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  • 塔76 5/15 308–316ページ
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  • わたしたちは体制を変革できると考えていた
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1976
塔76 5/15 308–316ページ

わたしたちは体制を変革できると考えていた

多くの若い人々は変革が必要であると考えてきました。そうした若者に共感を持つかどうかは別にして,彼らがそのような物の見方をする理由を知るのは啓発を与えるものとなる点にお気付きになるでしょう。これは,変革をもたらそうとしていた一組の若い夫婦が,変革をもたらす唯一の方法をどのようにして見いだしたかを示す経験です。

水曜日の午後,シカゴのグラント公園に集まったわたしたちの仲間1万人余りは,自分の目を疑いました。近隣のビルの屋上に据えられた銃はわたしたちに向けられており,歩道には銃剣で武装した州兵が並び,至る所にヘルメットをかぶった警官が立っていました。それはなぜでしょうか。何が起きていたのですか。

それは1968年8月のことで,6㌔ほど離れた円形劇場では民主党の全国大会が開催されていました。わたしたちをシカゴに引き寄せたのはその大会です。大勢が集まれば,その大会で下される決定に影響を及ぼすかもしれないと希望していたのです。わたしたちは特に,ベトナム戦争を終わらせたいと願っていました。

しかし,ヘルメットをかぶった警官,それに機関銃や銃剣がなぜ必要だったのですか。

それは1968年8月のことでしたが,当時のことを思い出す方もおられるでしょう。米国は依然として戦争への介入を深め,北ベトナムを爆撃していました。戦争の段階的拡大を唱える政治指導者は少なくありませんでした。彼らは軍事面の勝利を求めており,中には,率直な平和唱道者たちを国賊呼ばわりする人もいました。

しかし,そうした武力の誇示は,全く不必要なもののように思えました。グラント公園に集まったわたしたちは武装しておらず,大半の者は米国の指導者たちが間違った助言に従っていると考えていたにすぎません。そして,円形劇場まで平和裏にデモ行進をする計画でした。ところが,その日わたしと女友達のジーンに加えられた仕打ちは,わたしたちの考え方全体を揺さぶり,生き方に大きな影響を及ぼしました。

「何もシカゴでデモをする必要はないだろう。どんな目に遭おうと自業自得だ」と言う人もいることは分かっています。

しかし当時,わたしとジーンは,自分たちのしていることは正しいと考えていました。もっとも,今ではそれが変革をもたらすための正しい方法ではないことが分かり,自分たちの行なったことを後悔しています。とはいえ,当時,幾千人もの,そうです幾万人もの若者がそれほど変革を熱望したのはなぜでしょうか。わたしの経験は,その理由を理解するのに役立つと思います。

明るい将来があるように見えた

わたしは,1947年に,米国ミネソタ州ミネアポリス市で中流階級の白人家庭に生まれました。一家は1952年にハワイへ引っ越し,父はそこで請負業者として成功を収めました。わたしたちは海に面した美しい家に住み,物質的に何不自由なく暮らしていました。アメリカという国は夢を実現できる国のように思え,将来は明るいように見えました。

わたしの生活は喜びをもたらすような事柄で満ちていました。例えば,フットボールの優勝チームでハーフバックをしたり,陸上競技をしたり,自分の家の裏庭とも言える青々とした太平洋で泳いだり,学校の生徒会活動に携わったりすることです。そして間もなく,米本土の大学に入学する計画を立てるようになりました。

厳然たる現実に直面する

わたしは,1965年9月に,米国マサチューセッツ州にあるウイリアムズ大学に入学しました。大学に入って読書や黙想の時間が増えるとともに,ある事柄がわたしを悩ますようになりました。ハワイでは様々な人種が平等に扱われることに慣れていましたが,本土では事情は異なっていました。

1966年の春休み中,シカゴ大学付属病院の理事であった兄を訪ねるため,飛行機でシカゴへ行きました。南シカゴのスラム街を車で通り抜けたとき,わたしは自分の目を疑い,「こんな状態で,人々はどうして生活できるのだろうか」といぶかりました。しかし,現に人々がそこで生活しており,その大半が黒人であるという事実に,わたしは深く考えさせられました。

