弟子にするわざを完成する
「わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり,神の建物である。」― コリント第1 3:9
1 (イ)何かを首尾よく成し遂げたとき,何を感じますか。それはどんな事とは無関係ですか。(ロ)与えられた仕事をはたして満足を感じたにちがいない例を,聖書からあげなさい。
仕事を首尾よくなし遂げた時には喜びを感じます。そのことは仕事の大小,働いた人の数,完成に要した時間の長短に関係ありません。ノアとその家族は,予定どおりに箱舟を完成し,動物をその中に入れ,洪水の前に箱舟の戸を閉ざしたとき,大きな満足を感じたにちがいありません。モーセとイスラエル人は荒野において精巧な幕屋を完成した時,同じような心のときめきを感じたことでしょう。紀元前1027年,エルサレムのモリア山上に壮麗な宮が完成し,エホバの是認を表わす雲が,祭司も中にはいれないほどに宮を満たした時,ソロモンをはじめ,宮の造営にあずかった人々はみな歓喜しました。
2 成し遂げた喜びを真実に味わうことのできる仕事について述べなさい。
2 価値あるわざを完成することにあなたは喜びを見出しますか。では人間が地上で行なった事のうちで最大のわざに参加する特権を与えられたとしてごらんなさい。それはあらゆる国の大ぜいの,献身的な男女とともにあずかる仕事です。それは心の正しい人々に最大の益をもたらすわざです。1900年あまり前に始められ,いま最高潮に達しているこのわざは,今の時代のうちに完成することでしょう。神を愛する,精力的な人はこのようなわざに関心を持つにちがいありません。
3 宗教的また宣教の仕事にはどんな反対意見がありますか。
3 「それは聖職のことではありませんか。わたしの知るところでは,牧師を志望する人は少なくなっています」と言ってあなたは反対されるかもしれません。また次のように言われるでしょう。「その理由で牧師は世界的に不足しており,しかもそれは年々甚しくなっています。聖職は満足を得ることの少ない職業なのでしょう」。
4 キリスト教国の牧師の職に魅力を感じない人も,何を心に留めるべきですか。
4 この職に関して,初めから正しい見解を率直に得ることにしましょう。このりっぱな仕事に携わることは,今日の名目的な宗教の牧師になることではありません。聖職への招きとはいっても,これは今日,キリスト教国の教会で行なわれている伝道活動とは全く異なっています。またそれとは全く無関係です。両者の間には驚くべき相違があります。
5 (イ)まずどんなことに関心をひかれますか。(ロ)このわざの背後にあるのはだれですか。その者はなんと述べていますか。
5 この仕事の背後にある者,したがって参加をすすめている者がだれであるかにまず関心を払わなければなりません。キリスト・イエスが追随者に与えた命令によって,最も重要なこの仕事に携わる機会が開かれました。それはマタイによる福音書 28章19,20節に記録されています。「それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊との名によって,彼らにバプテスマを施し,あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」。
6 (イ)権威のある辞典によれば,弟子とはなんですか。(ロ)この定義によれば,どんな弟子もあり得ますか。
6 この楽しいわざの詳細また今の終わりの日にそれを完成する喜びを論ずる前に,弟子とは何かを自問しなければなりません。1963年のウエブスター第三新国際辞典によれば,弟子とは「他の者から教えを受ける人。他の者の教えを受け入れ,それをひろめるのにあずかる人」「(哲学,芸術,政治などの)一派に,確信をもって従う人」です。この権威ある辞典の定義はことばの意味を理解するのに役だちますが,それでもじゅうぶんなものではありません。このことばが聖書の中でどんな意味に使われているかが問題です。辞典のあとの定義に示されている現代の用語法にしたがっていえば,まちがった宗教上の教義を教える人や組織の弟子また,聖書とは無関係なことの弟子もあり得ます。
7 弟子を得ることを命じた時,イエスが意味したのはどんな弟子ですか。
7 しかしわたしたちが考えているのは,この記事の主題であるキリスト・イエスのことばの中で,弟子が何を意味しているかです。イエスが追随者に命じたのは,「哲学,芸術,政治」あるいは「あなたの好む教会」の弟子を育成することではありません。イエスが命じたのは人をイエスの弟子にし,「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教え」ることです。イエスはまた次のように言われました。「わたしは,自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして,わたしのこのさばきは正しい。それは,わたし自身の考えでするのではなく,わたしをつかわされたかたの,み旨を求めているからである」。イエスが教えられたのはイエスご自身の考えではありません。そのことも心に留めておきましょう。(マタイ 28:20。ヨハネ 5:30)それでわたしたちが語っているのは,聖書の用語法における弟子であって,イエスがこのことばを使って以後に発達した用語法における弟子ではありません。つまりキリスト・イエスの教えを理解してそれを受け入れ,イエスの足跡に従ってそれをひろめる人のことです。
