独身者の直面するジレンマ
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上記のような“求人広告”を出す人は少ないとはいえ,ここに言い表わされている痛々しいジレンマを自分でも感じている人は大勢います。そうした人々も,もっと巧妙な方法で自分を“宣伝”しましたが,今の世の中で結婚相手を探すのは,失意を伴う複雑な問題であることに気付きました。
30歳台の孤独な女性イレインは,自分の行き着いた絶望的な状態についてこう語っています。「本当に話し相手になってくれる人は一人もいません。食欲がなくなり,理由もなしに泣き出してしまうこともありました。その上,だれにも自分の心を打ち明けることができませんでした。自分の感情が余りにも高ぶっていて,恥ずかしかったからです。……結婚に関する限り,人々は私のことを見捨ててしまったようです」― ニューヨーク・ポスト紙。
イレインのような幾千幾万もの男女は,気をもみつつも,自分がどうしてそのような境遇に置かれているのか大抵考えていません。そうした人々は,良い結婚相手を見付けるのがますます難しくなっていることを示す社会学者たちの研究結果を多くの場合見過ごしています。またそうした調査が,良い結婚相手を見付けるのが困難になっている原因として,田舎の生活を捨てて都会へ出て来た人が増え,それに伴って男女関係のあらゆる面に疑問を投げ掛けた「道徳革命」が起きたことを挙げている事実についても知りません。
しかし大抵の人は,正式には“離婚”と呼ばれる,結婚関係の完全な解消が急増していることには気付いています。そうした人は,今日多くの人々が突然に冷淡な態度で恋人を捨てて,別の恋人を作ることを知っています。また,様々な方面から受ける数多くの矛盾する助言や,独身の友人たちが結婚相手を見付けるために使うそれぞれ全く異なったアプローチなどに気付いています。そして,混乱してしまうのです。
このすべてから抜けだす道がありますか。結婚相手を選択することは全く個人的な性質の事柄ですが,それでも老若を問わずこの問題を抱えている人々が従える指針や原則があるでしょうか。避けるべき明確な落とし穴がありますか。
“結婚に関する伝説”に対処する
当然のことながら,小さな子供を抱えたやもめや離婚した中年の男性の場合と若い人々の場合では,それぞれ状況や必要も異なってきます。しかしあらゆる年齢層の独身者は,結婚に関するよく知られた特定の“伝説”に直面し,その結果ジレンマは一層深刻になります。こうした伝説の真意を調べてみれば,混乱が少しは収まるはずです。
良く知られた伝説の一つは,“正反対の性格は引き付ける”ので,自分と全く異なった人を配偶者にすれば結婚関係に趣を添えることになる,というものです。もちろん,環境,宗教,そして国籍などの全く異なる人に対して,わたしたちは強い好奇心を覚えます。しかし最新の科学的な調査は,そのような結婚が離婚に終わる率が大きいことを圧倒的に示しています。例えば,「結婚関係の崩壊」という本の中で,ドミニアン博士はこう語っています。「主要な調査のどの結論を取ってみても,[宗教の]異なった人同士の結婚は……崩壊に至る危険が高いということを示しているようである」。
これは信じ難いことですか。しかし,常識的に物事を考えれば,自分の友だちというのは自分と似たような関心事を持つ人であることが分かるのではありませんか。いつも別の方向に引っ張ろうとしたり,あなたの楽しむ事柄を蔑視したりするような人とどれほどうまくやってゆけますか。聖書は,創世記 二章の中で,女が男の「助け手」となるよう造られたことを述べています。では,あなたとあなたの助け手が仲良く,幸福に暮らしてゆくには,同様の関心事や目標そして道徳規準を持っていなければならないのではありませんか。
実際のところ,夫婦が共に,生活の中で最も大切な事柄とみなしている点で同意していれば,日常生活はそれだけスムーズになります。互いに異なる点は,最初のうちは好奇心をそそるかもしれませんが,ほどなくして緊張を生み出す原因となりかねません。
