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塔54 2/1 48–59ページ

栄光をもつて家に満たす

この講演は,1953年米国のニューヨーク市ヤンキー・スタジアムにおけるヱホバの証者の新しい世の社会の大会の最後の日,7月26日の日曜日の朝ものみの塔聖書冊子協会の副会長が13万1419名の大会出席者に語つたものであります。

『またわれ栄光をもつてこの家に満たさんと万軍のヱホバ言い給う』― ハガイ書 2章7節,ダーベ訳

1 栄光で満たされる家とは何ですか? どんな約束によるのですか?

栄光で満たされる家とは,万軍のヱホバに献げられた宮のことです。そして家に栄光を満たすというお約束は,万国にとつて最も重要な一つの予言の頂点としてなされました。『万軍のヱホバかく言いたもう,今ひとたび,しばらくありてわれ天と地と陸とを震動わん。又われ万国を震動わん。また万国の願うところのもの来らん。又われ栄光をもつてこの宮に満たさん。万軍のヱホバこれを言う』― ハガイ 2:6,7。

2,3 この預言が最初に述べられた当時の歴史的背景は何でしたか?

2 2400年以上前に発表されたこの予言の背景には,当時建築が開始されてまだ1ヶ月にもなつていない質素な宮がありました。その宮はエルサレムのモリアの山の,以前ソロモン王の宮が建てられていた場所に建てられました。紀元前607年バビロン人によつてソロモンの宮が破壊されてから,その神聖な場所は70年間荒れすたれ,エルサレム全市も荒れすたれ,ユダの王国の全領域は人も,飼いならされた獣も住まないままで荒れすたれていました。その事はヱホバ神がシナイ山でモーセを通じて彼らの先祖たちと結んだ契約を彼らが引続いて長い間犯したため,その国民に対して降した神の審判であつたのです。(レビ 26:27-35。列王上 9:6-9)。さて懲らしめられたイスラエル人の遺れる者はヱホバ神によつて,バビロンの捕われから解き放たれた,故郷に帰る道が開かれました。何の目的のためですか? その主要な目的は,昔の宮の建てられていた場所にヱホバの家を再建して,そこでヱホバの清い崇拝を復興するためでした。敵の反対とペルシャ政府の間違つた干渉によつて,復帰したイスラエル人の遺れる者は,彼等が故郷に復帰された主要な目的を見失つてしまいました。彼らは宮の仕事を止めて,そのまま放任し,彼らの神ヱホバに非難を招きました ― ルカ 14:29,30。

3 このように彼らは神よりも人間の支配者に服従したために,ヱホバの家は顧られずに置かれて,彼らは16年間繁栄が得られませんでした。その時ヱホバ神はユダヤ人の方伯ゼルバベルとレビ人の大祭司ヨシユアと復帰したすべての遺れる者を奮起させるために,聖霊をもつて予言者ハガイの心を捕えて,そして神に対する彼らの厳粛な責任を成しとげるために宮の仕事を再開するように,ハガイに彼らを激励させました。神に対する信仰をもつて,遺れる者は再び宮の仕事に着手しました。仕事の目鼻がつき始めた時,ハガイは神の聖霊の感動を受けて,丁度引用したあの感動的な予言を語りました ― ハガイ 1:1から2:9まで。

4 ハガイの預言がエルサレムの物質的の宮に成就するかどうか,何と示されていますか? 神は1919年に神の民に何をなしましたか? それはどんな目的のためでしたか?

4 ハガイの予言は,それから4年後に方伯ゼルバベルによつて完成された宮に実際に成就しませんでしたし,またたとえイエスキリストがヘロデの宮を訪れて,その庭で教えたにしても,ヘロデの宮にもこの予言は成就しませんでした。その宮の祭司職と他のユダヤ人の宗教指導者たちは,その宮がイエスキリストと弟子達を通じて栄光で満たされることを許しませんでした。西暦70年にその宮はローマ人たちによつて焼き滅ぼされてしまいました。ハガイの予言を成就させるために,その宮が再建されることは決してないでしよう。しかし1919年第一次世界戦争が終つてから6ヵ月ほどの内に,ヱホバ神は紀元前537年にユダヤ人の遺れる者をバビロンから復帰させた事に相当する或る事を行いました。大バビロンすなわち悪魔の世界組織は第一次世界戦争中,ヱホバの証者を虐待し,強制的に捕えてしまいましたが,ヱホバはこの油注がれた証者の遺れる者を大バビロンの権力から救い出しました。彼らを救つた神の御目的は予言者ハガイ当時のユダヤ人の遺れる者の場合と同じでした ― それは宮の仕事のためでした。油注がれたヱホバの証者の回復された遺れる者がこの宮の仕事に集中する限りは,彼らは霊的に繁栄することになつています。

5 今日物質的の宮が少しも必要がないことを,神の座位と足台についての事実がどのように示していますか?

5 この宮の仕事とはどんな仕事ですか? それはエルサレム又は米国ニューヨーク州ブルックリン市コロンビヤハイツ124番地又はその他の場所に,地にある物質で実際の宮を建てることではありません。今日そのような実際の宮を建てる必要はありません。そのような宮は神の家としては極めて不適当です。『ヱホバかく言い給う,天はわが位,地はわが足台なり。なんじら我がために如何なる家を建てんとするか。又いかなる処か我が休みの場とならん』(イザヤ 66:1)。ヱホバの天の座位は,エルサレムの宮の至聖所の内に置かれている契約の櫃の上を蔽つている贖罪所に依て象徴されていました。贖罪所は二つの金のケルビムが覆つていましたが,これらのケルビムは翼を伸ばして贖罪所の中央に顔を向けていました。ここでヱホバはケルビムの間に坐すものとして象徴されました。そしてシカイナと呼ばれたヱホバの栄えの光は,ほかの光の光らない宮の至聖所を照らしました。ヱホバはそこから神の民イスラエルに通信しました。しかしこれらは単なる象徴的表現に過ぎません。神の真の座位は天であります。其処は神が宇宙の主権者として統治したもう所です。もと神の物質的の宮殿がモリア山にあつた地球は,神にとつて足台のようなものです。彼はその足台を踏みしめて居られ,そしてその高い座位に座わられています。

6 ソロモンの献げた宮が不適当であることを認めて,ソロモンは何と祈りましたか? そして神に祈る時に宮の方に向くことは何故正しかつたですか?

