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  • 山上の垂訓 ―「狭い門を通ってはいりなさい」
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1979
塔79 2/15 29–31ページ

山上の垂訓 ―「狭い門を通ってはいりなさい」

イエスは,ご自分の話を聞いていた人々に,神のご意志を行なう上での助けを熱心に祈り求めるよう励まされた後,次のように言明されました。「狭い門を通ってはいりなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通ってはいって行く者は多いからです。一方,命に至る門は狭く,その道はせばめられており,それを見いだす者は少ないのです」― マタイ 7:13,14。

古代において,門を通り抜ける道は,都市に入るための手段となっていました。聖書では,しばしば個人の送る人生が道や小道になぞらえられています。(箴 4:18,19)神のみ子によれば,「滅び」,つまり神の恵みを失って死に至る道は,『広くて大きなものです』。それは,人々が聖書的な行動の基準に従うよう変化することもなく,望むままに生きることを許します。“安楽な生活を送る”そうした大きな道を選んできた人は『多く』います。

一方,聖書はメシアによる神の王国を,「狭い」門や『せばめられた』道を通って入る都市になぞらえています。(ヘブライ 11:10; 13:14をご覧ください。)こうした「[永遠の]命に至る道」を歩む人々は,ふさわしい動機を抱くよう自分の心を訓練しなければなりません。彼らは人間の行動のあらゆる分野で自制を働かせねばなりません。また真の崇拝の「この道」は,時には激しい迫害に耐えることをも求めます。(使徒 9:2; 19:9,23; 22:4)大抵の人は,自己犠牲のために尽力したり自制をしたりすることのない生活を望んでいますから,神を喜ばせる生き方を追い求めようとはしません。ですから,命に至る狭い門とせばめられた道を「見いだす者は少ないのです」。―マタイ 7:8,ルカ 13:24と比較してください。

次いでイエスは,命に至る道にとどまりたいと願う人々に次のような警告を与えました。「羊のおおいをかぶってあなたがたのもとに来る偽預言者たちに警戒していなさい。内側では,彼らはむさぼり食うおおかみです」― マタイ 7:15。

イエスは,「偽預言者たち」という表現により,神を代表すると偽って主張する宗教上の教師たちのことを言っておられました。そうした欺く者たちは「羊のおおいをかぶって」現われたものです。彼らは,優しさや柔和さ,また羊のような他の特質を偽善的な仕方で誇示することにより,自分たちが神の崇拝者の“群れ”の一部であるという印象を与えようとしました。(詩 78:52; 80:1; 100:3をご覧ください。)しかし,内面的には,偽預言者たちは「むさぼり食うおおかみ」,つまり,非常に貪欲で,自分を満足させるために他の人々をえじきにしようとするものなのです。

神のみ子は,偽預言者たちが「あなたがたのもとにくる」,つまり,「りっぱな羊飼い」としてご自分が集められる群れの外からくると言われました。(ヨハネ 10:11)欺く者たちは,遠い将来に現われるおそれがあるというのではなく,すでにその時存在していたのです。イエスは特に,神の代弁者であると偽って主張していたパリサイ人のことを考えておられたようです。パリサイ人たちは,「モーセの座にすわって」,神の律法の正式の解釈者であると主張していました。(マタイ 23:2)しかしパリサイ人たちは,実際には人々が命に至る狭い門やせばめられた道を見いだせないようにしていた偽善者でした。(マタイ 23:13-15。ルカ 6:39)見せかけの「羊のおおい」について,後日イエスが話された次のような言葉は教訓的なものです。

「偽善者なる書士とパリサイ人たちよ,あなたがたには災いが来ます! あなたがたは白く塗り上げた墓に似ているからです。それは,外面はなるほど美しく見えますが,内側は死人の骨とあらゆる汚れに満ちているのです。そのように,あなたがたもまた,たしかに外面では義にかなった者と人に映りますが,内側は偽善と不法でいっぱいです」a ― マタイ 23:27,28。

人は,『羊のおおいをかぶったおおかみ』をどのようにして見分けられますか。イエスは,一つの例えと共に基本的な指針を与えられました。「あなたがたは,その実によって彼らを見分けるでしょう。いばらからぶどうを,またあざみからいちじくを集めることはないではありませんか。同じように,良い木はみなりっぱな実を生み出し,腐った木はみな無価値な実を生み出すのです。良い木は無価値な実を結ぶことができず,また腐った木がりっぱな実を生み出すこともできません。りっぱな実を生み出していない木はみな切り倒されて火の中に投げ込まれます」― マタイ 7:16-19。

実のなる木や植物はどれも,独特の種類の実を生み出します。すべての植物が,人間の食用になる実を生み出すわけではありません。いばらやあざみから,ぶどうやいちじくのような食べられる実を得ようとするのは時間の浪費となります。人間の食用に適した実は,損なわれていないふさわしい種類の木からとれるに違いありません。ある木が一貫して「無価値な実」を生み出すなら,それはその木自体が「腐った」ことの確かなしるしです。そのような腐った木は「切り倒されて」,いばらや雑草と一緒に,火を燃やす燃料として使われるでしょう。―詩 58:9,伝道 7:6,イザヤ 44:14-16,マタイ 6:30; 13:30と比較してください。

イエスは,話を聞いていた人々が農耕生活からのこの例えを聞いてまだ記憶に新しい間に,基本的な原則を繰り返されました。「それでほんとうに,あなたがたはその実によってそれらの人びとを見分けるでしょう」。(マタイ 7:20)比ゆ的な意味で,それらの「実」には,偽預言者たちが教えの面で述べる事柄も含まれるでしょう。その点に関してイエスは次のように付け加えられました。「善良な人は自分の心の良い宝から良いものを出し,邪悪な人は自分の邪悪な宝から邪悪なものを出します。心に満ちあふれているものの中から人の口は語るからです」― ルカ 6:45。

偽預言者の真の性質を明らかにする実には,彼らの行為全般も含まれるでしょう。(マルコ 7:21-23と比較してください。)人は,自分の本当の心の状態をいつまでも隠しておけるものではありません。最後には,その人の言動により,どんな人であるかが暴露されるでしょう。

[脚注]

a 偽預言者としてのパリサイ人について,デービッド・ヒルはビブリカ誌(1976年版,第57巻)に次のように書いています。「ヨセフスは,起ころうとする事柄の予知力を持ちそれを政治上の目的で用いたパリサイ人のことを知っている。(同,17巻,41-45頁)また,預言をしたポリオンという人とその弟子サマイアスについて,別の箇所で述べている(同,14巻,172-176頁,15巻,3,370頁)。しかし,乏しい,そして恐らくは混乱したヨセフスの情報よりも重要なのは,一団としてのパリサイ人が,自分たちを,重要で預言的な伝統の継承者と見ていたという事実である。彼らは,大議会を構成する人々からその伝統を引き継いだが,それらの人々は預言者の家系の最後の者から伝統を受け取っていた。また,パリサイ人たちは,初期の預言者たちを通して伝達された啓示に,当時としては可能な限り似せた方法を用いて,聖書解釈の権威者としての仕事に従事した。……彼らの後継者と同様,彼らについては,『もし彼らが預言者ではなくても,預言者の子たちである』と言われた(ヒレル[イエスの時代のころに生きていたラビ]による)。これと全く一致しているのは,預言者たちの墓を建て義人たちの記念碑を飾るパリサイ人たちについて述べたイエスの言葉である(マタ 23:29)。それゆえ,イエスの時代のパリサイ人たちが,預言者の役割や権限(名でないとしても)に対する権利を主張したとしても不思議ではない」。

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