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  • 目ざめよ! 1972
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目ざめよ! 1972
目72 8/22 5–8ページ

なぜ若い人たちまで死ななければならないのですか

ひとり子をなくして悲嘆に暮れたある母親は,むせび泣きながら言いました。「どうして私の赤ちゃんは死んだの? まだ幾らも生きてはいなかったわ。あの子の人生はこれからだったのに」。

3歳でなくなったある子供の墓碑銘には,「われらをあわれみ給へ」と刻まれていました。「ここに可愛いふたりの赤子が眠る」と墓石に刻ませた英国人の親もいました。

それらの親たちだけが悲しんでいるわけではありません。ほかにも大勢の親が同様の苦しみを味わってきました。普通,悲嘆をわかち合うのは少数の友人にすぎませんが,世の人びとから死を惜しまれる場合もあります。

1970年の4月にフランス・アルプスのプラト・ダシにある結核療養所が地すべりのために破壊され,71人の子供が死にましたが,遺族の悲嘆のほどは世の親には容易にわかります。また同年の9月,インド,南マイソール州での祭りに,喜び勇む子供たちを送り出したのに,子供たちを乗せた船が転ぷくしたとの恐ろしいニュースを聞かされた親の悲しみについても同じことがいえます。

多くの国の母親は息子が政治上の論争のため,また国境や国威の伸展を図るために「命をささげる」のを見てきました。さらに今や世界中に普通に見られる学生の抗議運動は,さらに悲しみをもたらしてきました。1970年に起きたアメリカ,ミシシッピ州のケントおよびジャクソン両州立大学の事件はその例です。

若い人たちの中には,車の無謀な運転,暴飲,麻薬の影響下で自分や他人のなす行為などのために自ら死を招く人がいます。かと思えば,おぼれたり,落雷や火事や嵐に会ったり,鉄砲類や毒物その他を用いて,年若くして一命を失った人もいます。いずれにしても遺族はやがて悲しみを克服し,肉親を失った境遇に順応しながら暮らしてゆきます。

不慮の死の原因

けれども,子供を失って悲嘆に暮れる親はともすれば,どうしてわが子が死なねばならなかったのだろうかと尋ねます。愛する夫の死に面する妻もしばしば同様に尋ねます。「どうして主人が? あの人が死ぬなんて……主人は決して人を傷つけたことがなかったのに!」

人を傷つけたために死ぬ人はまずいませんが,人間はみな,やがてだれもが死んでゆく体制の中に生まれたので,それぞれ何歳かで死ぬのです。この事情を正しく説明した唯一の本は世界最古の本,聖書です。その筆者たちは神の霊感を受けました。ですから,それら筆者の書いた事がらは,わたしたちが関心をいだくに価します。それら霊感を受けた著述家のひとりは,およそ3,000年前に,「生者はその死んことを知る」と書きました。―伝道 9:5。

特定の子供(もしくはおとな)が死に「定められている」わけではありません。たいてい死は偶然に,つまりたまたまその時間にその場所にいたためにもたらされるのです。それは死んだ当人が善良で若くて才能があった,あるいは特に前途有望だったかどうかには少しも関係がありません。霊感を受けた聖書の中で賢明な王ソロモンが述べるとおりです。「我また身をめぐらして日の下を観るに迅速者走ることに勝にあらず……知識人恩顧を得にあらず凡て人に臨むところの事は時ある者偶然なる者なり」― 伝道 9:11。

子供がボールを追いかけて路上に出る場合がありますが,その「時」に車が来なければ,何ごとも起きません。しかし,もし車が疾走してくるとすればそれは(その子の予測しなかった「偶然」であり),子供は負傷したり殺されたりしかねません。その子が死ぬ場合,それは「宿命だった」つまり「あらかじめ運命づけられて」いたためではありません。事前に所定の時間が設けられていたわけではありません。むしろ,車が通った時にたまたま路上にいたために死んだのです。

死者の状態

「生者はその死んことを知る」と書いた,聖書のこの同じ筆者は,ほかならぬこの文章を,多くの人を驚かす次のようなことばで続けています。「然ど死る者は何事をも知ず」― 伝道 9:5,10。

死者は意識がないだけでなく,罰を受けて苦しんでいる,あるいは報いを享受していると教会で教えられてきた人たちは,この考え方に驚かされます。死者は地獄もしくは煉獄で苦しんでいるか,天で祝福を享受しているかのどちらかだと聞かされている人は少なくありません。ところが,神のことば聖書は,死者は「何事をも知ず」と述べています。

このことをご自分で確かめてください。聖書を取り出して,伝道之書 9章5,10節にあるそれらのことばをお読みください。

人間はどれほど長く生きられるか

しかし人間はなんとかして長生きしようとしているのに,なぜ死ぬのですか。人体のような驚くべき有機体がなぜ自らを更新し続けられなくなるのでしょうか。なぜついには老衰してしまうのですか。人間はなぜ誤って事故を起こして死んだりするのでしょうか。