わたしは黒人の考えを知りたかったので,数多くの自伝を含む,黒人の著書を読むようになりました。奴隷貿易,黒人が劣等人種としての扱いを受けたこと,公衆便所の使用を禁じられたこと,作り上げられた罪状やささいな犯罪のゆえにリンチに遭ったことなど,黒人の受けた不当な仕打ちについて読むにつれ,幾度となく目に涙が浮かんで来ました。わたしは憤りを感じ,事態を改善するためにどのようにしたら変革を実現できるかを思い巡らしました。

わたしは別の事柄,例えばベトナム戦争なども人種問題の見地から見るようになりました。新聞紙上で,アメリカ人がベトナム人を“土人”と呼んでいることを読み,相手が白人だったら,あれほど無造作に爆弾を落とすだろうかと考えました。また,いわゆる“軍需産業”が軍需品の生産から得ている膨大な利益に関する報道も耳にしました。こうした事柄は次のような疑問を引き起こしました。戦争の拡大の背後には,目じりの上がった東洋人を殺すことをいとわない,欲得ずくの人間が暗躍しているのではないだろうか。わたしがそう考えるようになったのは,大統領選挙の立候補者がそうした実業家から出る資金で選挙の費用をまかなっていることを知ったときからです。

ジョンソン大統領は,1964年の選挙戦で,ベトナムに平和をもたらすことを公約しました。ところが後日,同大統領が人々に約束したこととはうらはらに,戦争は日増しに拡大してゆきました。報道機関は,大衆を欺くために政府が多大の努力を払ったことを伝えており,“信頼感の欠如”は深まりました。こうしたことから,わたしたち若者の多くがもはや国の指導者たちを信頼できないと考えるようになった理由がお分かりいただけたでしょうか。

しかし,今や戦争の拡大と共に,大学生も徴兵の対象となりました。そのためわたしは,難しい決定を下すよう迫られることになりました。

徴兵にどう応ずるか

わたしは数か月間,次のような問題に悩まされました。自分は戦争を支持すべきだろうか。銃を取り,ベトナム人を殺すことなどできるだろうか。

最終的に,そうしたことはできない,という結論に達しました。わたしから見れば,戦争に参加してベトナム人を殺すことは間違った行為でした。次のように論ずる人がいることは分かっています。「お前はおくびょうな徴兵忌避者に外ならない。国が何かを命じるなら,それに従うのは,唯一の合法的かつ正しい事柄なのだ」,と。

その当時,わたしはこの問題を注意深く検討しました。そして,ニュルンベルクで裁判にかけられたドイツ人や後のアドルフ・アイヒマンなどが,自分は国の命令に従っていたにすぎないと論じて自分の犯した罪を弁解しようとしたことに気付きました。しかし,そうした人々は有罪宣告を受けて処刑されたのです。国家がそうした下劣な行為をするよう命じたとはいえ,彼らは自分たちの行動に対して責任を問われました。

わたしの考え方からすれは,米国民は同様の情況に置かれていました。男女子供にナパーム弾を浴びせ,彼らを焼き殺していることについてアメリカの新聞が伝える悲劇的な話は,ドイツの強制収容所でかまどを使って行なわれた大量殺りくと何ら変わりないように思えました。米軍が権力を保たせたも同然であった,ベトナムの指導者キ首相が,自分にとって英雄と言えるのはアドルフ・ヒトラーだけだと述べたとき,その考えはますます強められました。

体制を変革するための努力

軍隊の徴募に応じないという決定は,“大罪を逃れるための服罪”といったものではありませんでした。むしろ,わたしは自分の国を深く愛していたので,どうしたら国を良い方向へ変革できるかについて考えるようになったのです。わたしは,社会学者になれば,米国に見られる嘆かわしい人種問題だけでなく,国際問題をも解決するのに貢献できるのではないかと考えました。そこで1967年に,その分野へ進むのに必要とされる課程を履修するため,大学三年のときに,ハワイ大学に転校しました。

