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目ざめよ! 1976
目76 4/8 20–23ページ

聖年の新しい聖人はあなたを助けることができますか

九十三年にわたって何千人の支持者がその運動のため働き,また祈りをささげました。その人々の寄付を合わせると何百万ドルに達します。そして遂に達せられた目標 ― 法王パウロ六世は1975年の聖年の間に米国生まれの米国人としては初めてエリザベス・アン・ベイリー・シートンを聖者の列に加えました。「天国に達したことを教会によって公に宣言された」いま,彼女は教会員が神に近づくのを助けることのできる聖人の一人とみなされています。

ウォール・ストリート・ジャーナル紙の意見によれば,エリザベス・シートンの熱心な後援者たちは「どんな政治運動よりも骨の折れる,そして大抵の政治運動と同じぐらい費用を要することは間違いない」手続きをとることに参加しました。彼女の場合の長所を論じ,“奇跡”を証明するために幾十人もの弁護士や医師を雇うことが必要であり,バチカン当局の使用のために無数の文書をイタリア語に翻訳しなければなりませんでした。

出費はマザー・シートン・ギルドの年間予算3万2,000ドル(約960万円)をも超えたので,緊急に募金を行なうことが必要でした。ローマにおける聖人叙列式のきらびやかな催しには,アメリカでの祝賀行事の予算10万ドル(約3,000万円)をも上回るほどの費用を要したと言われています。伝えられるところによれば,最近のある列福式(聖人に列せられる前の最後の段階)に際してサン・ピエトロ聖堂を借りる費用だけでも1万ドルかかったという事を考えれば,これに要した費用のおよその見当もつくというものです。

莫大な費用を要するほかにも,一人の聖人を生み出すには時として何百年もかかる調査が必要です。バチカンの典礼省では「あっぱれな徳行」と「奇跡」を裏づける膨大な量の証拠文書や証言をえり分けます。他方,「一般信仰支持者」あるいは「列聖調査検事」は,手続きのさまざまな段階において批判と呼ばれる多くの合法的な挑戦を聖人候補者に対して提出します。例えば,ある調査の一局面においてはラテン語で55ページの反対意見に対して129ページに上る答えが提出されました。この事をするだけで丸一年の日時を要しています。

遺体でさえも安んずることはできません。ローマでは出来る限り遺体の身元が確かであることを望んでいます。ひとたび発掘されるや,エリザベス・シートンの遺骨は「第一級の聖遺物」となりました。骨の一つはパウロ法王に送られ,特製の箱に収められた破片は彼女を聖人にするために働いた,おもだった人々に報酬として与えられました。

このすべての努力に値するだけの結果が見られましたか。教会のスポークスマンはそのように断言しています。エリザベス・シートンと他に五人を聖年の間に聖人の列に加える見込みだけでも,パウロ法王をして次の事を言わせました。すなわち彼らは「人生が神と教会員のために生きる価値のある事を……現代人の目に示すため,教会の天空に輝く新星となるであろう」。

なぜそれほどの努力?

しかし聖人の候補者を調査するのになぜこれほど多くの時間と努力と費用が費やされるのか,人はいぶかるかもしれません。新カトリック百科事典(1967年版)によれば,何世紀もの間,聖人はこれほど徹底的な調査を受けずに認められてきました。しかし問題が起きたのです。「六世紀と十世紀の間に聖人として崇拝された死者の数は著しく増加した。……多くの場合,伝説的な伝記が書かれた。その結果,抑えなければならない弊害が生じた。この重大な事柄を規制する必要に迫られて特定な慣行が次第に生じた」― 第三巻55ページ。

聖人の「生涯」についての作り話の他にも,「弊害」の中には「聖遺物の営利的な売買,計画的な詐欺」のあった事を,「学校と家庭のためのカトリック百科事典」(1965年版第9巻219ページ)は述べています。聖人に列するための大掛かりな手続きが16世紀の終わりごろに採用されたことが功を奏して,年間,聖人の列に加えられる人の数はおよそ9割も減少しました。しかしこの方法にも,例えば莫大な費用を伴うなど,それなりの問題がない訳ではありません。