6 どんな人間製の宮も,またどんなに雄大な大きさでも,至上神を入れる家になることは出来ません。ソロモンはこの事を悟つて恐れ畏みました。彼が建てた絢爛たる宮を献納して,ヱホバの栄光が奇蹟的な雲をもつてその家に満ちた時に,ソロモンは神に対する祈りの中でこう言いました。『神果して地の上に〔物質的の宮の中に〕住みたもうや。見よ,天ももろもろの天の天も汝を入るるに足らず。まして我が建てたるこの家おや』。ソロモンの宮はヱホバの真の座位の場所となることは不可能です。しかしながら神は未来に対する象徴のため,そして未来に対する予影のためにその宮を尊び,そして神は注意深い目を常にその上に注ぎ比類のない名をその上に置かれました。神はソロモンに言われました。『我は汝が建てたるこの家を聖別めて我が名を永く其処に置くべし。且つわが目とわが心は常に其処にあるべし』(列王上 8:27-30; 9:3,7)。ヱホバは象徴的の方法で其処に臨在して居られるのですから,イスラエル人達にしても,また善意ある外国人達にしても,丁度願い事をする時に実際に顔をその方に向けるように,祈る時に宮の方を向くことは正しいことでした。ソロモンは祈りました,『且つまた汝の民イスラエルの者にあらずして汝の名のために遠き国より来る異邦人は……もし来りてこの家に向いて祈らば,汝の居処なる天において聴き,すべて異邦人の汝に呼び求むる如くなし給え。汝かく地のすべての民をして汝の名を知らしめ,汝の民イスラエルの如く汝を畏れしめ,また我が建てたるこの家は汝の名をもつて称えらるるということを知らしめ給え』― 列王上 8:30-43。

7 今神が人間製の宮に象徴的に住み給わないことをステパノとパロウはどのように語りましたか?

7 このような象徴的表現の時代は既に過ぎ去つて,ヱホバの宮は再びモリアの山に建てられないでしようし,またエゼキエルの幻像の中に描かれているような宮を其処に建てるために,回教徒の『岩の円屋根』を取り除く必要もないでしよう。(エゼキエル 40:1から46:24まで)。それでは色々の宗教が『聖体』と呼ぶ物を安置するためにバシリカ風の教会堂や,又は大寺院や教会堂を建てることは,何と聖書に反することでしよう!『聖体』は神に変化するのだと彼ら僧侶たちは主張しています。至上神は,『聖体』によつても,又は他のどのような象徴物によつても,人間の手で造つたどんな宮にも住み給いません。クリスチャンの殉教者ステパノは,まだヘロデの宮が建つていた当時のエルサレムのユダヤ人の議会でこの点を明らかにしました。『その家を建てたるは〔王〕ソロモンなりき。されど至高者は手にて造れる所に住み給わず,即ち予言者の「主〔ヱホバ ― 英文新世〕のたまわく,天は我が座位,地は我が足台なり。汝らわがために如何なる家をか建てん。わが休息のところは何処なるぞ。わが手はすべてこれらの物を造りしにあらずや」と言えるが如し』。数年後使徒パウロはこの真理を繰返して異教のアテネ人たちに語りました。『世界とその中にあるすべての物とを造られた神は天地の主であられるから,手で造つた宮には住まれない。また何か不足なものでもあるかの如く,人の手によつて仕えられることを要し給わない。神は自らすべての人に生命と息とあらゆる物とを与えて下さるからである』(使行 7:47-50; 17:24,25,口語)。クリスチャンと自称する人々で,色々な論によつて過度に飾り立てた高価な宗教的建築物を建てるために献金するように勧誘された人々は,既にこの真理を知つていなければならぬ筈ですが,しかし彼らは知つていません。

8 人間は神に対して,ただどんな種類の宮だけを建てることが出来ますか? しかし今神御自身はどんな種類の宮を建てていますか?

8 このような人々は神が発する質問をよく考えて見て下さい。『お前たちは私のためにどんな家を建てようとするのか? また私の憩いの場所は何処であるか? 私の手はこれらすべてのものを造つたではないか。それでこれらすべてのものは存在するようになつたのである,とヱホバが言われた』(イザヤ 66:1,2,ア標)どんな種類,またはどんな様子の家を人間が建てたにしても,それらは皆,すでに神が造られた物質によるのであります。そのような場所は,神が象徴的に憩う場所としては,もはや神に喜ばれません。神御自身は全く新しい物質で真の宮を造つて居ります。このような物質を人間の建築技師は決して用いることが出来ません。それは14万4000と一つの石で出来ますが,それらの石は人間によつて切り出されたり,形を整えられたり,適当の場所に据えられたりしません。それは『生ける石』であり,そのおのおのは『新しく造られたもの』であつて,おのおのは生きて,理智のある神の新しく造られたものであります。そして御子イエスキリストは『隅の首石』です。それは『聖い祭司職のための霊の家であつて,イエス・キリストを通じて神に喜ばれる霊的の犠牲を献げるためである』(ペテロ前 2:4-6。コリント後 5:17,新世。エペソ 2:20-22)。これこそソロモンが建てた宮と方伯ゼルバベルが再建した宮によつて象徴されていた真の宮です。これこそヱホバ神がその目と心とを注がれる宮です。その宮の上にヱホバ神は御自身の御名を置かれました。

神の憐憫み

9 もし神が今日印象的な人間製の宮に目を留め給わないのなら,私共自身のことを心を傾けてどのように考えるべきでしょうか? 特に私共の大きさを比較的に考えた場合どうでしょうか?

9 シバの女王がソロモンの宮を眺めた時,その華麗さに息が詰りました。今日いくらかの宗教的建築物は建築術の立場から見て非常に印象的です。もし至上神が今日このような建築物に目を留め給わず,または象徴的にこのような建築物に住み給わないなら,まして神が地上の或る男または或る女に特に心を留め給うことがどうしてあり得ましようか? 故に私共は心を傾けて考えるべきです。本来私共自身は全く取るに足らない者です。そして世に私共自身を有名にしようとせず,または自分の卓越さや権力を保とうとせず,その反対に自分を本当に低く謙遜にして,比較的に心にも留められず,普通のことや平凡なことを行い,決して名声を上げたり,評判を高くしたりしなければ,私共は尚さらに自分自身が全く取るに足らぬ者であることを痛感します。私共一人々々は神に対して何とまあ極微小なものなのでしよう! 天秤の秤の皿の大きさに縮小された私共の地球を想像してごらんなさい。この秤の皿の上,ただ光沢を鈍らせるだけに過ぎない,わずかな薄い塵があります。そうです,多くの人口で満ちている凡ての国民は,丁度この薄い塵のようなもので,その重さは極微秤以外では見分けることも,計ることも出来ないほど軽いのです。その塵のほんの小さな1点が私共めいめいなのです。ヱホバはこの事を私共に気付かせるためにこう言われます。『見よ,もろもろの国民は桶のひとしずくの如く,秤の塵のごとく思いたもう』― イザヤ 40:15。

10 イザヤ書 66章1,2,5節によれば,ヱホバは人間製の宮よりもむしろ何に心を留めると言われましたか?

10 しかし手で造つた荘厳な宮よりもむしろ何にヱホバは心を留めたもうと言われたかに耳を傾けて下さい。『ヱホバはこのように言われた,天は私の座位,地は私の足台である。お前たちは私のためにどんな家を建てようとするのか? また私の憩いの場所は何処であるか? 私の手はこれらすべてのものを造つたではないか。それでこれらすべてのものは存在するようになつたのである,とヱホバが言われた。私はただ貧しく苦しみ〔ダーベイ訳〕また心に悔い,また私の言葉を畏れおののく者に心を留めよう』。彼らはヱホバの御言葉を畏れかしこみますから,ヱホバは彼らに御言葉をつかわし,ヱホバの栄光を現わして彼らを喜ばせると約束されて,こう申しました。『お前たち,ヱホバの御言葉をおそれおののく者よ,ヱホバの御言葉を聞きなさい。お前たちの兄弟達がお前たちを憎み,お前たちを追出して,こう言つた,ヱホバが栄光をあらわして私達にお前たちの喜びを見させなさいと。しかし恥をかくのは彼らである』― イザヤ 66:1,2,5,ア標。

11 イザヤ書 57章13-16節によれば,ヱホバは高い方にもかかわらず,誰を思いやりますか?