同校で,掲示板にはられた通知が目に留まりました。それは,民主社会のための学生連合(SDS)の集会に来るよう,ベトナム戦争に反対する人々に呼び掛けるものでした。当時わたしは,同級生で,一緒に反戦運動に加わろうとしていた,ジーンと知り合いました。

そのころまでには,新聞報道でさえ,戦争に関する政府の公式声明が人を欺くものであることを暴露していました。こうして,世論調査の示すところによると,1968年の初頭までに,それまで少数派であった戦争反対論者は多数派になり,体制を変革しようとするわたしたちの努力が,実際に成功するかにみえました。1968年3月31日,ジョンソン大統領が大統領選挙に再出馬する意志のないことを表明するに及んで,その見込みはいよいよ確かなものと見えました。ジョンソン大統領は,あたかも世論によって職を追われるかのようでした。

数日後,SDSの議長は,感情に訴える演説をし,戦争に対する抗議の表われとして,テレビカメラの前で自分の徴兵カードを焼き捨てました。わたしも他の学生たちと一緒になってそれに倣いました。今だったら,決してそのようなことはしないでしょう。この出来事は,その晩のテレビのニュースで大きく取り上げられ,翌朝の新聞にも載りました。

4月には,ニューヨーク市の反戦学生たちがコロンビア大学の建物を占拠し,同校を閉鎖しました。ハワイ大学では,ほとんど連日のように,学生たちが反戦のための学生大会を開いていました。そして5月に,公然と戦争反対を唱えていたオリバー・リー教授を大学側が罷免すると,学生たちは数日の間,学園の施設を占拠しました。

わたしとジーンは,リー教授の復職を求めてバックマン・ホールに立てこもった数百人の学生の中に入っていました。やがて警察は,テレビカメラのライトがぎらぎら輝く中で,わたしたちを排除しました。わたしたちは逮捕されましたが,翌朝,保釈されました。

数日後,夏休みになり,学生たちは散って行きました。これからわたしたちは何をしたらよいのでしょうか。その年は選挙の行なわれる年でしたから,米国人の目はシカゴで開かれる民主党大会に向けられていました。権力を握っている指導者たちに戦争を中止するよう圧力をかけ,肝心なところに変革をもたらすことができるでしょうか。当時わたしたちはそのように考えて,やってみることにしました。

“ミシガン街の大虐殺”

民主党大会のあった水曜日の出来事は,それ以来,“ミシガン街の大虐殺”と呼ばれるようになりました。幾百万もの人がテレビでその有様を見ました。連邦政府の調査は,それが「警察の暴動」であったとしています。また,警察が暴行を加えた相手は,「大抵の場合,どんな法律をも破らず,少しも秩序を乱さず,いかなる脅迫行為にも携わらなかった人々であった」ことにも言及しています。そして,わたしたちはその通りであることを断言できます。もっとも,中には警官に悪口を浴びせて警察を挑発した者がいたことは否めません。

警察が襲い掛かったのは,わたしたちがグラント公園で演説を聞いてから行進を始めようとしたときでした。わたしたちは催涙ガスを浴びて四方八方に逃げました。銃剣で武装した兵士が至る所に立っており,市の中心部へ入るための橋すべてを固めていました。わたしたちはやっとのことで守りの手薄な橋を見付け,そこを突破しました。

さらに大勢の人々が橋を突破して,ミシガン街にいたわたしたちに加わるにつれ,行進する人々の数は増加しました。行進が成功するかと思われたやさき,警官と州兵が行く手に立ちはだかり,催涙ガス,不能化学剤,そして警棒などを使って襲い掛かってきました。彼らとはち合わせになった者たちは,踏み付けられ,警棒で殴られた頭からは血が飛び散りました。前部に鉄条網を張り巡らしたジープが,群衆に向かってあたかもすきのように動き始めました。人々はもみくしゃにされてしまいました。わたしはジーンの手を取り,必死になって彼女を安全な場所に連れて行こうとしました。

