし,そうしたところで,それと同じほど簡単で,しかも不可解な別の疑問に直面します。それは,ハル・ボーランドが「恒久的な型」と題する本の中で提起している次のような質問です。

「生命の起原を,今日の状態のもとでは起こりえないと認められている,化学的元素の偶然の結合として説明する者は,おそらくそれとは知らずに,そうした偶然の結合をもたらしたある力を頼りにしているのである。その力とは何だったのか。生命は宇宙空間のある遠い所から到来して原始時代の海洋に現われたと信ずる者は,当時どこか別の場所に生命が存在していたことを認めているのである。その生命はどこから来て,どのようにして存在するようになったのであろうか。生命の萌芽の源を核酸に求め,その萌芽の成分は同種のものを作り出すことができるという者は,そうした萌芽もしくは核酸はどこからその生命力を,あるいはそれが指令する型を得たのかはわからないということを認めている。その力やその型はどこに存在しているのか。もしそれが,そうしたつかみどころのない元素の結合する仕方のうちにあるとすれば,それらの元素はどうしてそのような仕方で結合するのであろうか。こうした疑問がしつようにつきまとうとともに,それはきわめて難解な問題である」―(1959年)244ページ。

わたしたちの知っている事柄に基づいて推論すれば,生命を生み出しうるのは生ける創造者だけであるとの結論を出さないわけにはゆきません。

良心はどこから来たか

神の存在に対する信仰はまた,人間の内にある良心を説明するのにも必要です。どうしてそう言えるのですか。この問題を簡単に調べると,その理由がわかります。

人間はいつ,またどこに住んでいようとも,正邪の観念を生まれながらに備えています。それは時には,人間の行動を導く道徳律または自然法とも呼ばれています。プリンストン大学のP・R・コールマン-ノートンの述べた次のことばはこのことを証言するものです。

自然の法則[つまり正邪の観念]は三つの特徴を備えていることがわかる。(1)普遍性。なぜなら,その教えはあらゆる時代にわたり,またあらゆる民族の間で常に同じだからである。(2)必然性。なぜなら,それは人間の理性を要求するものだからである。(3)不変性。なぜなら,いかなる人間的権威にも依存してはいないからである」。

しかしながら,ある人は自己の良心に従って,ある特定の行為を全く「正しい」と言い,別の人はそれをはなはだしい「誤り」と言う場合があるではないかと論ずる人がいるかもしれません。しかし,生来備わっている自然法は,いずれの社会においても同じ基本的な悪を終始一貫非としています。人類学者M・F・アシュレイ・モンターギュはこう評しています。

「殺人は一様に罪悪とみなされており,殺人犯が逮捕されて裁判に付されると,たいてい死刑を科される。…近親相姦を非とする規定は普遍的なものである。…私有財産は一様に尊重されている。不動産,動産,無体財産にかかわる個人の財産権は,読み書きの行なわれていない社会のすべてに存在する」―「人類学と人間性」(1957年),58,63,64ページ。

「近親相姦」として定義される厳密な関係の場合と同様,殺人と正当防衛のそれとの相違は明らかに種々の集団の中では少しずつ異なります。窃盗罪を律する明確な法律は,農耕社会と工業を主要産業とする社会とではやはり異なります。しかし,その基本的行為は常に悪と考えられています。(聖書のロマ書 2章14,15節と比べてください。)かつてロンドン大学で教えたR・W・ファースが次のように述べたのも不思議ではありません。

「原始的道徳律は多くの点で,文明の開けた複雑な社会に見られる道徳律とかなりよく合致する」。

事実,わたしたちの住んでいる20世紀の「文明の開けた複雑な社会」は,第二次世界大戦後のニュルンベルク裁判でナチの一部戦犯に対して有罪宣告を下すのに良心の法を用いました。それらの被告は,ナチ政府の法律と自分たちの行政上の上司に単に従ったにすぎないと弁解しましたが,「公正に関するより高い自然法」に従うべきであったとの判断が下されました。そして今日でさえ,無神論を標ぼうする中共にも,とにかく強力な道徳観念があるように思われます。というのは,その国は売春行為を一掃する処置を講じているからです。