11 ちよつと考えてごらんなさい! ヱホバは非常に高く,非常に崇高で,永遠に存続し,そして極めて聖いにもかかわらず,罪や過ちのために心を痛めている者ら,謙る者,悔いる者らに心を留められるほどに思いやりがあります。結局私共は非常に僅かで,極めて小さく,そして無価値であるから,至上神は決して私共に注意しないでしようし,また私共に心を留めるために時間を費やすようなことはしないだろうと考える必要はありません。私共を励ますために神は申します,『我に依頼む者は地を継ぎ,我が聖き山を得べし。また人言わん〔また言うであろう ― ア標欄外〕土を盛り,土をもりて道を備えよ。わが民の道より躓くものを取り去れと。至高く至上なる,永遠に住める者,聖者と名づくる者かく言いたもう,我は高き所,きよき所に住み,また心くだけて,へりくだる者と共に住み,へりくだる者の霊を生かし,砕けたる者の心を生かす。われ限りなくは争わじ。われ絶えずは怒らじ。しからずば人の心わが前におとろえん。わが造りたる霊はみな然らん』(イザヤ 57:13-16)。至高く崇高な永遠の神は,人間製の華やかな目立つ宮よりもむしろこのように悔い苦しむ者ら,へりくだる心の者らに心を留められます。

12 1919年に,誰が既に述べたような心を持つていましたか? ヱホバは彼らに関するその預言をどのように成就しましたか?

12 油注がれたヱホバの証者の遺れる者は第一次世界大戦中,奇怪なバビロンに捕われの身となりましたが,このように悔いて,へりくだる心を示したので,ヱホバ神は憐憫まれ彼らの苦悩に心を留めて,1919年に彼らを救いました。彼らは神の御言葉に畏れおののき,人間の伝説の代りに神の御言葉を尊び,そして彼らは常に神の御言葉を奪われることを懸念し,また御言葉の言うところを行わないことを懸念しました。このゆえにヱホバは起ち上れて,彼らを神権的自由へと逃れさせるために道を備えました。神は彼らの道からの躓きとなる岩の塊を取り除き,彼らを奇怪なバビロンから連れ出して,生れたての神権の国土へ,そして神崇拝の聖い山に彼らを連れて来て,其処で宮の仕事に従事させました。

13,14 キリスト教国はどのようにヱホバを捨てましたか? そして諸国民のどのような状態は,ヱホバが今聖い宮に居られることを立証していますか?

13 キリスト教国はヱホバを捨て,神崇拝の聖い山を忘れ,そしてこの世の諸国民を彼の背負う運命の中に投げ込んでしまいました。故に彼は彼ら諸国民と運命を共にし,ハルマゲドンの戦で彼らと共に殺戮されるでしよう。(イザヤ 65:11-15)。経済的,軍事的,政治的の支配に大いに関係している諸国民は,今日第一に重大な次の事を忘れています。それは,私共は神の霊の家,即ち神の宮でヱホバ神に奉仕しなければならないという事です。そして快楽を愛するよりも神を愛し,単に敬虔の外形だけを持つことを止めて,敬虔の真の力を立証しなければならないという事です。(テモテ後 3:1-5)。神の霊の宮でヱホバを崇拝するということは,私共の顔を地上のどの方向に向けることでもありません。またエルサレムやローマやメッカ其他どんな都市に向けることでもなく,また地上のどんな宗教的建物に向けることでもありません。私共は生ける石で成立つている神の宮の,隅の首石であるキリストを通じて,天の方に顔を向けます。ヱホバは今聖い宮に居られます。そして全地は神の御言葉を聞くために静かにし,沈黙しなければなりません。(ハバクク 2:20)。しかし諸国民はそうしません。彼らはヱホバが王として聖い宮で治めたもうという事実に激怒します。彼らが今激怒しているということは,崇高な,見えざるヱホバが宮に臨在していることを示す,見える証拠です。何故なら,彼らがどうして激怒するかを予言は次のように説明しています。

14 『すると,天に大きな声々が起つて言つた。「この世の国は私たちの主と彼のキリストとの国となつた。そして彼は王として永遠限りなく治め給うであろう」……「今います方,昔いました方,ヱホバ神,全能者よ。あなたが大いなる権力を執つて王として治めはじめられたことを感謝します。しかし諸国民は怒り,またあなたの怒りも来ました。そして……地を亡ぼす者らを亡ぼし給う,定められた時が来ました」。すると,天にある神の宮の聖所が開かれ,神の宮の聖所の中に神の契約の櫃が見えた。そして電光と声々と雷鳴と地震と大きな雹とが起つた』― 黙示 11:15-19,新世。

15 何故黙示録の幻像は,実際の神の契約の櫃が紀元前607年に天に運ばれたことを意味しないのですか?

15 全地的支配をするように諸国民に指定された時は紀元前607年にエルサレムとその宮とその土地とが荒れはてた時から始まり,その期間は2520年つづいて西暦1914年に終りました。その時全能の神ヱホバはキリストを通じて王として支配するためにその偉大な権力を執りました。それはただ単にパレスチナだけでなく,全世界を支配するためです。この時諸国民は激怒し,その激怒の最初の発作は第一次世界大戦となりました。黙示録によると,その時以来ヱホバは天の聖い宮に臨在して居られるに違いありません。神の宮の聖所の中に神の契約の櫃が見えることが,この事を確実にしています。本来の実際のヱホバの契約の櫃は紀元前607年にバビロンによつてソロモンの宮が滅ぼされた時に無くなつてしまいました。それは何処へ行つたのでしようか? それは,或る人が言い出したように,『異教国民がそれを汚したり,滅ぼしたりする機会を持つ前に』天に持つて行かれたのではありません。そのような物質的の物は天に在ることが出来ません。天はヱホバの座位であつて,二つの金のケルビムに覆われた契約の櫃の櫃罪所にヱホバが坐る必要はありません。イエスキリストが死から復活して,後に彼が流した人間の血の生命の価値を携えて昇天して神の御前に現われた時,レビ人の大祭司が櫃罪の日にいつも行つたように,実際の物質的の契約の櫃の上にイエスは自分の犠牲の血を振り注ぎませんでした。イエスは自分の血の贖いの価をヱホバ神に献げました。(ヘブル 9:11,12,24)。実際の契約の櫃が何処へ行つてしまつたのか,私共は知りません。

16 歴史によると,エルサレムに再建された宮の至聖所の中には何が置かれていましたか?

