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  • キリスト教世界はどうして三位一体を信奉するようになったか
  • 目ざめよ! 1973
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目ざめよ! 1973
目73 3/22 16–19ページ

キリスト教世界はどうして三位一体を信奉するようになったか

第二バチカン公会議以来,ローマ・カトリック教会の内部分裂はますます明らかになってきました。一方の側の人びとは何ら変革を望んではいませんが,他方の側の人びとは,変革があまり行なわれていないため業を煮やしています。イエズス会の一出版物が述べたとおりです。「あるカトリック教徒たちにとって変革はあまりにも広範で,あまりにも急速で,なおいっそう進展し,しかもさらに急速に進んでゆくように思えるが,他の人びとにとっては,変革はあまりにもわずかで,あまりにもおそく,そのテンポを速めさせるなどという期待は全然持てない」。

カトリック教会のほかならぬ第一回公会議は,西暦325年,ニケヤで開かれましたが,その会議もまた,同教会内部の大論争を引き起こしました。それはいったい何に関する論争でしたか。その時の問題は三位一体の教義でした。

当時の事情について現代の一史家は次のようにしるしています。「神学者たちの二つのグループが非常に広範に及ぶ勢力を持っていたため,事実上,キリスト教は二つの陣営に分裂させられ,それら二つの陣営は2世紀[いやそれ以上!]の間,神学上また政治上張り合った。それら二つの陣営とは,アレクサンドリアの教会の大執事アタナシウスの率る『正統派』グループと,同じその教会の一執事アリウスの名にちなんで呼ばれるアリウス派であった。…アタナシウス派は教義上,三位一体論者であり,アリウス派は一神論者であった」。ローマを本拠とするラテン系の西方ローマ帝国の人びとはおしなべてアタナシウス派でしたが,ギリシア化された東方ローマ帝国の人びとはたていアリウス派でした。東ローマ帝国はやがてコンスタンチノープルをその本拠地としました。

アリウス派は何を信じていましたか。この派の人びとは,「キリストは神によって創造され,したがって神より後に存在するようになったゆえに,み子なるキリストは,父なる神に従属しており,本質を異にするという教理」を固守しました。a

では,三位一体論者たちは何を信じていましたか。今日,彼らの教理は,『父なる神,子なる神,また聖霊なる神』が本質において同一で,同等で,いずれも創造されたものではなく,等しく全能で,「三つの位格を持つ一体の神」であると定義されています。

しかしながら,三位一体の教えは徐々に発展してできたものであることが一般に認められています。たとえば,ニューマン枢機卿は,コンスタンチヌス時代以前の信経は三位一体になんら触れていないと述べ,次のように書いています。「それらの信経は確かに三つという事がらに言及してはいるが,三つの者が一つであるという教理にはある種の奥義がある,つまりそれらのものは同等で,等しく永遠に存在し,すべて自存し,すべて全能で,すべて計り知れない存在であるとは述べられてもいないし,それらの信経からそのような考えを推測することなど決してできるものではない」―「キリスト教の教理の発展」,15ページ。

現代の有力なローマ・カトリックの一権威者は同様の主旨のことを次のように証言しています。「20世紀後半の今日,三位一体の奥義が啓示されたいきさつや教理上のその進展,また神学上どのように完成されたかについて明確で客観的,かつ卒直な説明を行なうのは困難である。…宗教問題を論ずる十分の資格を持たずに新約聖書の三位一体論についてうんぬんすべきではない。…純然たる三位一体論についてあえてうんぬんする者は,キリスト教の草創期から下って,たとえば4世紀の最期の四半期の問題を取り上げているのである」―「新カトリック百科事典」(1967年)第14巻,295ページ。