理屈からすれば,人間は今日の寿命よりもはるかに長く生きるために作られたと考えられます。

このことを示す驚くべき人間の頭脳の例をちょっと考えてみましょう。生化学者アイザック・アシモブのことば(1966年10月9日号,ニューヨーク・タイムズ・マガジン誌に引用された)によれば,人間の頭脳はそれだけで,「人間が自ら課しうる学習および記憶上のどれほどの荷重でも ― そして,その10億倍の荷重をも完全に」処理できます。

人間にはなぜ10億生涯も役だつ頭脳が与えられたのでしょうか。以前の世代の人たちも生きてゆくのにそれほどの頭脳を必要とはしませんでしたし,今日のわたしたちの短い生涯中にその受容力を使い尽くせるわけでもありません。人間がこの恐るべき頭脳を,つまり自己の必要を10億倍も上回る頭脳をどのようにして,あるいはなぜ「進化」させてきたのか,進化論では説明がつきません。この頭脳は,短い寿命以上のものを考えたうえで人間に付与されたに違いありません。

それは付与されたものなのです。

聖書巻頭の書(創世記 1章)には創造について詳述されていますが,それは簡潔また率直な筆致でしるされています。創造の画期的な幾つかの時代(記録の中では「日」と呼ばれている)のうちにさまざまの生物が創造され,おのおの「種類」にしたがって繁殖し,親が死んだのちも生き続けてゆく子孫を生み出しました。(創世 1:11,12,20-24,新)次いで人間が創造されました。

動物は動き回ったり,愛情や怒りを示したり,群棲したりして,植物よりもずっと高い水準をもって生存できました。一方,人間は動物よりもはるかにまさっています。人間は進歩し,学んだことを基にして物事を築き,言語を介して考えを伝達し,善悪を判断できたのです。それに,道徳観念を持ち,公正と義を考えました。

そして驚くべきことに,創世記の記録によれば,人間は,死ななくてもすむほど,動物とは非常に異なっていたことがわかります。

動物は生まれてはやがて死にましたが,人間はそうではありませんでした。創造の記録の中には ― 創造者に背く場合を別にすれば,人間が死ぬことを述べだ箇所は一つもありません。神は最初の人間に対して,人間は神に背くなら,その日に「必ず死ぬ」と仰せられました。―創世 2:17,新。

最初の男と女は,もし神に対して従順を保っていたなら,死ななかったでしょう。そして,殖えて,ついには地を満たしていたことでしょう。(創世 1:28)ふたりのからだは自らを更新し続けたでしょうし,また人間男女は,今日自らに課しうる学習荷重の10億倍分を処理できる頭脳を活用しえたでしょう。

死がはいる

しかし,実際にはそうなりませんでした。最初の夫婦は確かに背いたのです。ふたりは自ら永遠の命を得そこない,またそれゆえに,そうした見込みを子孫に伝えられなくなりました。クリスチャンの使徒パウロはこのことを神話ではなくて現実の事実として認めて,こう書きました。「一人の人[アダム]によりて罪は世に入り,また罪によりて死は世に入(れ)り」― ロマ 5:12。

罪は代々伝わってきたので,人間は死んでゆきます。それで,使徒は続けて述べました。「凡ての人,罪を犯しし故に死は凡ての人に及べり」。(ロマ 5:12)中には子供のときに死ぬ人もいれば,年取ってから病気あるいは事故のために死ぬ人もいます。

かと思えば,自ら携わる行為ゆえに死を早める人もいます。スピードを上げる無謀な運転者は自分と他の人びとの命を危うくします。喫煙者は肺ガンにかかって苦しんで死ぬおそれがあります。今日の利己的な事物の体制は,多くの人命を犠牲にしてきた政治的また国家主義的さらには商業的慣行にさえ人びとを駆り立てています。しかし聖書は,死んだ人たちのためにさえ希望を差し伸べています。

感動的な復活!

聖書は,イエスの贖いの犠牲によって人類のための崇高な希望の道が開かれたことを教えています。イエスはその人間としての命を犠牲にすることにより,アダムが失ったもの ― 地上における完全な人間としての命 ― と全く同等のものを犠牲としてささげました。死んでゆく人類のための「贖い」の値を払われたのです。今や永遠の命を得る見通しが再び開かれました。ですから,使徒ペテロがイエスを神のお用いになる「命の主要な代理者」と呼んだのは適切でした。(使行 3:15,新)神は感動的な復活にさいして,このかたによって死者をよみがえらせるのです。このことについてクリスチャンの使徒パウロは,「義者と不義者との復活あるべし」と言いました。―使行 24:15。