16 方伯ゼルバベルによつて宮が再建された時に契約の櫃は至聖所に回復されませんでした。イエスの時代に,ユダヤ人の大祭司がヘロデの至聖所の中へ年に一度贖罪の血を携えて行つても,其処にはもはや契約の櫃は無かつたのです。至聖所では奇蹟的なシカイナの光は輝かずそして空でした。ただその中央に大きな石が置いてあつて,大祭司はその上に金の香炉を置いて,贖罪の日の犠牲の血を振り注ぐ前に,その香炉の上に香を振り注ぎました。ユダヤのミシナ,ヨマの5章2節は次のように言つています。『その櫃が取り除かれた後,初期の予言者達の時代から一つの石が其処に残されていた。そしてその石は「シエチヤ」(基礎,いしずえを意味す)と呼ばれた。それは地面より3本の指の幅だけ高かつた。この上に彼(ユダヤ人の大祭司)はいつも(火皿を)置いた』。

17 宮の聖所の契約の櫃についてのヨハネの幻像は何を指し示していますか? そして何時この事は事実となりましたか?

17 したがつて西暦70年にエルサレムが滅亡してから26年後に使徒ヨハネが啓示を与えられて,天に神の宮が開かれたのを見た時聖所又は至聖所の中に神の契約の櫃が見えるということは格別な出来事でした。その事はヱホバが聖い宮にいますことを象徴し,また櫃を覆つた贖罪所によつて描写されているようにヱホバが座位に坐られたことを象徴しています。その幻像の中で宮が開かれた事と,櫃の存在が現わし示された事とは,1914年にヱホバがイエスキリストによつて王として支配の大権を取られた後に,そして第一次世界大戦で諸国民が怒りを発し始めた後に,引続いて行われたのです。この事はまたヱホバが1918年以来,霊の宮に居られることの証拠です。ヱホバの証者の油注がれた遺れる者が宮で崇拝を行うために1919年に奇怪なバビロンから復帰する前に,ヱホバ神が宮に来られることは事実となりました。

18 ソロモンの宮に比べてゼルバベルの宮を尊ぶことを,ヱホバはどのように言われましたか? パウロがその預言を引用したことによつて,その預言の成就の時が何時であると見定めることが出来ますか?

18 1919年に復帰した遺れる者によつて宮の崇拝が復興されたことは,ハガイの時代に方伯ゼルバベルと大祭司ヨシエアがエルサレムに宮の建築を再び始めたことによつて予表されていました。その当時の建築中の宮は金張りの立派なソロモンの宮と比較されるような見込みは何もありませんでした。しかし当時の小さい事柄は決して軽んじられませんでした。ヱホバは再建の宮の栄光は,ソロモンの宮の栄光よりも遙かに優ると約束されました。天と地と海と万国に恐ろしい震動があるであろう。そして『万国の願うところのもの来らん。またわれ栄光をもつてこの家に満たさんと万軍のヱホバ言い給う』(ハガイ 2:1-9,ダーベイ訳)。ハガイの予言から500年以上後に,使徒パウロはハガイの言葉の成就するのは更に未来の時であると当てはめて,こう言いました,『あの時〔神がモーセを通じてシナイ山でイスラエルとの間に律法の契約を結ばれた時〕その御声は地を震わしたが,しかし,今神は約束して言われる,「しかし私はもう一度,地のみならず天をも震わそう。」この「しかしもう一度」という言葉は,震われないものを残すために,震われるもの,即ち造られたものを取り除くことを示している。故に震われない国を受けて居ることを知る私たちは,深い感謝を持ちつづけて,恭しく畏みつつ神に喜ばれる神聖な奉仕を行おう』(ヘブル 12:26-28,新世)。象徴的の天と地が取り除かれることは,使徒時代には起らないで,西暦1914年以降の私共のこの時代に,それらの取り除かれることが近づいているという多くの証拠を私共は今持つています。

19 天はどのように震われましたか? ヱホバは地と陸と海を震うべきどのような理由を示しましたか?

19 ヱホバが大いなる権を執つて,キリストを王座に即かせ給うた1914年に建てられた御国は決して震われませんから,したがつて決して取り除かれないで,この宇宙的震動期間を通じて,どつしりとそのまま存続するでしよう。しかし海と陸と地と天によつて象徴されているサタンの世の制度の,見えると見えざるとのあらゆる部分は恐ろしく震われました。1914年に始つた『天の戦争』によつて,悪魔と悪鬼の使たちの見えざる制度とは神の天の所から震い落されてしまいましたが,新しく生れた御国は震われず,取り除かれず,勝利を得て確立しました。悪魔の制度の見える部分である海と陸と地は,イエスが『苦しみの劇痛の始め』と呼んだところのものを経験しました。即ち今までに比類のないほどの規模で民は民に,国は国に敵対して立ち上つたことを経験し,また比類のないほどの饑饉,流行病,地震をも経験しました。ヱホバ神は直接諸民と諸国をしてあの第一次世界大戦を戦わせたり,またその大戦から饑饉と流行病を引き起させるようなことをしませんでしたが,しかし神は震うべき充分の理由を万国に示しました。それはどのようにですか? それは『諸国民に指定された時』を1914年に終らせることによつてです。諸国民が,神の御国によつて妨害されないで世界を支配することが出来るように指定された時が終るや否や,ヱホバはその御国を開始せしめて,御子であり,ダビデ王の世嗣である正義の御方,イエスキリストの御手によつてその御国の運用を行わせられました。

20 何故これは諸国民にとつて善い前兆ではありませんでしたか? そして諸国民は建設された神の国に対して,どのように行動しましたか?

20 これは諸国民にとつて善い前兆ではありませんでした。何故ならイエスキリストは鉄の杖をもつて彼らを支配し,ハルマゲドンの戦で彼らを粉々に打ち砕くように定められているからです。諸国民は束縛されない気楽な1914年以前の基礎がこのように取り除かれたので,彼らはその未来の存在について心配するのが当然です。彼らは今神の国と決算しなければなりません。サタンの天を震つて彼らを投げ落したことによつて,その激しい震動はサタンの地上の制度に波及して,諸国民は世界統治の問題について大騒動しました。彼らはヱホバの王を望みませんでした。そして1914年の聖書的意義をあらゆる処で宣明していた油注がれたヱホバの証者に彼らは激怒しました。このように諸国民は,建設された神の国に対して激怒し,また神の王が地上の事柄に干渉することに激怒しました。

21 ヱホバの証者が宣べ伝える音信は,諸国民にとつてどんな音信でしたか? 併しそれ以外に,他のどんなことで諸国民は震えましたか?

21 1914年が何を意味するかを宣べ伝えることと,『我らの神の刑罰の日』が近づいたことを宣明することは,万国を震う音信でした。しかし1919年に新しい世の社会が突然に出現したことと,その後彼らがすばらしく成長したことは,諸国民を更に一層震う役目をしました。それは単に諸国民を驚かせたばかりでなく,恐怖させました。何故ならこの事は,この音信が或る取柄があつたということと,これが抑え切れない運動であるという具体的証拠でした。彼らの宣教は,もしそれが本当なら,万国の終りを意味するでしよう。まことにハルマゲドンの前に,そして万国が手荒く取り除かれる前に,サタンの世の天と地と海と万国は激しくぐらつき,動揺し,震動しました。

『万国の願うところのもの』

22 サタンの世を震つた結果,何が来るとハガイは言いましたか? この預言は1886年と1931年にどのように説明されましたか?

