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  • あなたは神に専心の献身をしますか
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1962
塔62 8/15 504–506ページ

あなたは神に専心の献身をしますか

「昼食の帰途教会にはいって心を静めることは時々ありますが,日曜日に教会に行くことはまずありませんね。やることが多すぎるんです。しかし,静かな時間を数分持つことは確かに悪くはないですね」。最近英国のロンドンでは昼休みにロンドン市の教会に出席して,合唱を練習したり,グループで討論したり,簡単な礼拝を行なうことがはやっていますが,これは,そのことについてある事務員が述べた感想です。彼の言葉は,神をサンドイッチのように生活の中にはさみ込もうとしている今日の多くの人々の態度を端的に表わしています。彼らは自分たちの生活にはすることが多すぎると思っています。第一にしなければならないことが,あまりにも多くて,結局神にささげられるものは,余りものの崇拝と愛と献身です。これはあなたの生活について言えることですか。いまの時代にあなたはどのように神に奉仕できますか。どんな方法で神に対するあなたの愛と献身を拡大し深めることができますか。これらは,ばかげた,つまらない質問ではありません。なぜなら,あなたの全将来は,神に対するあなたの専心の献身にかかっているからです。

専心の献身の必要

聖書は,神に受入れられる崇拝の基準と要求を,明確に,明細に述べています。エホバ神ご自身がモーセに与えた2番目の戒めの言葉をよく考えてみて下さい。欽定訳の出エジプト記 20章5節の記録は,「われ主汝の神はねたむ神なれば…」となっています。創造主がご自身のことを,パウロの述べた「肉の働き」の一つである,この世的なねたみをもつ者と言われているように解釈するのは,いうまでもなくまちがいです。(ガラテヤ 5:20,新口)出エジプト記 34章14節は,「エホバはその名をねたみといひてねたむ神なればなり」。おもしろいことに,ウエブスターの辞典は,「専心の献身を強く要求すること」,を第一の定義としてかかげ,もっと一般的な考えで,動機,忠誠,愛に関する疑問を第二の定義にしています。モンセニヨール・ノックスは,出エジプト記 20章5節を,神は『愛においてねたむ』と訳しています。「ねたむ」という言葉が,神と関連して聖書中に用いられている場合は,「専心の献身」を強く要求するという意味を含んでいます。これは,「新世訳聖書」に一貫して用いられている言回しです。ですから創造主は,明白に,専心の献身を要求されているのです!

神に「専心の」献身をするとはどういう意味ですか。「専心する<エックスクルード>」という動詞は,「閉める」という意味のラテン語の動詞「クロウデレ」からきていて,それに「そと」という意味の「エックス」という接頭辞がついています。ですから,この語全体は「閉め出す」という意味をもっています。これはもちろん,「閉じこめる」という意味をもつ「インクルード」の正反対です。従って神への献身は独特のものでなければならず,他の人間や物は,この献身からことごとく閉め出す,または除外しなければなりません。イエスは,マタイ伝 22章37節から39節に記録されている,彼の有名な戒めの要約の中でこの見解を,強調してこう言いました,「心をつくし,魂をつくし,思いをつくして,あなたの神であるエホバを愛さねばならない。これは一番たいせつな第一のいましめである。第二のいましめもこれと同じである。自分自身のごとくに隣人を愛さなければならない」。これらのわずかな鋭い言葉でイエスは,神に帰すべき専心の愛と献身と,隣人愛との間にはっきり一線を引いて区別しました。創造主への奉仕において全きを示すためには,クリスチャンにとって隣人愛も必要です。

献身の対象

当然なことですが,クリスチャンは隣人を愛しています。結婚配偶者は,互いに愛と献身を示す義務があり,両親は当然子どもたちに深い愛を表わします。ところが,神の要求される献身は,このうちの誰に対して表わされるものよりも強い献身です。なぜなら,それには崇拝が含まれており,他のどの生物も要求しないもので,排他的なものだからです。ですから,神に対する私たちの義務は,仲間の人間に対するそれよりすぐれたものです。神の正しい要求は,他の諸関係から生ずる種々の責任をどのように果たすかを指示して,私たちの生活を支配します。私たちの神への専心の献身は,神の律法への絶対服従を示すものです。自分に最も近い肉親と,エホバ神の崇拝のどちらかを選ぶように強制されたなら,神に専心の献身をした者は,真の崇拝を選ぶでしょう。この悪い世が,神の原則をまげるように要求するなら,クリスチャンは,神のために取り分けてある献身の分野まで侵害するそのような誘惑を当然拒否します。そうすることによって,この組織制度の偽りの神を崇拝したり,その関心事に奉仕することを拒否します。神に対するクリスチャンの献身は,他の愛の対象に分割できるような種類の献身ではありません。

聖書に明確に述べられているにもかかわらず,人間は昔から,神のご要求である専心の献身をくつがえし,また無効にしようと骨折ってきました。どのように? さまざまな方法を用いました。この世の指導者やイデオロギーにへつらって,彼らをいわゆる人類の救い主として押し立てました。また,国家を無視すれば神への献身を保持できなくなるようにする圧制的な政府を用いました。これらはたくさん用いられた方法の二つにすぎません。なかでも,神に何も与えまいとする傾向のある利己主義は,神が人間から専心の献身を受けることを妨害する最も強力な唯一の要素です。