最初の聖人たち

初期クリスチャンにとってこのような問題は全く存在しなかったことをご存じですか。聖人を見分ける当時の方法は今日のものとは非常に異なっていました。新カトリック百科事典は次の事を認めています。「しかしながら聖書の中では信者一般が『聖人』あるいは『聖なる者たち』と呼ばれている」。(第12巻852ページ)「聖パウロは[聖人の呼び名]を仲間のクリスチャンすべてに用いている」― 学校と家庭のためのカトリック百科事典,第9巻538ページ。

あなたご自身,例えばカトリックのエルサレム聖書を読んでごらんになれば,「聖人」あるいは「聖徒」という言葉はほとんどの場合,「信者」に置き換え得ること,そしてその言葉はずっと昔に死んだ人々だけでなく存命中のクリスチャンにも用いられていることに気づかれるでしょう。パウロの手紙は特定の土地にいる「すべての聖徒」に宛てられている事が少なくありません。彼はエフェソスのクリスチャンに対して,彼らは「すべての聖徒たちと同じく市民であり,神の家の者の一部」であると述べています。―エフェソス 2:19,エルサレム聖書。

興味深いことに,これら聖徒たちは彼ら自身,時として霊的な助けをさえ必要としました。クリスチャンの奴隷フィレモンは次の事のゆえにほめられています。「兄弟よ,彼らはあなたがいかに聖徒たちに新たな心を吹き込んだかをわたしに告げています」。そして地上にいるクリスチャンのため,天の特定の聖徒にとりなしを祈るよりも,エフェソスのクリスチャンすべては次のように促されました。「すべての聖徒たちのために祈ることのできるよう常に目ざめている事に倦み疲れてはなりません」― フィレモン 7; エフェソス 6:18,エルサレム聖書。

それで「聖徒」という語が聖書時代に意味したものは,今日聖人と聖遺物を崇める人々にとってそれが意味するものとは明らかに全く異なっています。「学校と家庭のためのカトリック百科事典」も同じ事を述べています。「しかし今日では[聖徒]は,天国に達した事を教会によって公に宣言された人々を指して普通用いられる」― 第9巻538ページ。

しかし聖徒に関する初期クリスチャンの見解はどうなったのですか。現在の理解の仕方は聖書に見いだされるものと,なぜそんなに異なっているのですか。新カトリック百科事典は次のような説明をしています。

「生者のためにする死者の取りなしについて ― これについては旧約聖書中の最も古い本の中に何も述べられていない。よく知られているように旧約聖書中には,死者の運命についてきわめて不完全な知識しか見いだされない。……次の点を記憶すべきである。すなわち新約聖書中において正式の論題としてではなく,むしろ付随的な事柄として述べられているにせよ,― この問題については何も明確には述べられていない……」。(傍線は発行者)

ここに言われているように聖書は「不完全な知識」しか含んでおらず,このような問題について「付随的」に述べているだけなので,このような主要な教えについても「明確」な事を示していないというのは,理にかなったことと思われますか。それとも聖遺物の崇拝についてのこの同じ百科事典がもっと強い調子で認めている事のほうが,もっと正確に“完全な知識”を伝えてはいませんか。

「ゆえに聖遺物崇拝の正当性を旧約聖書中に求めても無駄である。新約聖書においても聖遺物に多くの注意は払われていない。……[教父]オリゲンはこの慣習を物質尊重の異教のしるしとみなしたらしい」― 第12巻973,235ページ。傍線は発行者。

ここに認められている通り,このような慣習に聖書的な裏付けがない事から,初期の改革者たちは「聖遺物の崇敬に対して反対の声をあげ」始めたと,この百科事典は述べています。そこで「トレント公会議はこの間違いを取り上げ,その第25回総会で出された宗令の中で聖書になんら言及することなく,使徒の伝承と教会の不変の慣習に訴えて」聖遺物崇拝を支持しました。―第12巻238ページ。傍線は発行者。

しかし後代の伝統や「教会の慣習」よりも『聖書に言及する』ならばどうですか。新カトリック百科事典の示すように聖徒はあなたが神に祈るのを助ける力を持つのかどうかにつき,聖書には『明確に述べられていない』と,確かに言えますか。