8 (イ)弟子をどのように得るかを知る最も良い方法はなんですか。(ロ)彼はだれにならいませんでしたか。どうしてわかりますか
8 クリスチャンとしての弟子がどんな者かを知ったならば,次の問題は弟子を育てる方法です。それを知る最良の方法は,イエスのこの命令が与えられた時のことを考え,人々を弟子にするためイエスが用いられた方法を知ることです。イエスは当時の宗教家にならいましたか。そのようなことはありません。宗教家にむかってイエスは次のように言われました。「偽善な律法学者,パリサイ人たちよ。あなたがたは,わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために,海と陸とを巡り歩く。そして,つくったなら,彼を自分より倍もひどい〔ゲヘナ〕の子にする」。(マタイ 23:15,〔文語〕)「律法学者とパリサイ人とは,モーセの座にすわっている。だから,彼らがあなたがたに言うことは,みな守って実行しなさい。しかし,彼らのすることには,ならうな。彼らは言うだけで,実行しないから。また,重い荷物をくくって人々の肩にのせるが,それを動かすために,自分では指一本も貸そうとはしない。そのすることは,すべて人に見せるためである。すなわち,彼らは経札を幅広くつくり,その衣のふさを大きくし,また,宴会の上座,会堂の上席を好み,広場であいさつされることや,人々から先生と呼ばれることを好んでいる。しかし,あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は,ただひとりであって,あなたがたはみな兄弟なのだから」。(マタイ 23:2-8)これは羊のような人を見出し,人が追随者になる機会を開くためにイエスの用いた方法ではありません。
9 (イ)彼はどんな人を求め,またどんな人を求めませんでしたか。(ロ)そのような人を求めるのに,どんな方法を用いましたか。どんな方法は用いませんでしたか。
9 イエスの方法は,特定な必要に応ずる革命的なものでした。イエスが求めたのは聞くだけの人つまり単なる取巻きではありません。イエスが求めていたのは弟子たち,つまりイエスの言われた「福音」を学ぶことを望み,自分の認めた真理をすすんで擁護し,その方法を教えられたとき,他の人を弟子にするわざに献身する人々です。このような人を求めるといっても,それは教会を開いてだれかがくるのを待つことではありません。イエスは人々に親しく語るため,すすんで出かけて行きました。イエスはご自分の始められたこの方法が,重要な音信を人々に伝えるのに最もよいことを初めからご存じでした。
10 弟子を得るわざにおいて,彼はどんな創意を用いましたか。
10 またこのことをするにあたって,イエスは実に創意に富んでいました。山腹で,故郷の町の会堂または他の会堂で,エルサレムの宮で,海辺の舟の中で,さびしい所で,人々の家で,また「町々村々を巡回し」て,イエスは伝道されました。―マタイ 5:1; 12:9; 13:54; 14:13,14。ルカ 5:3; 8:1; 10:38,39; 19:2,5,6。
11 彼はどんな人々に伝道しましたか。しかしいちばん良く耳を傾けたのはどんな人々ですか。
11 イエスはどんな人々に伝道しましたか。老若男女,富んだ者,貧しい者,病人,健康な者を問わず,あらゆる人々です。イエスはすべての人に語りましたが,喜んで耳を傾けたのは主として一般大衆でした。たとえば12使徒も,ほとんどは労働者の出身です。
12 労働者が優秀な奉仕者になれるとなぜいえますか。
12 このあらゆる階層の人々は優秀な奉仕者になりますか。ならないはずはありません。彼らも他の人と同じく教えや原則を学ぶことができます。また神の目的に関する真理をイエスから教えられただけでなく,伝道し教える方法について教訓と訓練を授けられました彼らは熱心で勤勉かつ有能な活動家でした。
13 弟子を得るために奉仕者を訓練することは,どのように始められましたか。行き届いた教訓が与えられたことを示す証拠がありますか。
13 「イエスは十二人をつかわすに当り,彼らに命じて言われた」とあるように,はじめにつかわされたのは12使徒でした。(マタイ 10:5)彼らは自分たちの携わる家から家,町から町への伝道に関して行き届いた教訓をイエスから与えられました。それはマタイによる福音書の10章に記録されています。そして11章1節にあるように「イエスは十二弟子にこのように命じ終えてから,町々で教えまた宣べ伝えるために,そこを立ち去られ」ました。
