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  • 他の人の宗教を批判すること ― それはキリスト教の精神に反しますか
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目ざめよ! 1975
目75 3/8 26–27ページ

聖書はそれをどう見ていますか

他の人の宗教を批判すること ― それはキリスト教の精神に反しますか

アメリカ,メリーランド州ボルチモアの司教管区新聞,カトリック・レビュー紙は,アメリカのある宗教団体に関する記事を掲載しました。

その反響として,同紙は不満の意を表わす何通かの手紙を受け取りました。どうしてですか。カトリック・レビュー紙の編集者は次号の同紙上で,不満を示したそれらの人々は,「世界教会運動の行なわれている現代のわれわれには,他の宗教団体を批判したものとだれかに受け取られるような事柄を発表する権利はない」と感じている,と述べました。あなたは同意なさいますか。

「はい同意します」と答えて,「宗教にはすべて良いところがあります」とか,「宗教はすべて神に到達します」と言う人は少なくありません。例えば,「目ざめよ!」誌は最近,聖書に照らして仏教の教えを検討した記事を載せました。ある仏教の僧正はそれに異議を申し立て,現代は「人種,国家,宗教を総合した理解がなされるべき時代」であると述べました。確かに,今は自由で,普遍的な見解を持つべき時代であると考えている人々は少なくありません。

しかしながら,現代はまた,正直や率直さが勧められ,また必要とされる時代ではありませんか。それに,これは宗教の分野にもあてはまるのではありませんか。なかには,そうは考えない人々もいます。マドリードのあるカトリック新聞の引用によれば,イエズス会の総会長ペドロ・アルペは次のように述べました。「わたしは教会に対するいかなる批判にも断固として反対する。……いかなる欠点であれ,たとえそれが真実であっても,個人あるいは団体によって公にうんぬんされることは,それが善意でなされていると否とにかかわりなく,わたしには我慢できない」。しかし,このことばを評したカトリック・ワールド紙は,イエズス会のその指導者は「ひと昔前の時代の理想をおうむ返しにくり返している。教会は峠を越したのだ」と述べました。同様に,ヨーロッパの指導的カトリック神学者の一人は次のように評しました。「われわれは教会内のあらゆる事柄に同意し,賛成しなければならないとは言えない。批判,それも特に声を大にして批判することは義務であると言えよう」―「公会議,政革,再合同」。

しかし,それよりもさらに重要な見方があります。聖書,特にキリストの生涯に関するその記録からすれば,他の人の宗教を批判するのはキリスト教の精神に反するかどうかについてどんな結論を下せるでしょうか。

なかには,宗教をそのように批判することに対して眉をひそめ,イエスの述べた次のことばを引き合いに出す人がいます。「裁いてはならない。それはあなたがたが裁かれないためである」。(マタイ 7:1,ドゥエイ訳)さらに,キリストは聞き手に向かって,自分の目の中にある垂木を抜き取ってしまうまでは,『兄弟の目の中にあるわら』を大目に見るようにと語られました。(マタイ 7:3-5)しかし,これは何を意味していますか。

ジャミィソン,フォセットおよびブラウンの注釈は次のように述べています。「文脈を見れば明らかなように,ここで非とされている事柄は,他人の性格や行動を好意的な態度で見ようとしない傾向のことであり,そのような傾向があれば,他の人に対しで性急で,不当な,愛に欠けた判断を下すようになるのは必至だからである」。イエスは人が個人的に行なう『裁き』をさしていましたが,注釈者アルバート・バーンズはその点を確証して,イエスは「私的な裁きに言及し……おそらく主として,律法学者やパリサイ人の習慣のことを話しておられた」と述べています。クリスチャンは各自イエスの助言を適用して,他の人の個人的な習慣や好みを性急な態度で裁かないようにすべきです。(ローマ 14:1-4,10と比較してください。)それで,マタイ 7章1節から5節で,イエスは他の宗教の信条や慣行について,聖書に基づく率直な意見を述べることを禁じておられたのではありません。どうしてそう確言できるでしょうか。イエスご自身の実例を考えてみましょう。

