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わたしは神の真理を決して忘れなかったものみの塔 1971 | 1月1日
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た。エホバを崇拝しようと努めているのは自分ひとりだけだと考えるようになると,ちょうどその時エホバの証人が来て文書を置いていくということがよくありました。わたしは,まるで,のどのかわいた人が冷たい水を飲むように,ひとつひとつのことばを隠れて読んだものです。
ひとつ思い出に残っていることがあります。町にいる時のこと,わたしは次のブロックで通行人に雑誌を配布している,ひとりの証人の姿を見ました。エホバに仕えている人を見つけて,わたしはほんとうにうれしく思いました。その証人に追いついて,あいさつだけでもしようと,道をかけ降りました。ところが,なんということでしょう,わたしがそこに着く前に,その証人は立ち去ってしまっていたのです。しかし,わたしは,エホバ神の崇拝者をひとり見ただけでひどく感激しました。
この間,わたしは強い信仰を保つために,たくさんの個人勉強をしました。わたしの好きな聖句のひとつはコリント前書 10章13節でした。神は,わたしたちが耐えられないほど試みられることがなく,忠実を保てるよう,いつものがれる道を備えてくださるという確信を,その聖句は与えてくれます。そのほかに,ガラテア書 6章9節から,神は,わたしが神にもっと十分仕える祝福と機会にあずかれるよう見守ってくださっていることを確信しました。また,わたしは時おり,他の人々に神のお約束について話すことができました。
高等学校にはいった時,やっとわたしは,エホバのしもべと再びいくらか交わりを持てるようになりました。いくつかの集会に出席したり,大会にさえ行きました。16歳になった時,次の大会でバプテスマを受けたいと父に話しました。わたしが父の家に居る限り,父がそれを許さないことはよくわかっていますし,父の意志を尊重するつもりですが,成人になったらバプテスマを受けたいと説明しました。父も母も,わたしが分別のある年になったと考え,わたしがバプテスマを受けることに同意しました。わたしは1965年3月20日にバプテスマを受けました。
卒業の日まで何事もなく,きわめて順調に事は運びました。クリスチャンの中立を犯す職業につくことをわたしが拒むと,父の怒りは再び爆発しました。父は,おまえはもはやわたしの娘ではないといい,わたしは完全に勘当されました。父は息が切れるまでにわたしをののしり,二度と家に帰って来るなと言いました。
こうした苦しい時に,エホバの証人はわたしを助けにきてくれました。さらに,そうです,わたしを強めてくださるエホバが常におられたのです。いつも忠実で親切なエホバは,わたしを決してお見捨てになりませんでした。やがて,エホバにいっそう十分に仕えさせていただきたいとの祈りは答えられ,休暇中の全時間を神の王国の伝道に用いることができました。それは,ことばで表わせないほどすばらしい経験でした。その後まもなく,わたしは神のみことばを定期的に全時間伝道する奉仕者になり,それ以来,この奉仕を続けて,喜びを得ています。
これまでの年月を振り返ると,エホバは確かにわたしの牧者であられ,わたしは何も不足しなかったことがわかります。たとえ,さらに迫害を受けるにしても,忠誠を保つ限り,エホバは常にわたしとともにおられ,わたしを慰め祝福してくださることを知っています。エホバ神が比類なく優れておられることを,わたしは経験してきたのです。―寄稿
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ヨナはニネベで伝道したものみの塔 1971 | 1月1日
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ヨナはニネベで伝道した
◆ 聖書の記録によれば,紀元前9世紀,ヘブル人の預言者ヨナは何百キロも旅をして,古代アッシリアの首都ニネベの住民に伝道しました。彼の伝道の結果,「ニネベの人々は神を信じ」,「王(でさえ)荒布をまと(った)。……神は彼らのなすところ,その悪い道を離れたのを見られ,彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして,これをおやめになった」。―ヨナ 3:1-10,口語。
しかし,ヨナがその古代ニネベの町を訪れたことを証しているのは,聖書だけではありません。大英百科辞典,1946年版,第16巻461ページはこう述べています。「アッシリア帝国の古代の首都は,チグリス河の右岸の岸辺,現代のモスル市に向かい合った場所にあった。それは二つの大きな丘からなっており,一つはクユンジクで,もう一つは,今日,その上に預言者ヨナの墓(ネビ ユヌス)があるとされているものである」。「ネビ ユヌス」の名称は,「預言者ヨナの墓」という意味です。
国際地理協会発行の「古代の日常生活」と題する本,および,ジェームズ・ケルソー著の「考古学と旧約聖書時代の人々」と題する本には,その丘と,その一方の側に建てられている回教寺院の写真が載っています。昔からこの地域の人々が,ニネベの初期の住民を滅びから免れさせたその人に対して,誉れある記憶を保ってきた事実に注目するのは興味深いことです。
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