コンスタンチヌスとニケア会議

コンスタンチヌスはいわゆるキリスト教に転向したことを公言しましたが,それは宗教的要素同様,政治的要素のためだったことは疑えません。したがって,この教理上の分裂を見るのは彼にとって非常に憂慮すべき事がらでした。その事態を彼は自分の帝国の一致を脅かすものとみなしました。そこで,最高僧院長すなわち宗教上の最高支配者としての彼は,西暦325年,ニケヤにおける第一回公会議を召集しました。当時,彼はまだクリスチャンとしてのバプテスマを受けてはいませんでしたが,その公会議を主宰しました。同公会議にはわずかに318人ほどの司教が出席したにすぎませんでした。その随行員たちも出席したので,その集まりの出席者数は1,500人ないし2,000人に達したものと思われます。

三位一体論者とアリウス派は約2か月の間口論をまじえましたが,三位一体論者たちはしばしば極端に狭量な戦術に訴えました。コンスタンチヌスは三位一体論者が過半数を占めているのを見て取って,彼らの側を支持する決定を下しました。コンスタンチヌスは,「司教たちの間で生じた反対を押しつぶし,出席者全員の署名を要求し,応じない者に対しては破門の罰を課すことを命じた。リビヤのふたりの司教だけが署名を拒んだ。アリウスとともに,彼に忠実につき従った司祭たちはイリュリキウムに追放された」のです。その地は今日のユーゴスラビアの西部に当たります。アリウスの著作は没収され,焼き捨てられ,また彼が著わした何らかの書き物を所持する者はみな,死刑に処せられるとの警告が出されました。

しかし,アタナシウスと彼を支持する三位一体論者たちの勝利は長続きしませんでした。コンスタンチヌスはおそらく政治的な理由で三位一体論者に有利な決定を下しただけに,政治的風潮が変化するのを感ずるや,同様のす早さで態度を変えるのを辞しませんでした。そのようなわけで,コンスタンチヌスがわずか数年後,首都をビザンチウムに移し,自分の名前を付した都,コンタンチノープルを築いた時にそうした事態が起きたのです。その地方はアリウス派の強力な地盤でした。その地域から公会議に出席した司教たちがニケアでの声明書に署名したのは単に恐れのためでした。

コンスタンチノープルの指導的な司教,ニコメディアのユーセビウスは,アリウス派の人でした。そして彼は,コンスタンチヌスにいわば教理上の馬を乗り換えさせることに成功しました。今や三位一体論者は禁令下に置かれ,335年,コンスタンチヌスはアタナシウスを破門に付し,ゴール(フランス)のトリールに追放しました。コンスタンチヌスはその後まもなく臨終にさいして,アリウス派の司教ユーセビウスの手でバプテスマを受けました。

コンスタンチヌスはその帝国を何人かのおいと3人の息子,つまりコンスタンチヌス2世,コンスタンチウスそしてコンスタンスらの手に残しました。それら息子たちは直ちに他の後継者たちを亡き者にし,次いで自分たちの間で雌雄を決し,アリウス派の有力な支持者コンスタンチウスが最後に勝ち残りました。やがて彼は,三位一体論の支持者だった兄弟たちの死後,ローマ帝国の東西両地域の覇権を振りました。アリウス説を唱道することに努めた彼は,三位一体論者の司教をアリウス派の司教で置き替えるよう命じました。こうした変革が生じたため,当時のある異教徒の歴史家は,「各地の本街道は疾駆する司教たちでいっぱいになった」と述べて嘲笑しました。

ついに三位一体論者が勝つ

しかしながら,アリウス派が優位を占めたこの事態は,コンスタンチウスが死ぬ時まで続いたにすぎません。というのは,三位一体論者は依然として過半数を占めていたからです。といっても,別に驚くには当たらないでしょう。サタンが「この事物の体制の神」である以上,一般に真理よりも誤りのほうが人気があるからです。(コリント後 4:4,新)また,アリウス派が負けたのは,同派が結束していなかったためです。同派は共同の陳述,つまり自分たちの信ずる事がらを表わした信経を認めませんでしたし,訴えるべき統治体も持っていませんでした。それで,同派は分裂しました。『わかれ争う家は』どうして立てるでしょうか。―マタイ 12:25。