結婚に関するその他の伝説の多くは,疑いもなく,夢中になった状態と関連しています。夢中になった状態を意味する英語の言葉は,「愚かな賞賛」,つまり自分が知りもしない人を理想化すること,と定義されています。“理想の人”や“一目ぼれ”に関する伝説は,どちらも夢中になった状態の症状です。
ぴったりな男性や完全な女性と言えるような相手を探している人は,突然おあつらい向きの相手が現われると期待している場合があります。もちろん,人が最初から他の人と比べてある特定な人に引き寄せられるのは自然なことです。相手の容姿や振舞い,およびその時の自分の気分などすべてがそれに影響を及ぼします。しかし,そのような人に魅惑的な王子様(あるいは王女様)の持つ神秘的な特質があると決め込んで,すぐにその人に対するあこがれの気持ちを抱き,『それからずっと幸せに暮らす』ことを期待するのは非常に危険なことです。
しかし,最初は夢中になっていても,求愛の過程を通して,相手の“本当の姿”がやがて分かるようになるものだ,と言われるかもしれません。残念ながら,必ずしもそうとは限りません。夢中になっている状態は,そのまま結婚まで続いてしまうこともあるからです。どのようにしてですか。最初からそれほど感情的に“燃え上がった”関係であれば,ほどなくして非常に親密な肉体的接触にまで進んでしまうことが少なくありません。そのようにして夢中になった人は,大抵の場合,ペッティングで情熱をかき立てることによって,一致しない点をうやむやにしてしまおうとします。こうして,二人の事実上見ず知らずの人間が,人生で最も親密であるはずの絆で結ばれるという悲惨な結果になるのです。
「結婚を最大限に活用する」という本は,「だれでも,自分にとって“理想的な人”を世界中のどこかに見いだせる,という考えは,人々の心に深く根を下ろした作り話であり,言い伝えである」と述べています。その本はさらに続いてこう述べています。「順応性のある人は数多くの人のうちだれと結婚しても幸福になれるが,順応性のない不幸な人はだれと結婚しても,うまくやってゆけない,というのがより実際的な物の見方である」。この言葉の真実性は,配偶者に先立たれた人がやがて再婚し幸福をつかんでいることからも分かります。
独身は“異常”か
不幸なことに,結婚に関する伝説の中には,独身者にかなりの圧力を与えるものもあります。そうした伝説のうち,親族や友人たちがしばしば唱える二つの伝説は,『結婚しない人にはどこか悪い所がある』とか,『だれもいないよりはだれかいたほうが良い』という考えです。そのような言葉は,独身を保つことが元来悪いことであると決めつけています。そうした非難の対象になる人は,自分が“異常”で,時には同性愛的な傾向があるとさえ思い込まされます。
もし結婚する必要がありながら,結婚生活に伴う諸問題を恐れるゆえに結婚しないのであれば,それは一つの問題です。一方,独身者が自分には結婚する必要がないと認める場合,それはかなり性質の異なる別の問題となります。教育者であるヘンリー・ポーマン博士はこう語っています。「独身のままでいることがより大きな幸福をもたらすと考えるなら,その人は何としても独身を保つべきである。……独身者でも順応性のある人がいるかと思えば,既婚者でも“オールドミス”や“独身男”と変わらないような人もいる」。
そうです,びくびくしながら,したくもない結婚に“追い込まれる”よりも,賢明な教え手イエス・キリストが人々について知っておられた事柄を認識するほうが優れています。イエスは,独身のままでいることに喜びを見いだす「賜物」,すなわち能力を持っている人がいると語り,そのような「賜物」を持つクリスチャンに,それを手放すことなく,神に仕えるためにその賜物を用いてゆくよう励ましました。―マタイ 19:10-12。
伝説とは幻想であり,広く知られたうそです。そして,これまでに論じたどの伝説に従ったとしても,結婚か独身かという問題を考えている人を一層混乱させる結果になるということは明白です。しかし,現代の若者の多くは,どんな幻想をも恐れる必要は全くないと言います。感情の赴くままに行動せよ,と言うのです。失敗することなど心配せず,少しの間一緒に住んでみて,“愛し合った状態”が続くなら結婚すればよい,とそうした人々は言います。では,“試験結婚”は,このジレンマから抜け出す道でしょうか。