わたしとジーンそしてジーンの妹は,やっとのことで警察の関門を突破し,騒乱地区から遠く離れた所まで走って逃げました。時刻は午後九時ごろになっており,空腹を覚えたので,レストランに入って食事を取りました。わたしたちは,ミシガン街の近くで電車に乗る以外に,宿舎へ帰る道を知りませんでした。

あきらめた理由

駅の近くまで来ると,角から警官の一隊が飛び出して来ました。「電車に乗りたいのですが」と言うと,警官はわたしたちを口汚くののしり,何もしていないのにつかみかかり,ジーンの妹が抵抗すると,彼女を警棒で殴りました。わたしたちは,犯人護送車にたたき込まれ,警察署に着くと,百人余りの仲間と共に,“タンク”と呼ばれる部屋に一晩中閉じ込められました。

翌朝,判事の前に出頭しましたが,判事はわたしに説明をする機会を全く与えず,目を上げてわたしの顔を見ようともしませんでした。わたしは良心的に服罪することができなかったので,その訴えが偽りであるのを証明することにしました。

一方,ジーンはハワイの学校に帰り,わたしは最終学年を終えるためにマサチューセッツに戻りました。その後数か月間,わたしは出廷するために度々飛行機でシカゴまで旅行しました。ところが,わたしを訴えるはずの警官は一回も出廷せず,判事はその度に審理を翌月に延期しました。数百㌦の費用を使った後,弁護士はこれ以上続けてもむだであると言いました。彼らは,わたしが出廷しなくなるまで同じことをいつまでも繰り返し,出廷しなくなったら有罪を宣告しようとしているのです。

こうした経験を通して,わたしはこの体制を変革することはできないと考えました。わたしは体制を変革しようとすることをあきらめ,『飲んで,食べて,愉快にやろう』という哲学に従うようになり,学校にもかろうじて卒業できる程度しか行きませんでした。ジーンがハワイからやって来て,わたしたちは同棲するようになり,麻薬の泥沼にはまり込んでゆきました。しかし,自己の快楽のためだけに生きる,こうした生活も満足をもたらすものではありませんでした。

どこかに希望があるだろうか

わたしたちは,自分たちの服装,外見,行動などによって,いわゆる“権力機構”なるものの偽善や不正に対する反抗を示しているつもりでした。しかし,生活様式,すなわち麻薬や男女の乱交などはより良いものでしたか。わたしはそのことを疑問に思うようになりました。多くの若者は結婚など時代遅れであると考えていましたが,性関係の相手を次々に変えてゆくことが彼らに真の幸福をもたらしてはいないと分かりました。わたしは自分とジーンがそうした事態に陥るのを望まなかったので,1969年の夏にわたしたちは結婚しました。

わたしは体制を変革しようとする努力がむだであると考えるようにはなりましたが,それでも人を助けたいと思っていたので学校の教師になることに決心しました。子供たちが特に助けを必要としている所へ行きたかったので,北フィラデルフィアの黒人スラム街の学校で三年生を教えました。

生徒の医療記録をよく調べてみると,大半の子供たちは栄養不良で,体重が標準以下であることが分かりました。多くの子は信じられないほど不健康で,混雑したところに住んでいるのです。すでに異性と不道徳な関係を持っている子のいることも知りました。幾人かの子は,親の命令で麻薬の密売に携わっていました。大半の子供たちは,2+3の足し算ができず,アルファベットの文字を読めませんでした。事態がこれほどひどいとは思いませんでした。事実,絶望状態のように見えました。あれほど尽力しても,永続的な益をもたらすことはほとんど何もできなかったと思うとやり切れない気持ちになります。報いが多くて,満足のゆく目的をどこに見いだせるでしょうか。

わたしたちは占星術,秘術,東洋の宗教などの研究に没頭しましたが,何ら満足のゆくものを見いだせませんでした。その後,たまたま,スタンフォード大学教授ポール・アーリックの著わした「人口爆弾」と題する本を読み,アーリック教授がフィラデルフィアを訪れたときにはその講演を聞きに行きました。同教授は,人類が環境を濫用し,地球の物事の処置を誤ったため,何をしてももはや手遅れで,人類は前代未聞の究極的な災いに直面している,と述べました。しかしわたしは,活発化する生態学の運動に希望を託せるのではないかと考えました。