22 ヱホバかサタンの世を震つた結果,或るすばらしい事が来るとハガイは言いました。それは何でしよう?『万国の願うところのもの来らん』そう英文欽定訳とダーベイ訳は言つています。ロザハムの翻訳は『また万国の喜ぶところのものが来るであろう』と言つています。最初にこれは,震われない神の国の来ることに適用されました。1886年にものみの塔聖書冊子協会は『代々に亙る神の経綸』という書籍を出版しました。その266頁にこう記されていました,『このように人間が極端に落入ることが,神の好機会となるでしよう。そして「万国の願うところのもの来らん」― すなわち権力と偉大な栄光を持つた神の御国が来るでしよう。―ハガイ 2:7』。45年後にこの予言は或る個人に,すなわち主なるイエスキリストに適用が狭められました。1931年2月15日号の雑誌ものみの塔(英文)は『神の宮』という記事を掲げました。その33節にこう書かれています,『キリストの体の頭であるキリストが,神の代表者であることを知る時,彼こそまず第一に「万国の喜ぶところのもの」でなければなりません。イエスキリストはヱホバの名代として宮に来ました。彼こそ「約束の裔」であり,また万国と諸民はまだそのことを知りませんが,彼こそ万国と諸民の願うところのものであります。』

23 その解釈は聖書のどんな古代訳に基いていましたか? ここに述べられたその出来事は何故1918年に起らなかつたのですか?

23 この後者の解釈は一般に用いられている英文欽定訳に基いたものであつて,それはハガイ書 2章7節を古いラテン語訳聖書から翻訳しました。ラテン語訳聖書を再現したカトリック・ドウエイ訳は『また万国の願うところのお方来らん』となつています。ローマカトリックの祈禱文の中のキリスト降臨の部で,この聖句はイエスが宮に来ることには適用せずに,彼が地に来ることに適用されています。イエスが審判の仕事のために偉大な霊的の神の宮に来ることは,1918年の春に目に見えぬように行われたものと理解されています。しかしハガイ書 2章7節は神の民の回復期に関する予言ですから,彼らが回復される以前の1918年にさかのぼることは出来ません。古代ユダヤ人の遺れる者の場合に,ハガイ書 2章7節は彼らが神の家を再建するまでは実現出来ませんでした。彼らの16年間にわたる恐怖と怠慢によつて,彼らの宮再建は彼らがバビロンから復帰してから21年後であることが分ります。同様に今日の霊的遺れる者の場合,願うところのものが来ることは,彼らが1919年に奇怪なバビロンから復帰する以前に適用することは出来ませんし,また彼らが丁度宮の仕事を始めた1919年のその年にさえ適用することは出来ません。

24 何故ヘブル語原文自体はそのような解釈を許しませんか? ギリシャ語七十人訳はそのヘブル語をどのように翻訳しましたか?

24 注目する価値のある或る他の事があります。本来のヘブル語原文は,ハガイ書 2章7節を1918年に宮に来る主イエスに適用することを許しません。どうしてそうなのですか? それは次のようなわけです。『願うところのもの』又は『喜ぶところのもの』と翻訳された言葉は単数になつていますが,それに伴うヘブル語の動詞は複数です。ラテン語訳聖書より数世紀前に,ギリシャ語七十人訳を翻訳したヘブル人達はこの事実に注意しました。そこで彼らはその単数のヘブル語の名詞を正確な意味に翻訳しました。彼らの翻訳はこうなつています。『また万国の選ばれたものども〔又は,選り抜きのものども〕来らん』。

25 従つて,実際にすべての現代的翻訳はヘブル語の言い廻しをどのように翻訳していますか?

25 実際に,ユダヤ人やカトリックやプロテスタントのすべての現代的翻訳は,ギリシャ語七十人訳に一致して本来のヘブル語原文の真意を現わそうと務めていますa 1884年の英語改訳はこう訳しました。『またわれ万国を震わん。また万国の願わしいものども来らんまたわれ栄光をもつてこの家に満たさん,と万軍の主言い給えり』。1901年のアメリカ標準訳と1905年のリーサー訳と1948年のナカル・コランガ訳は『万国〔民〕の貴いものども』と訳して居り,ヘブル語のソンシノ版は『万国の最も精選されたものども』と訳して居り,アメリカ訳と,リナート及びクランボンは『万国民の財宝(複数)』と訳して居り,またマデドソウスは『万民の富める者ども』と訳して居ります。

26 震う結果として,そのようなものが来ることを,他の現代訳はどのように示していますか?

26 ヱホバが万国を震う目的は,そのようなものが来るためであると,他の翻訳は示しています。ドイツ語のカウチ及びフランス語のレコール・ビブリケと一致して1952年の改訂標準訳(英文)はこう訳しています。『また私は万国を震おう。その結果万国の財宝(複数)が来るであろう。また私は輝きをこの家に満たそう,と万軍の主が言われる』。モハットは更に進んで訳しています。『万国の財宝(複数)が来るまで万国を震い,また此処にある私の家に輝きを満たす,(と万軍の主が言われる)』。すなわちヱホバが万国を震うことは神の宮に或る結果を生ぜしめることになります。それは何でしようか?

成就

27 ヱホバはこの預言の成就をどのように探すべきかを,私共にどう示していますか? 遺れる者が何を見るとイザヤ書 66章10-14節は言つていますか?

27 ヱホバの口によつて語られた同趣旨の予言は,ハガイ書 2章7節の予言の成就をどのように探すべきかを私達に示しています。その点について現代の歴史の発展を見ることにより,ヱホバの予言が真実であることが立証されます。ヱホバは神の婦であり,神の宇宙制度であるエルサレムに関する大復興の予言を与えましたが,婦の裔の残つている者達を1919年以降一つの神権政府の国民として生み出した時に,ヱホバは,予言者イザヤにこう叫ばせました。それは神の民が今日聞くようにです。『エルサレムを愛する者よ,皆彼と共に喜べ。彼のゆえをもつて楽しめ。彼のために悲しめる者よ,彼と共に喜び楽しめ。そは汝ら乳を吸うごとくエルサレムの慰めを受けて飽くことを得ん。また乳をしぼるごとくその豊かなる栄を受けて,おのずから心さわやかならん。ヱホバかく言い給う,見よ,われ河のごとく彼に平康〔繁栄 ― アメリカ訳〕を与え,みなぎる流れのごとく彼にもろもろの国の栄を与えん。しかして汝等これを吸い,〔愛される子のように〕背に負われ,膝におかれて楽しむべし。母のその子を慰むる如く,我も汝らを慰めん。汝らはエルサレムにて慰めを得べし。汝ら見て心よろこばん。汝らの骨は若草の栄ゆる如くなるべし』(イザヤ 66:10-14)。エルサレム即ち神の婦の裔の遺れる者は今この事を見てその心は喜びます。そして彼らはヱホバの御手がその事を成したことを認めます。

28 遺れる者に関聯してイザヤ書 61章1-7節は何と預言していますか?

