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神からの警告に留意するのは知恵の道ものみの塔 1973 | 6月1日
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人たちの心や道は改められてはいないからです。
25 ためらうことによって,またエホバがわたしたちの世代のうちに正真正銘の預言者を起こしうること,しかも起こしてこられたことを最後まで疑うことによって何が得られるのでしょうか。それは確かに,すみやかに近づいている「大患難」のさいに必要とする神からの恵みと保護をもたらすものではありません。もしわたしたちの道が知恵の道また信仰の道であるとすれば,わたしたちは聖書を手にして,エホバの真の見張り人の警告に留意し,エホバがそのみことばの中で示しておられるところに避難するでしょう。そうすれば,エホバの預言者である見張り人が,キリスト教世界が打ち破られたとの報告を受け取るとき,わたしたちは忠実な見張り人とともに生き続けてゆくことでしょう。
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読者からの質問ものみの塔 1973 | 6月1日
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読者からの質問
● クリスチャンとしての立場を曲げずに,『忠誠の誓い』をすることができますか。―アメリカの一読者より。
クリスチャンがある誓いを良心的にすることができるか否かは,おもにその誓いの目的や内容,もしくはその性質によります。
西暦1世紀当時,イエス・キリストは,軽率でいいかげんな,また無分別な誓いをしていたユダヤ人をたしなめました。当時のユダヤ人は天や地やエルサレムをさして,さらには自分自身の頭をさしてさえ誓いました。しかし,イエスは彼らを非難して次のように言いました。『ただしかりしかり,否否といえ,これに過ぐるは悪よりいずるなり」。(マタイ 5:33-37)神の崇拝者は,自分のことばの信用度を上げるために,ものを言うたびに誓いを加えてそのことばを支持する必要はありません。
しかし,特定の事情のもとでは,モーセの律法は誓いを要求しました。(出エジプト 22:10,11。民数 5:21,22。申命 21:1-9)また,ユダヤ人の大祭司がイエスに誓いを立てさせたとき,イエスご自身それを拒みませんでした。(マタイ 26:63,64)ですから,誓いに関するイエスの前述のことばを,すべての誓いを禁ずる根拠として用いることはできません。しかし,クリスチャンは,どんな種類の誓いを,その良心を傷つけることなく行なえるでしょうか。
そのことは,問題となっている誓いを聖書の原則と比較して,その人自身が決めなければなりません。イエス・キリストは,『カイザルの物はカイザルに,神の物は神におさめよ』と言いました。(マタイ 22:21)ですから,クリスチャンは,神の律法に反する行為を要求する事がらであればどんなことであっても誓うわけにはいきません。しかし,神の律法に反しない法律の条文に対する『支持もしくは擁護』を誓うことには,何の不都合もないでしょう。カイザルの法律を擁護し支持することは,神のことば聖書がクリスチャンに課している制限内で行なわれねばならないことをクリスチャンは認めています。クリスチャンは,ことばによって,毎日の行状によって,また法律上の問題に関しては,法廷における証言によって,法律を『擁護する』ことができます。クリスチャンには次のように命じられています。『すべての人,上にある権威に服うべし』。(ロマ 13:1)ですから,すでに,神によって行なうべく義務づけられている事がらを誓うことには,何の不都合もありません。
しかも,多くの文明国は,『神のものは神に返す』というクリスチャンに課せられているもうひとつの責務の正当性を認めています。ですから,アメリカを初め他の多くの国々の憲法は信仰の自由を保証しています。したがって,クリスチャンは自分の宗教上の信念や神に対する責務に相反するような事がらは何も要求されるべきでないと理解されています。この法的規定には,国家にとって危険となるものはありません。なぜなら,真のクリスチャンは,政府を転覆させる企てに加わることはなく,むしろ,模範的で法律を良く守る市民となるよう努めているからです。
真のクリスチャンは,自分の崇拝および自分と神との関係を非常に重要なものと考えているのですから,求められるどんな誓いをも当然注意深く考慮すべきです。そして,その誓いが自分の良心を汚したり,国家や政治上の論争に関する自分の中立の立場を危うくしたりするようなことはないと自分自身の思いの中で確信していなければなりません。(ロマ書 14章5節と比べてください)問題を検討した結果,特定の誓いをすることができると感じるならば,自分の責任でそれを決めなければなりません。どんな責務を引き受けるにしても,クリスチャンは,まず最高主権者であるエホバ神に対するより重要な責務を常に念頭に置いているべきです。
● 『不義の富をもて,おのがために友をつくれ』と聖書は述べています。(ルカ 16:9)これは,お金や財産が良い方法,もしくは他の人を益する方法で用いられるかぎり,それらの物質が不正直な,不正な手段によって得られたものであるかどうかは重要でない,という意味ですか。―アメリカの一読者より。
前述のイエス・キリストのことばは,人びとが資産を取得する
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