反戦運動に関係したために味わった失意が忘れられなかったので,テンプル大学で開かれる生態学関係の団体の会合への招待にはためらいを感じながら応じました。たばこの煙の充満した部屋に入って,大気汚染の問題が討議されているのを聞いたとき,その運動は水泡に帰するであろうと感じました。とはいえ,わたしは生態学に関する数多くの本を読むようになり,生態学教育の修士課程に入りました。工業社会は間もなく崩壊すると確信していたので,その崩壊が起きた後の生活のための準備をし始めました。

父は,ハワイ島にシダの生い茂る,百エーカー(約40ヘクタール)ほどの処女林を所有していました。わたしたちはそこに,周囲の地域と生態学上のバランスの取れた,完全に自給自足のできる生活共同体を作る計画を立てていました。わたしたちはこの体制が滅びに向かっていると確信していたので,別の生活様式を真剣に探し求めていたのです。しかし,わたしたちの探し求めていた答えは,全く予想もしなかったところからもたらされるようになりました。

有益な変化をもたらす真の希望

学校が夏休みになり,弟のデービッドがハワイからやって来て,わたしたち三人は短いキャンプ旅行に出掛けました。僧職を生涯の仕事にするつもりでいたデービッドは聖書を携行し,毎晩,三人でかがり火を囲んだときに,選り抜きの章を読んでくれました。わたしたちは,ヨセフとその兄弟たち,そしてダビデとゴリアテに関する記述に耳を傾け,聖書が非常に興味深いものであることを知って驚きました。また,伝道の書を読んで,この事物の体制での生活のむなしさに関する同書の結論は,とても現代に即しているように思えました。

その夏,わたしとジーンには自由になる時間が十分ありました。わたしたちの計画といえば,フィラデルフィアにある4㍍四方の土地に,自分たちの必要とする食糧を栽培することだけでした。そこで,欽定訳聖書を入手し,交互に声を出して朗読し始めました。まず最初に読んだのは,福音書と使徒たちの活動でした。当時の宗教指導者に対するイエスの痛烈な非難の言葉(マタイ 23章)を読んだとき,今日の僧職者のことを思い浮かべずにはおれませんでした。わたしたちは,僧職者の偽善によって,『わき道にそらされ』ていたのです。その一例として,世論が戦争に賛成していたときには積極的にベトナム戦争を支持し,世論が戦争に反対するようになってから初めて,戦争に異議を申し立てた僧職者の態度が挙げられます。

わたしたちはまた,イザヤの預言を読んで特に感動を覚えました。『かれらはその剣をうちかえて鋤となし その鎗をうちかえて鎌となし 国は国にむかいて剣をあげず 戦いのことを再びまなばざるべし』という言葉を読んだとき,わたしはジーンにこう言いました。「聞いたかい,このイザヤという人は反戦論者だったんだ。事実,生態学の分野にまで考えを押し広めている。イザヤは戦争に使う資金を農業に用いたいと考えていたのだ」。―イザヤ 2:4。

そして,この言葉のすぐ前に,「すえの日に」と書かれているのに気付き,この言葉はどうも今の時代のことを言っているのではないかと思いました。読み進むにつれ,イザヤは古代のユダヤとエルサレムに関して語っていることが分かりましたが,20世紀の状態との驚くべきその類似性を見過ごすことはできませんでした。そして,読めば読むほど,こうした預言は,何らかの面で現在の世界体制に当てはまるはずだと確信するようになりました。

それが本当だとすれば,今日の堕落した体制は滅ぼされることになります。一つの預言がこう予告しているとおりです。『民おきてにそむき 法を侵し とこしえの契約をやぶりたるがゆえに 地はその下に汚されたり このゆえに呪いは地をのみつくし そこに住めるものは罪をうけ また地の民は焼かれてわずかばかり残れり』― イザヤ 24:5,6。