28 同じ予言者はまた別の予言を述べていますが,それは,ヱホバが油注いだ証者達を奇怪なバビロンから回復される事を予言し,またヱホバが彼ら証者に,善い音信を宣べ伝え,心の傷める者を医やし,捕われ人に解放を告げ知らせ,縛られている者らのために牢獄を開き,そして悲しむすべての者を慰めさせることを予言しています。次に彼はこう附け加えています。『外人は立ちて汝らの群を飼い,異邦人は汝らの畑を耕やす者となり,葡萄を作る者とならん。されど汝らはヱホバの祭司と称えられ,我らの神の役者と呼ばれ,もろもろの国の富を食い,彼らの栄を自ら誇るべし。さきに受けし恥に代え,倍して賞賜を受け,辱しめに代え,嗣業をえて楽しむべし。しかしてその地にありて倍したる賞賜を保ち,とこしえに喜びを得ん』(イザヤ 61:1-7)。1919年に誕生した神権国土の中で,油注がれた遺れた者は第一次世界大戦中に受けた恥と不名誉と圧迫の合計の倍の霊的の繁栄を楽しんでいます。

29 遺れる者のこのような繁栄を何がはつきりと反映しますか? 善意ある大羊衆は何故遺れる者が神の役者であり祭司であると認めますか?

29 このような繁栄をはつきりと反映しながら,善意ある外国人と異邦人は,農夫として,葡萄を作る者として,また群を飼う者として奉仕をなします。そして霊的の意味でのヱホバの『役者』と『王なる祭司』の成員達は,このような奉仕から助けと利益を受けます。その奉仕は彼らにとつて,決して終ることのない喜びの源泉です。これらの善意ある外国人と異邦人の一人として今自分自身を示す者は誰でも,遺れる者と共に神に奉仕する準備を整えており,また奉仕することを喜びます。この善意ある群衆がどんなに大きくなろうとも彼らはそうすることを喜びます。しかしキリストの下にある『王なる祭司』はそのように増加しません。彼らの成員は14万4000の成員に制限されています。彼らはその独特の祭司体に入れられるように聖別されます。そしてその高い霊的の職務に召される人々を,ただヱホバ神だけが聖別することが出来ます。善意ある外国人と異邦人はこの事を認め,そして霊的遺れる者が神の役者であり,ヱホバの祭司であることを認めます。

30 ゼカリヤ書 8章20-23節によれば,どのようにして10人の人が一人のユダヤ人の裾をつかまえて,一緒に崇拝するために行きましたか?

30 ヱホバが1919年にバビロンから遺れる者を奇蹟的に回復して,彼らを神の崇拝者として,また神の僕として宮の活動を行わせるために遣し給うた時,その事を学んだ万国の誠実な心の民たちにとつて,その事は,ヱホバの証者が真の神を有していること,そしてこの神が本当にヱホバの証者と共に居つて彼らを救い,彼らを祝福したということの一つの証拠であつたのです。彼らは,心の内でユダヤ人であるところの油注がれた遺れる者がヱホバの宮に上るためにお互いにこう励まし合つているのを聞きました。『いざ我らヱホバに歎願し,万軍のヱホバを求めるためにすみやかに行かん。我もまた行くべし。』その時彼らは一緒に行こうとして,霊的のユダヤ人の遺れる者をつかまえました。『万軍のヱホバかく言い給う。その日にはすべての国語の民十人が一人のユダヤ人の裾をつかまえて言わん。われらは汝〔民〕と共に行かん。そは我ら,神が汝らと共にいますと聞きたればなり』(ゼカリヤ 8:20-23,ダ訳)。ヱホバと呼ばれる神,そしてその仕業とお約束と御目的とが聖書に記録されている神は,引力を有する磁石であつて,この神こそ彼らが霊的ユダヤ人の遺れる者と共に崇拝のためにその御許に引き寄せられた御方なのであります。このような善意者の数は,このような一人の霊的ユダヤ人に対して10人以上の数になつています。この事は,油注がれた遺れる者がヱホバの家に上つて,宮の仕事を行うまでは,決して起らなかつたでしよう。

31 イザヤ書 60章1-16節によれば,ヱホバは誰の上に栄光を照らし,どんな御命令を与えましたか? そしてこの御命令に従つた結果何が生じましたか?

31 第一次世界大戦の期間中,神が彼らを怒られた時『上なるエルサレム』である神の婦の裔の遺れる者は濃いくらやみと暗黒の中に居ました。しかし1919年にヱホバは起きて,神の婦の上に恵みを与え,その恵みの光は地上の油注がれた遺れる者の上に反射しました。神の婦に対する神の御命令はまた彼女の遺れる者にも適用されました。そして彼らが御命令に従つたために生じた結果は何とすばらしいことでしよう!『起きよ,光をはなて。汝の光きたり,ヱホバの栄光なんぢの上に照りいでたればなり。見よ,暗きは地をおおい,闇はもろもろの民をおおわん。されど汝の上にはヱホバ照りいでたまいて,その栄光なんぢの上に現わるべし。もろもろの国は汝の光に行き,もろもろの王は照りいづる汝が光輝に行かん……その時汝見て喜びの光を現わし,汝の心驚きあやしみ,且つひろらかになるべし。そは海の富は移りて汝につき,もろもろの国の貨財は汝に来るべければなり……異邦人は汝の石垣を築き,彼らの王たちは汝に仕えん。そは我怒りて汝を打ちしかど,また恵みを以て汝を憐れみたればなり。汝の門は常に開きて夜も昼も閉ざすことなし。こは人,もろもろの国の貨財を汝に携えきたり,その王たちをひきい来らんがためなり。汝に仕えざる国と民とは滅び,その国々は全く荒れすたるべし……汝またもろもろの国の乳を吸い,王たちの乳房を吸い,しかして我ヱホバが汝の救主,汝の贖主,ヤコブの全能者なるを知るべし』― イザヤ 60:1-16。

32 その質問に答えて。万国の願わしいものどもは来ましたか? ヱホバは1953年のヤンキー,スダジヤムで目に見える答をどのように与えられましたか?

32 解釈されたこれらの予言によつて目を開かれた私共は,「万国の願わしいものども,貴いものども,財宝,最も精選されたものどもが来ましたか?」と尋ねる時が参りました。今日ここに居るあなた方,何千人のヱホバの証者の油注がれた遺れる者よ,あなた方の目を上げてこの宏大なヤンキー・スタジヤムの建物を見渡し,そしてもろもろの国々と国語から集つて来た十数万の善意者達をご覧なさい。その質問に対する万軍のヱホバのお答はこれです。ヱホバは御国の善い音信を万国に証言のために全世界に宣べ伝えることによつて,万国を震いました。そして諸国民の中の願わしいものどもは既に来ています。そしてヱホバが,ハルマゲドンの戦を行つて,震動している悪魔の制度の天と地を全部取り除いてしまつて,大震動を完成し給う以前に,更に数え切れないほどの願わしいものどもが来るでしよう。ハガイ 2:20-23。

33 霊的遺れる者が最後まで競走を走るための刺戟となるために,古代の証者達の模範と共に,ヱホバは今日誰と共に霊的遺れる者を取り囲みましたか? 何故ですか?