14 その後,わざはどのように拡大されましたか。それが成功したことは何からわかりますか。
14 その後この活動は拡大されました。「主,ほかに七十人をあげて,自ら往かんとする町々処々へ,おのれに先立ち二人づつを遣さんとして言ひ給ふ『収穫はおほく,労働人は少し。この故に収穫の主に労働人をその収穫場に遣し給はんことを求めよ」。(ルカ 10:1,2,文語)神への奉仕に出かけた人々は成功をおさめましたか。「七十人よろこび帰りて」とルカ伝 10章17節(文語)は述べ,21節は次のことばを加えています。「そのとき,イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた,『天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して,幼な子にあらわしてくださいました。父よ,これはまことに,みこころにかなった事でした」。弟子を得るイエスの方法は健全な考えに基づいており,実際に行なってはきわめて効果的で成功を収めました。
15 (イ)弟子を得るイエスの方法がその死後においてさえ効果的であったことは,どうしてわかりますか。(ロ)イエスの追随者は与えられた務めをはたすのに確信と勇気を示しましたか。
15 そのことの真実は,イエスの死後まもなく,もっと大規模に証明されました。使徒たち,またイエスの追随者となった他の者たちがそのなすべき事をはっきり理解していたことは,彼らの活動とその成果を見てもわかります。使徒行伝 第2章に記録されているように,ペテロの伝道の結果3000人がバプテスマを受け,その数はまもなく5000人に増加しました。(使行 2:41; 4:4)使徒のいく人かが議会の中に連れてこられた時,大祭司の語ったことばは,彼らの成功を裏書きしています。「あの名を使って教えてはならないと,きびしく命じておいたではないか。それだのに,なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教を,はんらんさせている」。(使行 5:27,28)神のしもべはおどされても屈せず,弟子を得るわざをつづけます。「人間に従うよりは,神に従うべきである」と答えた彼らは,そのことを示しました。(使行 5:29)伝道のわざは急速に発展し,弟子はますますふえました。
弟子にするわざは停滞
16 今日キリスト教国が行なっている宗教活動は,弟子を得る初期のわざの発展したものですか。その答えの理由をあげなさい。
16 その時以来,このわざにはどんな進歩が見られましたか。今日,世界各地に無数の信者を擁する“キリスト教”の諸宗派にまでこのわざは及びましたか。そうであればすばらしいことですが,残念ながらそうではありません。イエスの時代の正しいキリスト教の発展した姿は,今日のキリスト教国に見られません。そのことは聖書的にも世俗的にも事実が証明しています。イエスと使徒たちの始めたわざは停滞しました。それはイエスと一部の使徒たちが明白に預言したことです。それでわざの停滞は意外なことではなく,また今日それを理解することも困難ではありません。
17 イエスは種まき人のたとえの中で何を示しましたか。
17 マタイによる福音書 13章24節から30節,36節から43節にある種まき人のたとえの中で,イエスは初めのキリスト教が組織と教義の両面においてどのように腐敗するかを,たとえで示されました。サタンは「麦」のようなまことのクリスチャンの間に,「毒麦」のようなにせクリスチャンをまきました。事態が発展するうち,ある時期には麦と毒麦を見分けることが困難あるいは不可能なため,主人は「収穫」まで両方とも育つままにしておかなければなりません。収穫の時に「麦」を見分けることができ,二つを分けることができます。
18 真のキリスト教からの脱落が始まったのはいつですか。使徒パウロとペテロは,それについてなんと述べましたか。
18 この初期の組織が真のキリスト教から脱落したのは12使徒の死後ですが,そのきざしは使徒の在世中に見えていました。使徒行伝 20章29,30節にあるパウロの警告に注目してください。「わたしが去った後,狂暴なおおかみが,あなたがたの中にはいり込んできて,容赦なく群れを荒すようになることを,わたしは知っている。また,あなたがた自身の中からも,いろいろ曲ったことを言って,弟子たちを自分の方に,ひっぱり込もうとする者らが起るであろう」。パウロはまた次のようにも述べました。「人々が健全な教に耐えられなくなり,耳ざわりのよい話をしてもらおうとして,自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め,そして,真理からは耳をそむけて,作り話の方にそれていく時が来るであろう」。(テモテ第二 4:3,4)ペテロも警告しています。「しかし,民の間に,にせ預言者が起ったことがあるが,それと同じく,あなたがたの間にも,にせ教師が現れるであろう。彼らは,滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み,自分たちをあがなって下さった主を否定して,すみやかな滅亡を自分の身に招いている」― ペテロ第二 2:1,2。テサロニケ第二 2:7。