こうした預言を信じることができますか。わたしたちは全能の神を信じており,神の創造の業である生命や地球の循環系などを見て驚嘆の念を抱いていました。わたしたちは,土に植えられた小さな種粒がやがて様々な食物を生み出すことに驚いていました。そのような奇跡の源である創造者が,今日にぴったり当てはまると思われるこの音信をイザヤに伝えた神であると言えるのではないでしょうか。

わたしたちはそう考えるようになりました。しかし,聖書の示すとおり,この体制が滅ぼされるとすれば,別の良いものがそれに取って代わるのでしょうか。それを知りたいと思いました。その研究の助けとして,わたしたちは現代英語に訳されたエルサレム聖書を入手し,時には二人で一日中読みふけりました。

目的を持たれる理知のある神

このエルサレム聖書の至るところに,「ヤハウェ」という名前が,「主」や「神」という称号の代わりに使われていました。わたしは,ヤハウェ(より一般的な表記法ではエホバ)というのは原語の聖書写本に現われる神の名前に相当する英語である,と大学の宗教の時間で学んだことを思い出しました。神の名前を繰り返し読むことからわたしたちは影響を受け,神を本当に理知のある方,わたしたちが意志を伝達できる方,目的を持れたる方とみなすようになりました。しかし,このヤハウェとはどんな方なのだろうか,と疑問に思いました。

神の目的について読み進むにつれ,ヤハウェに対する認識は深まりました。わたしたちは,聖書がこの堕落した体制の滅亡について予告している箇所に,特に注意を払いました。そうした予告は,自分たちの信じていた事柄を確証してくれるものだからです。しかし今度は,聖書が新体制についても述べている点に注目するようになりました。イザヤ書 65章の後半に見られるような預言を読んで,わたしたちはより良い将来への希望があるのではないかと考えました。そこにはこう書かれています。

「私は,新しい天と,新しい地をつく(る)……かれらは,家をたてて,そこに住み,ぶどうをうえて,その実をたべる……かれらは,いたずらに労苦せず,生んで若死させることもない。かれらは,[ヤハウェ,エルサレム聖書]に祝された子孫であり,そのすえも,そうなのだから。かれらがこいねがうより先に,私は,こたえ,かれらが話しているうちに私はききいれる。おおかみと羊とが,ともにはみ,ししは,牛のように,わらをくう……私のとうとい山のすべてにおいて,人はもう,悪をせず,荒らしもしない,と[ヤハウェ,エ]は,おおせられる」― イザヤ 65:17-25,バルバロ訳。

このヤハウェは,心を引き付けるそのような生活の仕方を実現する新体制を本当に造られるのでしょうか。もしその方がこのすばらしい宇宙を創造された方と同じであれば,こうした約束を実現できるかもしれないとわたしたちは考えました。しかし,次のような疑問が生じました。ヤハウェは,来たるべき世界の滅亡の際に,だれかを保護して新体制に生き残らせるだろうか。そうだとすれば,生き残る人々とはだれなのだろうか。

わたしたちの知っていたどの教会も,それに当てはまるとは思えませんでした。わたしたちの知る限り,政治や商業をあやつる堕落した人間の大半は,そうした教会の会員として重んじられています。また,東南アジアの戦争で戦っていたのも,そうした教会の会員でした。聖書を読めば読むほど,教会は自らが付き従っていると唱える,まさにその本によって,非とされているように見えました。

数日後には,再び教壇に立ち,大学では修士号を取得するための勉強を始めることになっていました。その上,わたしたちは聖書朗読に失望し始めていました。答えの分からない疑問が余りにも多かったからです。絶望状態になったとき,わたしたちはそれまでにしたことのないようなことをしました。わたしとジーンは頭を垂れ,声を出してヤハウェに祈り,何に頼ったらよいか,何をしたらよいかに関して導きを求めたのです。

変革のもたらされる方法を学ぶ

祈り終えてから,わたしたちはマリファナに火を付けました。ところが,その直後にドアのベルが鳴りました。警察だろうか。ジーンがあわてて家中を走り回り,麻薬を隠し臭気止めのエアゾールを振りまくのを見,わたしはドアの外に出て,後手でドアを閉じました。