ある時,イエスは,神のみことばの原則に従うよりも,自分たちの伝統に一層注意を払ったユダヤ教のある宗教指導者たちについて話されました。キリストは他の人の宗教を批判することを注意深く避けましたか。それどころかマタイ 15章6-9節に記されているように言われました。

おそらくさらに要点をついていると思われるのは,マタイ 23章にあるイエスの講話です。彼は宗教指導者たちを「盲目の愚者」「盲目の指導者たち」「蛇,まむしの子ら」と呼びました。(マタイ 23:16,17,24,33,ノックス訳)このようなことばに接してショックを受けますか。この場合も,イエスは「キリスト教の精神に反して」いましたか。ローマ・カトリックの司祭,布教修道会士ブルース・ボーターは,「この話はその長さといえ,その厳しさといえ,やや当惑を感じさせるものであるが,それは歴史的記録であり,また,福音書の音信の一部でもあるということを直視しなければならない」―「四福音書,序論」。

しかし,次のように自問してみてください。イエスは,ご自分が宣べ伝えたのと同じ神に仕えていると主張する宗教家を,どうして公に批判したのでしょうか。その動機は誤っていましたか。いいえ,決してそうではありません。イエスは柔和で親切でしたが,義に対する愛と,正直な心を持つ人々を助けたいという願いに動かされて,神の啓示されたご意志に逆らって教えたり,行動したりする人々を批判したのです。―マタイ 11:28-30。ヘブライ 1:9。

また,イエスの率直なことばは,人々を助けることができました。例えば,危険な機械の操作を学ぶ際,あなたがいつも重大な誤りを犯していたならどうですか。自分がけがをしたり,他の人を殺傷したり,あるいは誤って命を失ったりする事態が生じないうちに,だれかに誤りを正してもらえるなら,あなたは益を受けるのではありませんか。したがって,イエスの真実の批判を聞いたユダヤ人は,神の是認と救いを得る道を歩むよう助けを受けることができました。

このような適切な批評を行ない得たのはキリストだけでしたか。いいえ,聖書はイエスの弟子たちもまた,宗教的誤りに注意を向けさせたことを明らかに示しています。例えば,ステファノがユダヤ人の指導者たちを大胆に非難したことばを読んでご覧なさい。(使徒 7:51-54)また,使徒パウロはアテネ人の偶像崇拝を「無知」な行為として烙印を押したことに注目してください。(使徒 17:29,30)さらに,それら一世紀のクリスチャンは真理に対する愛から,クリスチャンと自称する者たちが真のキリスト教から逸脱したことを暴露しました。―テモテ第一 1:19,20。テモテ第二 2:16-19。

しかし,もしあなたがその当時生きていて,イエスの追随者たちがあなたの友人や親族の宗教を批判したならどうですか。今日と同様,不快に感ずるのは容易だったでしょう。それにしても,弟子たちの批評は批判的でしたが,正しかったことは否定できません。そして,それは神のみことばの中に収められているのです。イエスの場合のように,そのような批判の背後にあった動機は良いものでした。それで弟子たちは宗教的な誤りを指摘する点で,キリスト教の精神に反していたのではなく,その精神と一致していたのです。

したがって今日,他の人の宗教に関し,聖書に基づく批評を述べるのは,キリスト教の精神に反することでしょうか。聖書によれば,その答えは「否」です。確かに,ある人の宗教の教えや慣行の誤りを明らかにするのは最初はか酷なことと思えるかもしれません。しかし,それに対してどう反応すべきでしょうか。ステファノの批判のことばを聞いて激しく憤った人々のようであってはなりません。むしろ,パウロの批評を聞いた何人かのアテネ人の示した優れた反応に注目してください。彼らは聖書の真理を受け入れて信者になり,永遠の益を受けるようになりました。―使徒 17:11,12と比較してください。

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