罪深い人類は生まれつき利己的ですが,それでもイエスは,「受けるよりは与える方が,さいわいである」。と言われました。そしてこれは,神に専心の献身をすることにおいて,確かに真実です。(使行 20:35,新口)金銭とか持物のような物質や,貪欲な野心が最重要な事柄となって,私たちの生活の中で優先的な地位を占めるなら,自分自身に奉仕することになり,神への献身はおろそかになるでしょう。利己主義と神への献身は両立しません。神のものをカイザルに返し,あるいは神に何も返えさないでいて,同時に神のみまえに立場を保つことは不可能です。神には専心の献身を返さねばなりません。―マルコ 12:17。

道を決める

神に献身するには,この世をさけて僧院か尼僧院にはいらねばならないと考えている人がたくさんいます。そうすれば,この世の誘惑から完全に離れるので,神に専心の献身をした生活ができると考えるのです。またほかの人々は,貧しい生活をすることをちかって献身を果たそうとし,さらに別の人は,いわゆる慈善事業を専門に行ないます。表面では,それは神に専心の献身をする理想的な方法に思えますが,実際に問題を解決するでしょうか。

もしそれが問題の解決策であったなら,イエスは世捨て人にならなかったでしょうか。イエスの弟子たちは,エルサレム崩壊 ― 西暦70年 ― 以前のだらくしたユダヤの組織制度に汚されないように,隠遁生活を送りはしなかったでしょうか。そんなことする代わりにイエスは,勇敢な福音伝道者となり,追随者たちも勇敢な福音伝道者として送り出されました。そして彼らは,『エルサレムを彼らの教えで満たしました』。クリスチャンは,清くない人々との接触を完全に絶つことはできない,もしそうだとするなら,「あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる」と使徒パウロは言っています。これは,クリスチャンが,現在の悪い組織制度によってもたらされるどういう不利な圧力に面しても,神に受入れられる専心の献身を保持していることをはっきりと示すものです。この方法で彼らはイエスと同じく世に勝つのです。―使行 5:28。コリント前 5:10,新口。

この戦いにおいて,私たちを助けるために,エホバは,聖書を書かせました。これはまたなんとすばらしい助けでしょう! なんという偉大な励ましの源でしょう! 私たちが,その頁を読み進む時,過去において神に専心の献身をした忠実な僕たち,生涯を神にささげ,神から是認の微笑を賜った著名な僕たちの,実例がたくさん出てきます。神と共に歩んだノア。神の友であったアブラハム。エホバの御こころにかなった人ダビデ。人間よりも神を支配者として従うことを選んだペテロと他の使徒たち。そしてもちろん,遣わされた方のみこころを行なうために来たイエス。このうちのだれひとりとして,心からの崇拝と奉仕,愛と献身を神にささげるために苦しみに合わなかった者はいません。―創世 6:9。ヤコブ 2:23。使行 13:22; 5:29。ヨハネ 5:30。

信仰の深かかった預言者エレミヤは,自分に与えられた音信を宣明して,神へ忠実であったために土牢に放り込まれました。伝説によるとイザヤは,忠実に預言したがために,マナセ王によって「のこぎりで真二つにひかれ」ました。第1世紀のクリスチャンたちは,むち打たれ,侮じょくされ,はずかしめられました。使徒パウロは,しばしば死ぬほどたたかれ,石で打たれました。それでも彼は,ただ忠実を保つことによってのみ,また,エホバに不断の専心の献身をすることによってのみ,義の冠は自分のために備えられるのだということを知っていました。それらの忠実な神の僕たちは,来たるべき組織制度の中で報いて下さる自分たちの神の誠実さと力に確信をもっていました。あなたはその確信をもっていますか。―エレミヤ 38:6。ヘブル 11:37。使行 5:40。コリント後 11:23-37。テモテ後 4:8。

生命への唯一の道

あなたの心の中には,生活の中で神を第一にし,神の当然のご要求である専心の献身と愛を神にささげたいという誠実な気持ちがありますか。では,善で,神に受入れられる,神の全き御心を知るために聖書を勉強して下さい。そうすることはあなたの保護となります。なぜなら,そうすることによってあなたは,神のご要求にかなうように努力し,神への専心の献身を妥協に導く人間の作った偽りの標準をさけるからです。―ロマ 12:2。

正しい道は,あなたを最後に神への献身に導き,またイエスが命令されたとおり,その決意を象徴する水の洗礼に導くでしょう。(マタイ 28:19,20)また,同じ考えをもつ新世社会のエホバの証者との交わりにも導くでしょう。エホバの証者は,生活において神を第一にすることを決意しており,可能な限りあらゆる面であなたを援助しようとしています。いまそうするならば,利己的でたい廃的な時代のただ中にいながら,あなたは心の平和と幸福と,真近に迫っている神の新しい世において,永遠の生命を得るという明るい希望を得ることができます。これは,忠実を保ってエホバ神に専心の献身をする人々が受ける報いです。正しい道は,真に知恵の道,生命への道であります。

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