そこには若い黒人女性が立っており,自分はエホバの証人の一人であると自己紹介しました。その女性は,まさにわたしたちがその時に祈り求めていた事柄について話し始めました。彼女は,「とこしえの命に導く真理」と題する本を勧めたので,わたしはそれを求め,こう尋ねました。「どこへ行けばエホバの証人に直接会えますか」。その女性はわたしたちを土地の王国会館の集会に招待し,「ものみの塔」と「目ざめよ!」の両誌を贈り物としてくれました。

それは土曜日の昼の出来事でした。ジーンは一つの部屋で腰を下ろして「ものみの塔」と「目ざめよ!」誌を読み,わたしは別の部屋でその本を読み始めました。間もなくして,二人の間で「ちょっと,これを聞いてごらん」とか,「これはすばらしい」とかいった言葉が飛びかいました。わたしはその日の晩遅くにその本を読み終えました。わたしは,それまでの二か月間に聖書全巻を読み終えてはいましたが,今や相互に関連した箇所を頭の中ではっきりと組み立てて理解できるようになりました。

わたしは若いころから,イエスが弟子たちに教えた,次のような方法で祈ってきました。『天にいます我らの父よ,願わくは,御名のあがめられん事を。[王国,欽]の来らんことを。御心の天のごとく,地にも行なわれん事を』(マタイ 6:9,10,文)神の王国とは,心と思いの平穏な状態であると考えていました。ところが,そうではないのです。当然のことです。今や,神の王国は現実の政府であることが分かりました。それは,この堕落した体制を一掃するために神の用いる器なのです。

この点は,ダニエル書 2章44節の次の言葉を読み返したときにはっきりしました。『この王たちの日に天の神一つの[王国,欽]を建てたまわん これはいつまでも滅ぶることなからん この国は……このもろもろの[王国,欽]を打ち破りてこれを滅せん これは立ちて永遠にいたらん』。こうして,大衆的な示威運動に参加して,体制を変革しようとするわたしの従来の努力は,単にむなしいだけでなく,聖書がローマ 13章1節から7節で述べる事柄と相いれないことに気付きました。また,真のクリスチャンは政治問題に関して中立を保ち,神がこの体制を滅ぼすことによって変革をもたらされるのを待つという点も今や理解できました。

さらに,神の政府がこの世界体制を滅ぼした後,神は,地を楽園にするとのご自分の本来の目的を必ず成就させるという点をも理解するようになりました。以前にわたしたちの読んだ聖句がそのことを示しているとおりです。しかし今度は,自分がこれまで見過ごしていた,一つのすばらしい事柄を学びました。神は,人間が地上の楽園で永遠に生きることを許されるのです。わたしは次のような聖句から本当に感銘を受けました。『ただしきものは国をつぎ その中にすまいてとこしえに及ばん』― 詩 37:29。

しかし,かぎとなるのは,神の王国であることがしだいに分かってきました。そうです,神は配慮を示しておられるのです。そして,ご自分の目的を達成するための手段として,現実の政府を有しておられます。「真理」の本の中の「神はなぜ今日まで悪を許してこられましたか」と題する章は,神が行動を起こす上で,遅いように見える点を理解するのに役立ちました。その章は,神がこの堕落した体制を滅ぼされる前に,霊の領域にも影響を及ぼす重大な論争が解決されねばならないいきさつを明らかにしていました。

しかし,このすべては単なる理論にすぎないのでしょうか。神の政府が現実に存在していることを示す,目に見える証拠がありますか。それを知りたいと思いました。

わたしたちの探し求めていたもの

翌日,1970年9月6日,わたしとジーンは王国会館へ行きましたが,そこに着いた時,集会はすでに始まっていました。どの人を見ても,きちんとしており,とても幸福そうであることに気付きました。小さな子供も,聖書の節を流暢に朗読することによって,討議に加わっていました。わたしは学校の実情を知っていましたから,この子供たちの親は子供に真の関心を示しているに違いないと感じました。また,人々の示す聖書の知識にも心を打たれました。しかし,わたしたちが最も感銘を受けた事柄は,集会の終わった後に起きました。