神の道に従って神に近づく

大抵のクリスチャンは「わたしたちの父よ」の祈りを知っています。祈り方についての導きを求められた時,イエスはこの祈りの言葉を教え,「わたしたちの父よ」という表現を用いて祈りを始める事を勧めました。この言葉の持つ暖かさと,神に対する親近感とを考えてごらんなさい。神の代わりに聖人に祈ることを選ぶならば,この暖かい,父に対するような関係を享受できるでしょうか。最初のクリスチャン聖徒たちが仲間のクリスチャンのためによく祈った事は確かです。しかしこれが天の父に語る事によってクリスチャンの享受した親しい関係に取って代わった事は一度もありません。―マタイ 6:9。ルカ 11:1,2。

しかしイエス・キリストの役割についてはどうですか。それは「聖人」の役割と似たものではありませんか。そうではない理由を,カトリックの新アメリカ聖書から次のように読むことができます。「キリストにあって,また彼に対する信仰により,わたしたちは確信を抱いて神に近づき,神に向かって自由に語ることができるのです」。誠実なクリスチャンはこのように祈りの中で常に「神に向かって」語るのであり,他のだれに祈るのでもありません。同時に彼らは犠牲をささげた仲保者としてのキリストの役をも認めています。それによって彼らは「わたしたちの父よ」と神に語りかける確信を与えられるのです。したがって聖書は次の事を明白に述べています。「わたしたちが共に崇拝する時,神に向かってわたしたちのアーメンを唱えるのは彼を通してなのです」― エフェソス 3:12; コリント第二 1:20,新アメリカ聖書。ヘブライ 7:24,25と比べてください。

「わたしを通してでなければ,だれも父のもとに行くことはできない」と弟子たちに告げたイエスご自身の言葉は,天で他の者がとりなしの役をすることを明白に除外しています。そして何年か後,イエスも他のクリスチャンたちも既に殉教者の死を遂げた後でも,なお聖書は「神と人類の間に唯一の仲保者,ご自身,人となられたキリスト・イエスがおられる」と明白に述べています。―ヨハネ 14:6,13; テモテ第一 2:5,エルサレム聖書。

天の聖徒による神へのとりなしについて聖書が沈黙している別の理由は,それが全く不可能であったという事のためです。なぜそうですか。迫害されていたテサロニケ人に対し,キリストの再来に関して述べた使徒パウロの言葉に注目してください。

「兄弟たちよ,わたしたちは死の眠りについている人々について,あなたがたにはっきり分かってもらいたいと思います。……主ご自身,命令の言葉と天使長の声と神のラッパの音で天から下って来られるでしょう。そしてキリストにあって死んでいる人々がまずよみがえるでしょう」― テサロニケ第一 4:13-16; コリント第一 15:22,23,51,52と比べてください。新アメリカ聖書。

「キリストにあって死んで」いたこれらの聖徒が「死の眠りについて」おり,キリストの再来の時までよみがえらないのであれば,彼らは天でだれかのためにとりなしを出来る立場にある事など,どうしてあり得たでしょうか。ゆえに聖書は,記録の不完全さ,あるいはあいまいさのためではなく,復活についての聖書自体の教えと一致しているために,この点について沈黙しているのです。

では聖人の列に加えられるための手続きに費やされるこのすべての時間と費用と努力については何と言うべきですか。カトリックの季刊誌クリテックの主筆ジョエル・ウェルズは率直にこう述べています,「教会はそれに費やす金で出来る事が他にいくらもある」。助けを必要とする時に頼るべきかたとして聖人よりも神に信頼する事を誠実な人々に教えるため,これほど徹底した努力を傾けるならばはるかに良い事ではありませんか。

「わたしたちの大祭司はわたしたちにつきまとう弱さを感ずることができないなどというのではないからです」。キリスト・イエスについて聖書はそのように述べています。それで聖書は次のことを勧めています。「それゆえ[神の]恵みの座に近づくにあたり,わたしたちは助けを必要とする時に彼からあわれみを得,恵みを見いだすことを確信しよう」。(ヘブライ 4:14-16,エルサレム聖書)確かに神からの助けは,人間の作った聖人に祈ることによってではなく,神の定められた経路である神のみ子キリスト・イエスを通して「天におられるわたしたちの父」に直接に祈ることによって得られるのです。

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