しかし,アリウス派に対する勝利を三位一体論者の側に収めさせたのは,おそらく何にもまして,後者が自分たちの目的を達成するためにいつでも直ちに暴力や腕力に訴えたためだったと思われます。ニケヤ会議でアリウスが立ち上がって話したところ,ミラのニコラスという人はアリウスの顔をなぐったと言われていますし,またアリウスが話している最中,三位一体を支持する司教たちの多くは指を両方の耳にさし込んで,アリウスの邪論にあきれ返らされでもしたかのように走って退場したとも伝えられています。また,三位一体論者たちの不寛容さを物語る典型的な例は,ミラノの司教アンブロシウスが,バレンチアヌス皇帝の命令で教会がアリウス派に引き渡されようとした時,同市の教会をただの一つもそうさせまいとして画策したすわり込みストライキです。アンブロシウスは信徒たちを教会堂の中に2週間昼夜とどまらせて歌を歌わせ,とうとう自分の要求を皇帝に容れさせました。

同様に,三位一体論者たちの凶暴なまでの不寛容さがアリウス派に敵する効果的な武器であったことを証明するものがあります。それはいわゆる『異邦人』ゲルマン民族の支配者たちの中でもきわめて有名なふたりの人物が述べた対照的なことばです。ローマ・カトリックの正統的信条を受け入れた,したがって三位一体を信奉したフランクのクロビス王は,ゴールのアリウス派の西ゴート人に敵して軍を進めた時,次のように述べました。「これらアリウス派のものたちがゴールの一部を保持しているのは悲しむべきことである。われわれは神の加護を得て進軍し,そして彼らを屈服させようではないか」。そして,まさしく彼らを屈服させました。こうして不寛容をまいて刈り取ったものはといえば,それは,「放とうをきわめた王たちや執念深い女王たちの残忍さやどん欲そして不信の物語りであるが,グレゴリウス[教皇]は,彼らがカトリックの正統的信条を擁護したとの理由で彼らの罪と赦しを求めた」としるされています。

正統派を支持したクロビスの不寛容の態度と著しい対照をなしたのは東ゴート人の王,アリウス派のテオドリックでした。東ローマ帝国のゼノン皇帝は,当時,同皇帝を東西両ローマ帝国の支配者として認めなかったひとりの王が保持していたイタリア半島を奪うようテオドリックを派遣しました。テオドリックはイタリアを征服しましたが,「宗教は王といえども自分の意のままに左右しえない事がらである。なぜなら,何人もその意志に反することを信ずるよう強いることはできないからである」というのが彼の政策でした。

事態を三位一体論者にとって有利に動かすものとなった別の要素は,修道院制度すなわち修道院で独身生活を行なわせる制度でした。アタナシウスは修道院制度を初めて提唱したローマ・カトリックの著名な神学者でした。修道士たちは三位一体論のとりでだったばかりでなく,自分たちの三位一体の信条を熱心に支持するあまり,いつでも直ちに暴力に訴えたのです。

また,ローマ帝国の東西両部分に侵入したゲルマン人の戦士たちがアリウス派だったことも,三位一体論者に利するものとなりました。それら『異邦人』はどうしてアリウス派だったのでしょうか。なぜなら,彼らはアリウス派の司教ウルフィラスの働きで転向していたからです。それで,アリウス派を支持することは,それら侵略者に同調する行為と解されたのです。

アリウス派がこうむった最も痛烈な一撃はおそらくテオドシウス皇帝からのものだったと考えられます。同皇帝は西暦391-392年にわたって発表された公式の法令によって,ローマ・カトリックの正統派の信条を全「キリスト教徒」の信ずべきものと定め,全異教徒はもとよりアリウス派の礼拝堂を没収しました。ある史家はこう述べています。「異端[アリウス派の教義]や異教に対する教会の合法的勝利は完ぺきなものとなり,教会は完全に,迫害を受ける一宗派から迫害する国教に発展した」。