33 遺れる者の最大の試験,最後の試験の時に,ハルマゲドンの前か最中に,ヱホバ神が古代の『雲のように多くの証人たち』即ち『君たち』(全部で丁度70人と見積られていた)を死より甦えらせて,霊的遺れる者の最も激しい試練の最中に彼らを力づけ,神の保証を与えることが必要だと,曾つて遺れる者の私共はいつも考えていました。しかしあなた方遺れる者よ,目を上げて,ヱホバと共にあなた方を取り囲んでいる雲のように多くの現代の証者たちをご覧なさい。たとえ『鉄のカーテン』の彼方やその他の場所で証言のために死のうとも,彼らのすべてはアブラハム,イサク,ヤコブ及びすべての予言者達と同じ純正の信仰を示しています。神の奇蹟に関して,これ以上の奇蹟を今油注がれた遺れる者は求めることが出来ますか? 現代のヱホバの証者達のこの『大なる群衆』の忠実な友交と支持と,そして神命を守る彼らの熱心と忠実さとは,古代の『雲のように多くの証人たち』の模範と共に,私共の前に展開している競走<レース>を私共が最後まで,勝利を得るまで走るための力強い刺戟であります! ―ヘブル 12:1,2,口語。

34 ヱホバは彼らをどのように万国から引き出されましたか? 彼らは誰にとりて願わしい者ですか?

34 ヱホバは遺れる者に油を注いで,御国の証言を宣べ伝えさせるために派遣しましたが,そうすることによつてヱホバは,御自身の願うところの者ども,そして遺れる者が本当に願うところの者ども,そして今統治しつつある王なるキリストを通じてヱホバに献身する善意者達を万国から引き出しました。これらの人々は多分貧しく,謙遜で,そして平凡な人々でしよう。したがつて諸国民はこれらの人々を多くの価値ある者とは評価しないでしよう。しかしヱホバの目から見れば彼らは諸国民の中の最も精選された者どもです。何故なら彼らは御国の証言に応じ,彼らもまたその証言を取り上げて,更に他の人々に証言を宣明する油注がれた遺れる者の仕事に参加するからです。ヱホバにとりて彼らの生命は貴いものであつて,ヱホバはハルマゲドンにおけるヱホバの執行軍から彼らを保護して,新しい世で生命とそれに伴う快い特権を彼らに授け給うでしよう。彼らはヱホバにとりて,古代の忠信な証者達にも比すべき真の宝であります。

どのように満たされましたか?

35 金銀についてヱホバが述べられたことを彼らがありがたく感じているということを彼らはどのように示しましたか? ヱホバはどのようにして『栄光をもつてこの家に満た』しましたか?

35 ヱホバは彼らをまつすぐに宮の中に連れて来ます。それは彼らが油注がれた遺れる者の側にあつて,清く汚れのない宗教に基いて崇拝出来るようにするためです。何故なら彼らの心が宮にあるからです。彼らは次の神の声明をありがたく感じます。『銀もわがものなり。金もわが物なりと万軍のヱホバ言いたもう』(ハガイ 2:8)。それ故崇拝の宮に入つて来る時,彼らは金銀の財宝を携えて来ます。何故なら彼らが献身する時,それらすべての財宝もまたキリストを通じて神に献げる筈であるからです。彼らは,ハルマゲドンで世の終りが来るまで,全世界におよぶ御国の宣教を押し進めるために,それらの財宝を財政上に,又はその他に喜んで使います。このように万国の願わしい者どもが来ることによつて,油注がれた宮の働き人の遺れる者に対するヱホバの次のお約束は成就しました。『またわれ栄光をもつてこの家に満たさんとヱホバ言い給う』(ハガイ 2:7,ア標)。前に戻つて1919年は宮の働き人達にとつて小さい事柄の時代でした。その事柄は高慢な諸国が見くびるほど,明かに小さいものでした。しかしヱホバの予言は,その宮の仕事が,神の清い家における崇拝を取り戻すという大きな結果を生むことを保証しました。『この家の後の栄光は従前の栄光より大いならんと万軍のヱホバ言いたもう』(ハガイ 2:9,ア標)『この家の未来の光輝は過去の光輝よりも大いならん』― ア訳

36 「この家の後の栄光は従前の栄より大いならん」という御言葉を,ヱホバは既にどのように成就されましたか?

36 その事が今日すでに実現しているということは全く本当です! その願わしい人々がまごころこめてその所有する財宝を献げながらヱホバ崇拝の家に来て,そこで『昼も夜も』神権的奉仕をすることによつて,神の家は栄光をもつて満たされました。その栄光はソロモンの宮が有していた栄光よりも優つているばかりでなく,また,ヱホバが完全な宮,即ち『霊の家』を建てるために『生ける石』を御準備された19世紀間にわたつて有していた栄光よりも優つています。このようにヱホバ崇拝の家を美しく飾り,崇め高めたことは,他には決してありません。霊的遺れる者の数は,ヱホバが彼らの或る者らをこの地上の準備の石切場から取り去つて,『生ける石』として天の宮に据えられるために,年に少くなつて行くでしよう。しかし今ヱホバ崇拝の家に群がつているところの,万国から精選された級の人々の何十万の群衆よ! そしてこれらの群衆は年々何千人も増加しつつあります! これはヱホバの家に,何という栄光,何という感銘的な重みを与えることでしよう! この栄光は決して減少することなく,反つてハルマゲドンへと進むにつれてますます増加するのです。まことに万国は今こそ,ヱホバが崇拝の家を有していられるということと,その家は崇拝者達で満ちているということを知らなければなりません。ヱホバ崇拝は実在です。人々が『生ける石』から成る神の宮即ち『霊の家』を踏みつぶすことが出来ない以上に,ヱホバ崇拝は踏みつぶすことが決して出来ない実在です。

平和

37 外部の諸国の紛争や争闘もこの家を侵すことはないであろうと,ハガイの予言は私共にどんな保証を与えていますか?

37 外部のこの世の諸国の論争や紛争や争闘も決してヱホバの崇拝の宮の神聖な境内を侵すことはないでしよう。国際的不和と戦闘は,決して油注がれた遺れる者と善意ある願わしい仲間の崇拝を破つて,神の家の最も秀でている栄光を奪うことはないでしよう。『この家の後の栄光は従前の栄光より大いならんと万軍のヱホバ言いたもう。またこの処においてわれ平和を与えんと万軍のヱホバ言いたもう』(ハガイ 2:9,ア標,ダーベイ訳)。国際連合ではなくて,ヱホバの崇拝の宮こそ,今日地上の唯一の平和の場所であつて,この世の諸国民はこの平和を奪うことは出来ません。この平和はヱホバ神が私共に与えて下さる賜物です。

38 ゼカリヤ書 9章9節の予言の成就として,ヱホバはどのようにエフライムとエルサレムから戦車と馬と戦争弓を絶ちましたか?

