選択の自由を乱用しない
「あの人どうしてあんな色のドレスが好きなのかしら。私だったらぜったいに着ないわ」。「古典音楽? 大きらい!」。「あなた肉を食べるの? それはいちばんからだに悪いのよ!」。
人の好ききらいをあげればまだいくらでもあるでしょう。「甲の薬は乙の毒」ということわざがありますが,このことわざは,人それぞれの好みが非常に違うことをよく表現しています。
好みの相違は,人間が選択の自由をもつことを示します。人はだれでもこの自由を愛しますが,それは当然のことで,神がそのように造られたからです。人間は自由道徳行為者として造られ,生活の諸問題においてかなりの選択の自由を与えられています。
しかしこれは,人間の自由が無限であるということではありません。神のことばである聖書は,崇拝,教理,品行などの問題にかんして,正しい道をくわしく教えています。何が正しく,何が間違いかについては,明示されている場合が少なくありません。神はそれを人間個々の決定にまかされないのです。しかし人間には,神の教えに従うかどうかを選択する自由があります。そしてその選択のそれぞれの結果は自分で刈り取らねばなりません。
とはいっても聖書が,人間の一挙一動を直接に規制する法律を定めているわけではありません。個人の選択,創意,好みにまかされた分野は広く残されています。その結果個人の好みの多様性が表われ,生活はいっそうおもしろいものになります。聖書が選択の自由を与えるあらゆる事柄において,すべての人が全く同じ好みをもつとすれば,どんなに単調でおもしろみが少ないことでしょう。ですから聖書の原則にいつも従うことは当然ですが,食物,衣服,娯楽,家具その他多くのものの選択は,個人の好みにまかされているのです。しかしその選択の自由を行使するさいには,他人の選択の自由を犯さぬよう注意しなければなりません。
たとえばあなたは音楽を聞くのがたいへん好きかもしれません。それはあなたの自由です。しかし隣りの人は音楽を聞くよりも静かに読書するのを好むかもしれません。この場合,自分の好みによって他人を妨げてはなりません。いつまでも大きな音で音楽をかけて隣の人に迷惑をかけるなら,他人の選択の自由を犯しているのです。隣の人はあなたの音楽を聞きたくて聞いているのではなく,むりやりに聞かされているのです。あなたは自分の自由を悪用しているわけです。ここで思い出さねばならぬ聖書の原則はこれです。「だから,何事でも人々からしてほしいと望むことは,人々にもそのとおりにせよ」。(マタイ 7:12)だれでも人の好みを押しつけられるのはいやなものです。では自分の好みを人に押しつけないようにしましょう。
またクリスチャンの良心という問題も考慮しなければなりません。クリスチャンは音楽を選ぶ自由があるのを知っていると同時に,暗示的で,風紀を乱すような歌謡曲があることも知っていて,そのようなものを避けます。そして,正しいこと,清いことで心を満たします。選択の自由を悪用して,霊的に自分を害するようなことをしません。―ピリピ 4:8。
衣服のことについてもクリスチャンは,大きな選択の自由がゆるされています。しかしある地方では好ましい,きちんとした服装とされているものも,他の地方では下品で,慎みを欠いたものと見られるかも知れません。ですからクリスチャンは賢明な判断を用いて衣服を選ばねばなりません。聖書は婦人に次のような助言を与えています。「女はつつましい身なりをし,適度に慎み深く身を飾るべきで……」。(テモテ前 2:9)ゆえにクリスチャンの婦人は,身なりを慎しみ,注意して道徳の低下したこの世の流行に押し流されぬようにし,同時に,他人を批判する者にならぬように気をつけねばなりません。
何を食べるかについても聖書は,クリスチャンの選択にまかせています。(コリント前 10:25)肉を好む人もあれば,菜食主義の人もあります。両者とも何を食べようと自由です。ある人が肉やその他の食物を食べないからといってその人を批判すべきではありません。「食べる者は食べない者を軽んじてはならず,食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。他人の僕をさばくあなたは,いったい,何者であるか」。―ロマ 14:3,4。
しかしこの食べることにおいても円熟したクリスチャンは,分別を用いて選択の自由を乱用しません。もし他の人がある種の食物あるいは飲物をよくないと考えているなら,その人の前で自分の権利を固執しません。クリスチャンは他の人に思いやりを示しながら,選択の自由を行使します。―コリント前 10:23,24,32,33; 8:7-13。
神のことばが,多くの事柄において,クリスチャンに広範囲の選択の自由をゆるしている以上,各クリスチャンは,「人をさばくな,自分がさばかれないためである」というイエスのいましめを真剣に考えてみる義務があります。(マタイ 7:1)他人が自分とはかなり違う趣味をもち,同じ事をするにも違った方法を用いるのは当然です。それを,批判したり,いろいろな人のところへ行って,だれだれさんのすることをどう思いますか,などと言ってその人の立場を悪くし,その人の自由を侵害するのは,クリスチャンのすることではありません。それよりも,自分がよい手本となり,他の人のことなら,その人のクリスチャンとしての円熟への進歩をほめるほうがずっとよいことです。
といっても家庭で両親が子供をこらしたりしつけたりせずにしたい放題のことをさせてよいという意味ではありません。子供をしつけるのは親のつとめです。クリスチャンの監督も愛をもって会衆内のすべての人に心を配る責任があります。時に,重大問題に発展しかねない状態が目にとまり,監督は,健全な助言を与えてそれをさけるように助けることがあります。その場合監督の心からの願いは人の選択の自由を犯すことではなく,聖書の原則の適用の仕方を示して,選択の自由を賢明に行使するように援助することです。
たしかに選択の自由は人間にとって望ましいものであり必要なものです。しかしそれを行使する際には賢明でなければなりません。あらゆる面で自由勝手に振舞うなら,神の是認は受けられず,仲間との調和も保たれないことをわきまえていなければなりません。円熟したクリスチャンは,常に次の聖書の原則に従います。「自由人にふさわしく行動しなさい。ただし,自由をば悪を行う口実として用いず,神の僕にふさわしく行動しなさい」。―ペテロ前 2:16。