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  • 山上の垂訓 ―「狭い門を通ってはいりなさい」
    ものみの塔 1979 | 2月15日
    • なぞらえています。(ヘブライ 11:10; 13:14をご覧ください。)こうした「[永遠の]命に至る道」を歩む人々は,ふさわしい動機を抱くよう自分の心を訓練しなければなりません。彼らは人間の行動のあらゆる分野で自制を働かせねばなりません。また真の崇拝の「この道」は,時には激しい迫害に耐えることをも求めます。(使徒 9:2; 19:9,23; 22:4)大抵の人は,自己犠牲のために尽力したり自制をしたりすることのない生活を望んでいますから,神を喜ばせる生き方を追い求めようとはしません。ですから,命に至る狭い門とせばめられた道を「見いだす者は少ないのです」。―マタイ 7:8,ルカ 13:24と比較してください。

      次いでイエスは,命に至る道にとどまりたいと願う人々に次のような警告を与えました。「羊のおおいをかぶってあなたがたのもとに来る偽預言者たちに警戒していなさい。内側では,彼らはむさぼり食うおおかみです」― マタイ 7:15。

      イエスは,「偽預言者たち」という表現により,神を代表すると偽って主張する宗教上の教師たちのことを言っておられました。そうした欺く者たちは「羊のおおいをかぶって」現われたものです。彼らは,優しさや柔和さ,また羊のような他の特質を偽善的な仕方で誇示することにより,自分たちが神の崇拝者の“群れ”の一部であるという印象を与えようとしました。(詩 78:52; 80:1; 100:3をご覧ください。)しかし,内面的には,偽預言者たちは「むさぼり食うおおかみ」,つまり,非常に貪欲で,自分を満足させるために他の人々をえじきにしようとするものなのです。

      神のみ子は,偽預言者たちが「あなたがたのもとにくる」,つまり,「りっぱな羊飼い」としてご自分が集められる群れの外からくると言われました。(ヨハネ 10:11)欺く者たちは,遠い将来に現われるおそれがあるというのではなく,すでにその時存在していたのです。イエスは特に,神の代弁者であると偽って主張していたパリサイ人のことを考えておられたようです。パリサイ人たちは,「モーセの座にすわって」,神の律法の正式の解釈者であると主張していました。(マタイ 23:2)しかしパリサイ人たちは,実際には人々が命に至る狭い門やせばめられた道を見いだせないようにしていた偽善者でした。(マタイ 23:13-15。ルカ 6:39)見せかけの「羊のおおい」について,後日イエスが話された次のような言葉は教訓的なものです。

      「偽善者なる書士とパリサイ人たちよ,あなたがたには災いが来ます! あなたがたは白く塗り上げた墓に似ているからです。それは,外面はなるほど美しく見えますが,内側は死人の骨とあらゆる汚れに満ちているのです。そのように,あなたがたもまた,たしかに外面では義にかなった者と人に映りますが,内側は偽善と不法でいっぱいです」a ― マタイ 23:27,28。

      人は,『羊のおおいをかぶったおおかみ』をどのようにして見分けられますか。イエスは,一つの例えと共に基本的な指針を与えられました。「あなたがたは,その実によって彼らを見分けるでしょう。いばらからぶどうを,またあざみからいちじくを集めることはないではありませんか。同じように,良い木はみなりっぱな実を生み出し,腐った木はみな無価値な実を生み出すのです。良い木は無価値な実を結ぶことができず,また腐った木がりっぱな実を生み出すこともできません。りっぱな実を生み出していない木はみな切り倒されて火の中に投げ込まれます」― マタイ 7:16-19。