38 王なるイエスキリストがどのように来り,そして新しい世の試みられ,験された基礎としての天的シオンをどのように据えるかをヱホバが予言した時,ヱホバはこう言明しました。『われエフライムより戦車を絶ち,エルサレムより馬を絶たん。戦争弓も絶たるべし。かれ国々の民に平和を諭さん。その政治は海より海に及び,河〔曾つてバビロンによつて支配されたユフラテ河〕より地の極におよぶべし。』(ゼカリヤ 9:9,10)戦車や馬や戦争弓はすべて肉の武器の古代的象徴でした。エフライムを頭とする王国とエルサレムを頭とする王国とに分裂したイスラエル人達は,時々これらの戦争の道具を用いてお互いに兄弟殺しの争闘を行いました。しかし終にヱホバはエフライムとエルサレムを一つの民として結合させて,お互いに戦うために用いる戦争の武器を絶ちました。霊的イスラエルの遺れる者も同様です。彼らが以前どんな宗教的又は政治的言明や忠実さを示したにも拘らず,ヱホバは王を通じて彼らを一つの国民に結合させ,平和に神を崇拝し,神に奉仕出来るように聖霊を以て彼らを助けます。霊的イスラエルは一致結合してヱホバの王を支持します。

39 ヱホバの王が今日平和を語るのは,何故この世の諸国民に向つて語るのではありませんか? この故にヱホバの証者は何を行うことを抑制されていますか?

39 『平和の君』である王はその平和の統治を一致結合し,平和を保つている霊的イスラエルだけに制限しないでしよう。ヱホバは言い給う。『かれ国々の民に平和を語らん』。イエスキリストが今日この世の諸国民に向つて平和を語らない以上,どうしてそれがあり得ますか? 彼はハルマゲドンで万国を,ほんの陶工のうつわもののように,こなごなに打砕くために鉄の王杖を揮います。彼は諸国民に対するヱホバの次の宣言に基いて,ハルマゲドンで御自身と戦うように万国に戦いを挑みます。『もろもろの国に宣べ伝えよ。戦争の準備をなし,勇士をはげまし,軍人をことごとく近かより来らしめよ。汝らの鋤を剣に打ちかえ,汝らの鎌を鎗に打ちかえよ。弱き者も我は強しと言え。四周の国々の民よ,汝らいそぎ上りて集れ』(ヨエル 3:9-11)。万国に対するこの戦争宣言の命令に基いて,ヱホバの証者は,どのような平和主義者の制度にも参加出来ませんし,また参加しないでしよう。彼ら平和主義者の制度は,キリスト教の名で行う戦争を止めさせようと国家政府に督促しています。今年の4月8日に国際連合の通常会議は,この世の諸国民の間の恒久平和のために努力するという妄想の下に,軍備縮小の決議を可決しましたが,ヱホバの証者はこの決議を少しも支持しないでしよう。第一に,そんな事をするのは無益です。第二に,そしてそれは更に重大ですが,それは証者達に対するヱホバの御命令に反します。

40 王が諸国民に平和を語ることについての私たちの質問に対する答を探す時,イザヤのどんな特別な予言に耳を傾けるように呼び掛けられますか?

40 では,王が諸国民に平和を語るということは何を意味するのですか? それは何時適用されるのですか? 次の御言葉をお聞き下さい。そしてお聞きになつたら,万国の願わしい者がヱホバの崇拝の家に来ることをお考え下さい。『末の日にヱホバの家の山はもろもろの山の頂きに堅く立ち,もろもろの嶺よりも高くあがり,すべての国は流れのごとくこれにつかん。多くの民ゆきて相語り言わん,いざ我らヱホバの山に登り,ヤコブの神の家に行かん。神われらにその道を教え給わん。われらその道を歩むべしと。そは法律はシオンよりいで,ヱホバの言葉はエルサレムより出づべければなり。ヱホバはもろもろもろの間を裁き,多くの民を責め給わん。かくて彼らはその剣を打ちかえて鋤となし,その槍をうちかえて鎌となし,国は国に向いて剣をあげず,戦争のことを再び学ばざるべし』― イザヤ 2:2-4。

41 この世の国々の完全な,そして永久の軍備撤廃は何時でしようか? 何故ですか?

41 この世の諸国民はヱホバの審判に注意を払う人々ではなく,またヱホバの叱責に気を付ける人々でもありません。彼らの軍備縮小の会議や決議は決して完全な軍備撤廃のためのものではなくて,単に軍縮制限のためのものに過ぎません。そしてこれらの会議と決議は,諸国民が剣を鋤に打ちかえ,鎗を鎌にうちかえ,そして剣を下に置いて,戦争を学ぶことを止めるように,今まで決して導かなかつたし,またハルマゲドンの始まる以前決して導かないでしよう。『全能の神の大いなる日の戦』が彼らを撃つ時,彼らは現代科学によつて改良されたすべての兵器で充分に武装するでしよう。その兵器の多くについての知識を私共は今まだ持つていません。しかしハルマゲドンが成し遂げられる時,ヱホバの王は御国に敵対するそれらのすべての国々をこなごなに打砕くでしよう。その時はじめて私共は完全に軍備を撤廃し,そして永久にそうなるでしよう。

42 では今ヱホバの審判と叱責に気をつける者は,諸国民の内の誰ですか? そして彼らはハルマゲドンでさえも如何にしてそのように行いますか? 何故ですか?

42 この故に今ヱホバの審判と叱責に注意し,今ヱホバがシオンとその宮から彼らを教え給う道に歩む者は,このようなすべての国々と国民の中から出て来た願わしい者らの『大いなる群衆』であります。これらの者は今完全な軍備撤廃を行います。即ち彼らは以前決死的争闘のために専用されていた兵器類を平和的な,生産的な用途に変え,実際にお互いに振り廻し合つていた剣を下に置き,もはやそのような肉の戦争のことを学びません。ハルマゲドンが始まつて,ヱホバが敵共を狼狽させる時,それらの敵共のおのおのはおのが兄弟に叛いて手を振り上げるでしよう。しかし万国から出て,高くそびえている『ヱホバの山』に来たこの『大いなる群衆』はそんな事をしません! 彼らすべては『すべてのものよりも優る平和の神』と一致して堅く立つことが出来るように,おのおのがその兄弟に援助の手を貸すでしよう。彼らは皆共々に『ヤコブの神ヱホバの家に流れのように集まつて来たのですから,その通り行うでしよう。そしてヱホバの家でヱホバは次の御目的を励行致します。『この処においてわれ平和を与えんと万軍のヱホバ言い給う』― ハガイ 2:9,ア標。

43 どんな光景を目撃する私共は如何に幸福ですか? そしてこれに関聯して私達はどのようにして更に幸福になれますか?

43 では,ごらんなさい。今日ヱホバの崇拝の家は栄光に満ち,神の平和が与えられています。ヱホバの御言葉の証明であるところの,この光景を目撃するために生きている私達は何と幸福なことでしよう。『清き美わしきものをもて』清く神を崇拝し,そして地の極にまだ残つているすべての願い求めつつある人々を助けることによつて,更に大なる栄光をもつて神の家に満たすために,絶えず休みなく働きながら神の家に住むことは私達にとつて何と幸福なことでしよう。

[脚注]

a 大層逐語的に翻訳しているヤングの翻訳は,ここに前置詞のtoを加えて,その論議されている語句を次のように訳しました。『また彼らは万国の願うところのものとなつた。また私は栄光をもつてこの家に満たした,と万軍のヱホバは言われた』。しかしながらこの前置詞を加える必要はありません。ヘブル語原文にふさわしい翻訳はこうです。『また彼ら,万国の願うところのものが来るであろう』。

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