こうした普遍的な自然法,つまり道徳律もしくは良心の法はどこからきましたか。立法者なしに存在するような法律をご存じですか。したがって,人類社会全体にとって明らかに益となり,またその存続をさえ図るのに貢献してきた自然法の立法者はきわめて倫理的な実在者であるに違いないと考えるのは,理にかなったことではないでしょうか。その倫理的な実在者は神です。

聖書に見いだされる,神の存在を証明する証拠

聖書もまた,神が存在することを証明する証拠となっています。それはどうしてですか。

聖書にはその多くの箇所に詳細な預言がしるされています。もし神が存在しないなら,それらの預言をどのように説明できるのでしょうか。その好例として,聖書はどうしてイエスの生まれる場所を何百年も前に予告できたのでしょうか。(ミカ 5:2。マタイ 2:1-6)その家系について(創世 22:15-18; 49:10。サムエル後 7:8-16。マタイ 1:1,2,6),またイエスがいつメシヤとして現われるかについて(ダニエル 9:24-27),どうして予告できたのでしょうか。確かにイエスはそうした要素をみずから制御することはほとんどできませんでした。ところが,それらの預言をはじめ,こうした性質の聖書中の他の何百もの預言が適中したのです。先見の明のある神が存在しないかぎり,どうしてそのようなことがありうるのでしょうか。将来を見通すそうした能力を持つ人はひとりもいません。

さらに,聖書が,その原則を実際に適用する人たちにもたらす事がらも,神が存在することを実証しています。物事を対照させると,この点を理解するのに役だちます。

今日,人類は数多くの問題に直面しています。永続する何らかの解決策なるものに関してでさえ楽観的な見方を取る人はほとんどいません。ある科学者は,「サイエンス」という名称の非常に保守的な雑誌の中で次のような結論を述べました。

「われわれが1980年まで生きられるかどうかという見込は,五分五分以下であるとさえ言えよう。…時間が短いのは,われわれのかかえている問題が典型的で,増大する性質を持っているためである」。

人種問題,軍備増強,犯罪,家庭崩壊などの事がらに関してあなたご自身が毎日の新聞でお読みになることは,この科学者の考察を確証しているのではありませんか。

それとは対照的に,200以上の土地や島々にいる150万人余のエホバの証人は,そうした同じ問題が自分たちの生活に影響を及ぼす場合,聖書の原則を問題に適用することに努めます。それはどんな結果をもたらしていますか。では,幾つかの実例を考慮してみましょう。

人種関係の点で,世の諸国民の間には真の改善が見られますか。多くの人は即座に『否』と答えます。どの大陸にも強力な人種的憎しみがみられます。しかし,エホバの証人に関しては次のようなことが述べられています。

「彼らがあらゆる人種の人びとに対して純粋の非常な敬意をいだいていることに私は感心させられている。人種上の兄弟関係という原則を口先だけで唱道している者たちとは異なり,証人たちは自分たちの社会にあらゆる人を皮膚の色や風さいにかかわりなく歓迎する ― それも,重要な指導的立場にさえそうするのである」―「聖書と宗教ジャーナル」G・ノーマン・エディー。

人間は何千年もの間努力してきた結果,戦争をやめさせることができましたか。ところが,武器は今や,かつてなかったほど大量に蓄積されているのではありませんか。答えは明らかです。しかし,聖書のイザヤ書 2章2-4節のことばを神からの命令と認めるエホバの証人は,『その剣をうちかえて鋤とし』ました。国家的な障壁は証人たちに憎しみをいだかせ,殺りくを行なわせるものとはなりません。1965年のサクラメント(カリフォルニア州)・ユニオン紙はその社説でこう述べました。

「もし全世界の人びとがエホバの証人の信条に従って生活するなら,流血や憎しみは絶え,愛が王として君臨するであろうと言うだけで十分である」。

さらに,世界の非常に多くの土地で犯罪が増大している一方で,法律をよく守るエホバの証人の行ないは評判になっています。ピスカタウェイ(ニュージャージー州)・クロニクル紙はこう報じました。