      実のなる木や植物はどれも,独特の種類の実を生み出します。すべての植物が,人間の食用になる実を生み出すわけではありません。いばらやあざみから,ぶどうやいちじくのような食べられる実を得ようとするのは時間の浪費となります。人間の食用に適した実は,損なわれていないふさわしい種類の木からとれるに違いありません。ある木が一貫して「無価値な実」を生み出すなら,それはその木自体が「腐った」ことの確かなしるしです。そのような腐った木は「切り倒されて」,いばらや雑草と一緒に,火を燃やす燃料として使われるでしょう。―詩 58:9,伝道 7:6,イザヤ 44:14-16,マタイ 6:30; 13:30と比較してください。

      イエスは,話を聞いていた人々が農耕生活からのこの例えを聞いてまだ記憶に新しい間に,基本的な原則を繰り返されました。「それでほんとうに,あなたがたはその実によってそれらの人びとを見分けるでしょう」。(マタイ 7:20)比ゆ的な意味で,それらの「実」には,偽預言者たちが教えの面で述べる事柄も含まれるでしょう。その点に関してイエスは次のように付け加えられました。「善良な人は自分の心の良い宝から良いものを出し,邪悪な人は自分の邪悪な宝から邪悪なものを出します。心に満ちあふれているものの中から人の口は語るからです」― ルカ 6:45。

      偽預言者の真の性質を明らかにする実には,彼らの行為全般も含まれるでしょう。(マルコ 7:21-23と比較してください。)人は,自分の本当の心の状態をいつまでも隠しておけるものではありません。最後には,その人の言動により,どんな人であるかが暴露されるでしょう。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1979 | 2月15日
    • 読者からの質問

      ● テモテ第一 6章15,16節には「ただひとり不滅性を持(つ)…かた」と述べられています。これがエホバにではなく,イエスに適用されるのはなぜですか。

      この節は次のようになっています。「その顕現は,幸福な唯一の大能者がその定めの時に示されるのです。彼は王として支配する者たちの王,主として支配する者たちの主であり,ただひとり不滅性を持ち,近づきがたい光の中に住み,人はだれも見たことがなく,また見ることのできないかたです。彼に永遠の誉れと偉力とがあらんことを。アーメン」― テモテ第一 6:15,16。

      これをエホバについて述べている言葉だと考える人は少なくありません。それはもっともなことです。なぜならこうした表現のほとんどは,「とこしえの王」であられ,「朽ちることなく」「幸福な神」そして「主の主」であられる神にあてはまるものだからです。(テモテ第一 1:11,17。申命 10:17)その上だれも神を見たものはなく,また見ることもできません。(出エジプト 33:20)しかしパウロがテモテ第一 6章15,16節を記した時点では,エホバだけが不滅性を持っているとは言えませんでした。イエスが復活して不滅性を与えられていたからです。―コリント第一 15:50-54。ヘブライ 7:16。ローマ 6:9。

      それで,テモテ第一 6章15,16節の描写は,確かに「[エホバの]栄光の反映,またその存在そのものの厳密な描出」であるイエスに当てはまります。(ヘブライ 1:3。コロサイ 1:15)復活と昇天のあと,イエスは「近づきがたい光の中に住」んでおられます。栄光を受けたイエスを実際に見た人はいません。迫害者サウロにご自身を現わした時には,強烈な光がサウロを盲目にさせました。(使徒 9:3-8; 22:6-11。ヨハネ 14:19)そして偉大な大能者としてイエスは永遠の誉れを受けます。父が「栄光と誉れの冠」を与えられるからです。―ヘブライ 2:9。フィリピ 2:9-11。

      しかしイエスが『ただひとり不滅性を持つ』というのはどうしてですか。この文脈に注意してみましょう。パウロは神の王権や不滅性を論じていたのではなく,イエスと他の人間とを対照させていたのです。イエスは「王として支配する者[人間]たちの王」なのです。(啓示 17:12,14; 19:16)キリストはその上,「主として支配する者[人間]たちの主」であって,君主という立場においても傑出しています。(コリント第一 8:5,6と比較してください。)ですからパウロがイエスのことを『ただひとり不滅性を持つ』と書いたのは,人間のありとあらゆる王や主のうちで,栄光を受けたキリストだけが不滅である,という意味だったのです。

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