小さな子供から老人に至るまで,百人余りの人々が,わたしたちのところへやって来て,これまでにわたしたちの受けたなかで最も親しみ深いあいさつをしてくれたのです。わたしは長髪でひげを生やしており,ジーンはヒッピーとみなされるような服装をしていたので,そうした親しみ深い態度を示してくれたことは実に意外でした。また,そこは黒人街だったので,ほとんどすべての人は黒人でした。わたしが教べんを執っていた学校では,黒人がわたしを受け入れてくれるまでに相当の時間がかかりました。どうも黒人は白人を警戒するようです。しかし,王国会館では全くそのようなことはありません。

わたしたちは,木曜日の神権学校にも来るよう招待されました。わたしたちが行ってみると,皆はわたしたちを古くからの友人のように扱ってくれました。これらの集会の目的がはっきりしており,聖書のより深い理解を得ることにあるという点は,わたしたちに感銘を与えました。また,これらの人々の学んだ事柄は,実生活に本当に影響を及ぼしていることも分かりました。わたしたちは食事に招待され,その家の主人から週ごとの無料の家庭聖書研究をするよう勧められて,その勧めを受け入れました。

数週間後,わたしとジーンは,自分たちが探し求めていたものを見いだしたことを認めました。ここには,互いに対して真実の愛を抱き,確信を持って新体制での命に備えている人々がいました。聖書に示されている神の律法がその生活のあらゆる面を支配していましたから,彼らは確かに神の政府の臣民と言えます。さらに研究を続けると,神の政府が邪悪な事物の体制を打ち滅ぼすのを目撃する世代の最終部分に自分たちが住んでいることを,聖書の預言の成就から確信するようになりました。―マタイ 24:3-14。

わたしたちは,神の王国に関するこの肝要な情報をすべての人に知らせることの緊急性をすぐに認めたので,それについて他の人々に知らせるエホバの証人の業にあずかれるかどうか尋ねました。わたしたちは麻薬を使うことをやめ,ほどなくして自分たちの服装や外見を改めました。1971年1月,わたしたちは,エホバ神に仕えるための献身の象徴として,エホバの証人によるバプテスマを受けました。わたしは教職を辞して別の職を見いだし,ジーンと共に,宣べ伝える業に全時間を費やすようになりました。それは,報いの多い経験を次々にもたらすものとなりました。

ニューヨーク市にあるものみの塔ギレアデ聖書学校で宣教者になるための訓練を受けたわたしたちは,神の王国の良いたよりを宣べ伝えるためにアフリカへ行くことになっています。アフリカの人々に,この体制の貧困,戦争,偏見,不正などが間もなく終わり,それに代わって神の王国政府の支配の下で義の状態が行き渡るということを,神の言葉である聖書から示せるのは何とすばらしいことでしょう。(ペテロ第二 3:13)― 寄稿。

[309ページの拡大文]

「不当な仕打ちについて読むにつれ,幾度となく目に涙が浮かんで来ました」。

[310ページの拡大文]

「新聞報道でさえ,戦争に関する政府の公式声明が人を欺くものであることを暴露していました」。

[311ページの拡大文]

「警官と州兵が行く手に立ちはだかり,催涙ガス,不能化学剤,そして警棒などを使って襲い掛かってきました」。

[312ページの拡大文]

「多くの若者は結婚など時代遅れであると考えていました」。

[313ページの拡大文]

『僧職者は,世論が戦争に反対するようになってから初めて,戦争に異議を申し立てました』。

[314ページの拡大文]

「聖書を読めば読むほど,教会は自らが付き従っていると唱える,まさにその本によって,非とされているように見えました」。

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『ここには,互いに対して真実の愛を抱く人々がいました』。

[316ページの図版]

わたしとジーンは,自分たちが探し求めていた答えを見いだしていました

    日本語出版物(1954-2025)
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