19 何世紀にもわたり,また今日もキリスト教国がキリスト教を実践していないことを示すどんな証拠がありますか。
19 以来,中世の暗黒時代を含めて何世紀もの間にキリスト教国の行なったことは,十字軍,戦争,異端審問所など,どれを見てもキリスト教とは縁がありません。火の地獄,煉獄,人間の魂の不滅,三位一体など,異教の教えを説くキリスト教国が,まことのキリスト教であると言えますか。またキリスト教国は政治,経済,戦争,とばくにかかわり合っているではありませんか。また,牧師や教会の成員は弟子を得るキリスト・イエスや使徒のわざを,聖書に述べられた,前述の方法で熱心に行なっていますか。今日のキリスト教国はキリスト教を実践しておらず,まことの弟子を得ることを命じたイエスの命令をはたしていません。多くの著名な牧師のことばはそのことを示しています。それは公に認められていることです。
20 (イ)今日,弟子を得るわざを行なっているのはだれですか。彼らはそのわざのためにどんな準備をしましたか。(ロ)とくに今日にあてはまるどんな命令が,いまマタイによる福音書 28章19節につけ加えられていますか。
20 では今日,だれが人々を弟子にするわざを行なっていますか。そのことに疑問の余地はありません。それはクリスチャンであるエホバの証人です。この終わりの時代において,弟子を得るわざはその組織の中で復興されました。彼らはふつうの教会で教えられている,人を束縛する信条や,心を毒するまちがった教理から解放されました。また教職階級制度,組合教会制その他,聖書と一致しない教会の支配形態を廃して神権的な支配を行なっています。またキリスト・イエスによって確立され,使徒や初期の弟子の用いた伝道方法を採用しました。この方法を採用したのは,いま旧式とも見える聖書のやり方にならうためだけではありません。この方法につき従うのは,それがわざを達成するのに,他のどんな方法よりも徹底的,効果的だからです。「行って,すべての国民を弟子と」せよと命じた主の命令(マタイによる福音書 28:19にある)を今日守り行なっているのは,エホバの証人です。それだけでなく,彼らはマタイによる福音書 24章14節に記録された,この時代に対する次の命令にも従っています。「この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」。人々を弟子にするわざはふたたび活発に進められています。
わざを完成する
21 (イ)弟子を得るわざは緊急なものですか。なぜ?(ロ)緊急さについて言えば,ノアの経験から何を学ぶことができますか。
21 エホバの証人の活動をそれとなく見るだけでも,さしせまった気配が感じられます。それはなぜですか。弟子を得る仕事にはきりがないとも言えるでしょう。しかしそれを無限につづけられるわけではありません。そこが問題なのです。このわざには始まりがありました。それで終わりを告げる時も来ます。前節に引用した聖句によれば,伝道のわざが成し遂げられたとき,「最後が来」るのです。聖書にたびたび警告されている「終りの時」がいま臨んでいます。(テモテ第二 3:1。ヤコブ 5:3。ペテロ第二 3:3)この時代の前途を明白に知るには,マタイによる福音書 24章37節から39節までと,創世記 6章,7章を一読すると良いでしょう。イエスのことばによれば,この時代は「ノアの時のよう」です。ノアは「義の宣伝者」でした。警告を与えるノアの仕事が終わった時,箱舟の戸は閉められ,その時代の人々の中から弟子を得ることは終わりました。救われる機会は過ぎ去ったのです。
22 弟子を得るわざを急いですることができますか。それとも何が必要ですか。
22 今が緊急な時代であり,この事物の制度の終わりが近いとすれば,ビリー・グラハム式に急いで「キリストの側につく」ことが必要だと考える人がいるかもしれません。しかし事はそれほど簡単ではありません。イエスのご命令は人々を弟子に「する」ことです。ことば自体からも分かるように,そのことをするには多くの働きが必要です。すなわち弟子は一組の新しい原則と考え方に従って形づくられ,作りあげられるのです。必要なのはまさにこの事であって,ローマ人への手紙 12章2節にある使徒のことばもそれを示しています。「あなたがたは,この世と妥協してはならない。むしろ,心を新たにすることによって,造りかえられ,何が神の御旨であるか,何が善であって,神に喜ばれ,かつ全きことであるかを,わきまえ知るべきである」。これは時間のかかる仕事です。思いつきの改宗によって成し遂げられるものではありません。