アリウス派の『異邦人』

5世紀以降,アリウス派のローマ皇帝はもはや出現しませんでした。しかしながら,その事態はアリウス派の教義が国教としては跡を絶ったことをしるしづけるものではありませんでした。それどころではありません。テオドシウスの死後,ローマ帝国はふたたび,北方から襲ってきたアリウス派のゲルマン人侵略者のえじきにされました。ローマ・カトリックの一権威者は次のように述べています。「多少の迫害を受けたにもかかわらず,この種[アリウス派]のキリスト教は目ざましい勢いでゴート族から近隣の諸民族の間に広まった。…それら侵略者が西ローマ帝国に侵入し,幾つかのゲルマン王国を樹立するにおよんで,たいていの支族は[アリウス派の教義]を自分たちの国教として公に信奉し,場合によっては,カトリックの正統的信条を信奉すると唱えたローマ人のある者たちを迫害した。…しかし,[ローマ]カトリック教会は徐々にアリウス派の教義を排除することに成功した。ある場合にはそれは軍事行動によって成し遂げられ,ゲルマン人の勢力はほとんど一掃された」。このことはユスチニアヌス皇帝の治世中に起きました。同皇帝はローマ帝国のかつての栄華を回復したいとの野望をいだき,アリウス派だけでなく,ユダヤ人やサマリヤ人をも迫害したことで悪名を得ました。彼はユダヤ人に対して,ヘブル語の聖書を読むことさえ禁じたのです。

しかし,ユスチニアヌスはアリウス派の教義を抹殺したわけではありません。ローマ帝国はその後もなお異邦ゲルマン人に対処することになりました。というのは,ユスチニアヌスの死後2,3年経って,全ゲルマン民族の中でも最も猛悪な支族とされているロンバルド人がイタリアに侵入したからです。

この時期の事情に関してはこうしるされています。「その後の衰退期には繁栄が交互に訪れたが,それはたいてい神学上の論争の結果というよりはむしろ,政治的な変動や一般人の後援によるものであった」。また,別の権威者によれば,アリウス派の教義は「さらに2世紀の間存続したが,それは選択の機会に恵まれたり,説得力を発揮したりしたためというよりはむしろ,偶然によるものであった」とされています。ついでながら,アリウス派のこうした政治的また軍事的活動のすべてからすれば,政治とは無関係で,平和を愛するエホバのクリスチャン証人をアリウス派だとして非難する一部の人びとの主張は明らかに誤っていることがわかります。

三位一体論者とアリウス派が携わった政治的活動について歴史の述べる事がらを考えると,イエスとその使徒たちがともに,クリスチャン会衆に生ずる事がらを驚くべき正確さをもって予告していたことに深い感銘を受けざるをえません。それはイエスがあるたとえの中で,「人々の眠れる間に,仇きたりて麦のなかに〔雑草〕をまきてさりぬ」と述べたとおりです。ですから,元々麦の畑だったものが雑草の茂る土地と化してしまったのです。(マタイ 13:25〔新〕)それに,それら両派が示した貪欲や暴力行為を考慮すると,使徒パウロが,『われ知る,わが出で去るのち暴きおおかみなんじらのうちに入りきたりて群れを惜しまず』と述べて,そうしたできごとをいかに的確に予告したかがわかります。三位一体論者もアリウス派もともにそれらのおおかみの一味でしたが,この二派の中でも前者はいっそう猛悪でした。―使行 20:29。

[脚注]

a アリウス派がその主張を裏づける聖句を持っていたことは,ヨハネ伝 14:28; コロサイ書 1:15-17; テモテ前書 1:17; 黙示録 3:14などの句から見て明らかです。

[17ページの図版]

フラソス,タンニョンのカトリック教会にある,三位一体の象徴

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