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常に将来を見,エホバと共に前進しなさいものみの塔 1975 | 5月1日
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を豊かに与えられ,また唯一の真の神エホバを共に崇拝する友だちや仲間にたくさん恵まれるでしょう。その人々はみな,神の霊の実を示しているでしょう。―詩 133:1。ガラテア 5:22,23。テモテ第一 6:17。
22 どのように,そしてどんな分野で,わたしたちは個人的にエホバと共に前進できますか。
22 その時までわたしたちには,エホバとの関係を深め,信仰において結ばれている人たちへの愛を深め,自分の生活をますます神のご意志に一致させる非常によい機会があります。個人的に行なう勉強,祈り,集会に出席すること,学んだことを適用することなどは,わたしたちの霊的な進歩に大きな役割を果たします。エホバが備えてくださったものを活用して霊的に成長をつづけるときに,わたしたちは自分が希望を強く保つだけでなく,他の人々も神が与えてくださった希望を自分のものとし,またそれに従って生きるよう,機会をよく利用して助けずにはいられなくなるでしょう。いま進歩するなら,キリストとその花嫁の千年統治期間中に完全になるのに必要な態度を養うことにおいて,一歩先んじることになるでしょう。ですからわたしたちは前進しつづけましょう。
23 どんな事実があるので,パウロはヘブライ 6章10,11節でどんなことを保証していますか。
23 エホバは,意図されたことや約束されたことは必ず成し遂げられます。エホバのことばが,むなしくエホバにかえることはありません。そのことに疑問の余地は全くありません。使徒パウロがわたしたちに保証しているように,神は不公平なかたではありませんから,わたしたちが「そのみ名を愛するがゆえに行なった」事柄すべてをお忘れになることはありません。それでわたしたちは,「[わたしたちの]希望が最後に実現するまで,同じ熱意ある関心」を示しつづけましょう。―ヘブライ 6:10,11,新英語聖書。
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裁くべき時がありますかものみの塔 1975 | 5月1日
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裁くべき時がありますか
イエス・キリストは一群の聴衆に向かって,「自分が裁かれないために,人を裁くのをやめなさい」と言われました。(マタイ 7:1)それによってイエスは,裁くことを一切禁じようとしておられたのでしょうか。それとも,裁断を下すのがまさにふさわしく,しかもそうしたからといって神からの不利な裁きを受けないような場合がありますか。
聖書は確かに,神の献身した民の会衆内で裁断を下さなければならないような事態が持ち上がることを示しています。例えば長老たちは,重大な悪行に関係するようになった仲間の信者を裁くよう求められるかもしれません。(コリント第一 6:1-6)長老たちは,そのような悪行者が真に悔い改めて,聖書の原則と調和した生活を送りたいと願っているかどうかを判断しなければなりません。悔い改めない人の場合,長老たちは,「その邪悪な人をあなたがたの中から除きなさい」という聖書の命令にあくまでも従わねばなりません。―コリント第一 5:13。
しかし,ある人を悔い改めない悪行者として裁く際に,長老たちは神のことば聖書の中ですでに明らかにされている裁きと一致した行動を取っている点に注目できるでしょう。長老たちは,自分自身の見解に基づく私的な裁きを行なっているわけではありません。私的な裁きを行なうとすれば,その決定が私的偏見の影響を受ける道を開くことになるので危険です。
長老たちが評価を行なわなければならないもう一つの領域となるのは,クリスチャンの兄弟たちが会衆内で奉仕のしもべもしくは長老として奉仕する資格を持っているかどうかを考慮する場合です。その場合でもやはり,個人的な見解ではなく神のことばに基づいて評価しなければなりませ
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