しかし,復活によって戻ってくる死者はどれほど長く生きられるのでしょうか。それは彼らの取る行動いかんに,また神のお用いになる「命の主要な代理者」イエスに対して従順かどうかにかかっています。信仰と従順を働かせるなら,それらの人は永遠に生き続けられます。

今日でさえ神のみ子に信仰を働かせている人たちがいますが,それらの人びとの前にはすばらしい希望があります。イエスが言われたとおりです。「それ神はその独子を賜ふほどに世を愛し給へり,すべて彼を信ずる者の亡びずして永遠の生命を得んためなり」― ヨハネ 3:16。

この聖句を引用できる人は少なくありませんが,その趣旨を考えてきた人はごく少数です。その句は,人びとが「天使になる」ため,あるいは,「善人がすべて天に行くため」にイエスがその命を与えたとは述べていません。イエスがそうなさったのは人びとが「永遠の生命」を得るためである,と述べています。

正しい新しい状態

この地から現在の邪悪な体制が一掃される時となる「大かん難」ののち,神の正しい新しい事物の体制のもとで,この永遠の命は可能となります。(マタイ 24:21,新)今や間近に迫ったこの正しい新しい体制こそすべてのクリスチャンが祈り求めてきたものです。彼らは,神が地上の事がらに介入して,物事の仕方に徹底的な変化を加えてくださるよう願い求めてきました。

もしかしてあなたは,「私は一度もそのようなことは祈り求めたことがありません」と言われるかもしれません。

しかし,自らクリスチャンと唱える人はほとんどすべてそれを祈り求めてきたのです。ちょっとの間,イエスの教えられた「主の祈り」とも呼ばれている模範的な祈りのことばづかいについて考えてみましょう。神のみ名が清められることを祈り求めてから,こう祈ります。「御国の来らんことを。御意の天のごとく,地にも行はれん事を」― マタイ 6:10。

その祈りが聞かれる,つまり神の意志が天でなされるように全地でなされるとき,どんな変化が生ずるかを理解している人はごく少数です。実際のところ,そのためには神が現在のこの事物の体制をその戦争や腐敗そして貪欲もろとも取り替える必要があります。神がエデンで最初に創造した平和と命の宿る状態を保証する新しい体制がそれに取って替わります。今や間近に迫ったそのような新しい状態のもとで地的な復活が行なわれます。

このことを考えると,天の神のもとから到来するすばらしい祝福について述べた黙示録 21章2-4節にある約束のことばを理解できます。そのような祝福は地球に関してどんな変化をもたらしますか。神の天の王座からの声が使徒ヨハネに告げることに耳を傾けてください。「[神は]かれらの目の涙をことごとく拭ひ去り給はん。今よりのち死もなく,悲歎も,號叫も,苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり」。

地上における永遠の命のこの驚くべき回復はあまりにもすばらしすぎて,まるで信じがたいものでもあるかのように,使徒ヨハネはほかならぬ天から与えられた特別の保証のことばをこうしるしています。「斯て御座に坐し給ふもの言ひたまふ『視よ,われ一切のものを新にするなり』また言ひたまふ『書き記せ,これらの言は信ずべきなり,真なり』」― 黙示 21:5。

きたるべき「大かん難」

しかし,正しい新しい状態のもとでの永遠の命に関して聖書が差し伸べるすばらしい希望の益にあずかりたいと思われますか。それは真剣に考えるべき事がらです。なぜなら,わたしたちは全能の神がまもなく「大かん難」にさいしてこの事物の体制を終わらせようとしておられる時に生活しているからです。

聖書にしるされている神の警告に留意しようとしない地上の相当数の人びとは命を失います。地球の創造者は,今日明らかに見られるその律法の身勝手な破棄者を永遠に容赦されるわけではありません。神の預言者エレミヤは書きました。「其日エホバの戮したまふ者は地の此極より地の彼の極に及ばん」。(エレミヤ 25:33)聖書によれば,それらエホバによって殺される者は復活によって戻らず,「限りなき滅亡の刑罰を受」けます。―テサロニケ後 1:7-9。

敬虔の道を選ばない親は,きたるべき「大かん難」で自分自身の命だけでなく,幼いわが子の命をも失うことになります。その「大かん難」は問題を起こす人間を地から一掃するものとなり,そののち,義と平和を伴う新秩序が確立されます。

たとえ今日,アダムから受け継いだ罪のゆえに人びとが老若の別なく死ぬとはいえ,キリストの贖いの益にあずかって,神の教えに従うことは可能です。わたしたちは,きたるべき「大かん難」を生き残るか,そののちに復活させられるかして,今や間近に迫った清められた正しい地にはいることを可能にする従順の道を取ることができます。死んだ愛する人たち,もしかしてお子さんがよみがえらされる時,ともに居合わせるのはなんという祝福でしょう。その喜びは大きなものでしょう。愛する人たちを失った人びとに聖書は何と驚くべき希望を与えるのでしょう。

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