-
世から別れなさいものみの塔 1971 | 12月15日
-
-
なります。彼らは,決して過ぎ去ることのない人類の世の者になることを望んでいます。そして,「邪曲なる者の途に入ることなかれ…これを避よ…離れて去れ」というエホバの助言に喜んで注意を払います。そうすることによって,「義者の途は旭光のごとし,いよいよ光輝をまして昼の正午にいたる」ことを知ります。(箴言 4:14-18)エホバと,そのみ子キリスト・イエスを通して成就されている輝かしい王国の目的とに関してますます明確にされてゆく理解にあずかるのはなんという喜びでしょう。
24 買い戻された者たちは今どんな道を見いだしていますか。それはどんな結果をもたらしていますか。
24 人類の世つまりサタンの領域はその汚れた事物の体制もろとも今や壊滅にひんしています。離れなさい,別れなさい,と告げる危険信号はだれの目にもはっきり見えます。「聖道」を見いだして,買い戻された人たちの中に立場を占め,そうした立場を保持してください。彼らは,今やエホバがキリストを通して王国の天のシオンの山で統治しておられることをたたえます。そして,「うたひつつ…シオンにきたり,その首にとこしへの歓喜をいただき楽とよろこびとをえん,而して悲哀となげきとは逃さる」でしょう。―イザヤ 35:8-10。
-
-
どうすれば『天の父が完全であられるように完全』になれますかものみの塔 1971 | 12月15日
-
-
どうすれば『天の父が完全であられるように完全』になれますか
イエスは山上の垂訓の中で聴衆に,「ですからあなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全でなければなりません」と話されました。(マタイ 5:48,新)これは不可能なことのように聞こえますか。罪深い人間がいったいどうして天の父のように完全になれるのでしょうか。しかし,イエスのことばからすれば,わたしたちがイエスの弟子であることを実証するには,わたしたちは完全でなければならないのです。では,どうすればそうなれますか。
このことを理解するためには,まず,「完全」とは無限で,すべてを包含し,微細な点にいたるまで比類のないほど卓越していることを常に意味するという考えを捨てなければなりません。神だけがそうした絶対的な完全さを備えておられます。他の人間や事物の完全はすべて相対的なものです。つまり,ある品物が完全である場合,それはその設計者や製作者,あるいは使用者が品物に付与した目的との関係において完全なのです。それらの人がその品物に欠陥を見いだせないなら,それはまさしく「完全」な品物といえます。
もちろん,高性能の顕微鏡で四六時中あらゆるものを調べようと思えば調べることもできます。そうすれば,『完全にまっすぐな』線にも実際には,起伏や,でこぼこがあり,洗たくしたての『完全にきれいな』衣類にも微細な異物がついていたり,『完全になめらかな』テーブルの表面にも小さな穴やくぼみがあって,月面を思わせる状態であったりすることがわかります。しかし,たとえそうした顕微鏡的な要素を除去したからといって,使用上,実際になんらかの差異が生じますか。それで,そうした小さな点を「不完全」なものとしていちいち取り上げてこぼすこともできますが,そうする理由がどこにあるのですか。そのような執ような態度は実際的でないばかりか,ばかげています。そうした態度は生活を不満やいらだたしさで満たしてしまうでしょう。
聖書は完全さをそうした非現実的で,不当に執ようなものとしてではなく,理にかなった,現実に即したものとしています。事実,イエスの話(マタイ 5:48,新)の記録中で「完全」と訳されているギリシア語(テレイオス)は,「全き」(コリント前 13:10),「十分に成長した」(コリント前 14:20),また「円熟した」と訳出することもできるのです。(ヘブル 5:14)このことは聖書中で「完全な」と訳されているヘブル語のことばについてもあてはまります。ですから,ファンクとワグナルス共編の新標準聖書辞典(694ページ)は聖書中の「完全」について次のように述べています。
「[売買にさいして使用する分銅(申命 25:15)などの]非人格的な事物に用いられる場合…これは『完成した』ということばの同義語である。…しかし,この概念は精密さを期すものとしてではなく,聖書以外の場合と同様,厳密さにこだわらず,だいたいの正確さを期すものとして出てくる。…人間に関して用いられる場合,このことばはまず第一にその時点で理想とされるものに合致していることを意味し,そこでは相対的で,かなりの柔軟性のある包括的な用語である。ダビデはいたるところで罪深さを告白しているにもかかわらず(詩 51:3以降),こうした意味で自分が完全である[欠点がない]ことを主張している(詩 18:23)」。
神の「非のうちどころのない」「非難すべきところのない」しもべたち
確かに,聖書はノアのことを「その時代の人々の中で,非の打ちどころのない」人と述べ,またヨブについては「非難すべきところのない高潔な」人としるしています。(創世 6:9,新。ヨブ 1:8,新)「非のうちどころのない」そして「非難すべきところのない」と訳出されている同じヘブル語は「完全な」とも訳せます。なぜなら,非のうちどころのないものは「完全」だからです。それらの人に罪がなかったという意味でないことは明らかです。なぜなら,この両人はともに罪人アダムの子孫だったからです。では,どんな意味でふたりは「非のうちどころのない」もしくは「非難すべきところのない」人でしたか。
神の要求に十分にかなったゆえ,また神は彼らが成し遂げうる以上の事柄を要求なさらなかったゆえに,この両人をそう呼びえたのです。ミカ書 6章6-8節が示すとおり,神はご自分のしもべたちに無理なことを要求されません。「人よ彼さきに善事の何なるを汝に告げたりエホバの汝に要めたまふ事はただ正義を行ひ憐憫を愛し謙遜りて汝の神とともに歩む事ならずや」。
確かに,エホバ神は地上にいるご自分のしもべたちの不完全さや無力さをあわれみをもって,また適当に考慮されます。父親は成人に期待するようなことを幼いむすこに期待するものではありません。また,陶工は普通の粘土で花びんを作る場合,特別上等の粘土で作る時と同様の上質の花びんを期待するわけがありません。偉大な陶工であられるエホバ神はご自分のしもべである人間の生来の弱さを考慮されるのです。「エホバの己をおそるる者をあはれみたまふことは父がその子をあはれむが如し,エホバは我らのつくられし状をしり,われらの塵なることを念ひ給へばなり」とあるとおりです。―詩 103:13,14。イザヤ 64:8。
19世紀の聖書学者アルバート・バーンズは,自著「福音書に関する注釈」の中で,こうした人間の「非難すべきところのない状態」(もしくは「完全さ」)についてやや類似した見解を述べ,「完全な」ということばに関して次のように語っています。「元来このことばは,各部の完全に整った機械のような,一種の機構に適用される。人間に適用される場合,それは身体の各部が完備していること,つまり,どの部分も欠陥がない,もしくは欠如していないという意味の完全さをさす。
-