“試験結婚”― それは満足のゆく解決策か
もちろん,二人の男女が最初は結婚しないで同棲するということは,何ら目新しい概念ではありません。目新しい点と言えば,それを公然と行なっている人の数が増えていることです。米国政府の一報告の示すところによると,同国では,1960年から1970年の間に,同棲している男女の数が700%も増加しました。最近の報告は,さらに大きな増加率を示しています。
クリスチャンの良心に明らかに反するという点を別にしても,次のような疑問が起きます。これらの男女は,“結婚生活”を楽しんでいますか。この同棲関係は,当事者を混乱から導き出し,有意義で永続的な関係へと導くことになりますか。
実を言えば,同棲している男女の中には一生寝食を共にする人たちもいるとはいえ,一般的にそうしたつながりは短命です。その生み出す実は,離婚と同じほど苦く,大抵の場合,離婚と同じほど感情的に非惨な結果をもたらします。それはなぜでしょうか。
ちょっとの間,正直な気持ちになって考えてみてください。“別れる自由”を,互いに対する真の確約よりも高く評価する関係は,一体どんな関係なのでしょうか。その二人が,自分たちは単に利己的な意味で喜びを“得ている”のではなく,喜びを“分かち合っている”のだと主張したとしても,それほど貴重で親密なものを,確約もなしに与えてしまうのは理にかなっていますか。
“試験”という言葉の一つの定義は,“実験”です。実験的な結婚などできる人がいるでしょうか。結局のところ,わたしたちは一枚の衣服を共有することについて論じているのではないのです。それが衣服であれば,裂けてしまっても,捨てられたとしても,新しい衣服を買いに行けばそれで事は足ります。しかし,親密な関係が損なわれた際にもたらされる感情的な“傷跡”は,ずっと根深いものです。そのために,自殺を企てた人さえいるのです。
同棲している者同士が互いに真の配慮を示しあっている場合でも,感情面での問題に直面することがあります。それは不安感です。同棲していたある男女は,なぜ結婚することにしたのか,と尋ねられた際,こう答えました。「結婚したかったからです。確約となるものがほしかったのです」。
しかし,『実際にやってみないことには,その人との結婚生活がどんなものになるか,本当に分かるはずがない』という論議についてはどう言えますか。ある作家は,同棲している男女に関して,賢明にも次のように述べています。「独身の状態では,結婚生活にかかわる調整を試してみることはできない。そうした試みが成功したように見えても,その人たちが,一緒に幸福な結婚生活を送れるということにはならない」。また,幾人かの人と同棲したことのある人は,新たな関係に入る際に少しも見識を増やしていません。少しでも学んだ事柄があるとしても,感情面で失ったもののゆえに,問題に対処する能力,与える精神,相手を信頼する気構えなどが少なくなっています。
確かに今日では,「自制」という古めかしい美徳は人気のあるものではありません。それは抑圧的で,制止的な特質で,人格に悪影響を及ぼすとみなされています。しかし,「性の抑制は危険か」との質問に対して,「現代人のための結婚」と題する本はこう答えています。「結婚前に性の欲望を抑えることに伴う身体的,精神的,および社会的な危険は,性の欲望を充足させることに伴う危険よりも少ない」。
“試験結婚”は,結婚に関する他の伝説同様,その上に結婚生活を築いてゆくには不安定で危険な土台です。しかし,次のように論じる方もおられるでしょう。「なるほどこれまでの論議は避けなければならない見方を知るのには役立ちます。しかし,それでは“積極的”な原則が残らないではありませんか。結婚の備えが自分にできていることがどうすれば分かるのですか。どのようにしたら,賢明な仕方で結婚の相手を選べるのですか」。
こうした難しい問題に対する,簡単な“うたい文句的な回答”はありません。しかし,『念には念を入れる』ほどの洞察力のある人にとって有益な指針は存在します。次の記事の中で,そうした指針を探ってみることにしましょう。