「エホバの証人が1950年に[大会のため]当地にいた時,証人たちと個人的に接したので,われわれは証人たちが町の法令をすべてできるかぎり忠実に守ろうとして一生懸命努力する人間であることを知っている」。

昨今,離婚や青少年の非行の比率は増大する一方ですが,品行の面でりっぱな家族がエホバの証人の特色となっています。「コッパーベルトのクリスチャン」と題する本は,アフリカのある土地の証人たちの家族をこう評しています。

「ものみの塔の団体の親たちは若い人たちを家庭で助ける点でさらに多くのことを行なっている。…われわれは,ものみの塔の団体の家族は異例なほどによく家族関係が調整されており,一致した幸福な家庭を築いていることを学び知った」。

そうです,エホバの証人はそうした問題や他の多くの問題すべてに運用できる解決策を見いだしました。しかし,人間の専門家で真の解決策を提出した人はひとりもいません。エホバの証人は聖書に従っているからこそ,成功を収めることができるのです。したがって,聖書は,非常に才能の豊かな人間よりもさらに高い源から来たものであるに違いありません。その源は神です。

信仰は人生に目的を付与する

真理を愛する人たちは,神が存在することを確信するのに役だつ,エホバの証人の知っている,説得力のあるもう一つの論法を悟れるでしょう。それはどんな論法ですか。

神の存在に対する信仰をいだいて初めて,人は人生に対して納得のゆく目的を持つことができます。

しかし,『どうしてそう言えるのだろうか』と,あなたは考えるかもしれません。神は死や苦しみに対して責任があるのではありませんか。それはどんな「納得のゆく目的」を人生に付与しますか。

聖書は,神が苦しみや死に対して責任を負っているとは教えていないことを,あなたはご存じでしたか。それとは全く逆で,聖書はその巻頭の書の中で,人間が自分自身に苦しみと死をもたらしたことを示しています。さらに聖書は,神が現行のような邪悪な状態の続くのを許すどころか,まもなくそうした状態を終わらせて,この地に楽園を回復させようとしておられることを示しています。これまでに死んだ人たちの多くは復活によって生き返らされるでしょう。しかし,神の存在に対する信仰をいだいて初めて,心を元気づけるそうした事がらを理解することが可能になるのです。―創世 3:3,17-19。伝道 7:29。ヨハネ 5:28,29。黙示 21:3,4。

一方,あなたは神の存在を信じてはいないとしましょう。では,何千年ものあいだ悪が続いてきたことの背後に,ある目的を認めて,悪が続いてきたことを何らかの満足のゆく仕方で説明できますか。仮にあなたのお子さんの祖母,あるいは若い学友のだれかがなくなったとしましょう。いったいどうして死などということがあるのかを,お子さんに納得のゆくように説明できますか。

神の存在に対する信仰の有無の相違を考慮する人たちは,シカゴ・トリビューン紙上次のように述べたある著述家と同様の結論を下すでしょう。

「人間をむなしい空間に漂う生物学的偶然の存在と見る,神を認めない世界観は,無情で,無益で,不条理な見方と言えよう」。

したがって,神の存在に対する信仰を受け入れるのは何と合理的なのでしょう。そうすれば,人生は目的を持つものとなりうるのです。

もちろん,あなたが神やこの地上の状態に関して疑問に思っている問題はほかにもあるかもしれません。では,エホバの証人が聖書から指摘して説明することを考慮してみてはいかがですか。神の存在に対する信仰を持ったなら,どんな益が得られるかについて個人的に説明してほしいとエホバの証人に尋ねてみてください。あなたの住んでおられる地区のエホバの証人のだれかを捜し出せないようでしたら,ものみの塔協会に手紙で連絡してください。そうすれば,だれかがあなたをお尋ねするよう取り計らうことができます。また,その奉仕は無償でなされます。

[229ページの図版]

時計について言えば,知性のある製作者がいます。時計を合わせる規準となる天体の場合もやはり,その造り手が存在するのではないだろうか

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