23 (イ)初めにどんなわざを行ない,つづいて何をすることに時間をかけなければなりませんか。(ロ)今日の人々の心について言えば,弟子を得るわざをおくらせるどんな事情がありますか。
23 まず,さがす仕事をしなければなりません。戸別訪問および他の多くの方法で,関心を持つ人に会い,聖書の真理を簡単な形で聞く機会を与えることができます。羊のような性質を示し,神の目的に関して真理を学ぶことに関心を示す人がいたならば,ノートにつけて訪問を重ね,いっそうの関心を持たせます。その関心が本心からのものであれば聖書研究を始めます。これによって人は聖書のいろいろな教えを学び,まちがった考えを除き去り,多くの質問に答えてもらいます。すでに述べたように,このすべてをするには時間がかかります。福音は長い間おおわれ,人々の心は盲目にされていたからです。コリント人への第二の手紙 4章3,4節において,パウロがこの点をきわめて重要視していることに注目してください。「もしわたしたちの福音がおおわれているなら,滅びる者どもにとっておおわれているのである。彼らの場合,この世の神が不信の者たちの思いをくらませて,神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを,見えなくしているのである」。しかしたゆまずに教えるとき,福音の光は輝きます。1965年にエホバの証人は毎週77万595の家庭聖書研究を司会していました。
24 弟子となる人々は個人的に教えられるのに加えて,どんな援助を受けますか。
24 教えることは個人的に行なわれるだけではありません。教訓的で興味深い会衆の集会に出席して学ぶことができます。霊的に必要なものを意識し,真理の水でかわきをいやすことを願う人は,毎週,ものみの塔研究,講演,奉仕会,宣教学校,会衆の書籍研究に出席します。エホバの証人の1966年度年鑑によれば,このことは全世界197の土地にある2万4158の会衆で行なわれています。
25 この大きなわざが成し遂げられることはどうして確かですか。
25 この大きなわざは遂に完成されますか。そのことについては神の保証があります。すべて神が始められたことについて,神のことばは次のように述べています。「このように,わが口から出る言葉も,むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし,わたしが命じ送った事を果す」。(イザヤ 55:11)コリント人への第一の手紙 3章9節にしるされたパウロのことばに「わたしたちは神の同労働者である。あなたがたは神の畑であり,神の建物である」と述べられているとおり,わたしたちがしているのは実際にはエホバのわざです。このわざはキリスト・イエスと天使たちに導かれています。(黙示 14:6)このような導きを得ている以上,わざの完成は確かです。今日,真理をほんとうに愛している人にはだれにでも,なんらかの方法で真理を聞く機会があるのです。
26 弟子を得るための今の時について,何が言えますか。
26 いまは喜びの時です。またそうでなければなりません。この時代一般についてイエスは次のことを言われました。「これらの事が起りはじめたら,身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」。(ルカ 21:28)1匹の迷った羊が見つかった時の喜びを,マタイによる福音書 18章13節は次のように述べています。「もしそれを見つけたなら,よく聞きなさい。迷わないでいる九十九匹のためよりも,むしろその一匹のために喜ぶであろう」。多くの羊が見出されている今はとくに喜びの時です。
27 弟子を得るわざを完成することは,なぜいっそう大きな喜びがありますか。
27 何かを始めるときの期待もうれしいものですが,努力して行なったことの初めと終わりではどちらに最も大きな喜びがありますか。いうまでもなく,それは終わりのほうです。その時に人は努力の成果を見ます。その時に見るのは設計図や計画ではなくて実現したものです。弟子を得るわざについても同じことが言えます。御国のこの福音を宣べ伝え,それによってあらゆる国民,民族の中から弟子となる人を集めるのは,かつて地上で試みられたことのない偉大なわざです。そのわざの完成を目のあたりに見ることができる時代に住むことは,大きな喜びではありませんか。このように考えるならば,喜ぶのは当然です。
28 この大きなわざの最高潮を見て,どんな思いを心に抱くべきですか。
28 しかしほんとうの喜びは,このわざに加わることにあるのです。自分自身,弟子になるだけでなく,弟子を得なければなりません。そしてこのわざに加わるのは今です。ひとたびこの機会が過ぎ去ったならば,それは二度とおとずれないでしょう。このわざのため,神がわたしたちを必要としているということはありません。しかし神の恵みによって,わたしたちがそれに参加できるのは祝福ではありませんか。そのことを認識するわたしたちは,力と能力をつくして働かなければなりません。